アオノリュウゼツラン

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この「アオノリュウゼツラン」は、数十年に一度、黄色の花を咲かせるのだそうです。上の写真は、ポルトガルの海岸で咲く様子を写したものです(☞ウイキメディア)。人の一生に一度か二度しか見られないと言う花は、何とも神秘的ですね。私も、『一度は、美しく花開いて見たいものだ!』と思いながら、今日まで生きて来ました。大輪でなくとも、薔薇の様に艶やかでなくても、スミレの様に愛くるしくなくとも、そしてクチナシの様に芳香を放たなくとも好いのです。ただ、天に向かって黙々と、健気に咲く、《野の花の如く》生きたいだけです。

私の愛読書に、『明日は明日自身が思い煩うであろう!』とあるのです。「杞憂(きゆう)」と言う言葉を、中学の時に学んだことがありました。“故事成語の解説“に、次の様にあります。

『昔々中国にあった杞(き)という国がありました。紀元前の周の時代、今の河南省杞県にあった国です。この国にある男がいて、天地が崩れ落ちてきて住む場所もなくなったらどうしようとひどく心配していました。この男、心配のあまり食欲を失い不眠症になってしまいました。この男を心配する人がいて、こう言ってきかせました。

「天とは空気が集まっているところだ。空気のない場所などない。われらの動作や呼吸はまさに天において行っているものだ。天の崩壊など心配する必要はまったくない」

すると心配性の男が「天が空気でできているとしても太陽や月や星は落ちてこないだろうか?」
「太陽や月や星はその空気の積もった中で光っているだけだ。落ちてきてもそれにぶつかってケガをすることはないさ」
「では地が崩れたらどうなるんだ?」
「地は土が積み重なっているだけだ。それが四方を埋めつくし、土のないところなどない。われらは歩き回り、終日この地の上で動いている。地が崩れる心配をするなんて必要ないさ」

この話を聞いて心配性の男は心配が消え大いに喜びました。さとした男もまた心配が消え大喜びしました。」』

とあります。確かに、暑い日が続き、願っている降雨もなく、台風が次々に発生して被害を与え、地震がそこかしこで起こり、人心も乱れ、人の愛が冷えている現代、ちょっと心配なことが多いのです。でも、まだ起こりもしない先に、明日の病気、怪我、失敗、躓き、悪意などを恐れているよりも、今日を精一杯生きることが求められているのでしょう。明日のことは、明日に心配してもらうのが、好い様ですね。

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朝顔

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今朝のベランダの寒暖計は、28°Cを示しており、今日の最高気温予報は、38°Cとのことです。天気予報のイラストに、雨のマークが雲の下にありますので、雨が降るかも知れません。ただ先週金曜日あたりから、ずっと「雨」の予報があったのですが、ここでは降りませんでした。

ある予報には、「体感温度」も記されていて、今現在は、「体感温度36°C」とありますが、それほどではなく、ちょっと涼風が吹いています。高温の猛威が、世界中に荒れ狂っています。体調管理をして、過ごそうと思っております。

ベランダでは二輪の「朝顔」が咲きました。好い一日をお過ごしください。

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人類は滅びる

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”ZAKZAK“に、次の様な記事がありました。共鳴しましたので、無許可ですが転載します。
★生物学者・池田清彦さん『ほどほどのすすめ』さくら舎1400円+税
 いいことも悪いことも、ほどほどにしておくのがベターであり、なんでも大きくなりすぎるとつぶれてしまうし、強くなり過ぎれば滅びの日が近くなる…と説く生物学者。その真意を確かめようと、東京・高尾山の麓にある「TAKAO599MUSEUM」(旧・高尾自然科学博物館)で名誉館長を務める著者を訪ねた。(文・たからしげる 写真・早坂洋祐)

 --執筆の動機は
 「いまの日本は、だれかが右にいったら、みんなもドドーッと右にいき、左にいけば、だれもがドドーッと左にいくといった感じが強く、多様性がまるでないんですね。もっと余裕をもって、世界というか周りを眺めることが必要だと思ったのがきっかけです」 
 「“いい加減”や“適当”に比べると“ほどほど”っていうのはそんなに悪い言葉じゃありませんし。政治や経済のことから、あるいは身辺まわりのことまで、ほどほどというテーマに沿って、思いついたことを並べています」
 --ほどほどのよさに気がついた最初は
 「昔からぼくはいい加減で、勉強もあまりしませんでしたが、虫取りを始めて外国によく行くようになりました。特に東南アジアに行くと、日本人みたいにまじめに働いている人はあまりいないんです。それでも結構楽しそうに暮らしている。働いてお金を稼ぐばかりが幸せじゃないよねと、そのとき気がつきました。それからは、大好きな虫取りと、これはという大事な本を書くとき以外は、すべてほどほどで生きてきています」
--著書には日本が将来、クラッシュの危機に遭遇すると
 「それを避けるには人口を減らすことです。それと、安い労働力として海外から人を入れることはやめたほうがいいでしょう。フランス、ドイツ、イギリスも、移民を入れたことで国がぐちゃぐちゃになっています」
 「企業はいくら儲かっても、国民は幸福になれません。いまは少子高齢化が叫ばれていますが、あと20年もすれば高齢者はみんな死んでいなくなるわけです。その時点を見つめてのシステムを、しっかり考えておくべきでしょう」
 --このままでいけば日本は…
 「最悪の場合は、円が暴落、物価が高騰して、敗戦後の日本みたいになってしまう。金持ちはみんな海外に逃げていって、残された貧乏人ばかりの国になってしまうでしょう。独裁権力が生き残れるような憲法ができてしまうと、いまの自由主義の看板が外されて北朝鮮みたいな独裁国家にもなりかねません。法律も憲法も改正とか考えないで、ほどほどにしておいたほうがいいってことです」
 --人類は滅びると
 「人類はたぶん滅ぶだろうし、防ぐ手立てはないと思うんですけど、真面目な論者が言っているような、人間が環境を破壊して人口が爆発して、資源や食糧が枯渇して核戦争が起きて滅びるといったシナリオにはならないでしょう。そんなことで人類は滅びません。たとえ核戦争が起きても局地的なものにとどまって、人類全滅にまでは至らない。それより怖いのは、地球規模の自然災害でしょう。いちばん怖いのは火山の大噴火と隕石落下ですね。あと
--SNSのマイナス面の克服にも言及されている
 「変なジャンクの情報とか、人を中傷誹謗する配信が増えてくると、それで傷つく人がいっぱい出てくるわけです。何を言われても平気な、頭の頑丈な人になればいい。むちゃくちゃ言われても、ほどほどに聞き流すか、無視して通せばいいんです」
 --人間が昆虫の世界に学ぶものは
 「昆虫は、資源をみんなでシェアします。人間は何でもかんでも食べますが、昆虫は、たとえばモンショロチョウはアブラナ科の植物以外は食べません。ほかのものを食べれば死ぬというわけじゃないんですが、分をわきまえています。だから、チョウ全体の食糧が枯渇しないんですよ。人間も見習うべきですね」
 ■内容
 この世は「矛盾繰り込みシステム」であり、どんなに矛盾を排除しようとしても、それはできない相談だ。生きていること自体、そうした巨大な矛盾を繰り込むシステムなのだ。「この先何が起きるかわからないが、そのときはそのときだ」と腹をくくって、今日を楽しむ生き方のほうが幸福感は高くなる。生きていくことは常に危険と隣り合わせで、予測などできない。予測不可能だから面白い。そうした「この世を幸せに生きるためのほどほどの策」の集大成。
■池田清彦(いけだ・きよひこ)
 1947年、東京都生まれ。生物学者。71歳。早稲田大学名誉教授。東京教育大学理学部卒業。東京都立大学大学院生物学専攻博士課程修了。構造主義生物学の見地から科学論・社会評論の執筆。趣味は昆虫採集、カミキリムシ収集家としても著名。著書に『なぜ生物に寿命はあるのか?』『この世はウソでできている』『真面目に生きると損をする』『進化論の最前線』『ウソとマコトの自然学』など多数。

(東京の郊外・八王子にある「TAKAO599MUSEUM」です)

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母三人

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《朝顔のある風景》とは、好いものです。毎朝、ベランダに出て、いくぶん涼しさを感じられるのは、花があるせいかも知れません。北側のベランダにも、小さな花が咲いています。何という花でしょうか。これは、毎年、忘れた頃に咲き出しています。今頃は、「トルコキキョウ」が綺麗に咲き始めてるのだそうです。じょじょに自然界は、秋に移ろうとしているのでしょうか。これが、せめてもの暑さの中の慰めになっている様です。

昨日は、息子さんを連れて、再来年の大学進学のために、“オープンキャンパス”や、「進学準備ゼミ」に合わせて、東京や大阪、そしてお母様の故郷と出かけて、帰られたお母様が、午前中に見えられました。《水羊羹》をお土産に頂きました。緑茶を入れて、食べた《至福の時》でした。夕食後に、九月から“小5“になる息子さんを連れて、お母様が見えました。息子さんの『行ってみたい!』との願いを叶えて上げるために、「西安(中国史で習った<長安>です)」と、「洛陽」に、家族で旅をした旅行話をしてくれました。

《好きお母様》をなさっておいでのお二人でした。子育て終了の私たちですが、様々な昔を思い出した一日でした。

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来た道

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満天の夜空に、星が煌(きらめ)いていましたから、秋になっていたでしょうか。寒かったので、枯れ草や稲穂を集めて寝床にして、そこから星空を見上げていました。刈り入れが終わっていましたから、晩秋だったでしょうか。東京の郊外は、まだ星空を見上げられたのです。

もう一箇所は、"丸通(まだヤマトの運送会社が出来る前、運送業を一手にしていた<日本通運>"の貨物の載し下ろしをする、旧国鉄の引き込み線に停めてあった貨物車の車掌室でした。横になれる様な椅子があって、ここの方が、家出した私には、草むらの藪の中より、寝心地が遥かに好かったのです。

この二回だけ、家出した晩に、涙を流しながら過ごしたことを覚えています。その他にも、何度か家出しなければならない事情があったのですが、覚えていません。可愛がられた私にも、父の鉄拳と『出て行け!』が飛んできて、やむなく寝場所を確保したのです。何をして叱られたのか、皆目覚えていませんが、それほどの目に遭うことをしたのでしょう。

あんなに切なくて、家や布団の温もりが恋しかったことはありません。お腹は空くし、今の様にペットボトルなどない時代に、喉も渇いたのです。母も、私を探す当てもない、高台の藪や列車の中ですから、『ごめんなさい!』なんて言いたくない頑固さで、小学生の私には、家に帰れない"男の事情"があって、ちょっと辛い体験の記憶なのです。

こういう経験って、男の子に普通にはあるのでしょうか。それだけ悪戯をし、父親を怒らせたのですから、当然の報いを受けたわけです。翌朝、家に帰ると、私を見つけた父は、一瞥するだけで、怒りは昨日に置いてきていました。朝食を食べて、ランドセルを背負って、下駄を履いて学校に行ったのです。『ごめん!』って、父に言ったかどうかも覚えていません。

級友からは、家出の話を聞いたこともありませんし、自分の家出も話すことはなかったのですが、みんなは、自分の様な家出の経験があったのでしょうか。怖い拳骨親爺のいない家庭が、けっこうあったので、父親(てておや)がいて、拳骨を喰らわす父親がいた自分は、三度三度食べられて、お風呂にも入れて、布団の中で寝られたのは幸せだったわけです。

戦争で親を失って、親戚に預けられたのはいいのですが、いじめられて、差別されて、耐えられずに、妹の手を引いて家出をするのですが、妹は死んでしまい、妹の骨を「ドロップス」の缶に入れて、持ち歩く兄妹の物語は、実に悲しかったですね。兄たちの世代でしょうか。

大陸で、帰国途中にのドサクサで、親と生き別れた孤児たちが、沢山いたそうです。生き延びていたら、八十、九十才台でしょうか。拳骨を喰らわせた父も、台所の昇り口で、ご飯に味噌を載せて、そっと食べさせてくれた母も逝ってしまいました。同じ様な経験をした兄たちも弟も、"男の事情"を通せない、若者に席を譲られるジジイになってしまったわけです。今は穏やかな日々を過ごしていますが、これが来た道のヒトコマです。

(埼玉県秩父の星空です)

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月亮

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5時半過ぎ、南側のベランダから見上げる南の空に、「月亮yueliang」が見られます。やはり、今日も暑そうな感じが、朝からしております。二輪のアサガオが、月に向かっているかの様に開きました。水分と塩分の補給を怠ることなく、摂って過ごして参りましょう。今日は若い友人が訪ねて下さいます。実は昨日の約束を忘れて、買い物に出かけてしまったのです。大変失礼をしてしまいました。

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溜池

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豪雨で被災されたことで、配信を休んでおられた、HP「里山を歩こう」が、昨日、再開されて、美しい写真を送っていただきました。東広島黒瀬地区の溜池と、池の周辺の「ガマの穂」の様子です。自然界は、洪水や強雨で破壊されてしまっても、植生は、壊されないのですね。猛威は一面、花や木や小動物は健在でした。呉や倉敷など中国地方の恢復を心から願っております。

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金魚すくい



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散歩コースに入れている“スーパーマーケット”があります。街を旧市街と新市街とに分けている川の河川敷の散歩コースを、30分ほど歩いて、大通りに出るとある、台湾系の店です。品揃いや商品チェックや客の応対が、日本に似ているのです。多くの店や企業が、日本方式を取り入れているからだろうと思われます。前は、よく店長が巡回して、社員指導をしてるのを見かけたほどです。

この店を贔屓にしてる会員の分布は、今では、コンピューターで一目瞭然になっていますので、それを参考に、先頃、9つある送迎バスのコースが変わってしまったのです。利用者には、ちょっと混乱をもたらせた様です。わが家の近くを通っていたコースが変わってしまって、利用できなくなってしまいました。それで、歩くか、公共バスに乗ったりして出掛けるのです。

家から5分ほどの所にも、ポルトガル語の名のついた店があるので、主に近場のこの店を利用するのですが、台湾系の方が買い易いので、こちらも時々利用しているのです。その台湾系の店の一階に、子どもの遊び場があって、最近、“金魚すくい”を、子どもたちがしているのです。ひとしきり、そこで遊んでいる子どもを観察していました。

ちっとも捕まえられないので、短気を起こしたのでしょうか、盲滅法に水と金魚を、かき回している女の子がいたのです。もちろん紙製でできた物ではなく、網製の物を水の中で振り回したら、一匹掻き出して放ってしまったのです。私が、走って捕まえて、水に戻したほどです。いやー、この5才ほどの女の子の短気ぶりには驚かされてしまいました。

<淑やかさ>なんか微塵もない、“スカートを履いた男の子”って言ってもよさそうな感じでした。『あれーっ、あれー!』と、よく自信なげにやっていて、手が止まってしまうのに、この子は、そんな感情を見せずに、かき回し続けているのでした。わが家にも娘が二人いましたが、彼女たちもお転婆でした、でも、この子は規律しないと、結婚して大変かなって、余計な心配をしてしまったのです。

お母さんが横にいたのですが、ただ見てるだけで、何も言わないのです。どうするか指導したらいいのにと、これも余計なことを思ってしまったのです。やっぱり、“金魚すくい“は、穏やかに、そっと金魚の動きを見ながら、破れてしまわない様に、<紙製>を使う方が、教育的な様です。すぐ上の兄が、こう言った遊びが得意だったのです。魚の心理を読めたのでしょうか。

あの女の子の、金魚すくいを見ていて、遠い日の遊びを色々と思い出してしまいました。集団遊びで、何もルールがないのに、どう遊ぶかを習得して、遊びに参加しないと、仲間外れにされてしまうのがいるのです。暗黙のルールは、絶対必要条件だったのです。学校にプールが、まだない頃は、みんなで川に泳ぎに行ったり、銭湯に行ったり、広場で遊んだり、体のぶっつけ合いが多くあったのではないでしょうか。ああ言った仲間内の接触が、今日日はないのかも知れませんね。

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暑気払い

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「白熊」とは、北極圏に生きる熊で、子育てをした街の私立動物園の狭い池に、居心地悪そうにしていました。時々、子どもを連れて動物園には行った時、入園して、すぐの所にある池に、この白熊がいました。しっ切りなしに、右に左に首を振っていたのです。他にすることなく、首を振ってるので、何か可哀想に思えて仕方がありませんでした。他にも象とかペンギンとかキリンなどがいたのですが、この白熊だけが印象に残っているのです。

実は、「白熊」とは、北極や動物園で見るだけではなく、鹿児島にもあるのです。友人と旅行をして、彼の学友が、鹿児島の街の中心に住んでいて、訪ねたことがありました。その時に、「天文館」という繁華街に案内された時に、ご馳走してもらって食べたのが、この「白熊」でした。どうして、こんな命名がされたのか、いまだに解(げ)せないのですが、「かき氷」です。

東京周辺で食べ慣れたのとは違って、量も多く、トッピングの果物(缶詰の物でした)も豊富で、練乳がいっぱいかけられていて、"ゴージャス"でした。大満足したのです。鹿児島には、その後、足が遠くて、それ以来、『食べたい!』と思うだけで、時が過ぎでしまいました。今食べたら、多過ぎて、お腹を悪くしそうでなりませんが、まだ若かった自分には、想像を超えるほどに、美味しかったのです。

私にとっては、西郷隆盛や大久保利通などよりも、この鹿児島で一度だけ食べた「白熊」の方が、印象は強いのです。食べ物の好印象、好味覚は、それだけ強いのでしょうか。そういえば、普通のかき氷ですが、もう何年も何年も食べていないな。こんなに暑い日が続いていて、この暑さに閉口している今、食べたら美味しいでしょうね。暑気払いができそうです。

こんなことを書き込んでいたら、辺りが暗くなって、遠くから「雷鳴」が聞こえてきました。しばらく降らなかった雨が、待望の「雷雨」として降るでしょうか。きっと、みなさんも、どうにか涼しくなる算段をされていることでしょう。昨日の夕方、ふと川の流れが見たくなって、近くの河川に行きました。水面を渡る風が頬に当たって、実に気持ちよかったのです。やはり、雷鳴だけの空雷雨でした。

(サイトで見つけたかき氷の「白熊」です)

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訪問記

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今朝も、昨日の様に、早朝は、涼しい風が窓から入り込んできて、しばしホッとした朝を迎えています。昨日は、若き日に、東京の目白に住んで留学された友人の運転と、通訳の助けで、PC操作のできる青年を訪問しました。朝、出かける前に、訪問の知らせを、家内がしましたので、Mさんは、私たちの到着を待っていてくれました。

昨夕、作った“自家製ハンバーグ(母がよく作っていたのを真似て私が時々作る、牛肉と豚肉のひき肉、チップした人参、玉葱をみじん切りにして炒め、卵、オートミール、塩、醤油、スパイスを加えます)”を持参しました。<ソース(ケチャップ、粉ソース、ココナツパウダー、玉葱と人参と梨と林檎をフードプロセッサーをかけた物、塩、醤油、スパイスを加えしっかり煮た物)>で、ハンバーグを煮込みにしてあります。家内が、彼の手になって、一口づつ食べさせて上げていました。

『好吃吗haochima?』と聞くと、『好吃!』と言ってくれました。それに、朝一番でスーパーに行って、買った果物(バナナ、マンゴスチン、ブルーベリー、巨峰、火龍果を一口大にした物)も、一緒に食べてもらいましたら、美味しそうでした。十一時頃の訪問でしたので、後の残りはお昼に食べると言っていました。美味しさを、彼に要求してしまった様です。

その後、星野富弘さんの「鈴の鳴る道」を家内が開き、中学の体育教師の頃に、授業で試技中に負傷して、半身不随になった経緯をお話しし、自暴自棄になり、自らの生命を断とうと願った彼が、彼を愛している方の度々の訪問で、気持ちを聞いて上げている間に、心を開いたのです。その訪問で、すっかり変わって行った様子を、家内が話していました。星野さんは、自分にできることを見つけたこと。口に筆を咥えて、絵と詩とを書き始めて行ったこと。その絵や詩を編集した本が、多くの人に読まれていること。特に障碍を追われたみなさんが、励まされて生き始めたことも話して上げていました。結婚もされて、奥様の大きな助けを受けておいでです。

このMさんも、「舌」を使って、PC操作ができますので、職業訓練を受けるなら、能力が、さらに開発されて、社会参加していけたら好いことも話しました。そして、仕事をして経済的に自立することも勧めてみました。彼の賜物が生かされていくなら、生きる喜びを見出し、周りにいる人たちを激励できることもできるのですから、そうなったら素晴らしいと思っているのです。

そう言った《職業訓練のプログラム》が、きっと何処かにあると思いますので、探してみることにしています。先日、お会いした、白血病や貧困でいる子どもたちのお世話をしておられる方にも、お聞きしてみようと思っています。Mさんのような方が、ただ無為に時を過ごすのではなく、目的をもって生き始めたら素晴らしいと願うのです。周りの人たちも喜ぶことができそうです。車に乗せて下さって、言葉の足りない部分を通訳して下さった友人に感謝しました。以上、訪問記です。

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