引っ越し

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 私たちのごく親しい友人の同僚が、2007年に、ご両親を田舎から呼び寄せるために、倉山区金港路(今まで住んえいた進歩路より西に位置しています)に購入された家が一軒ありました。この倉山区というのは、かつては倉山県という福州市の郊外で、領事館などがあったそうです。闽江(Mingjiang)という河が、二俣に別れた中洲のような区域で、ここを流れ下ってまた1つに合流していくのです。親孝行な息子の呼びかけに、ご両親は、都会生活を好まなかったからでしょうか、お出でにならないまま空き家になっていました。ご両親と同世代の私たちに、『住んでみませんか?』とのお話が、一足早く帰福していました私にありました。これまで何人もの友人が、日当たりがよくて、涼しくて、静かなといった三拍子揃った家を探していてくれたのですが、なかなか決められないまま打ち過ぎておりました。彼女たちも、両親に対するような気持ちで、私たちに何くれとなく接してくれていて、気遣いをしていてくださるのです。息子や娘が十数人増えたような賑わいの中で、この数年過ごしてきております。

 家内が7月12日に、半年ぶりに帰ってまいりましたので、先々週、この家を見に行ってまいりました。楠で床や収納を内装してあって、ドアーを明けた瞬間に、木の自然の香がしてきて、いっぺんで家内は気に入ってしまいました。30日の土曜日に、友人たちや教え子たち十数人が手伝ってくださって、無事に引っ越すことができました。引越し前にも、何人ものみなさんが入れ替わりで、荷物の整理や梱包や片付けをしてくれました。今回は、プロの業者にお願いしたらいいのではないかということで、運転手と荷運びをしてくださる方が二名で、一階の奥まった家から、新しい四階のアパートに運んでくれました。一人で一個のダンボールを三回運んだら、へとへとにへたり切ってしまう私とは違って、4~5個くらいを帯のような紐で肩に担いで、運び切ってくれました。ときどき彼らの仕事の合間に軽い荷を運んでいた私は、その仕事振りを眺めて、実に驚きました。今回の家は、六階建てのアパート群の中の1つですが、一階が店舗になっていますから、実際には五階になります。

 二つ違いの弟が学生時代に、富士山の山小屋に食材や諸雑貨、プロパンのガスボンベまで運びあげる「強力(ごうりき)」というアルバイトをしていたことがありましたが、そのことを思い出したのです。肉体労働というのは、低日当の仕事だということを知っておりますから、つい三人の方々に、〈チップ(中国語では「小费xiaofei」〉を弾んでしまいました。これを受け取られたとき、なんとも言えない喜びの表情を表していましたので、『奮発してよかった!』と、彼らの喜びとともに喜ぶことができました。これって、肉体労働のアルバイトばかりをしてきた私ですから、辛さを少し理解できたので、感謝を表したかったからでした。

 この二日間、荷ほどきをしました。昨日は、もう一人の友人が来て、それを手伝ってくださいました。やっと荷が落ち着いたのか、私たちが落ち着いたのか、今日は放心状態です。これまで何度引越しをしてきたことでしょうか。天津からの引越しはプロにお願いしましたが、それ以外は、自分でやって来ました。一番大変だったのは、住んでいたアパートの上の階の家が出火して、家財一切が水浸しになってしまい、ほとんどを捨てざるを得まままの〈強制引越し〉でした。いつも娘たちを家に招いては可愛いがってくださった上階の女性が、事故なのか自死なのか犯罪なのかわからないまま、亡くなってしまいました。夏の明け方でした。ガスの爆発音がして、我が家の窓ガラスが全部崩れ落ち、玄関の鉄の扉が開いてしまい、ベランダの小鳥が焼死し、洗濯物が燃えてしまいました。部屋に寝ていた三人の子どもと、四人目の子をお腹に抱えていた家内は無事でした。私だけが砕け落ちた硝子の破片を、頭部に30数カ所ほど刺してしまいました。その騒動では全く負傷に気づかず、4階に駆け上がって消火活動をしていましたし、消化後、新聞社の取材に答えたりしていたのです。新建材の燃える匂いと黒鉛で、爆発火災のあった家の中に入ることができませんでした。中からうめき声がしていたのに、助けられなかったのは、今でも思い出して、残念で仕方がありません。

 いろいろなことのあった二十回もの引越しですが、〈引越物語〉が書けそうです。大家さん(中国語では「房东fangdong」といいます)が良い方で、何かと心遣いをしてくれています。昨日は、窓の外に防犯用の格子戸、しかも網戸付きのものを、窓という窓に取り付ける工事を依頼してくださって、業者が仕事をしてくれていました。『こんなに安い家賃でいいんですか? 』と尋ねましたら、『没问题meiweti(問題ないよ)』とのことでしたから、ただ感謝することにしました。多くの良い方々に恵まれ、囲まれ、助けられて六年目の中国の生活になりました。さまざまな応援に感謝して!

(写真は、福州の街を流れる「闽江」です)

ゲンキンモッテコイ!

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太陽が昇ってくる前、暗い大空が白みかける明け方を、暁(あかつき)、東雲(しののめ)、黎明(れいめい)、払暁(ふつぎょう)、曙光(しょこう)などと言ます。ここは東京よりも西に位置していますから、一時間の時差があり、北京時間は日本の標準時より一時間遅いのです。3年間住み慣れた我が家は、かつて領事館や商社駐在員や外国人教師たちが住んだ地域にあって、往時を髣髴とさせる煉瓦造りの家が立ち並んでおります。住み始めた頃に植えられたのでしょうか、今は大きく育った木々が鬱蒼として、暑い夏の日照りを遮ってくれます。冬には木漏れ日が頬にやさしく気持ちいいのです。私たちが住む住宅は、師範大学の教員の宿舎で、友人が新しい家に越されて、空いていたのを借していただいたのです。築30年の老朽化した80年代の煉瓦とコンクリートの4階建ですから、それなりに風情が残されております。街中を通っていますと、古い住宅街(「胡同hutong」と呼ばれていました)が取り壊されて、集合住宅や商業施設に作り替えられている昨今ですが、昔の面影が、どんどん無くなりつつあるのは残念なことです。日本の麦藁や茅で葺いた屋根の家が無くなっていった時期と同じような感じでしょうか。えもいない情緒が消えてしまうのは残念至極であります。

そんな地域で、けっこう高台にありますので、鼓楼のある街中と比べると2~3度気温が低いのだそうです。洪水の被害もなく一等地に違いありません。我が家は一階の一部屋ですが、6坪頬の庭付きで、この辺りではめづらい住環境を備えています。静かで涼しいのですが、湿気が多いのが玉に瑕(きず)でしょうか。その〈東雲〉に、毎朝飛んできて鳴き声を聞かせてくれる鳥があります。『朝です、起きなさい!』と言っているのでしょうけど、その声は家内には、『ゲンキンモッテコイ!』と聞こえ、私には、『ケンキンシロヨ!』と聞こえるのです。ちょうど犬の鳴き声が、アメリカ人には『バウバウ!』、日本人や中国人には『ワンワン(汪汪wangwang)」!』と、聞こえ方の違いと同じでしょうか。

今週末、引越しをします。友人と同じ職場の同僚が、ご両親の老後のために、田舎から出てきて住むようにと、2007年に出来上がった家を買われて、故郷の木材で内装した部屋なのです。先日見せていただきましたが、楠の木の香りが立ち込めて、家内はいっぺんに気に入ってしみました。これまで何人もの友人が、『ここはどうですか?』、『あそこはどうですか?』と見つけてきてくれては連れていってくださり、紹介してくれました。その日も、勤めている大学の近くに、教職員が多く住んでいるアパート群に、家を見に行ったばかりで、その後、『もう一軒みてみましょう!』と言われて訪ねた家だったのです。ちょうど私たちがこの街に来たばかりの頃に、買われたのだそうで、故郷を引き払わないご両親の故に、だれも住んだことのない家です。家の南には道路を隔てて公園があり、大きなイギリス系のスーパーマーケットもあり、近々、大きな商業施設が出来上がるように建設中でした。何か、『あなたたちが住むように!』と、天津から移り住んだ頃に備えられていたように感じて、感謝した次第です。

『もうしばらく、許される間、ここにいるように!』と言われたかのようです。この大家さんが、無欲な方で、低額の家賃でいいと言われるのです。願ったり叶ったりの《備え》に驚かされております。ただ一つ残念なことは、あの〈朝告鳥〉の声を聞けなくなることです。毎朝飛んできては、家内に〈げんきん〉を求め、私には〈けんきん〉を勧め続けた鳴き声とおさらばしなければならないのが悔しいのです。『住めば都!』、昔の人はよく言ったものです。コンクリートの壁で、石の床作りの部屋で、木の部分が虫に食われ、湿気が多かった部屋は、最初は戸惑いもなかったわけではないのですが、日本やシンガポールから帰ってくると、『ここが我らの巣!』という思いに満たされて、心から落ち着くことができたのです。学校出立ての若い青年が、『家を立てましたよ!』と誇らしく言うのを耳にし、横目で見ながら、家も建てることのない旅人で寄留者の生涯でしたが、借家住まいの楽しみが、こうやって味わえるのは、特権だと思っております。私も家内も、この世の旅路を終えたら、次に行く世界では、素晴らしい永遠の住まいに住むことができる、貧乏人の儚い夢かも知れませんが、そんな夢を見ているのです。その家を、私の本物の兄上が、自腹を切って、今、建設中で、その槌音が聞こえてくるようです。

新らしい家の近くにも、あの鳥の仲間が飛んできて、『歓迎歓迎!』と鳴いて歓び迎えてくれるような気がして、この週末が楽しみでもあります。中国で四度目、生涯で二十度目の引越しになりますが、〈引越し魔〉と呼ばないでください!(7月27日記)

(写真は、木に止まっている「シジュウカラ」です)

見つけ出す喜び

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 「蹉跌(さてつ)」、青春期の挫折や、人生の躓きや失敗のことをいう、漢語です。「蹉」は、躓いたり誤ったり失ったりすることを意味し、「跌」も、転んだり躓いたり落ちたりすることを意味しています。「漢書・朱博伝」に記されています。高校生の頃だったでしょうか、『失敗は、成功の母。』ということばに出会って、失敗や躓きの多かった私は慰められ励まされ、それでも生きていこうと思わされたものでした。

 『あなたの探し物をしている時間って、とても多いように思うんだけれど!』と家内に、よく言われてきました。物の定位置管理が出来ていない私への彼女の四十年来の観察の結論なのでしょう。そう言えば、『あれは、どこだっけ?』とよく探し回っている自分に気付くのです。ところが、そう言った類(たぐい)の人間には、失った物を見つけ出す喜びが、人一倍あるのを知っていただきたい。また、もうあきらめていた物を見つけられる醍醐味もあるののです。ですから、物の置き忘れが、なかなか止まないのです。それは忘れ物をした副産物で、喜びも一入(ひとしお)です。これ、言い訳に聞こえるでしょうか。

 二人の息子を失った、お父さんの話があります。息子たちは、同じ量と質の愛で父親に愛されたのですが、まったく違う生き方・在り方を選択しました。自分の感情に従って、弟は遠い国に旅立ちます。父親に相談した形跡もありません。ところが兄の方は、父の家にいて、父に従って精一杯生きているように見えたのですが、彼も、弟の出奔と帰還とで、潜んでいた父への不満の思いが露にされます。日頃、父親に何でも話すことをしなかったからなのでしょう。弟は失敗と挫折と恥じの体験を通して、自分の未熟さを知らされます。その体験の真只中で、父親を思い出すのです。

 どの時代を生きる若者でも、共通して持っている権利があります。《失敗することの権利》です。だれも失敗しないで完璧には生きることは出来ないので、人は大体、失敗や挫折を通過して、大人になっていくのではないでしょうか。そうしますと、兄息子は、弟のような権利主張をしないで、生きてきた人だったことになります。自分の感情を無理やりに押し潰して、生きたのではないかと想像してしまいます。弟に遊び友達がいたように、兄にも友達がいました。でも、彼は友人たちとは、心を正直に開いて挑戦し合ったり、喧嘩をしたりがなかったんでしょう。だから《赦し》を学んだことがないし、『ごめん!』と言って《赦される》こともなかったのでしょう。放蕩の挙句、帰って来た弟を、責めない罰を与えないで、ありのまま赦して受け入れている父に向かって、厳しい言葉が、兄の口からほとばしり出ます。彼には、弟がまったく分かっていない。自分とは違った個性や過去を持っている弟を理解しようとしていません。彼は自分の物差しで弟を量るのです。
                                   
 このお父さんは、「死んでいた・・いなくなっていた」弟息子が、「生き返って・・見つかった」と違った見方をしたのです。それは父親でしか感じる事の出来ない極めて深い親情であります。自分の愛する息子を見つけ出したお父さんの当然の喜びが、どれ程のものであったかが私に、少し分り始めています。4人の子どもたちの父親にしていただいた私は、自分が失われた弟であり、頑なな心の兄だと示されるのです。兄息子は、この父親の《当然の喜び》を知るなら、弟をありのままで喜び迎え、苦しみを分け合い、弟を楽しみ愛することができるに違いありません。また駄目弟の部分を合わせ持つ私を、見捨てられないで、養い育ててくれた両親に、特大の愛を覚えるのであります。

 この週末に、この在華5年間の四度目の家に引越しを予定しています。日用品の他に、中国の友人たちが下さった物、友人や家族から送ってもらった物、『これ必要でしょう!』と娘に買ってもらった物、『マレーシア(フィリピン、日本)に帰るので、これを使ってください!』と残していかれた物、授業で必要な書籍やDVDなどが、相当量があります。どこかに無くなっていたものが潜んでいるでしょうか。また探し出して、見つける喜びを楽しめそうな七月最後の週であります。(7月26日記)

(写真は、いなくなっていた息子の無事の帰還を喜び迎える「父」です)