過去と今そして未来

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 「オレは、(幕府)瓦解(がかい/崩れ落ちること)の際、日本国のことを思って、徳川三百年の歴史も振り返らなかった」と、勝海舟が言い残しいています。この人は、江戸を、長州や薩摩の攻撃の手から守った人でした。幕臣、無役の旗本の子でしたが、仕えた主君のためだけにではなく、国のために生きた人だったのです。

 三百年になんなんとする徳川支配の最後の締めくくりをした人でもある海舟は、〈過去〉にではなく、〈日本の未来〉に目を向けていた人だったのでしょう。過去に執着し、拘る日本人としては、稀有な人物だったことになります。

 黒船の来襲、通商条約締結の迫り、太平天国の乱、阿片戦争、清国の末期的な状況の様子を伝え聞いて、目を諸外国に向け、自国の未来に目を向けなければならない状況下で、国を憂えていたのも海舟でした。若い頃に、蘭学などを学んで、「進取の精神」に富んでいたのでしょう。きっと西欧的な〈ものの考え方〉を身につけていたに違いありません。

 広島と長崎に、原爆が投下された時、私は、中部山岳の山の中にいて、生後七ヶ月でした。小学校で歴史を学んで、と言うよりは、父が、原爆投下の写真集を買って来て、その目を背けたくなる様な惨状を、写真に見て、広島や長崎、さらには東京や大阪を始め多くの街へ投下された焼夷弾爆撃の跡を、息を飲んで見たのです。

 そして、75年たった今夏でも、あの写真の悲惨さは忘れることができないのですから、被曝された当事者のみなさんは、鮮明な体験をお持ちなのだと思います。広島では56万もの人が被爆し、長崎でも20万人もの被爆者がありました。亡くなられた方は、今なお増え続けています。第二次世界戦での日本の戦死者は、310万人だと報告されています。

 二十五年ほど前、中国からの留学生と、住んでいた街で出会いました。国立大学の工学部の大学院で研究をしていた方です。当時、彼女が言った言葉が忘れられないで、今も思い出されます。広島の原爆記念館を見学して帰って来られた頃のこでした。

 『どうして日本は、被害者の記念館を作るだけで、加害者としての記念館を作らないのでしょうか。それは片手落ちではないんでしょうか!』と、厳しい口調でおっしゃっていました。軍靴で踏み荒された故国の歴史を思い返して、正直な応答でした。私は、『そうですね。』と、ただ認めるだけでした。

 この八月がくると、その女子留学生の言葉が、重く思い出されるのです。歴史学習が、日本では足りないのではないでしょうか。歴史の中で起こった真実、事実を学んでないと、事実が曖昧にされて、次の世代に継承されてしまいます。

 東京大学の一年生の庭田杏珠さん(広島女学院出身)が、「AIとカラー化した写真でよみがえる戦前・戦後(光文社新書)」を、東大大学院情報学環教授の渡邉英徳さんと共同で、先月7月30日に刊行されました。

 「記憶の解凍」の活動を通して、「平和教育の教育空間」について研究されています。この本は、戦前戦後に撮られた白黒写真を、カラー化することによって、色彩を持った過去の事実を表現する努力をされています。付け加えているのは、感情ではなく、色彩だけです。写真を眺めていると、過去の現実が、いま蘇っているかの様に感じられるのです。

 過去をありのままに、いえ、より現実化させて、わが生後七ヶ月の時の前後の事実を、思いっきり知らされる様で、素晴らしい写真集です。その中に、戦後の「青空教室」の写真があって、全てのものを失っても、教科書を喰い入る様に見ている向学心の旺盛さに、戦後復興の第一歩が、この小学生たちから始められたのを感じたのです。未来に自分たちの夢や理想や幻を解き放そうとしたのでしょう。

 もちろん過去は忘れてはなりません。ただ感情的に修飾された過去はいけません。事実と真実を学ぶのです。それは、輝ける明日、未来に向かって思いを向けて行くためにです。洗足池の池畔に、海舟の墓があって、友人が案内してくれたことがありました。二十一世紀に繋げてくれた逸材です。
 
(「AIとカラー化した写真でよみがえる戦前・戦後(光文社新書)」)

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