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子どもの頃、近所に、お父さんが電力会社に勤めているご家族がいました。弟と同級の男の子と、その弟がいて、けっこう親しい近所付き合いがあったご家族だったのです。弟の友だちなのに、私も出入りした家でした。ご夫婦は関西の出身で、物言いの穏やかな方たちで、みなさん病気がちでしたので、静かで穏やかな生活をされていました。それにひきかえ、道路を挟んだ反対側のわが家は、父を加えて男五人は、賑やかで極め付けに対照的でした。
このご家族は病弱だったからでしょうか、何か信仰をなさっていて、結構熱心だった様です。わが家は、母がクリスチャンで穏やかだったのですが、父と4人の男がいて、みな自己主張が強かったので、日常的に父子喧嘩や兄弟喧嘩が繰り広げられて、近所を考えながら静かに喧嘩をすればいいのでしょうけど、みんな熱かったので、激しいやり取りの日々の連続でした。
きっと養女の身の上で、実の父母も兄弟姉妹もなく育った母は、喧嘩騒動の絶えない家庭の粗暴さの中で、私たち4人の兄弟の絆の強さ、関係さの緊密さ、手加減を見て、子どもの時期に喧嘩相手もなく寂しく育ったので、羨ましくも思っていて、けっこう4人の火花を散らす如き喧嘩や叫び声や怒声を楽しんでいたのかも知れません。オロオロしたり、止めに入る様なことはしませんでした。私たちのゲームを楽しんでいた様な母だったかも知れません。
ですからその街では、けっこう有名な家庭だったのです。家内は、その街の市役所に勤めていました。その上司が、私と結婚しようとしていた部下の家内に、『あの家族の兄弟の一人と結婚して、ほんとうに大丈夫なの?』と、大真面目に心配したのだそうです。ですから、そんな4人の将来を、その街の人たちは危ぶんで観察していたことでしょう。でも感情的に充分に発散していましたから、引き籠る様なこともなく、学校は面白いし、近所の子どもたちは遊び仲間でしたし、荒々しい家庭であった割には、父は、不義や不正や偽善を嫌い、しっかり拳骨で躾け、『金は残さないが、教育だけは受けさせてやる。あとは自分で生きてけ!』と、教育を受けさせてくれました。
街のみなさんの心配をよそに、兄が都立高や大学に進んで、運動部で活躍したり、次の兄は高校球児でしたし、弟も体育や山登りの好きな元気な男の子でした。自分だけが私立の中学に入れてもらい、我儘に生きていたのです。それぞれ友だちが多くいて、やがて社会的にも、きちんと生きていく様になり、兄は大手の会社に、次兄は大学を出て外資系のホテルに、弟は母校の教師に、自分も教師になったりでした。
子どもの頃を知るみなさんは、狐につままれた様に、私たち4人の生長の結果を見ておられました。その心配が裏切られた様に感じられたのでしょう。母の信仰を受け継いだ兄は、その街にあったアメリカ人宣教師が始められた教会の牧師になってしまい、私も兄と同じ道を歩んだのです。
「ふたりは、『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます』と言った。 (使徒行伝16章31節)」
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その信仰の原点は、カナダ人宣教師を通して、十四歳で信仰を持ち、八十年もの間、信仰を持ち続けた母の信仰を受け継いでいることでしょうか。日曜日になると母は、まだ子どもの兄たちと弟と私を、あのカルガモの親子の様に、電車に乗せて教会に連れて行ってくれました。それが母が願った、子への最善だったからです。信仰の種蒔きだったのです。
そんな4人は、ある時点で、みな信仰を告白し、バプテスマを受け、家庭を持って行きました。あの近所のおばさんを訪問した時に、こんなことを私に言いました。『万ちゃんは、国体のラグビーの試合で、瀕死の大怪我をした経験から、クリスチャンになり、牧師になったのは分かるけど、準ちゃんは、そういった経験もないのに、どうして教会に行く様になり、牧師になんかなったの?』と不思議がって聞かれたことがありました。
人には、だいたい入信の動機というのがあって、大問題、たとえば大怪我、大病、不幸、破産、家庭破壊、失恋などの辛い経験を経て、信仰を持つことが多いのだそうです。そのおばさんも、病弱の中で、関西圏で有名な宗教団体の会員になられた方だと、母に語っていました。〈健常者には信仰は不要〉という論理です。『将来を約束されているのに、牧師までならなくてもいいのに!』という考えでした。
私たち兄弟は、母の祈りによって育てられたというべきでしょう。ところが表向きは真面目に見せていましたが、内実は罪だらけで真っ黒な私でした。あのおばさんは、心の中は見てはいなかったからです。そんな私が、学校出たてで、福岡県の教員研修会の開催で、水都柳川に出張したのです。当時、その近くの街に住んで、宣教師の帰国中の教会の世話を頼まれていた兄を、早めに出掛けて訪ねたのです。
将来の役職を約束されていた兄が、期することがあってでしょう、その会社を辞めたのです。最初の子に期待し、望みをかけていた父の落胆は大きかったのです。そして献身し、わずかな若者たちのお世話を、九州の街でし始めたのに驚いたのです。蹴飛ばされ、殴られた私は、兄の激変振りを見届けたくての訪問でした。学生時代には花形運動選手で、オフシーズンには、酒に酔い、麻雀の虜になっていた兄だったからです。一晩、兄を連れ出して、その筑後の裏街の寿司屋に一緒に入りました。出張手当てで懐の温かい私が兄を、初めて奢ったのです。美味しかったのか、久し振りの高級寿司だったからか、兄が鼻血を出すほど満足した様子でした。
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泊めてもらったのが教会の建物の離れで、『タバコ吸っていい?』と聞いたのです。『ここは・・・』と兄が言ったので、親に隠れて子どもの頃から吸い始めていた一服をやめただけではなく、出張先の料亭接待で出た酒は、美味しく呑んだのですが、タバコだけは吸わなかったのです。それで、出張を終えて、東京に戻ったわけです。
実は、その兄家族の訪問が、まだ二十代前半なのに、いろいろなことがあって、一端の男をしていた私の人生を大きく方向転換させ、曲げたのです。『何が、あの兄を変えてしまったのか?』が、その訪問で分かったからです。次の年、ある学校から招聘されて、教員になるために、その職場を辞めました。その教員生活の途中で、殊勝にも私は教会生活を始めたのです。兄が東京に戻って、宣教師から教会の責任を受け継いだので、その応援のつもりでもありました。
義理で日曜礼拝に出て、やがて水曜日の聖書研究会にも、ついには、自分の意思で祈祷会にも出る様になっていました。祈っていた時に、なぜかひとりの女子大生が私を、車で訪ねて来て、遊びに誘ったのです。それを断ったことがありました。断ることなどなく生きてきた自分にしては、自分でも呆れる様な出来事でした。
「私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。(ローマ人への手紙7章19~20節)」
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『すまい!』と言って心に誓っのですが、大人の遊びに引き摺り込まれて、やめられないでいたのです。奈落の底に落ちる様な中から出る力がなく、ズルズルしていたのに、いわゆる断捨離ができる様になったのは、兄の劇的な変化の目撃でした。その頃から驚くべき力、恵み、憐れみが自分の人生にも、強く作用し始めたわけです。強烈な誘いを断わることのできる意思と力を与えられたに違いありません。それでトゲを抜かれて縮こまってしまった自分に、自分自身で驚いてしまっていました。それが次の一歩だったのです。
異国のエジプトに、兄たちに売られたヨセフが、王の高官の夫人から誘惑された時に、掴まれた袖を残して、走り逃げた様に、誘いの時と場所から逃れる力って、何だったのだろうと思い返すと、その力の根源が分かったのです。
教会生活を始めた頃に、ちょっと斜視で口髭を生やした、元ボクサーのアラブ人とギリシャ人の血を引くアメリカ人説教者が、来日して、兄の牧会し始めたばかりの教会にやって来たのです。アフリカに宣教に遣わされている教え子を訪問する途上のことでした。聖書の聖句をそのまま歌う “ chorus ” と言う賛美の歌を、力強く歌っては、聖書を理知的に説き明かす方でした。
その特別な夕べの集いに、私も参加する様に招かれたのです。ところが強烈な力で、『行くな、出るな、よせ!いつもの様に下宿先に帰ったほうがいい、!』と、集会出席を阻む力が強烈に働いていました。何かが起こってしまうことを阻止しようとしてです。それでも、兄の教会で夕食を食べ、兄の住んでいた家に住み始めていて、都内に通勤していた私は、外食すればいいのに、次の晩も仕事帰りに、駅近の教会によって、食事をしてしまったわけです。
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その食卓に、その元ボクサーが着いていて、青い目で私をチラチラと見ていました。まさに穏やかな視線だったのです。最初の晩には何も起こりませんでした。そうして次の晩も同じ様にして、教会の席の後ろの方に座って、この人の歌う賛美を聞き、説教を聞いていたのです。話が終わりかけた頃、『祈りますから前においでください!』と、彼が招きました。
それを聞いた時に、『出るな、絶対出るな!』と、また強烈な内なる迫りが再びあって、自分の椅子にしがみつく様にして踏みとどまっていました。ところが私の席に来た兄に促されて、前に出てしまったのです。そんな私に、五十ほどの年齢のニューヨークの神学校の教授が、頭の上に手を置いたのです。そして、この方が異言で祈り始めたではありませんか。
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この異言ですが、それを聞いていますと、通常の感情表現には思えず、知的な私には異常にしか思えませんでした。その言葉を、それまで母が導かれ、熱心に礼拝や聖書研究を守る教会で、ある時期から、時々、母に誘われて出席する集会で聞き始めたのです。とても嫌悪感を感じていたものでした。ところが、そんな私が、その異言を語り始めてしまったわけです。
「私は、あなたがたのだれよりも多くの異言を話すことを神に感謝していますが、(1コリント14章18節)」
それは望外のことでした。突然、泉が湧き出す様に流暢に異言を語ってしまいました。私は冷静だったのです。異言を体験したことのない人たちが言われる、〈我を忘れた恍惚状態〉などではなかったと思います。神の存在は信じられたのですが、イエス・キリストの十字架が分からなかったのが、突然、『俺のためだった!』と分かったのです。同時に、私は激しく泣きました。悔恨の涙だったのです。それで赦された実感が心を満たしたからです。「義認」や「選び」を明らかにしたパウロは、「異言」を語ることの祝福を知っていて、賜物としての聖霊が語らせてくださる「異言」を語ることを恥じないばかりか、公言しています。
17で信仰告白をしてバックスライドし、22でバプテスマを受けてバックスライドし、そして25で、その異言を語って、聖霊に満たされたのです。自分が何者かが分かり、罪が分かり、激しく泣いたのです。その体験によって、力と自由を、私は得たのです。それ以来、半世紀の年月が過ぎますが、強い誘惑は私を強烈に誘うのですが、それを拒む力が、その聖霊体験によって与えられたに違いありません。そればかりではありません、《献身の願い》が、同時に起こったのです。
当時、私が働いていた女子高は、大正期に開学された伝統校でしたが、教師たちは驚くほどに低劣でした。三十代の音楽教師が、『廣田くん、ちっちゃな恋人(〈可愛い娘〉と言ってました)を持ってもいいんだよ!』とか、アメリカに旅行した一人の化学教師が、〈ポルノ写真〉を持ち帰って来て、『見ませんか!』と言うのです。また、生徒の帰った後の視聴覚教室で、あの類いの8mmフィルムを上映をすると言うのです。『みんなと一緒に準先生もどうですか?』と誘うではありませんか。
かつて、そんな世界を彷徨っていた自分でしたが、教職者には無縁の世界のことだと思っていたのとは違う、あの女子校の教員たちの現実は、確かに職業とは無関係なことであっても、教育に命をかけようとしていた私とは別世界のことでした。生徒を教える教室で、あんなものを見ようとする彼らに驚き、怪しんだのです。二度と再び、吐き出した汚物の中に戻りたくなかった私でした。そんな魔界の誘いを唾棄する様に断りました。
私は、それまで素晴らしい教師に恵まれて教えられ、矯正されたので、教育者となる機会が与えられて、この道で生きていく決心をしていたのです。そして将来は、その学校の系列の短大で教え、ある大学で講座を持てる様に道筋が、恩師によって、その青写真ができ上がっていました。しかし、私の願いではなく、神は、私を伝道者の道に導かれたのです。聖霊に満たされる以前に、伝道の道に生きる願いなど微塵もありませんでした。ところが、聖霊のバプテスマを受けた瞬間に、教会の主は、私の思いに中に、福音に仕え、教会に仕える様に導き、強い願いを起こされたのです。
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翌年の夏休みに、結婚したての家内と、同世代のご夫婦と、当時、九州熊本の地で、友人の宣教師がアメリカに帰国中の教会のお世話のためにおられたA宣教師を訪ねたのです。その滞在の期間中に、青年キャンプが行われ、前もって、そのキャンプで、若いみなさんにお話をするように頼まれていました。それで、「箴言」をテキストに説教を準備して出掛けたのです。私の最初の説教は、熊本でなされたのです。それを終えて帰京しまして、しばらくして、その宣教師も東京に帰って来られたのです。
この方が、東京を離れて別の街で開拓伝道をすると言うのです。伝道者の訓練を受けながら伝道の助手をしながら、彼から学ぶ様に、献身を挑戦されました。その頃、共に伝道者として仕え、助け手となれる一人の姉妹と、すでに結婚していました。翌年には子供が生まれる予定でした。また責任上、もうしばらくその学校で働くことにしたのです。家内と共に、主と教会に仕えるため、私は、その招きの応じて、躊躇なくその学校を、その年度で依頼退職しました。ある方が、転職していく私に、『教会の伝道者になるって、そんなに儲かるんですか?』と聞いてきました。儲かりませんでしたが、人に物を乞うことなどせずに今日を迎えています。真の自由人となった実感を得たのです。
ある時、銀座にある教文館の社主を訪ねたのです。この方は父の友人でした。戦後、アメリカから宣教団が来日されたおり、しばらく通訳をされて、日本中の諸教会で奉仕された方でした。私が宣教師と一緒にいて、個人的な訓練を受けていること知って、『宣教師と一緒にいたってだめだよ。僕の神学校で学びなさい。奥さんは、系列の保育園で教えたらいい!』と誘ってくれたのです。つまり東京神学大学に推薦すると言ってくれたのです。私はパウロがテモテを育てた様な、初代教会方式に導かれていたので、その推薦をお断りして、家族と宣教師の元に帰ったのです。
これが私の暗闇の世界からの《exodus/エクソダス(出国とか脱出)》でした。あの学校の現実がなければ、また、あの兄の強引な働きかけがなかったら、その決心は鈍っていたに違いありません。それもこれも、憐れみと恵みに満ちた神の接近だったの違いありません。そんな中での聖霊体験だったことになります。
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「私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。(1テモテ1章13節)」
喧嘩ばかりし、堕落の道をつき走って、奈落の底に落ちかけていた私の暴走を押し留めた聖霊体験でもあったのです。母に宿った信仰を受け継いで、受けた恩寵は計り知れません。聖書信仰も贖罪信仰も、子とされることも義認も聖化も、やがて栄光化されることも、浸礼も聖霊のバプテスマも、復活も再臨も空中携挙も千年王国も神の永遠の統治も、教えられた様に、学んだ様に信じられているのです。
「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。 (哀歌3章22節)」
滅びかけていた私に働いた力は、多くの罪人を聖徒としてきた聖霊の御業に違いありません。一方的な恩寵、無価値な者への憐れみ、絶望していた者への将来への啓示でした。あの兄の家の留守番に誘われたことも、兄夫妻の愛に動機付けられた策略だったのを後で知りました。出世や成功を夢見て生きていこうとしていた私を、兄夫妻に、まんまと嵌められて、いえ、神の憐れみの差配、導きによって変えられ、生かされ、そして文句なしの今があります。
あのA宣教師のもとに8年間いました。それは、私の厄介な「日本精神」を取り扱う日々だったのです。子どもの頃の ” give me chocolate!” 世代の過去を、少年期から青年期にかけて、「恥」に思い出されて、アメリカ人への敵対や憎しみが湧き上がって来たのです。そんなことを子どもの頃にしてしまったのを、後悔したわけです。それでアメリカ兵に喧嘩を挑んだり、アメリカ人への不遜な態度を露骨にして、その過去の恥をすすごうとして躍起になっていたわけです。アジアに侵略を仕掛けるヴェトナム戦争を繰り広げるアメリカと米兵を憎みました。
そんな私への聖霊の取り扱いは、続いたのです。私の中の「日本精神」を、A宣教師は初めから見抜いていたのです。彼への反抗、悪い態度があって、関係の決裂の危機にありました。断られましたが、愛媛県にいた老牧師を訪ねて、弟子志願したこともありました。そんな時、兄や、静岡県下にいたB宣教師が仲介してくれて、決裂を避けることができました。やがて、変えられた私に、宣教師は、教会の責任を任せて、他の宣教地に移って行かれたのです。
神学校ではなく宣教師、しかもアメリカ人のもとで学び、訓練を受ける決断をさせたのも、神さまの働きだったに違いありません。あんなに嫌っていたアメリカ人のもとに、8年も踏み留まらせたのは、私の内に潜むものを、神さまが取り除くためであったのでしょう。それがなければ、中国での13年はなかったに違いありません。
明治生まれの父も、クモ膜下の出血で入院中に、期待を裏切られた長男に導かれて、信仰を告白したのです。『俺の腰から出た息子が聖職に就いたのか!』と、期待への反面を、母に、そう語ったのだそうです。間もなく、入院先で脳溢血で亡くなりました。その兄の最初の葬儀の司式が、父でした。遂に妻の積年の祈りに、神さまが応答されて、永遠の命の救いを、父も受けられたのです。幼い日、父は、祖父に連れられて、横須賀市内の教会に連れて行かれていたそうです。それででしょうか、「主我を愛す」を、炬燵に横になりながら口ずさんでいたことがよくありました。
一人の信仰者への溢れるほどの恩寵が、夫と子どもたちを「救い」に導いたことになります。いえ憐れみと恩寵に満ちた神さまによったのです。今も感謝が尽きません。以上が、私の魂が解き放たれた信仰上の歩みなのです。
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