国谷

 

 

茨木のり子に、「桜」と言う詩があります。

ことしも生きて
さくらを見ています
ひとは生涯に
何回ぐらいさくらをみるのかしら
ものごころつくのが十歳ぐらいなら
どんなに多くても七十回ぐらい
三十回 四十回のひともざら
なんという少なさだろう
もっともっと多く見るような気がするのは
祖先の視覚も
まぎれこみ重なりあい霞(かすみ)立つせいでしょう
あでやかとも妖しとも不気味とも
捉えかねる花のいろ
さくらふぶきの下を ふららと歩けば
一瞬
名僧のごとくにわかるのです
死こそ常態
生はいとしき蜃気楼と

まざまざと、多くの「死」を、青年期に見た人だから、こんな詩が詠めるに違いありません。けっこう人って、鈍感な一面を持ち合わせていて、人生ってもっともっと続くのだろうと錯覚しているのかも知れません。その反対に、まだ来ぬ死を、言い知れずに恐れる感覚をも持ち合わせているのです。

『桜って綺麗!』って思い始めたのは、大人になってからであって、子どもの頃の入学式や卒業式の頃に、校庭を飾っていた桜の記憶は、子どものものではありません。そう思ったのは、知人に誘われて、南信州の「高遠(たかとう)城址の桜」を観に連れて行ってもらった時でした。確か三十代の中頃だったでしょうか。それも美味しいご馳走が共にあった経験でした。

その折の写真が、『あっ、高遠の桜って綺麗だったんだ!』と記憶を呼び覚ましてくれたからなのかも知れません。気分が良くて、気の知れない方たちの交わりがよかったのも、綺麗さの中に含んでいるのでしょう。

そう、そんな気持ちで、何度見たでしょうか。家内が、胆嚢の手術を終えて退院した時に、板橋のある運動公園に咲いていた桜が、随分と綺麗でした。退院の喜びと重なり合って、やけに綺麗だったからです。東日本大震災のあった後のことも、印象深く覚えているのでしょうか。目黒川の夜桜を、次男に案内されて観たこともありました。

毎日乗車し、通過する東武宇都宮線の「国谷(くにや)」の駅舎の横に、10本の桜の老大木があります。真冬の頃から、『咲いたら綺麗だろうなあ!』と、通過のたびに眺めて来たのです。それが芽が膨らんできて、ちらほらと咲いたのですが、寒い日が続いていますが、今日は、4月1日、今日明日で満開になるのでしょうか。ちょっと焦(じ)らされているこの頃です。

(「国谷駅」の桜です)

.

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください