母親

 

 

ロシア民謡の「一週間」は、次のような歌詞です。

日曜日に市場へ出かけ 糸と麻を買って来た
テュリャテュリャテュリャテュリャテュリャテュリャリャー
テュリャテュリャテュリャテュリャーリャー

月曜日にお風呂をたいて 火曜日はお風呂に入り
テュリャテュリャテュリャテュリャテュリャテュリャリャー
テュリャテュリャテュリャテュリャーリャー

水曜日に友達が来て 木曜日は送っていった
テュリャテュリャテュリャテュリャテュリャテュリャリャー
テュリャテュリャテュリャテュリャーリャー

金曜日は糸巻きもせず 土曜日はおしゃべりばかり
テュリャテュリャテュリャテュリャテュリャテュリャリャー
テュリャテュリャテュリャテュリャーリャー

友達よこれが私の 一週間の仕事です
テュリャテュリャテュリャテュリャテュリャテュリャリャ
テュリャテュリャテュリャテュリャーリャー

こんな一週間を過ごす人とは、どんな階層の人、職業人なのでしょうか。この歌詞のような毎日を、〈これが私の一週間の仕事〉だとすると、一見して、貴族のような悠々自適な、生活苦を感じられない人のようですが、庶民なのでしょうか。

社会的な責任を託されて働いて、これまで生きてきて、今、病んだ妻のそばにいる、何度かの一週間は、今までにないものです。そんな日を送っているところに、異国に嫁いだ2人の娘が、母を支えようとして帰ってきました。実家のない子どもたちのうち次女が、家族写真を保管していて、それを持参したのです。

その中に、家内の小学校一年生に時の遠足の集合写真があります。昭和二十年代のセピア色の写真に、敗戦後の復興の兆しが感じ取れるものです。家族が付き添いでの遠足で、おじいちゃんやおばあちゃんも写っていたりで、時代を感じさせられます。食べる物に乏しい時代に、次代を担う子どもの教育をなおざりにしなかった、戦後の復興政策の姿勢が感じられます。

ふくよかな健康にあふれた家内の写真が目立ちます。高校、専門学校時代、職場、結婚後の家族写真を見ながら、時の流れを感じてしまいます。「一葉の葉」という高校時代の英語劇の写真があります。家内が主人公で、ベッドの中に寝ている少女を演じています。〈残された一枚の葉が落ちたら死んでしまう!〉のに、画家がガラスに葉を上手に描いて、友の愛に希望を与えられて、病魔に打ち勝つ物語なのだそうです。

アメリカでも、中国でも、ここ日本でも、家内への祷援があります。みんなに愛されて、支えられているのを、ヒシと感じています。窓から入り込む冬の陽が、ベッドの布団を温めています。youtubeからのインストルメントの曲が、Boseで部屋の中に溢れています。

静かな時が流れています。お腹を痛めて産んだ子というのは、母親にとっては宝物なのでしょうか。そして愛されて育てられた子どもたちが、その母親の愛を感じて、母親を、今取り囲んでいます。明日の検査には、4人全員集合になるのでしょう。長女の主人は、遠くニューヨークで感謝の手を挙げてくれています。次女の残された家族は、来月中頃にやって来ます。長男家族は、明日の通院の送迎のために来てくれ、次男夫妻は、病院に駆けつけると言っています。

そんなに物質的には豊かではなかった家庭で育った子どもたちが、自分たちの母親の試練の時に、犠牲を払って共にいて上げようとしてくれています。

(男体山です)

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ここ栃木は、やって来た前日、雪が舞っていたと聞いて以降、ずっと晴天の連続です。夜半の空は満天の星、今朝も雲一筋ない空が広がっています。早暁はマイナス2度だったそうで、外はキリッとした寒さですが、日当たりの良い居室は、オイルヒーターとコタツで、まるでハワイのような心地よさです。

一昨日は、長男がいることを確かめた友人が、義母が使い、ご自分が怪我をしたときに使った〈電動ベッド〉を出して来て、家内のために子どもたちとセットしてくれたのです。今そのベッドに上で、家内は歌を歌っています。

昨晩は、再々度の検査を、昼間、主治医に電話で告げられて、夕食時に、家内は心を乱していたのですが、医師でさえも限界があることが、今朝は認められて、歌っているのです。娘たちの前で、受け入れたくない現実に、リアクションして、正直な感情を表現していたわけです。娘たちは、ついぞ見たこと、感じたことにない母親の一面を知って、驚いたり、納得したりでした。

一晩熟睡して、人としての医師の弱さもわかり、人への信頼ではなく、いにちの付与者への信頼を表して、歌っているのです。今朝は、トーストしたパンを食べたいと言って、娘に告げて、美味しそうに食べていました。食事作りを娘たちに任せて、私はちょっと楽をしています。

昨日は、その友人が、家に中で、時を過ごしている家内のために、〈Blue toooth〉につながるBoseのスピーカーもってきてくれ、スマホで〈youtube 〉で、家内に好きな曲をダウンロードして、聴かせてくれたのです。 そのBoseの〈Blue toooth〉を置いて行ってくれています。

この人が、極選の卵や出汁の素やリンゴなども持って来てくれています。中国の街でもここでも、多くの人の愛に囲まれて、祝福の時を過ごしています。

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望み

 

 

昨日の朝は、この家の二階から、朝焼けが茜色(あかねいろ)に雲を染めている様子を見ることができました。その神秘的な美に感動しました。人の筆や絵に具では描くことのできない自然界の美しさに、人はただ圧倒させられて、息を飲むのみです。昨夕の夕焼けも見事でした。

自然の美しさに感動する《人》こそ、創造の最高傑作だと言われています。父が飼っていた犬も、娘たちが飼っていた猫も、子どもたちが飼っていたウサギも、空を見上げて放心状態で、美しさに酔いしれるような姿を見せていたことはありません。人だけができる能力なのです。

70年も働き続けてきた心臓も肺も、その他の臓器一切が、少し弱くなるのでしょうか。英語で、“オーヴァーホール”の時期なのでしょう。機械に油を加えるように、人の体にも、油の注入が必要に違いありません。家内は、悔いなく生きてきたのですが、まだすべきことが残されていたら、まだ生きられますし、使命を果たし終えたら、造物主の元に帰れるのです。

どちらにしろ《永生の望み》に、心を満たしていますので、闘病をしている今、結構上を向いて、積極的な告白をしています。先日やって来た二人の娘が、家内を、あれこれと世話をやいています。長男家族も、次男夫婦も助けてくれています。一昨日は妹が、友人の運転の車で見舞いに来ると言っています。

昨日の朝9時、獨協医科大学病院から電話が入り、明日の検査のための来院時間や注意事項の確認をしていただきました。ななんと、『喂wei!』と言って、電話にとっさに出てしまいました。これって、中国語の『もしもし!』なんです。それが、自然に、私の口を突いて出てしまったわけです。そんなに中国風が身についてししまって、びっくりしたのは私です。

昨日、次男は仕事が忙しくて来れませんでしたが、長男が、時間がとれたと言って駆けつけてくれ、病院への送迎などをしてくれ、2人の娘が家内に連れ添ってくれました。“PETーCT検査”を無事に終えました。家内の顔がホッとして、笑顔が帰ってきました。みなさんの愛を受けて、満ち足りているのでしょう。30日に検査結果を待つことになりました。

中国の友人たち始め、みなさんの応援に感謝します。

(広島県呉市、穏やかな冬の休日、黒瀬川沿いに咲く「白梅」です[HP里山を歩こう])

新聞

 

 

毎朝ポストに、「下野新聞(しもつけ)」が配達されてきます。栃木県は「下野国」と呼ばれていました。「朝刊」って、〈朝の匂い〉がして、とても懐かしいのです。全国紙も地方紙も、同じ材質の紙に、同じインクで印刷されていますから、ほとんど同じで、朝一番で外部からもたらされる〈情報の匂い〉でもあります。

13年以前、我が家も新聞をとっていました。初めは「讀賣新聞」でした。父は〈読売巨人軍」を贔屓(ひいき)にしていましたから、自ずと新聞も、そういうことになり、4人の子たちも、父に倣ってしまったわけです。ところが私だけは、脱落して「毎日新聞」に変えてしまったのです。

それは友人の息子さんが、毎日の記者になったからでした。〈川柳〉と〈コラム〉が面白くて、先ず初めには、そこに目が向いてしまうのです。中国に行きましてからは、友人が切り抜きを、時折持ってきてくれるだけで、「◯◯晩報」を、路傍の新聞掲示板を、たまに覗き見るだけでした。

 この地方紙の一面は、 [~外国人材活用で情報共有~県、「促進協」設置へ]とのトップ記事でした。地方の企業体の就労を、外国人に頼らざるを得ない現状があるからでしょうか。さらっと読みながら、この地方紙の果たしてきた役割を感じ取っています。

この新聞を、私たちの住まいを提供してくださっている友人が、こちらに参りましてから毎朝、ポストに入れて下さるのです。早朝に働いておられながら、家内の出迎えまで、先日の退院時にしてくださったのです。小学生の時にも、彼は新聞少年で、雨や雪や風の中を配達をしてきた方です。息子も娘も、そして私もしてきた新聞配達です。

昨日は、この方と奥様と私たちとで、一緒に歌いながら、語らいの時を持ち、その後、一緒に食事をしました。ここでも大きな愛に囲まれながら過ごすことができ、幸せを噛みしめているところです。今朝も快晴、北関東の朝は、キリリと寒く、身が引き締まる感じで始まりました。

 

小江戸

 

 

ここ栃木市は、宇都宮市が県庁所在地になる以前、栃木県の県都でした(明治16年まで)。徳川家康の墓所が久能山でしたが、日光に改葬されてから、この街は、徳川幕府開祖の家康の墓を詣でる人の往来で、賑わった街でした。そればかりではなく、〈日光東照宮御用〉のために、資材などを運び入れるため、また、それに携わる人々の生活物資を商う、商業都市として栄えて行きます。

京都の朝廷は、家康の墓所詣でのために年一度、「勅使(ちょくし)」が、日光東照宮参りをしました。この使いを「例幣使(れいへいし)」と呼びましたので、その通り道を、「日光例幣使街道」と呼んでいました。いわゆる、その〈落とし金〉でも、この街は潤ったことでしょう。そのせいででしょうか、〈下野商人(しもつけしょうにん)〉は豪商が多かった様です。

そんなことから、ここは「小江戸」と呼ばれ、喜多川歌麿と関わりがあったそうです、その記念館もあります。また、「路傍の石」で名を馳せた、山本有三の出身地でもあります。栃木市を中心に、街興し、観光客誘致で、〈SLの蒸気機関車デゴイチ(D51)〉を、東武電鉄が走らせる計画があるそうです。

とくに巴波川(うずまがわ)の流れを利用して、舟運が盛んになり、江戸を往来する物資が運ばれたそうです。江戸の木場あたりには、木材、野菜、特産品が運ばれ、帰りの舟には、様々な物が、江戸から運ばれて来たのです。よく時代劇に、川辺を『御用、御用!』と言って、奉行所の役人の捕物が、行き来する場面に、この巴波川の河岸が使われるのです。

どうしてかというと、江戸に風情を残す蔵が、そこに残されているからです。それで栃木市の観光の一大スローガンは、「蔵の街」なのです。蔵の白壁と木枠と瓦の黒色が対照的なのです。まさか、こんなところで映画やテレビに劇のロケが行われるとは、江戸期の住民は思いもしなかったことでしょう。

落ち着いた雰囲気と、ほどほどの田舎な感触、人の優しさ、男体山(なんたいざん)や那須の山々が間近に見られ、夕焼けが綺麗なのを、家内が大好きなのです。今まさに、闘病の日々ですが、一昨日は、私たちに中国滞在をバックアップしてくださっている方の夫人で、日本にやって来て、二人の子どもさんたちの進学を考えているお母様が、こちらの大学に行く準備中の息子さんを連れて見舞ってくれました。

家内は、静かで落ち着いた時を過ごしています。孫の見舞いを楽しみにしていたり(明日も来てくれるそうです)、中国の友人たちのことを思ったりの日々です。昨日は、長男の嫁の父君のふるさと・鹿児島で、ご兄弟がついた餅を頂いていたので、関東風の〈お雑煮〉を、今夕食には、魚の煮付け、しじみの味噌汁、シーチキンといんげん入りの炒り卵、舘山寺味噌(出来合い)、桃とみかんの缶詰を食べました。美味しそうでした。

(栃木市内を流れる「巴波川」です)

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午前5時、外は《満天の星》です。寒暖計が見当たらないのですが、外気温は0度以下でしょう。〈寒さ体験〉が、これまで何度かありました。一度は、夏期にアルバイトをした、雪印乳業の工場にあった、アイスクリーム用の冷蔵庫内でした。零下35℃だったと思います。外気温との差が、60℃ほどあったでしょうか。防寒服を着て、真夏日の日向で日光浴をしました。

もう一度は、大連に行った時でした。新年が明けたばかりの頃に、貧しい子どもたちに冬用の衣類を持参して、知人を訪ねたのです。吸う呼吸で鼻毛が凍る感覚があって、あのアイスクリーム保存庫と同じ体験をしたのです。市内の道路では、溶けた雪が踏み固められていて、家内が滑ってしまい、急遽冬用の靴を買ったほどでした。そんな寒さの中を、大連人は、なんでもない様に闊歩(かっぽ)していたのを見て、流石(さすが)と思ったのです。

一番切ない寒さ体験は、何年も何年も前に、12月の初めだったでしょうか、晴天の日に、山梨と長野の環境付近にあった入笠山(にゅうがさやま)

に、家内と登った時でした。数日前に降った雨が、その山を登るにしたがって、山道の雪が深くなっていったのです。戻らずに、小屋の庇の下で食事をし、林道に出て下山したのです。念のため家内には足につける滑り止めを用意していたので、それを着け、私は登山靴でした。林野庁の車が行き来したのでしょうか、路上の雪は凍っていました。

今度は私が、何度転んだでしょうか、家内は泣き出すほどでした。林道は、日光のいろは坂の様で、ヘアーピンの様にくねくねの連続で曲がり、行けども行けども車を停めたあたりにたどり着かないのです。思いによぎったのは、『初老の夫婦、初冬の雪山で遭難!』でした。寒いし、疲れるしで、引き返さなかったのを悔いたりでした。でも車にたどり着くことができたのです。

今、滞在している栃木も結構寒いのです。関東平野の北端で福島や新潟に続く山岳地帯の麓です。でも部屋の中は、オイルヒーターと、電子カーペットの上にコタツを置いて暖をとっていますので暖かです。昨日は華南の友人から電話があり、家内は、この方と久しぶりに談笑していました。

今日は、友人夫妻と、長男家族と、次男夫婦(嫁後は体調が好くないので来れるでしょうか)が来ると言ってきています。華南の町の若き友人のお嬢さんの《十七》の誕生日です。毎年日本風のケーキを贈って来た来たので、今年はカードと〈ケーキ代〉をお母さんに、家内が託しておいたそうです。そろそろ大学受験の準備期、カナダに留学を考えている様です。もう、外は白んできました。好い1日であります様に!

(広島県呉市灰ヶ峰に咲く「ロウバイ(蠟梅)」です[HP/里山を歩こう])

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昨日午前中、家内は1時間半ほどの生体検査をしました。部分麻酔で、口から管を入れて、気管支を通って肺に及ぶものでした。夕方は、医師の指示で、MRI検査をしました。体全体を調べた様です。

組織を採ったのですが、病理学医師の所見では、不十分だそうです。右肺にも水があって、先日取り除きました。両肺にダメージがあります。若いI 医師(男性)とK医師(女性)が治療を担当され、病棟の看護師さんたち病院にスタッフが、よくしてくれています。

それで、造影CTを撮りながら、組織を注射器のような形で取り出す検査を、再びしたいとのことでした。これをしなければ病因がつかめないからです。そうすることは、医師にお任せた私たち家族は、それが最善と思っております。

今週の火曜日と木曜日に、その検査ができるのですが、今週の予約は、空きがなくて取れませんでした。一旦退院して、これからI医師が検査日を決めてくれる日に受けたいと思います。家内の心は、静まっております。

それで家に帰ることになり、今朝病院にまいります。検査の連続で、体も心も疲れているに違いありません。友人が提供してくださった家に帰って、ゆっくり静養できたらと願っております。昨夕、友人が、車で迎えに行ってくれると言ってくれました。

好き友がいて、どんなに力強いか知れません。《イチゴ》の生産量が日本一の県で、そのイチゴを、『奥様に届けてください!』と頂いたり、私の帰宅時の夕食のために、惣菜をくださったりです。先日は、彼手作りのおせち料理を残しておいてくださって、りんご、彼手作りのパンケーキを添えて持参してくれ、帰国の私たちを迎えてくださったのです。

中国華南の街の友人たちが、入院中、帰国時に示してくれた友情と隣人愛と時間も、驚くべきものでした。帰国後の私たちへの経済的なサポートも、東京で大学を出て、今都内で働く、一人のご婦人の息子の口座に送金してくださり、届けてくれるそうです。額は半端ではありません。医療費への援助にためにと言ってです。

子どもたちも、あれこれと最善を考えていてくれます。次男は、ギター持参でやって来て、休日で人のいない一回外来の待合エリアで、それを奏で、歌を歌って、母親を慰めていました。娘たちは、愛読書からことばを送信してくれ、長男家族が祭日に見舞ってくれました。二人の兄としたの弟も連絡してくれています。

そんな時を、いま、家内は過ごしています。愛心のこもった支えで、きっと癒えていくのではないないでしょうか。家内に最善がなされる様に願う日々です。ありがとうございます。

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いちご

 

 

壬生町から「男体山(なんたいさん)」を望んだ写真です。きっと、多くの若者が、この鎮座しているかの様な山を仰いで、『この山の様に大きくなろう!』と心に決めて、故郷を後にしたのでしょう。ここに嫁いで来た嫁は、『この山の様に、ここから動かないわ!』と念じたことでしょう。

私の生まれふるさとにも、そんな山があり、川が流れ、木が生い、花が咲き、果実が実っていました。友人で、この住まわせてもらっている家のご主人が、『栃木県はいちご生産量がある日本一なんです!』と、昨日メールで知らせ、早朝の玄関のたたきの上に、そのイチゴをひとパックを置いてくれました。入院中の家内に届けるようにと言ってです。また、帰宅後、私の夕食にと「トロトロ豚肉」を調理した小鉢を、玄関の外のたたきの上に置いてくれたのです。

大陸で愛を受け、ここ祖国でも愛を受け、『ああ幸せ者よ!』と感謝しています。この方は、暮れにでしょうか、おせち料理を作られて、黒豆、数の子、ニシンの昆布巻きを、大陸からやってくる私たちのために、残しておいて、届けてくれました。まさに、正宗の《日本の味》なのです。手製パンケーキも美味しいりんごもありました。

彼は、ある学校で学びつつ、寮生の食事の賄いをしておられたことがあって、抜群に味が良いのです。奥様も料理上手なのですが、昔取った杵柄(きねづか)で、本業に勝るとも劣らない腕です。

ああ、祖国も、友も、家族も、実に好いものです。これに匹敵するする様な、大陸の街の若き友人たちの、とろけてしまいそうな愛心を想っています。炬燵に入りながら、炬燵の上には、「みかん」がのっています。私たちを迎えるために、そうしておいてくださいました。

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逆転

 

 

東広島市の賀茂台地に咲く「オオイヌフグリ」です。そこは広島県のほぼ中央に位置し、周囲を標高400~700m前後の山々に囲まれた台地でそうです「HP/里谷を歩こう」。《早春の花》が、2019年を飾っているようです。

私たちにとりましては、この新年は、元旦に家内が入院して始まりました。七日間、私たちに住む華南の病院で過ごし、退院の翌日に帰国し、その翌々日に、北関東にある獨協医科大学に入院したところです。まず検査をしようとしております。結果が出次第、治療が行われる模様です。

あんなに元気で、子育て中に、病気ひとつしなかったのに、歳を重ねた今、病んだのですが、気持ちは落ち着いているようです。人っ子一人いない病院の祝日の待合室のベンチで、次男が家内を励ましていました。立場逆転です。

そこには、早春の陽が射しこんで、体も心も温められた様です。低い音で、ギターを奏で、一緒に歌ったのは、ずいぶん久しぶりのことでした。心が高揚され、強められ、開放されたかのようでした。子どもたち代表の次男訪問の成人の日でした。

 

 

 

関東平野の北の山岳部に、手が届きそうな辺りに、獨協医科大学はあります。今5時が過ぎ、夕闇の帳が降り、山の上に雲がかかり、冬の空は寒そうです。

家内の見舞いを終えて、東武宇都宮線の「おもちゃのまち駅」のホームにいます。宇都宮駅からの電車が来て、乗り込んだところです。単線の各駅停車です。新栃木駅で東武日光線に乗り換え、栃木駅にいきます。

今日は、次男が、ギター持参で見舞ってくれました。彼はブラバン出身で、ドラムスやギターやピアノ、多くの楽器をこなすのです。彼が弾き、三人で歌ったのです。おさないひに、よく歌った歌でした。

家内は、いっぺんに元気になってしまいました。時間確認のため置き時計が欲しい家内のための、それを持参してくれました。一緒に〈伊右衛門〉を飲んで美味しそうでした。

4人の子育てを、よくやりました。次々に自立独立していく子どもたちを送り出し、それ以来、空の巣で、『今頃、どうしてるかしら?』と、母親の彼女は自分のことはさておき、病床でも想うものなのですね。

中国の華南の街に、家内の入院生活を、心情的に、経済的に支えてくださる友人たちの一団があります。想像を絶するほどの額です。かつて、この国を軍靴で踏み荒らし、多くの物を搾取した者たちに末裔(まつえい)に、《一家人yijiaren/家族の一員》と言って愛をお示しくださるのです。感謝が尽きません。

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