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平塚雷鳥の呼びかけで始まった「青鞜運動」を取り上げて、一年間教えたことがありました。『原始、女性は太陽であった!』と言う標語を掲げて、文書活動を始めたのが、明治44年でした。翌年は、大正元年(明治45年7月30日明治天皇逝去により元号がかわりました)になり、「大正浪漫」の先駆けとなった、女権を主張した女性解放運動でした。
歴史学習のつもりでしたが、女子高の最終学年での担当したゼミの学習主題でしたから、けっこう反響がありました。『女三階に家無し!』とか「三従の教え」とか言われてきた女性が、自分たちの手で握った筆で、主張し始めたわけです。運動自体は、始めた女性陣の恋愛問題などがあって、大きなうねりにはならなかったのですが、5年後には、終わっています。しかし新しい「大正」に、一矢(いっし)を報いることができた様です。
そんな意味で、「大正浪漫」とか「大正デモクラシー」とか言われて、明治でも、昭和でもない時代の存在意義があった様です。普通選挙が行われ、中産階級が起こり始め、明治にはなかった価値観で、教育が行われ始め、文学が著わされ、政治が行われていったのです。
「赤い鳥」に代表される児童文学も盛んになり始め、大衆文化が起こり、新聞も多く発行されていきます。大正5年ごろに、作詞が林古渓、作曲が成田為三で「浜辺の歌」が誕生しています。
あした浜辺を さまよえば
昔のことぞ しのばるる
風の音よ 雲のさまよ
寄する波も 貝の色も
ゆうべ浜辺を もとおれば
昔の人ぞ しのばるる
寄する波よ かえす波よ
月の色も 星のかげも
はやちたちまち 波を吹き
赤裳(あかも)のすそぞ ぬれひじし
病みし我は すべていえて
浜の真砂(まさご) まなごいまは
昭和に入らないとラジオ放送が始まりませんから、明治42年に、蓄音機の製造会社が、日本でも誕生していますので、大正期には、蓄音機が一般化して、庶民が耳を傾けながら、この「浜辺の歌」なども聞いたかも知れません。エジソンが発明した文明機器の普及は、驚くほどの早さがあってなされたことでしょう。
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個人意識が強くなっていった時代でもあった様です。絶対主義、軍国主義が強まる前の段階で、社会主義や非戦論も公にできる自由があったそうです。夢とか理想が掲げられ、文芸が盛んに起こっていきます。
中学の担任が、社会科の教師で、いろいろなことを教えて戴きました。師は、『日本の良い時代は、鎌倉時代と・・・大正時代です!』と教えてくれましたので、素直にそう信じて受け入れ、今なお、そうだと信じ続けているのです。
父は、明治43年(1910年)に生まれ、子ども時代を、「大正期」に送っています。その「浜辺の歌」も聞いたり、歌ったりしたかも知れません。旧制の県立中学と、東京市内の私立中学校で、青年期初期に学びをし、秋田鉱業専門学校で学んで、鉱山技師として生きた人でした。青少年期を、大正に送ったことになります。
隣国の中国で「辛亥革命」が起こり、欧州では、「第一次世界大戦」が勃発し、最初の共産主義国家、ソヴィエト連邦が誕生しています。内には、「関東大震災」や「コレラ流行」などもあって、短くも多難な国家的、国際的状況下の時代でした。でも、昭和や平成や令和の時代になかった、初期的な自由主義のホンノリ、ホンワカとした様な雰囲気がしてくるのですが。今に至る、人気の全国中等学校野球大会(甲子園大会)や箱根駅伝などが始まっています。父や母が生きていたら、『どんな時代だったのですか?」』と聞いてみたかったと、思うのです。子どもなりに、何か感じていたことでしょう。
(雑誌「青鞜」、全国中等学校野球大会の第一回目の始球式です)
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