旅芸人

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戦後間もなくの昭和26年、1951年、松竹映画「とんぼ返りの道中」が上映されました。映画は後になって観た記憶がありますが、その主題曲は、作詞が西條八十、作曲が万城目正、唄が、美空ひばりで「越後獅子の唄」が、ラジオから流れてきました。

1 笛にうかれて 逆立ちすれば
山が見えます ふるさとの
わたしゃ孤児(みなしご) 街道ぐらし
ながれながれの 越後獅子

2 今日も今日とて 親方さんに
芸がまずいと 叱られて
撥(ばち)でぶたれて 空見上げれば
泣いているよな 昼の月

3 打つや太鼓の 音さえ悲し
雁が啼く啼く 城下町
暮れて恋しい 宿屋の灯(あかり)
遠く眺めて ひと踊り

4 ところ変われど 変わらぬものは
人の情けの 袖時雨(そでしぐれ)
ぬれて涙で おさらばさらば
花に消えゆく 旅の獅子

旅芸人の幼子が、辛く悲しい生活をされているのを知って、同年代の子どもが、路上で舞ったり、逆立ちと言った芸をしているのに、自分は、白いご飯を何不自由なく食べて、両親に甘えていられる、その違いに彼らの同情的になったのです。ぶっている親方に、噛み付いてやりたいほどでした。

『サーカースの子役たちは、飲んだら、むせてしまう様な酢を、体が柔らかくなるために飲まされているんだ!』と、誰かに聞いて、酢が嫌いになったものです。とくに越後、新潟県は、「日本列島改造論」が出て、列島開発が始まる以前は、日本海側の貧しい地域で、旅芸人、目の不自由な門付け芸人の瞽女(ごぜ)を、多く生み出した地です。

その哀調のこもった響きの〈瞽女の歌〉を聞いたことがあります。旅芸人といえば、春秋に祭礼の時期に、私の育った街の神社の境内で、小屋がかけられて、芝居が演じられていました。親の目を盗んで神社に行き、モギリのおじさんの目も盗んで、潜り込んで観たことがあります。アセチレンでしょうか、カーバイトでしょうか、白粉の匂いが混じって、独特な匂いが溢れていました。子役がいて、どうやって学校に通っているのか心配になっていました。

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その様な、旅の浪曲師の娘で、父親の芸の前座で、お母さんの三味線の伴奏で歌謡曲を歌って、家計を助けていた、藤圭子がいました。成績のとても良い賢い中学生だったのだそうです。中学を出ると、進学を諦めて、飲み屋街を回って、〈二曲100円の流し〉をしていたところを、見出されて、演歌歌手として世に出て、活躍をしたのです。

「歌姫」と、脚光を浴びても、女性芸人の生涯は、以外と不幸なのに気付かされます。古い芸人の世界で、それが慣習なのでしょうか、男芸人の餌食にされて、青年期を楽しむことなく、大人になってしまう、醜い世界だったと聞きます。華やかさの影の暗さが、一際目立ってしまうのでしょう。夢を売っても、自分の夢に生きられないのは辛いことだったに違いありません。

最近、とみに繁栄の影の暗さが大きくなってきている感が拭えません。人の仕合わせを考える人が、本当の幸せを味わえるのでしょうか。「幸福論」に、《心の貧しさの幸せ》、《憐み深さの幸せ》、《平和を作る幸せ》がある様です。そう言えば、お金や成功や栄達が、どうも人を幸せにはしていないのではないかと思ってしまいます。

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恋文

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入院中の家内が、して欲しくなかったことや聞きたくなかったことが、いくつかありました、いえ、今もあります。検査結果がなかなか出てこないで、治療法が定まらなかったのです。気管や食道や血管が、腫物で圧迫され、食べられず、息苦しく、むくみ、体重が減り続けていました。ところが血液検査は毎日行われ、『そんなに血液を抜いていいの?』と家族としての想いが募ったのですが、血液検査の数値だけが、病状を教えていたのでしょう、検査が続けられていました。

まさに、生死の境を彷徨(さまよ)っていたのです。それで血液製剤を点滴するために、頸部に、透析をされる方が手首に、カテーテルを留置する手術が行われる様に、留置手術が行われました。それは生命維持の最後の手段でした。体が、「管(くだ)」で繋がれることを、彼女は嫌っていたのですが、私は医師のその手術をお願いしたのです。

私は、中高と運動部にいました。大学も、運動部の推薦入学で誘われたのですが、一般入試で入学したのです。予科練帰りの先輩や、そう言ったOBに鍛えられた方たちから、ビンタやグラウンド上での正座や兎跳びや長距離走をさせられる、「根性論」で、しごかれました。おかげで、全国レベルの強豪校でしたが。

ですから、懸命に病と闘っている家内に、『頑張って!』と励ましていました。それを聞いた彼女は、『これ以上、どう頑張っていいの?』と、私に細い声で言ったのです。やはり、「精神論」の押し付けは、彼女には、一番辛かった様です。そんなことで、そう言った激励しかできない自分の病者不理解を悟ったのです。

それで、自分の愛読書と愛唱歌の中から、一節づつ選んで、《恋文》を綴って、洗濯をした着替えとを持って、宇都宮線に乗って、毎日見舞ったのです。時々、何かをコンビニで買って行きましたが、食べられませんでした。それらが、彼女への大きな励ましになった様です。そして、子どもたちや孫たち、古くからの友人や兄弟姉妹、華南の街の友人たちの来訪がありました。その時期、インフルエンザのため、面会謝絶が一ヶ月間続く時期もあったのです。

新薬の点滴が始まって、病状が回復してきて、医師が驚くほどの効果が出てきたのです。頸部に留置した針も抜かれ、尿管も外され、全部の管が彼女の体からなくなったではありませんか。主治医は、ついに『著効です!』、つまり治療の効果が、新薬の薬効が顕著に見られると言われたのです。

造影剤を入れての「PET検査」の新旧二枚の映像を見て、子どもたちも私も、歓喜したのです。まだ闘病中ですが、彼女は体重も増え続けています。通院以外の外出しかできなかった彼女は、同病の患者さんや医療従事者との交流会にも、近くの市立図書館にも、美術館にも、日曜日ごとに開かれる倶楽部にも、レストランにも行ける様になっています。

もう、『頑張って!』ってなんて、私は言いません。責任逃れの「精神論」や「根性論」を縹渺したり、強要したりしません。『よくやってるね!』と言って、次にできることに向かって、一緒に進むことにしています。家内は、どなたかにオンブされている様な、大きな背中に背負われている様に思えてなりません。

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悠久

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歳を重ねると、感覚が鈍くなっていくのかも知れません。でも、《懐かしい匂い》がしてくると、胸がジーンとし、心かキューンとし、涙腺がシューンとしてきて、この手の嗅覚は、歳をとっても、まだ健在なのかも知れません。多分、刻み込まれた記憶は消えないのでしょう。きっと、ふるさとには独特な匂いがあるのだと思います。懐かしさが、時として、匂いとなって蘇ってくるのでしょうか。

一級河川の上流、その支流の一つ、その奥で生まれた私には、土や木や石や水や風や空や光が、そして色や輝きや湿り気も伝わってきて、すぐ、そこにある様な思いがしてまいります。歌謡曲で歌われる歌詞に、『・・・ああだれにもふるさとがある、ふるさとがあーる・・・』も思い出されてきてしまいます。

私のふるさとの渓谷から数えて、いくつか東側に、沢伝いの温泉場があります。その骨折後の恢復に良いという温泉を紹介されて、二、三日、休暇をとって出かけたことがありました。まだ二十三歳でした。そこにお爺さんの湯治の手伝いで、私と同世代のお嬢さんが来ていたのです。

そこは湯治用の温泉で、混浴でした。そのお嬢さんは、お爺さんのお世話で、一緒にお湯に入ってきたのです。私は、それを見て、すぐに目をそらし、湯から上がってしまったのです。裸になってまで、お爺さんの入浴を、恥じずに手伝っている孫娘の決心が、実に素敵でした。温泉場のたたずまいと共に、そのキリッと結んだ唇と真っ白な肌を、はっきりと覚えています。

その温泉の奥に、鄙びた温泉郷があって、三十代の最後の年に、それも手術後の湯治で、出かけたことがありました。同じ湯治客と、狭い浴槽に、譲り合いながら入るのです。そこも混浴でした。それだけ治癒を願う必死さがあっての温泉浴だったのです。ほとんどの湯治客に、手術痕があって、ラジウム温泉の効用に、最後の望みをかけてやって来ていた様です。
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何度か目に行った時に、初老のおじさんが、『私の部屋で、一緒にお茶を飲みましょう!』と、私を支えるために同伴してくれた家内と私を誘ってくれました。アコーデオン演奏で、「誰か故郷を思わざる」、「湯の町エレジー」などを歌ったのです。誰にも故郷があって、それを懐かしく思い返すのでしょう。あの時も、時間がゆっくり過ぎて、体だけではなく、心も、そのゆっくりさを楽しめました。

そこは、まるで生まれ故郷、そのものでした。時間の経過が、記憶を薄れさせることはなさそうです。人間って、故郷を慕おうとする感覚は、年年歳歳、いよいよ強くされていくのでしょうか。土地だけではなく、人であり、出来事が、《ふるさと》なのかも知れません。それ以外に、帰って行くことのできる、生まれ故郷とは違った、もう一つの《ふるさと》が、私にはあるのです。そう、あると信じ切っているのです。老いも、病いも、妬みも、諍(いさか)いも、死も、新コロナウイルスの感染騒ぎもない、悠久の《ふるさと》であります。

(生まれ故郷に近い所、今はなき宿の玄関の写真です)

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Dream

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やがて、〈一人の人〉が出現します。世界が抱える様々な問題、人類の存続に関わる、あらゆる課題を解決してしまう人です。組織ではなく、組織を驚くほどの統率力、指導力、決断力、英知を持って動かし、世界が直面する問題を解決してしまう〈一人の人〉です。

人口増、食糧不足、環境汚染、異常気象、原発、気象異常、難病疫病の蔓延、家庭破壊、老人問題、青少年問題、国際紛争、民族紛争、難民の避難、貿易商業問題、宇宙開発等の課題が山積して、その想像を絶する様な極限に達する状況下で、登場するのです。

人類の歴史の中に、その時代時代に、その国国に、その民族民族に優れた指導者が、時宜にかなって現れては、民族や国や時代を導いてきました。ところが、この人は、世界大に、宇宙規模で活躍するのです。これまで手付かずの分野にまで、手腕を働かせてしまいます。人類史上、最も優れた能力を持つ人です。

世界は、この人を称賛し、賛歌を歌います。人々は、東から西から南から北から、こぞってやって来て、絶大なる誉れを、この人に帰すのです。割れんばかりの褒め言葉と褒め歌が、地上を満たします。そして、この人を、大いなる都の玉座に迎えます。そこに座すこの人を礼拝するためにです。まるで万国の王の様にして、人々の上に、この人は君臨します。

しかし、この人が「平和の王」であるのは束の間であって、やがて横暴な支配者として、人類史上に現れた極悪の独裁者の比ではない、絶対者として、恣(ほしいまま)に統治します。その容貌は、表では柔和ですが、自尊と高慢さが、その裏に隠されています。人々は、やがて、解決してもらった問題には比べられない様な、大きな問題の渦中に突き落とされます。

この人が、「真実の王」、「公正の支配者」ではないことが、人々に分かるのですが、時遅しで、更なる叫びと嘆きの中に、世界は陥ります。ところが絶望の中に、「王の王」がやって来られます。平和と安息を、《遜らされた人たち》に与えるためにです。そんな「夢(Dream)」を見ました。

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出現

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「混乱」、さまざまな所見、意見、考察が溢れかえって、収集がつかなくなった状況を、そう言うのでしょうか。また為す術がない状況を、そう言うのだと思います。〈新型コロナウイルス〉による新型肺炎が、世界中に蔓延していて、人々の心の中に、「不安」が生まれています。

1347〜1353年に、人類史上、最大規模で流行したのが、「ペスト」でした。当時のヨーロッパ全人口の約 3 分 の 1 が、その疫病によって亡くなっています。それは、想像を超えた規模と数の災禍でした。このヨーロッパでの拡大の背景には、当時の世界の覇者・蒙古軍がヨーロッパに侵攻したのと、人の行き来が頻繁になった背景がある様です。

1334年(鎌倉幕府の最末期)に、中国大陸で、激しい旱魃があって、農産物の生育に大被害がありました。それで飢饉が起こった中で、杭州で疫病が発生しています。それが「ペスト」であったと考えられています。当時の通商路の「シルクロード」によって、ペストの媒体である〈ネズミ➡︎蚤(ノミ)〉、あるいは〈人➡︎ノミ〉によって、ヨーロッパに病原菌が運ばれたと、原因が考察されています。
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この「黒死病」とも言われるベストは、18世紀に至るまで、何度もの流行期を経ています。日本に、このペストが入ったことについて、次の様な記事があります。

『日本では、1899 年(明治 32 年)に流行地の中国から侵入したのが初のペストである。翌年から東京市(現在の 23 区)は予防のために一匹あたり 5 銭で鼠を買上げた。本来日本国内にはケオピスネズミノミは生息せず、したがってそれ以前には日本にはペストはなかったとされている。ペストが日本に侵入してから 27 年間に大小の流行が起こり、合計ペスト患者 2,905 人(死亡 2,420)が発生した。しかし、日本がペストの根絶に成功したのは、ペスト菌の発見者である北里柴三郎や、彼の指導下でダイナミックに動いた当時の日本政府のペスト防御対策(特に、ペスト保菌ネズミの撲滅作戦)にある。』(加藤茂孝)

私たちは、日本が観光地として、世界から注目されて、おびただしい数の外国人が、日本に出入りする時代を迎えました。そのお陰で、経済効果が上がっている様ですが、メリットとともに、〈デ・メリット〉もあります。このグローバル化は、どうすることもできない社会的な現象ですが、経済優先、商業重視に偏ってしまううことで、〈糠喜び〉するだけではいけません。被る〈被害〉をも考えておかなければならないのではないでしょうか。
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「・・・地上では、諸国の民が・・・不安に陥って悩み・・・恐ろしさのあまり気を失います。」と、この時代の出来事を、私の愛読書は看破しています。「混乱」や「不安」の時代の只中で、私たちは、徒(いたず)らに恐れなくてもよいのです。慌てなくともよいのです。「流言蜚語(るげんひご/世の中で言いふらされる確証のないうわさ話。 根拠のない扇動的な宣伝。 デマ)に惑わされないことです。《21世紀の北里柴三郎》の出現を期待しましょう。『恐れるな!』

(「ハーメルンの笛吹き」の影絵、実験中の「北里柴三郎」です)

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踏切

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この写真に写っている箇所は、「踏切」です。日本中に、かつては何万(2018年度で33,098か所)もあった、踏切の内の一つです。みなさんにとられては、何の郷愁もないのでしょうけど、私にとって、実に懐かしい写真なのです。

ここは、江戸五街道の一つ甲州街道が、多摩川の渡しを渡って、日野の宿場を後にして、八王子に至る台地の坂の途中なのです。明治になって、そこを交差する様にして、開業した「甲武鉄道」の線路が設けられ、踏切が設けられた箇所です(実際に、お茶の水家から八王子を結んだのは1889年でした)。2両親と兄弟たちとが住み始めた頃には、中央線(1906年には中央本線に改名され、国有化され、都内の線路を「中央線」と呼んでいます)と呼ばれる様になっていて、そこを通勤や登下校や買い物のために出かけるたびに、行き来したのです。

父は、この踏切の中程から、駅のプラットホーム(写真の左端に最後部が写っています)を上り下りをして通勤していました。どうしてかと言いますと、旧国鉄に車輌の部品を作る会社を、父が持っていましたので、改札を通らないで、顔パスだったのです。その息子の私たちは、そうはいかずに、この坂を降って、世紀に改札を通っていました。
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この道は、新道ができた関係で「旧甲州街道」となり、近年ではバイパスが通る様になっています。今では、この踏切は閉鎖されてしまっています。渋谷のスクランブル交差点の比ではありませんが、数限りない人が、泣いたり笑ったりして交錯した〈交差点〉であったことは確かです。

(下の写真は山手線の渋谷駅の古写真です)

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もう何年になるでしょうか、中国の内蒙古の省都のフフホトを訪ねたことがありました。泊まったホテルの支配人が、日本語が上手でしたので、『どうして、こんなに上手なんですか?』とお聞きしたら、『日本人観光客が多く見えられて・・・』と言っておられたのです。

子どもの頃から、夜空を見上げるのが好きで、時々、夢見る少年の様に、外に出ては、見上げていたことがあります。東京都下の街でも、星を観察することができたのです。吸い込まれそうになるのでしょうか、引き上げられてしまうのでしょうか。

親爺に叱られて家出して、小高い丘の上の草むらで寝て、涙ながらに夜空を見上げたことがありました。叱られたことなど忘れさせてくれて、その広さと、雄大さ、怪しい輝きに魅了されてしまったのです。そのことを思い出させてくれたのが、フフホト郊外の草原の夜空の星の広がりに、魅了させられた時でした。

ギリシャ神話に、星座の話が多く残されていますが、ギリシャ人が夜空を見上げて、たくましく想像力を働かせ、「星物語」を作り上げて来たのには驚かされます。「オリオン座」について、次の様な記事があります。

『オリオン座は古代から親しまれてきた星座ですから、いろいろな神話が残っています。 その中でも大サソリに刺されて死に、天に昇ったという話は一番有名でしょう。 その話は以下のようなものでした。

オリオンは美しい狩人で、ギリシアのボイオティアというところに住んでいました。 オリオンはキオス島のオイノピオン王の娘メロペが好きになってしまいます。そこで求婚しますが、 娘をかわいがっていた王はオリオンを拒否させようと「この島の獣を退治すればメロペをお前にやる」 と言ってしまいます。

狩りが得意なオリオンは、いとも簡単にその仕事をやり遂げてしまいます。そこで約束を守るように王に迫るのですが、 王はオリオンを酒に酔わして眠らせた上、目をつぶしてしまいます。

盲目になったオリオンですが、神に祈ると「東の海岸に行って日の光を浴びなさい」という神託を得ます。 そこで、レムノス島まで出かけ、無事に光を取り戻します。この後、王の下へ復讐に出かけるのですが、 それは成し遂げられませんでした。

この後、オリオンは月の女神アルテミスと駆動を共にするようになります。日が経つにつれ、オリオンはこの 女神のことを好きになってしまうのです。 困り果てたアルテミスは、大地の神ガイアに頼みます。そうするとガイアは、恐ろしい毒を持ったサソリをオリオンに 差し向け、見事刺し殺してしまいます。

この様子を天界から見ていた大神ゼウスは、美しいオリオンを惜しんで天に上げます。これがオリオン座となって輝いています(「天体写真の世界」より)。』
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福岡に所用で出かけた時に、お茶の名産で知られる八女市の星野村にお連れいただいたことがありました。そこは「ほしの村」と言って、星で〈村おこし〉をしているのです。山の中で、実に夜空が綺麗だったのです。今でも、〈夜空を見上げるジイジ〉をしていまして、人に手や思いに及ばない、《創造の美》に感動させられております。

(「オリオン座」と「星野村の夜景」です)

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論法

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国会の答弁で、どなたかが、「募集」と「募る」とは違うと言う様な意味で、話されたそうです。そんな言い回しを、〈ご飯論法〉と言うのだそうです。きっと苦し紛れの弁明をしたのかも知れませんが、国語力を疑われる様なことを言って、話題になっています。

この〈ご飯論法〉と言うのは、

花子さん 『ご飯食べたの?』
太郎さん 『ご飯は食べなかった!』
花子さん 『そう!』
太郎さん 『パンは食べたよ!』
※ 『お米は食べなかったけど!』

このことを言う様です。調べてみますと、いろんな〈論法〉があるのです。江戸時代に刊行された「浮世草子」の中に次の様な話があります。

『とかく今の世では有ふれた事ではゆかぬ。今日の大風で土ほこりが立ちて人の目の中へ入れば、世間にめくらが大ぶん出来る。そこで三味線がよふうれる。そうすると猫の皮がたんといるによって世界中の猫が大分へる。そふなれば鼠があばれ出すによって、おのづから箱の類をかぢりおる。爰(ここ)で箱屋をしたらば大分よかりそふなものじゃと思案は仕だしても、是(これ)も元手がなふては埒(らち)明(あか)ず』(無跡散人『世間学者気質』より)

ここに記された論法を、〈桶屋論法〉と言いのだそうです。

『風が吹けば、桶屋が儲かる。』と言う〈原因〉と〈結果〉の言い回しです。

① 強風が吹くと土埃が舞う
② そうすると、眼病を患う人が増える
③ それが昂じて盲人が増える
④ 目の悪い人が生計をたために門付けになろうとする
⑤ 三味線を習う
⑥ 三味線の需要が増える
⑦ 三味線には猫の皮が張られる
⑧ 猫が減る
⑨ ネズミが増える
⑨ ネズミが桶をかじる
⑩ 桶が売れる
⑪ 桶屋が儲かる

今年も、「春一番」が吹いたと、ニュースが伝えていましたが、もう桶屋は、街の中になくなってしまって、ほとんどがプラスチック製のものに取って代わってしまいました。私の通学路には、二軒もの桶屋がありました。檜を削る匂いが好きで、店先に座り込んで嗅いでいました。

落語のネタになりそうですが、『地球が温暖化が進むと、世界旅行の費用が高くなる!』のだそうです。〈理由〉と〈結果〉の間が省略されていて、話が飛躍してしまって、脈略がわからないのが、『どうして?』と思ってしまうところに面白みがある様です。「唐突(とうとつ)さ」があるのが、この〈桶屋論法〉なのでしょうか。

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謙虚

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2011年に起こった、東日本大震災、福島原子力発電所の事故の後に、東京工業大学の原子炉工学研究所(現在は、科学技術創成研究院)の松本義久准教授が、その窮状のただ中で、『《お守り》があるんです!』と言われていました。

『今回の一連の流れの中で、2つの放射能があるんです。1つは、《本当にこわい放射能》、もう1つは、《本当は怖くない放射能》です・・・』と話され、『この《本当に怖い放射能》に立ち向かいながら、この事態を収束させようと頑張っていらっしゃる働くレスキュー隊のみなさんには、ほんとうに敬意を表します。』と謝辞を述べておいででした。

この一月以来、新型コロナウイルスによる肺炎の流行が、世界大に広がりを見せる中、人類の存続をも大きく左右する現場で、疫病に冒される危険を顧みずに、一命を賭して働かれていらっしゃるみなさんへの感謝こそ、この未曾有の世界的危機を脱するために、私たちのできることなのかも知れません。

政府や厚生省の対応の混乱、国民の怒りと戸惑い、世界中が声を上げている中、ウイルス汚染の影響を、報道ニュースは伝えていますが、最前線で、治療や貿易に当られているみなさんの健康が守られるようにと願うばかりです。
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人類は多くの危機を超え、6000年の間生き続けてきています。私たち人間の内側には、《天来の祝福》が宿っているのではないでしょうか。松本さんは、日本人の受け継いできたDNA(遺伝子)についても、次の様に語っておいででした。

『・・・恐れるあまりに大事なものを失ってきている・・・これだけは伝えたいと思います。私たちの体は、放射線から守る、すごい《お守り》を持っているんです。それが遺伝子・DNAなんです!』とです。否定的なことにだけ目を向けて、慌てふためいている日本人に、『だいじょうぶ、恐れるな!慌てるな!落ち着け!』と肯定的なとらえ方を訴えておられました。この科学者というよりは哲学者のような勧めに、大きな慰めを受けたのです。

今回もそうです。いたずらに恐れたり、不安になったりしないことです。私たちがいただき、あるいは受け継いできた、《いのち》には、驚くべき力が秘められています。何度も何度も、滅亡の危機を潜り抜けて、この21世紀にも、人類は生きています。人は謙虚になって、生かされていることを事実として捉える必要がありそうです。科学は万能ではなく、内なる《いのち》に望みがあります。

今朝も、『恐れるな!』と言う声を、私は聞くのです。『わざわいは、あなたにふりかからず、疫病も、あなたの天幕に近づかない。』と、私の愛読書にはあります。

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