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ユダヤの古典に、「木には望みがある。たとい切られても、また芽を出し、その若枝は絶えることがない。たとい、その根が地中で老い、その根株が土の中で枯れても、水分に出会うと芽をふき、苗木のように枝を出す。」とあります。
毎朝、カーテンを開ける楽しみは、朝の清新な空気を吸うためだけではありません。家内が植えた鉢から芽を出して成長していく朝顔の様子を眺める《喜び》なのです。最初の開花の朝は、何とも言えない喜びに満たされました。今朝も、ベランダに五輪の開花でした。
子どもたちが生まれた時の喜びは、朝顔の開花とは違い、責任の重さに、《創造的な喜び》といった方がよさそうですが、何とも歯がゆくって、重たい《喜び》でした。まだ母親も父親となった私も、力に溢れた若さの中にありました。父と母から命を受け継ぎ、その命から、新しい世代の命が誕生していったのです。
どう親業をしていくべきなのかの第一点は、この子たちを食べさせていくために働くことでした。蜜蜂が飛び交って、花の蜜を集めて、巣に戻る様にしてでした。見守りもあったでしょうか。健康である様にと親として願いもしました。成長していくにつれて、躾とか教育の責任もありました。社会性も身につけさせていかなければなりません。
やがて子どもたちは独立していき、結婚して、所帯を持っていきます。親業を終えた様でも、別の段階への親子の関係が移っていきます。父がした様に、自分がし、家内も、自分の母親がした様に、自分もしていくのでした。役割分担の連鎖なのでしょうか。
《木に望みがある》とすると、なおさらのこと、人には絶大な《望み》があるのです。その《望み》を継承して、次の世代に繋げていく責任も、親にはあるわけです。もちろん人は複雑です。自らの《命》を、造物主の意思に反して、操作したり、変えたり、終わらせたりしてしまいます。木は死んでも、水分をえるなら、再生していきますが、人の命は、生殖以外の再生はありません。それ以外の化学的な方法は冒涜です。
ベランダの朝顔は、咲き終えると、花の下でタネを育てていきます。忠実な事後責任を果たすのです。次の世代を残すためです。人は命の継承だけではなく、無形な《精神的な継承》もあるのでしょう。私を教えてくださった恩師たちのことを、よく思い出します。彼らにも恩師があって、また後進を育てるのです。また読んだ本の記述も思い起こします。古代の書に、多くのことを教えられてきて、今もなお教えられるのです。
今日も、木にだけではなく、人にも《望み》があると教えられています。でも人の現実は、〈絶望〉や〈失望〉がみられます。彼らが、《望みに溢れて生きる人》と出会うなら、《望み》を再び持つことができるでしょうか。家内は、目の不自由なピアニスト、ショパンやベートウヴェンを奏でる辻井伸行さんのピアノ演奏に、最近、感銘を受けています。
二十ヶ月になろうとしている闘病の中で、家内は、《古の書》を読み、褒め歌を歌い、辻井伸行のショパンを聞いて、《望み》を持ち続けています。また新コロナウイルスの猛威が止みません。いい知れない感染の恐れが蔓延し、地上を不安で満たしています。そん中で、《人には望みがある》と高らかに語りかけてくださっているのです。生きている限り、《人には望みがある》からです。
(〈フリー素材〉の枯木です)
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