囀り

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わが家の東側は、角部屋なので、各部屋に窓があります。太陽が昇ってき、筑波山が遠望できるのです。また、JR両毛線と東武鉄道の日光線と宇都宮線の上下線が通過するのも見えます。雨が降りますと、雨足の強さが分かるのです。

と言うのは、東側は建物の東半分が、予備校の校舎の3階になっていて、3階の屋根の部分が、窓の外に見えるのです。授業の様子は聞こえませんが、駐輪場に学生さんたちが自転車を止める音だけはしてきます。

先日、娘からの便りで、コロナ騒動の影響で、外出が規制されたことで、ロサンゼルスの空が青くなってきたのと、鳥のさえずりが聞こえる様になったと言ってきました。悪いことばかりではなく、汚染されたり、除け者にされてきた自然や生き物が、本来の姿を取り戻してきているのだそうです。

どれだけ人間のしてきた〈悪さ〉が、自然を破壊し、汚し、自然界の本来の住人たちを苦しめてきていたかが、改めてはっきりとされてきたことになります。得たものは多くても、失ったものの多さに、現代人は、気付かされ、そしてツケを支払わされているのかも知れません。

さて、東側の窓で、頭が黒く、お腹が白い小鳥、多分シジュウカラでしょうか、優しい鳴き声を上げていたのです。先日は、南側のベランダの手すりに止まってもいたのですが。耳にするこちら側にも、ゆとりの気持ちが湧き上がってきたので、聞こえたのかも知れません。

何か《自然回帰》の現象が、あちらこちらで見られる様です。鳥の鳴き声の「さえずり」ですが、「囀り」と、漢字で書くのです。遠い東京の空が何か、澄んでいる様に感じてなりません。

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太宰治と父

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栃木の人は「男体山」、盛岡の人は「岩手山」、弘前の人は「岩木山」、熊本の人は「阿蘇山」、人はふるさとの山に、強い愛着を持っている様です。アメリカの西海岸のオレゴン州のポートランドにも、“ Mount Hood ” という山があって、この地に移民した日本人は、母国の富士山に似た、この山の形状に、心惹かれるものがあったそうです。

山梨県下の御坂峠に、「天下茶屋」という蕎麦屋、甲州名物の「ほうとう」食べさせてくれる店があります。今では、御坂の新道ができましたので、旧道にあるのですが、以前は、泊まることができたそうで、太宰治は、ここに逗留したことから、昭和13年の出来事を、「富嶽百景」に著しています。その作中に、次の様にあります。

「・・・ 私は、部屋の硝子戸越しに、富士を見てゐた。富士は、のつそり黙つて立つてゐた。偉いなあ、と思つた。
『いいねえ。富士は、やつぱり、いいとこあるねえ。よくやつてるなあ。』富士には、かなはないと思つた。念々と動く自分の愛憎が恥づかしく、富士は、やつぱり偉い、と思つた。よくやつてる、と思つた・・・ ねるまへに、部屋のカーテンをそつとあけて硝子窓越しに富士を見る。月の在る夜は富士が青白く、水の精みたいな姿で立つてゐる。私は溜息をつく。ああ、富士が見える。星が大きい・・・のつそり突つ立つてゐる富士山、そのときの富士はまるで、どてら姿に、ふところ手して傲然(がうぜん)とかまへてゐる大親分のやうにさへ見えたのである・・・あしたは、お天気だな、とそれだけが、幽(かす)かに生きてゐる喜びで、さうしてまた、そつとカーテンをしめて、そのまま寝るのであるが、あした、天気だからとて、別段この身には、なんといふこともないのに、と思へば、をかしく、ひとりで蒲団の中で苦笑するのだ・・・」
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太宰は、生まれ育った津軽の山と、この富士とを見比べたのかも知れません。
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「・・・老婆も何かしら、私に安心してゐたところがあつたのだらう、ぼんやりひとこと、『おや、月見草。』さう言つて、細い指でもつて、路傍の一箇所をゆびさした。
さつと、バスは過ぎてゆき、私の目には、いま、ちらとひとめ見た黄金色の月見草の花ひとつ、花弁もあざやかに消えず残つた。三七七八米の富士の山と、立派に相対峙し、みぢんもゆるがず、なんと言ふのか、金剛力草とでも言ひたいくらゐ、けなげにすつくと立つてゐたあの月見草は、よかつた。富士には、月見草がよく似合ふ・・・」

何よりも、「富士には月見草がよく似合う」という箇所が有名なのです。こんな文才がありながら、度重なる自殺や心中の未遂を繰り返す太宰の精神性の弱さに、驚いた日が、私の青年期にありました。上智大学で、教鞭を取られた福島章氏の『愛と性と死―精神分析的作家論』(小学館、1980年)を、暗い気持ちで読んで、納得をしたのです。

私の太宰は、彼が父と同世代だったこともあって、一入気になった作家だったのです。同じ時代の風を身に受けながら、父は、自分の人生を受け止めて、人としての義務を全うして生きました。

( “ Mount Hood ” と「天下茶屋」です)

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夕陽

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この写真は、ブエノスアイレスの「オベリスク(仏: obélisque、英: obelisk)」です。この街で、研修会があって、訪ねたことがありました。イタリヤ移民の多い街で、ヨーロッパに行ったことになかった私に、ヨーロッパを感じさせてくれたのを、昨日の様に思い出します。

それでも、陽が沈んだ街の中は、薄暗かったのが意外でした。また男性もお洒落で、きちんとスーツを着ている人が多かったのですが、形が崩れたり、古そうでした。豊かな煌びやかさ、輝きがなく、くすんだ様な雰囲気が満ちていました。最悪なのは、その暗がりで、娼婦に袖を引かれたことです。そんな願いなどなかったので、物凄くガッカリしたのです。豊かな日本人に見えたのかも知れません。

17の時に、南十字星に憧れた私は、アルゼンチン協会から、パンフレットを送ってもらい、貪る様に見入ったのです。そして、スペイン語の勉強を始めてみました。それからの半世紀ほどの後に、ブエノスアイレスとサンパウロを訪ねたわけです。ブエノスアイレスから、パンパと呼ばれる大草原、大穀倉地帯、牧羊の草原を、バスである街を訪ねたました。日本に強い関心を街ぐるみで持っていて、それで表敬訪問をしたのです。

行けども行ども草原が連なっていて、決して日本では見られない光景でした。滞在中に、草原の牧場で、“アサド(バーベキュー)” をして頂いて、牛を半身にして、薪火で照り焼きをしてくれました。ふんだんに食べれると思っていたら、皿に盛ってくれたのはほんのわずかだったので、またガッカリでした。

ヨーロッパ航路の離発着の船の波止場にも連れて行ってもらいました。“ラ・ボカ “ は、横浜や神戸などとは違って、実に裏寂れた港街だったのです。望郷の思いが積み上げられているのが感じられ、遠くからやって来て、帰ることのできない多くの人が、海の彼方のヨーロッパの祖国を思う思いが溢れていました。

そんな港街に、あの情熱に溢れた、“ アルゼンチン・タンゴ ” が生まれたのだそうです。18で、アルゼンチンに渡っていたら、自分の人生は、どんな風な展開があったのかと思ってみましたが、望郷の念に駆られながら、大草原に沈んでいく夕陽を眺めててばかりなんだったかも知れません。沖縄からの移民が多いそうで、クリーニング屋や花屋をしながら生計を立て、子弟を教育させて、この国に社会で勤勉に働いているみなさんが、食事に招いてくれました。
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移民の国、移民の街、そんなことを感じましたが、『ずいぶん遠くに来たもんだ!』と思ったのですが、サンパウロのリベルダーテの地下鉄の駅前で、日本人の一世のみなさんが、何を語るでもなく群れ集まって、深い皺を額に刻んで、寡黙だったのが印象的でした。

(下の写真は、最近のサンパウロの日本人街です)

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舟運

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住み始めて半年の巴波川河畔の家は、6階建てのアパートの4階で、西に上杉謙信ゆかりの大平山が見えます。山肌の緑が、日に日に色濃くなって行くのが感じられます。耳をすますと、巴波の瀬音が聞こえてくるのです。この川を眺めていると、この街が、舟運の街であって、かつては船頭たちの声が響いていたことでしょう。街の観光案内に次の様にあります。

『栃木の街は、巴波川の舟運で開けたと言われます。河岸の起源は元和年間 (1615~1623)、この頃から日光社参の御用荷物を輸送したといわれ、江戸からの上り荷物は、日光御用荷物をはじめ、塩・鮮魚類・ろう・油・黒砂糖・干しいわしなどが、江戸川~利根川~思川を経て、栃木の河岸に陸揚げされ、栃木からの下り荷物は、木材・薪炭・米・麦・麻・木綿・野菜・たばこ・猪鹿の皮・石灰・瓦などでした。

 舟は都賀船(米50俵積み)で部屋(藤岡町)まで下り、そこで高瀬船(米200~300俵積み)に積みかえ江戸に向かいました。江戸までの船路は約43里(172㎞)あり、急ぎで3日ほど、普通は7日かかったそうです。帰りは帆を使ったり、かこ水主 2~3人で舟につけた綱を、川岸に設けた「綱手道」から引き上げたりしました。

 舟運で街の回船問屋は栄え、明治末期から大正期にかけて、立派な土蔵や黒塀などが建てられました。
その名残をとどめる蔵が、川面に映える巴波川は、綱手道が格好の散策路となっており、ここからの素晴らしい景観は、「蔵の街栃木」の観光スポットになっています。』

栃木河岸より都賀舟で
流れにまかせ部屋まで下りゃ
船頭泣かせの傘かけ場
はーあーよいさーこらしょ

向こうに見えるは春日の森よ
宮で咲く花栃木で散れよ
散れて流れる巴波川
はーあーよいさーこらしょ

これは「栃木河岸船頭唄」です。昔は、舟の船頭さんを、「水主(かこ)」と呼んだそうで、きっと哀調のあふれた水主唄を歌いながら、眼下の流れを上り下りしたのでしょう。目をつぶると、瀬音に乗って舟唄が聞こえてきそうです。まさか、流れの辺りに、こんな鉄筋造の大きな建物が建つなどとは、水主さんたちの思いもよらなかったことでしょう。
 
少し流れを降ったところに、「部屋」と言う地名があります。そこで、大型の「高瀬船」に、四、五槽の都賀舟の荷を載せ替えて、下って江戸まで行ったのです。山梨と静岡の両県を流れる富士川も、同じ様に舟運が盛んだったそうです。流れがけっこう急な川なのに、塩や干し魚などを積んで、流れに逆らって、荷を上げると言うのは、大変な仕事だったそうです。

先日は、水戸名物の「梅あんこ」を頂きました。以前、しばらくの間、行き来していた方で、宇都宮に越して来られて、お便りをいただいたりして、去年の水害の時にも、引越しの折にも助けてくださったのです。お嬢さんがお二人いて、コロナ禍を、下のお嬢様と、私たちを心配して、お嬢さんの運転の車で訪ねてくださったのです。

(これが「高瀬舟」です)

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不変の愛

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古の書に、次の様にあります。

“わが子よ。あなたの父の命令を守れ。あなたの母の教えを捨てるな。”

“あなたの父と母を喜ばせ、あなたを産んだ母を楽しませよ“

“しかし、あなたは私を母の胎から取り出した方。母の乳房に拠り頼ませた方。
生まれる前から、私はあなたに、ゆだねられました。母の胎内にいた時から、あなたは私の◯です。”

古今東西、すべてのお母さんに、『ありがとう!』、私たちは、お母さんの献身的な愛で、今日の私になりました。戦時下でも平和裡でも、嵐でも晴れてても、貧しくても富んでいても、病んでいても元気でも、あなたの愛は《不変の愛》でした。

(次男が送ってくれたカーネションなどの鉢植えです)

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隣人

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私の愛読書に、『あなたの隣人をあなた自身の様に愛せよ!』とあります。この写真は、コロナ禍で、必要のある人のために、ご自分の家の前の空きスペースに、台を置き、食べ物をおいて、自由に持っていける様に、愛の配慮が示されています。不特定多数の人に、そう言った愛への招きをしているのです。他者の困窮を看過ごすことができない人が示している「隣人愛」です。

持つ人、健康な人、恵まれている人が、今、さまざまに困難に見舞われている他者を、今持っている物で、ほんの少しの愛を示すことによって、困難な事態が快復するからです。快復されたら、次に困難に直面している人を助けて、愛が連鎖して行くのです。

マズローという人は、人間には、感情的な必要があると言いました。学問的には、「所属と愛の欲求」と言うそうです。つまり、「愛する欲求」と「愛される欲求」が、人にはあって、それが満たされる必要があります。今の小さく、わずかな愛が、人の不足を補うなら、何時か愛に欠乏した時に、愛や善意を得ることができるのです。

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皿洗い

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イスラエルの古書に、次の様にあります。

“あなたが畑で穀物の刈り入れをして、束の一つを畑に置き忘れたときは、それを取りに戻ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。あなたの神、主が、あなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。
あなたがオリーブの実を打ち落とすときは、後になってまた枝を打ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。
ぶどう畑のぶどうを収穫するときは、後になってまたそれを摘み取ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。”

小麦、オリーブ、ぶどうを刈り入れする時に、畑の所有者は、困窮する人たちがいること、その人たちが生きる権利があること、彼らと共生することが求められています。それで収穫時に、畑の作物を全部刈り取りません。外国人や、みなしご、やもめが、自由に刈り取れる様に、畑に残すのです。私は、この掟を知った時に、聖なる衝撃を覚えました。

天津で1年、華南の街で12年間、私たちは生活をいたしました。華南の街に住み始めて一週間ほどの頃に、一人のご婦人が、私たちの住んでいた師範大学の学生寮に訪ねて来られたのです。広島県下の大学院で、法学を学ばれて帰国して、その街の法学部の教師をされていました。この方が帰国されて間もなくの頃でした。

滞華の間、私たちを何くれとなくお世話くださった方でした。この方は留学中、「米山奨学金」を受けながら、経済的な助けを受けて、学べたことを、とても感謝をされておいででした。その助けで学んで、博士号を取得されて帰国していたのです。


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この方が受けた「米山奨学金」と言うのは、「米山梅吉(静岡県駿東郡長泉町出身)」を記念した財団が行っている事業の一つで、これまで多くの外国人が、奨学金を受給されてきています。『今後、日本の生きる道は平和しかない。それをアジアに、そして世界に理解してもらうためには、一人でも多くの留学生を迎え入れ、平和を求める日本人と出会い、信頼関係を築くこと。それこそが・・・最もふさわしい国際奉仕事業ではないか。』と言う理念で、日本で “ロータリークラブ“ を始めた米山梅吉を記念した基金会なのです。

この米山梅吉は、三井銀行や三井信託銀行で働き、重責を果たしたそうです。ガンやハンセン氏病や結核を病む人たちへの助成を行った方でした。この方ご自身が、アメリカに留学をして、皿洗いをしながら苦学したこともあって、向学心を持ちながらも経済的に恵まれないアジアの若者への愛が、この奨学金金制度を生んでいます。

私たちは、人生後期でしたが、中国に留学し、語学学校と師範大学で学び、教壇にも立たせていただき、市井の倶楽部の活動にも加わらせていただきました。その間、物心両面で、中国のみなさんに支えられて、彼の地で生活をさせていただいたのです。帰国して一年半になりますが、家内の見舞いで、おいでくださったり、昨今では、マスクの寄贈などもあって、いまだに助けられており、感謝でいっぱいです。

(三島市と裾野市との間に位置する「長泉町(ながいずみ)」の風景,「写真AC」の皿洗いです)

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生きて今

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明治末期に流行した「ハイカラ節(ハイカラソング)」がありました。神長瞭月が歌ったものです。

ゴールドメガネのハイカラは
都の西の目白台
女子大学の女学生
片手にバイロン、ゲーテの詩
口には唱える自然主義
早稲田の稲穂がサーラサラ
魔風恋風サーラサラと

天女の如くささやくは
青葉隠れの上野山
音楽学校の女学生
片手に下げたるバイオリン
奏る曲は春の夢
離れ小島か須磨の曲
五尺男子(おのこ)の袖絞る

星かとまどうリットルレディー
我が日本に隠れなき
学習院のスクールガール
指にはダイヤ照り添えて
歩む姿は谷の百合
髪には気高き花の精
秋のすすきの
雨の眉毛の愛らしさ
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独り野に咲く白菊か
都離し渋谷村
青山学院のスチューデント
歌う讃美歌声清く
花のかんばせ月の眉
軽き口元誰ために
清きけはいのなつかしや

歩みゆかしく行き交うは
やさしき君を恋し川
跡見女学校のスクールガール
背に垂れる黒髪に
挿したるリボンがヒーラヒラ
紫袴がサーラサラ
春の胡蝶のたわむれか

カラカラカラと出てくるは
ニキビ盛りの女学生ヒーラヒラ
ホワイト肩掛けに長袋
辞世遅れし束髪で
金魚のようにチョロチョロと
大きなお尻を振り回し
あれでラブあるかと思えば
あらおかし(以下省略)

この歌の「ハイカラ」とは、明治期の流行語で、国会などで演説をする代議士や弁士が、身につけているシャツの襟が「ハイカラー/Hight Collar」だったので、西洋風をまねたり、流行を追ったり、新しがったりする人を、〈ハイカラさん〉と呼ぶ様になったそうです。

家内は、高校を卒業したら、この歌で歌われている〈渋谷村の青山女学校(青山学院大学)〉に進学したかったのだそうですが、それが家庭事情で叶わず、1年間働いて、東京都の奨学金を受けて、別の学校で学んだのです。結婚だって、家内には夢があったのですが、結局は〈私〉になってしまったのです。

子育てが終わった頃に、娘時代の夢を果たすべく、渋谷村の学校に入学を、私は家内に勧めたのですが、笑うだけで、真面目に受け止めてくれませんでした。非常事態宣言の渦中、夢や計画が停滞したり、失われたり、思い通りにならないのですが、とくに若いみなさんは、大変な時期でしょう。人生って悲喜交交(こもごも)、様々に人は、天からの配剤を選んで生きて今があるわけです。

夢は夢で終わっても、理想や幻はそれで終わっても、強く柔軟な心が培われる時としていただきたいなって、思うこの頃です。

(大正時代の渋谷・東横線の駅です)

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馬耳東風

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切迫状況下で、人心が乱れ、荒れ、定まらなくなっているのでしょうか。と言うのは、先週、カインズホームに買い物に行った時に、今まで経験しなかったことがあって、驚いたり、呆れたりしてしまったからです。

街中の創業店が、昨年の台風で洪水になって閉店に追い込まれ、ちょっと遠い町外れにある、その支店も、洪水で壊滅的な被害を受けながらも、しばらく閉店のままでしたが、新装なって営業してるので、いい気持ちで自転車で出掛けたわけです。

カインズの隣に、JAしもつけの加盟店が、野菜や果物などを売っているコーナーがあって、時々、そこで買うのです。店に入ったら、『ジジイ、5メートル離れろ、近づくんじゃあねえ!分かんねえのか、クソジジイ!!』とまくし立てながら、すれ違って行きました。ヤクザ風のおじさんかと思いきや、五十代半ばの、多分女性だと思うのですが、ここはスコットランドではないので、スカート姿の女性だったのです。

そう言われてみて、〈ジジイ〉なのは確かですが、誰か他のジジイに言ってるのかと思ったら、後ろには誰もいないので、自分に言ってたのです。うるさいなと思いながら、トマトときゅうり、そしてつきたてのお餅を買ったのです。それで、何かめぼしい物がないか見てたら、店員さんが二人、『ごめんなさいね!ひどいこと言われて。あの人いつも、あんななんですよ!本当にごめんなさい!』と言って、代わって謝られたのです。よっぽど、私が腹を立ててるかと気にして慰めてくれたのです。

ところが、泰然自若、腹を立てないし、言い返さないでいる私を見て、『なんて、心の広い人でしょう!』と感心されてしまったのです。他の人に言ってると思って、後ろを向こうとしたのですが、〈心が広い〉なんて初めて言われて、悪い気持ちはしないものですね。栃木市民が嫌いになろうとしていた私を、栃木人贔屓に快復してくれて、嬉しくなったのです。

若い頃に、妬まれて女性に悪態をつかれたことが一度ありました。穏やかなお袋とか家内と違う女性がいるのを発見したのです。〈春風駘蕩〉の心地よい春が来て、コロナ禍で心を乱した方の悪態も気にならない、〈馬耳東風〉の五月の私です。

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今日日

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「目に見えないもの」があるんだと、今回の新型コロナ・ヴィールスが教えてくれました。感染したことによって、肺炎を惹き起こして、その存在が、人によって証明されたことになります。

人の一生が七十年、八十年と知りながら、けっこう鼻っ柱強く生きてきた私でも、いつの間にか、自分が優れていると驕り高ぶってしまっているのを感じています。それなのに目に見えないものに、この数ヶ月、多くの人がなぎ倒されていくのは、どうしたことなのでしょうか。何層にも盛られた不落の堤防や城壁が、アリの一穴で、脆くも崩れ落ちてしまうのと、何か似ています。

五十年、百年に一度くらいの間隔で、言い知れない恐怖に人類は脅かされてきています。葦の様に、か弱い人の存在が露呈されたのでしょうか。大水に、大地震、飢饉に、そして疫病に襲われて、風前の灯の様に見えます。でも、天来の英知は、いつも、それに果敢に挑んで、回避や解決を見て今日があります。

思うに、敗戦後の物のない時代に、父や母は飢えさせないで、私たち4人の子を、育て上げてくれたことを感謝する日々です。よく母が作ったのが、「すいとん(水団)」でした。私が世帯を持ってから、養育を委任された4人の子どもたちに、食べさせるものがなかった食卓の日は一日もありませんでした。今、子どもたちに聞きますと、『うちって、しょっちゅう小麦の団子の入った《すいとん(水団)》だったよね!』と言われます。そのせいでしょうか、脚気にならないで、4人とも標準以上の体格に育ったのだと思われます。

コロナ禍で、緊急事態宣言の発令の前に、行先の少なくなった長男家族が、わが家を訪ねる計画を立てていました。〈すき焼き〉でもと考えていた時、長男から電話があったのです。飽食の時代、懐かしく昔日を思い出したのでしょう、『行く時、〈すいとん〉にしてくれる!』と言ってきたのです。ところが、緊急事態宣言で来られなくなってしまったわけです。

物不足を恐れて、買い物に走る人が出てて、日本だけではなく世界中で、店の棚から物がなくなってしまいました。その情報に動かされなく悠長にしていたら、知人がティッシュボックスやトイレットペーパーを届けてくれましたので、とても助かりました。それで何不自由なく生活ができています。昨日、ドラッグストアーに行ったら、もうトイレットペーパーは満杯に置かれて、元の様でした。あの買い込んだペーパーは、どうなってるか、余所ごとながら心配になってしまいました。

当座の物で足りています。毎朝、『恐れるな!』と言う声を聞いています。世界中で一生懸命に、収束に向けて、専門家のみなさんが励んでおいでです。好い終息の明日が来るためにです。もう大自然の前に降伏して、自然破壊から《自然養護》に、人は向きを帰る時がきているのではないかと思うこの頃です。

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