Why I’m not fleeing Japan

イザ!ニュース

原発事故、冷静さ保って 米紙元特派員

2011/03/19 10:20更新

18日付の米紙ワシントン・ポストは、東京電力福島第1原発の事故に関して「私はなぜ日本を離れないか」と題した神奈川県鎌倉市に住む元同紙東京特派員のコラムを掲載、放射能被害を恐れる声が高まる中、冷静さを保つことの必要性を訴えた。

筆者はポール・ ブルースタイン氏で、外国人らが日本を脱出しようとする動きや、放射能被害に効果があるとされるヨウ化カリウム錠を求めて米国内の一部で騒ぎが起きている ことに触れ、「原発事故の先行きは分からないが、日本が核分裂性物質の温床のように捉えるのは、賢明でも公正でもない」と訴えた。

日本は危険だとの認識は「経済的、心理的に打撃を与える」とし、過剰反応は「被災者への心からのお見舞いの言葉を無意味にし、日本が立たされた苦境をさらに悪くする」と強調した。(共同)

Why I’m not fleeing Japan

By Paul Blustein,

Thursday, March 17, 11:28 AM

KAMAKURA, Japan

To get some perspective on the earthquake that struck the country to which I moved last year, I hiked a mile and a half Wednesday morning from our house to the Great Buddha of Kamakura, the most famous attraction of this town on the southwest outskirts of Tokyo.

Serenity washes over me every time I gaze at the 44-foot, 13th-century bronze statue. I’m not spiritual, much less a Buddhist. But I went to confirm, with my own eyes, that the Buddha looks the same as usual — that he wasn’t, say, glowing because of deadly rays emitting from the crippled nuclear plants 200 miles to the north.

Silly? Of course. Not much sillier, though, than many of the reactions I’ve seen or read about in the past couple of days: the hordes of expats shelling out thousands for flights out of the country; authorities in China, South Korea, Singapore and elsewhere screening Japanese food imports for radioactivity; folks in the States clamoring for potassium iodide pills to protect them against atomic particles wafting across the Pacific. I’ve been deluged with messages from loved ones, wondering whether we’re planning to evacuate. Yet while the concern has been touching, we’re staying put.

Particularly because we don’t live in the immediate vicinity of the nuclear plants, we’re confident that we’re as safe here as always — which is to say, extremely safe, the kind of safe that makes us comfortable sending our fourth-grader on a long train and bus commute to school, a fairly common routine here even for much younger children. Aftershocks, power outages, panic food-buying, long gasoline lines — this, too, will pass, and it’s hard to pity ourselves much given the misery that people along Japan’s northeast coast have endured since March 11.

If there is anything to worry about, it is that the perception of Japan as an unsafe country will inflict all kinds of economic and psychological damage. That would compound the tragedy it is enduring, hamper its ability to recover and elevate the challenges it faces just when it is most in need of support.

The Japanese have, for example, woken up in recent years to the need to promote their nation as a tourist destination — but how many millions will forgo visiting Kyoto’s exquisite temples for fear of radiation exposure? Japan’s premium-quality rice, fruit and other foods have begun selling well in the nouveau riche markets of Asia, offering hope that the nation’s notoriously cosseted agriculture sector might become more open and modern. Will those export markets dry up if Japanese food acquires a nuclear taint?

The number of Japanese who study and work abroad must increase so the nation can cope with globalization more effectively — but will this happen if Japanese anticipate being treated as some sort of freaky gamma-ray-emitters? As my former colleague Rob Stein reported Monday, people from areas near past nuclear accidents have been stigmatized and shunned, making them all the more prone to stress-related illness.

I admit that when news broke about the power plants I wondered whether dangerous particulates might drift to our home. But when I read past the headlines, I learned that the risks were negligible for virtually all 125 million residents of the Japanese archipelago (except, of course, the heroic plant workers).

I read, for example, that after the Chernobyl disaster, most deaths resulted from children in the surrounding area drinking milk from cows that had grazed on contaminated grass — a blunder the Japanese aren’t going to repeat. I came to realize that even a core meltdown” — something that I had always assumed spelled doom for millions — didn’t necessarily mean much adverse effects on human health, certainly not for people living distant enough for the particulates to disperse. Radiation, I learned, is a rather weak carcinogen. Even among the hibakusha, as survivors of the atomic attacks on Hiroshima and Nagasaki are known, cancer rates were not a lot higher than among the general population.

The extent of the troubles at the nuclear plants is still uncertain. But it hardly seems sensible for people like us to pack up and leave. Nor does it seem sensible or fair for people here or abroad to act as if Japan is a hotbed of fissile material. All those heartfelt expressions of sympathy for quake victims aren’t going to mean much if overreaction to the nuclear mess worsens Japan’s plight.

The mood here might not be conducive to tourism for a while. My wife, who is Japanese, has been brushing away tears night after night as she watches televised interviews of people from the stricken coastal areas. Their anguish is the proper focus of attention.

All the more imperative, then, that perspective be kept. If foreigners recoil at Japanese vacations, job postings, products or people because of irrational fears about radiation, they will deepen and prolong the trauma that nature has inflicted. In a few months, Japan should be its recognizable self, maybe even brimming with vitality stemming from a renewed sense of national purpose. The trains will once again be astonishingly punctual; the food will be delectable and plentiful. Once that happens, foreigners will hopefully recognize that Japan — with its Great Buddha and so many other wonders — remains an extraordinarily safe place.

Paul Blustein, a former Tokyo correspondent for The Post, is an author and researcher affiliated with the Brookings Institution and the Centre for International Governance Innovation.

島田洋一ブログ (Shimada Yoichi Blog)からの転載です)

我慢・子ども・威厳・春風

◯略奪起きない日本を称賛 大震災でアルゼンチン紙 【リマ共同】「なぜ日本では略奪が起きないのか」。南米アルゼンチンの有力紙ナシオン(電子版)は16日、東日本大震災の被災地で、被災者らが統制の取れた行動を取っていることを驚きを持って報じた。中南米では、昨年1月と2月に起きたカリブ海のハイチと南米チリの大地震の際、混乱した被災者らがスーパーなどから商品を略奪し、強盗被害も多発した。紙は茨城県内にいる特派員の情報として、被災者がわずかな食事の配給のために根気よく一列に並んで待っている様子を紹介。「仕方がない」と「我慢」の二つの言葉を胸に耐える日本人の強靱な精神をたたえた(excite110317)。

阪神大震災の直後、被災した子どもたちが描いた絵には荒々しいタッチで赤い色が多用されていた。真っ赤な海、火を噴く山、血を流す無数の人々、赤い天使▼ 「言葉にできない激しいショック、恐怖、不安を、赤という色や残酷な表現で吐き出そうとするのです」。色によるメンタルケアを実践する色彩心理学者、末永 蒼生さんから聞いたことがある。赤は生命を奮い立たせる色でもあるそうだ▼末永さんたちは震災後すぐから1年間、避難所や児童館を回って子どもたちと一緒 に絵を描くボランティア活動を続けた。色を使って泣いたり怒ったり、感情を発散して子どもたちは次第に癒やされていったという▼死の恐怖に襲われた子、家 族をなくした子、悲惨な光景を目の当たりにした子、避難所でおなかをすかせ寒さに震える子。今度は東日本大震災が子どもたちの心を深く傷つけ続けている▼ 被害が小さく見える子もどんな痛みを抱え込んでいるか知れない。できるならばすべての子どもたちに画材を届けたい。水も食べ物も暖房も足りないこんな時に と言われるかもしれないけれど、こんな時だからこそ心に手当てが要る▼絵を描こうよ、子どもたち。クレヨンや色鉛筆で今描きたいものを自由に、好きなだけ 描こう。そして、我慢せずに泣いてもいいんだよ(河北新報社「河北春秋」17日)。

同じ心を、昔の人は歌に詠んでいる。〈うらぶれて袖に涙のかかるとき人の心の奥ぞ知らるる〉。さして昵懇(じっこん)の間柄でもなかったあの人が、憎まれ口を叩(たた)き 合ったこの人も…◆失意と逆境のときに触れる他人の情けほど、骨身にしみてありがたいものはない。米国はもとより、中国やロシアを含む十数か国から救助隊 が来日し、東日本巨大地震の被災地で困難な救援活動に加わってくれている◆外電という形で届く“情け”もある。英紙インデペンデントは1面全面を使って 「日の丸」のイラストを掲げ、日本語で〈がんばれ、日本。がんばれ、東北〉と書いた◆デイリー・ミラー紙は宮城県南三陸町の被災地ルポを載せ、〈泣き叫ぶ 声もヒステリーも怒りもない。日本人は、黙って威厳をもち、なすべき事をしている〉と感嘆をもって伝えている◆イタリアでプレーしているサッカーの長友佑 都選手がピッチで掲げた「日の丸」には〈一人じゃない みんながいる!〉とあった…。いま、こうして書いていて、文字がにじんでくる。あの地震が起きてか らというもの、涙を燃料に毎日を生きている。そんな気がする(読売新聞「編集手帳」17日)

避難所の春風 象徴派詩人で「青い山脈」などの歌謡曲の作詞もした西条八十は関東大震災の日の夜、東京の上野の山で夜明かしをした。眼下に広がる市街は一面火の 海で、避難してきた人々も夜がふけるとともに疲労と不安、飢えで口もきかなくなった。すると近くの少年がポケットからハーモニカを出した。詩人は驚いて吹 くのを止めようとする。この悲痛な夜半にそんなことをすれば、周囲が怒り、殴られかねないと思ったからだ。だが止める間もなく、曲が奏でられた危惧は外 れた。初めは黙って化石のように聞いていた人々は曲がほがらかになると「私語(ささやき)の声が起こった。緊張が和んだように、ある者は欠伸(あくび)を し、手足を伸ばし、ある者は身体の塵(ちり)を払ったり、歩き回ったりした」。荒冬の野に吹いた春風だったと詩人は回想する11県で約41万人が避難生 活を送る東日本大震災の被災地である。きのうから冬型の気圧配置が強まり、暖房のない避難所ではつらい一夜となったに違いない。寒さに加え、水、食料、医 薬品の不足も依然解消されていない被災地は広域に及び、交通途絶が続く。自治体機能も回復せず、ボランティアもなかなか入れない。そんな避難所での被災 者同士の助け合い、いたわり合いを伝えるニュースには目頭が熱くなる。きっと上野のハーモニカ少年のように希望の春風を起こす人もいよう被災地で不足が 目立つ輸送用燃料をめぐり政府は国民に買い占めの自制を呼びかけた。遠くの土地の不用意な行動も、いてつく避難所の人々と無縁でありえないこの列島の暮ら しである。連帯の春風はそのどこからでも届けられるはずである(毎日新聞「余録」17日)

感動!~Twitterから~

◯国連からのコメント「日本は今まで世界中に援助をしてきた援助大国だ。今回は国連が全力で日本を援助する。」 に感動した。良い事をしたら戻ってくるのです。これがいい例なのです。

外国人から見た地震災害の反応。物が散 乱しているスーパーで、落ちているものを律儀に拾い、そして列に黙って並んでお金を払って買い物をする。運転再開した電車で混んでるのに妊婦に席を譲るお 年寄り。この光景を見て外国人は絶句したようだ。本当だろう、この話。すごいよ日本。

ディズニーランドでは、ショップのお菓 子なども配給された。ちょっと派手目な女子高生たちが必要以上にたくさんもらってて「何だ?」って一瞬思ったけど、その後その子たちが、避難所の子供たち にお菓子を配っていたところ見て感動。子供連れは動けない状況だったから、本当にありがたい心配りだった。

日本って凄い。官僚も民間も、皆で助けようとしてる。トラックの運転手も有志で物資運んでるらしいし、東北の交通整備をヤクザさんがやってるという話も聞いた。最近、日本に対して誇りを持てな いことが続いていたけれど、そんなことない。日本は凄い国だ。素直に感動してる。日本国の皆さん頑張ろう!

長女いわく、横浜の避難所に向かう時に、知らない人達と声を掛け合い、場所を教え合っていたそうです。普段は冷たいと思っていた他人の優しさに触れ、感動したそうです。日本人のいざという時の団結力を再認識しました。まだまだ日本も捨てたものではないです。

バイト中に地震があってほぼ満席の状態 からお客さんに外に避難してもらいました。食い逃げ半端ないだろうな、と思っていたがほとんどのお客さんが戻ってきて会計してくれました。ほんの少しの戻 られなかったお客さんは今日わざわざ店に足を運んでくださいました。日本ていい国。

気仙沼の友人からメールが届いた!「生き残った人たちは皆元気。ヘドロと重油の中でお風呂もトイレもなく、汚れた手でご飯食べてる。悲惨な話も山ほどだけどそれ以上に感動ドラマも!必ず復活するから待っててね」と。涙が止まらない。

@juliashortreed:被災地で、こどものケアのためアンパンの歌を流したところこどもは、大喜び。それ以上に、親たちが号泣されたとのことです。子供たちのケアも重要。親たちは、子供の笑いを待っている。

募金箱の前にて幼稚園位の男の子と母親の会話。母「貯めてたのに本当にいいの?」子「3DS我慢する。これで地震の人の家建てる。」と言いお年玉袋から5000円を寄付。母「偉いね。地震の人、これで寒くなくなるね。」男の子思わず号泣。後ろにいた私、大号泣。

父が明日、福島原発の応援に派遣されます。半年後定年を迎える父が自ら志願したと聞き、涙が出そうになりました。「今の対応次第で原発の未来が変わる。使命感を持っていく。」家では頼りなく感じる父ですが、私は今日程誇りに思ったことはありません。無事の帰宅を祈ります。

避難所で、4人家族なのに「分け合って食べます」と3つしかおにぎりをもらわない人を見た。凍えるほど寒いのに、毛布を譲り合う人を見た。きちんと一列に並んで、順番を守って物資を受け取る姿に、日本人の誇りを見た。

被災地(茨城県)に住む両親にうち(千葉県南房総市)に来るように連絡したら怒られた。親父曰く「俺よりひどい被害を受けた人が避難していないのにそんなことはできない、復興が終わったら行ってやるから、自分のできることをやれって」。 ちょっと感動した。

(写真上は、女川町のかべに書かれた「激励文」、下は、http://www.kashikoi-ooya.com/2010/12/post_421/の「おにぎり」です)

国難

開闢以来の国難に直面した日本、国外からの救援、支援が寄せられています。また未曽有の辛酸を味わっている被災地のみなさんへの評価が、海外から寄せられています。想像を絶する危機の中で、冷静で沈着な行動をとっている被災者の姿、救護にあたる消防署員、警察官、自衛隊員、自治体職員の命を賭した活動を、国外の方々が驚異のまなざしで眺めているようです。もちろん被災されていない日本の他の地域に住むみなさんからの《応援のメッセージ》も寄せられているようです。かつて、父や祖父の世代が、廃墟や焦土や欠乏の中から立ち上がれたことは、今回の大震災、津波、原発事故の困難さの中からも、復興してくための《遺伝子》を、この世代人も受け継いでいるのだと確信させられます。もちろんこの時には、銃を向けた相手国からの信じられない復興支援があったことも忘れてはなりません。イギリスの新聞には、『ガンバレ日本。ガンバレ東北。』と一面に掲載されていました。溫家宝首相も、『日本の今の必要のために、国を挙げて届きたい!』と全人代の折に支援の約束をしてくださいました。また私たちに、中国の友人たちや次女の住むアメリカの友人や知人からの安否の問い合わせがありました。うれいいことです。

今、私たちが住んでいます家のすぐ近くにスーパーマーケットがありますが、ここで売られています保存のきく食品の棚に、全く商品が見当たりません。おとといコンビニにアイスクリームを買いに行きましたが、同じでした。『食べ物がなくなってしまう!』と思うのでしょうか、マスコミが保存食の備蓄を勧めているからでしょうか、買いだめに走っている姿を見受けます。今回の東北地方の被災地の避難者には、冷蔵庫も保存庫もなく、買いに行く足もないのです。救援物資にだけ頼るような窮乏生活をしている現実なのです。そういった被災者の現実を知っていて、そういった行動に走りまわるのは、実に恥ずべきことではないでしょうか。一人ひとりの今日一日の必要を賄えるのなら、隣の人の必要も充分に満たされるのです。同胞の困難を共有しようといった意識が欠けているのは寂しいかぎりです。

私の愛読書に、「友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しを分け合うたに生まれる。」、「一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いの満ちた家にまさる。」とあります。被災地で、『1つのおにぎりを4人で分けて食べました。』、『一本のバナナをふたりで分けあって食べました。』ということを聞くにつれ、『自分だけ!』、『自分の家族だけ!』といった、被災しなかった地の生き方は、海外の被災地の人々への賞賛の声とは裏腹なのは、日本と日本人の矛盾なのでしょうか。

中国の挨拶言葉に、『喫飯了没有?』があります。『こんにちは!』といった日常の挨拶に用いる言葉なのですが、その意味は、『メシ喰ったか?』です。中国で五年間生活してきて、想像しているのですが。内乱や政争の戦で、いつも憂き目に合うのが中国の民衆の歴史でした。彼らは着の身着のままで、戦乱を避けて他の土地に、一家、一族で移住せざるをえなかったのです。食べ物もままならないのですから、互いに分け合う以外に生き延びていくことができなませんでした。そのように、他者を顧みながら生きてきた《強靭さ》を、中国のみなさんの内に感じるのです。自分だけが満腹するのではないのです。『メシ喰ったか?まだメシを食っていなかったら、何か作るから食っていけよ!』という、食の勧めなのだと思うのです。

食事時に知人に出会うと、『メシ喰ったか?』と挨拶され(聞かれ)ると、もうすでに食べたら、『有(ヨウ)』と、食べていなかったら、『没有(メイヨウ)』と答えます。彼らは、私たちのことを、《家族(一家人)》と思ってくれるからなのだと思うこと仕切りです。

先程、義妹に電話を入れました。夕べ、ガソリンも灯油も無くなったので買いに行ったのですが、どこにも無かったのだそうです。もちろん、食料もでした。年をとったお母さんの介護をしているので、暖も食も摂る必要があったのです。そうしたら、彼女と私たちの共通の友人が、昨晩の地震前に、『石油ないんでしょ!』と石油缶を抱えて、食べ物も届けてくれたのだそうです。ひと言も要求していなかったのに与えられ、そんな経験を嬉しそうに話していました。彼女は《頭の黒い天使》だったようです。国難を分かち合い、物も心も分かち合いながら、この急場を励まし合って生きていきたいものだと思う、家内の手術の日のために待機している、「・・・平成の昭仁天皇の時代、地震の五日後」のことであります。

(写真上は、「英国紙」、下は、北京空港で待つ東北関東大震災への中国からの「救援隊」です)

和ごころ

『日本の家は木や草や紙で作られていて、実に粗末なものだ!』と言われてきましたが、本当にそうなのでしょうか。レンガや石を積み上げた家に比べたら、 火や洪水に耐える力は弱いに違いがありません。ところが、木や紙がもっています材質の柔らかさは、じつに人にも自然にも優しい細やかさにあふれているのではないでしょうか。そんな繊細さを持っている家屋は、世界のどこにも見当たりませんね。一間六尺(1.8m)の寸法で、家のすべてが規格どおりに作られて いて、五尺の人の身丈に、長すぎず足りな過ぎないことに感心させられてしまうのは、私だけではないかも知れません。

通りと隔てた戸をあけますと、玄関までは石畳が敷かれてありました。玄関は、客人を歓迎する気持ちを表していて、玄関の「三和土(たたき)」に立ちますと、そこは広すぎず狭ますぎず、立って頭を下げ合いながらの挨拶を交わすには、程よい広さなのです。視線を横に向けますと、よく磨かれた廊下があって、ガラス越しに庭が見えま す。靴を脱いで上がり、廊下を通って、右手の障子を開けて客間に入りますと、きめ細かな波のような井草表(いぐさおもて)の畳が敷かれてあります。新しい 井草表の畳は、気を落ち着かせるに程よい「草の香」を放っていました。八畳ほどの畳の部屋は、縦横に上手に畳が組み合わされてあるのです。部屋と部屋は、 襖(ふすま)で仕切られていて、大人数の来客のときには、それを外しますと、十人でも二十人でも容れることの出来る大広間になってしまうのです。襖の上には長押(な げし)があって、その上には双方の部屋が、決して密室ではないことが分かるように、明り取りや換気の用を果たす飾木工の「欄間」がありました。ほどほどに 二間を分けてあったのです。

客間の奥には、横六尺、奥行き三尺ほど(畳一畳分でしょうか)の「床の間」がありました。そこには、毛筆の 字と画で書かれた掛け軸があって、磨かれた「黒平水晶」の置物があり、一時は、刀を置くための鹿の角もあったと思います。家を越すたびに、父が大切にして いたものが一つ減り、二つ減って行ってしまったのですが、どこに行ってしまったのでしょうか。物に執着心のなかった父のこと、どなたかに差し上げてしまっ たのでしょうか。そんな床の間の光景もよみがえって参ります。

我たち兄弟は男の子四人でしたから、相撲や喧嘩で、障子も母が張りなおせばすぐに破り、襖の芯は折れ、畳は擦り減り破れていました。まあ育ち盛りでしたから仕方が無かったかも知れません。今日日、私のひとつ二つの願いは、そんな 部屋の畳の上に、大の字になって寝転がって、天井をじっと眺めてみたいのです。それは贅沢でしょうか。障子の和紙を透き通って射し込む陽の光が部屋全体に 広がっている、そんな風に寝転んでいたら、『雅!』、『雅ちゃん!』と呼ぶ父や母の声が聞こえてきそうですね。また、廊下の先の奥の風呂場にある、「檜 (ひのき)」造りの風呂桶に、井戸で汲んだ水を張って、薪(まき)で炊いた湯に、「檜」の香りをかぎながら、湯気が立ち上る湯に肩までつかって、「赤とん ぼ」でも歌ってみたいものです。『湯加減は、どう?』との母の声も聞こえることでしょうか。


このような「和風建築の美」というのは、世 界に誇ることの出来る日本独特の文化や芸術に違いありません。日本人の心、また美意識を育て上げてくれた極上の文化に違いありません。そんな伝統や文化を 再評価し、感謝し、誇りたいのです。あ、忘れていました。もうひとつ「押入れ」がありました。そこには、家族みんなの盛りだくさんの懐かしい思い出が仕舞 い込まれているはずなのですが。(2009316日月曜日付けの「ブログ」からの転載分)

(写真上は、kabekami.net「庭園」、下は、sekkei.exblog.jp「障子と畳の和室」です)

新宿

「新宿」、山手線と中央線の交差駅で、京王線や小田急線や西武線の始発着駅でした。今では、地下鉄の路線がいく本も入っていますが。それにしても、かつて路面を走っていた都電も消えてしまい、今では都電・荒川線だけが残るのみになってしまったのはとても寂しいものです。地下鉄の日比谷線に恵比寿から乗り込み、「日比谷」で三田線に乗り換えますと、山手線巣鴨に接続します。この駅の1つ先に、地下鉄三田線の「西巣鴨」があります。電車の乗り換え案内に、『都電・荒川線は乗り換えです!』と車内放送が流れてきます。つい誘われて、降車して昔懐かしい都電に乗りたくなるのですが、「志村坂上」の家内の入院先に行く必要があって、いまだに果たせないままでおります。今度いつか、降りて乗ってみようと思っていますが。学校に行っておりましたときに、キャンパスを出ますとすぐそこに都電が走っていまして。『チン、チン!」』とやってくるのに乗り込むと「銀座」に行くことができました。なにも用がないのですが、時間をもてあましては、「銀ブラ」をよくしたものです。

でも、大方は通学途中の「渋谷」や「新宿」で降りる機会が多かったのです。何時でしたか札幌から来ていた同級生と一緒に、「伊勢丹」の隣にある「末広亭」に、落語を聞きに行ったことがありました。『行ったことがない!』というので連れていってあげたのです。何度行ったことでしょうか。

「落語」といえば、文豪の夏目漱石は、足しげく寄席通いをした人だったそうで、彼の文学の骨子になっているのは、江戸伝来の「落語」だとも言われています。庶民の話し言葉が、文学の中の会話に組み込まれ、表現されていったようです。フランス語が、ジャン・カルヴァンによって、ドイツ語が、マルチン・ルターの貢献によって作られたと言われるのですが、日本語は、夏目漱石の作品の影響が多大だと言われますが、もう少しさかのぼりますと「落語」に行き着くことができそうです。そうしますと、「バカぱなし」といえなく、『たかが落語、されど落語!』といわなければならないのではないでしょうか。

落語の世界で名人と言われた噺家が何人かおられます。古今亭志ん生、柳家小さん、三遊亭金馬、桂春団治など何人も「名籍」を上げることができます。六代目の三遊亭円生は、その筆頭でしょうか。円生師匠は6才の時に、20席ほどの演目を持って、高座に上がるほどだったそうです。通常、真打は、30~40年の間に努力して100席ほどが普通なのだそうです。ところが、この円生師匠は、何と300席を、いつでも、どこでも自在に演じることが出来た、稀代の噺家だったそうです。『え~一席、ばかばかしいお話を・・』と言って話し出す落語なのですが、そ れだけ、たゆまぬ研鑽を積まれた円生師匠に敬意を覚えさせられ、さらに落語好きな人間とされてしまいました

「え~一席、『国は大きい方がいい!』、そう中国の胡錦濤主席が言います。『いいえ、国ってのは小さいにこしたことはない!』と、バチカン市国のローマ法王がいい、二人の間で、ああでもない、こうでもないと論争が始まっていまいました。そこに猫に追われて、方法のていで逃げてきた鼠が一声、『チュー!』。お後がよろしいようで。」

(写真上は、東京都交通局の「昔の新宿・都電)、中は、雑誌サライ所収の「六代目三遊亭圓生」、下は、「夏目漱石」です)

マリ


『チョコレート!』、なんと響きのよい言葉でしょうか。『森永ミルクチョコレート!』、『明治ミルクチョコレート!』、『ロッテガーナチョコレート!』と聞いただけで、唾液腺の働きが猛烈に活発になってしまいます。見たら、もう他のものへの関心は全くなくなってしまうのです。それこそ食べたら、『ここは天国かしら!』と至福の時になってしまいます。こんなおいしいお菓子が、ほかにあるでしょうか。だれが作ったのでしょうか。ノーベル賞や文化勲章を、ぜひ受賞していただきたいものです。歴史を調べてみますと、どうもアメリカの原住民が食用にしていたのを、アメリカ大陸の発見者のコロンブス一行がヨーロッパのスペインに持ち帰って作ったのだそうです。大衆化していくのは、カトリックの修道士たちの手によったとのことです。日本に渡来した記録は、18世紀に、長崎の遊女が、オランダ人にもらった記録が残されています。日本初の製造販売は、風月堂によりますが、大量に製造販売をしていったのが、1918年に、森永製菓によってでした。

最初に食べた日のことは、はっきりと覚えていませんが、小学校の頃、立川の国立病院に診察に行ったときに、駅のそばの店で、ガムやピーナッツや干しぶどうなどと一緒に、母に買ってもらったのを覚えています。こんな好物のチョコレートですが、私の愛読しているブログに、こんなことが紹介されていました。

「チョコレートの原料のカカオ豆は、高温多湿の熱帯西アフリカの「マリ共和国」が、一つの主産地です。この国の10~14才くらいまでの多くの子どもたち(男女)が誘拐されて、多くが行方不明になっているとの情報が以前からあり、一説には、2万人もが消息不明で、どうも「カカオ農場」で、現在も働かされているようです。〈中略〉マリの田舎でおばあさんが、子どもたちに、『働けばお金がもらえる仕事があるよ!』と優しい声をかけて誘い出し、隣の国コートジボワール(象牙海岸共和国)の国境の町までバスで移動させ、そこで他の人に渡し(子供奴隷の誘拐組織は、子供1人につき230ユーロ・27000円で取引されています)、バスやオートバイでカカオ農園に子どもたちが運ばれている事がわかった。子どもたちは数人づつカカオ農園に分配され、毎日毎日休みもなく子供の手には大きすぎる程のカカオを粗末な大きなナイフで切り落として、集める仕事が待っていた。働いて何時まで待ってもお金は全然貰えないので、また空腹のあまり食事やお金の支払いを請求すると、殴られたり罵声を浴びさせられたり暴行を受けている。ボロボロの汚れたシャツをまとい、明らかに栄養失調の痩せた暗い顔をした子どもが何人か見られたが、とにかく酷い扱い方である。〈攻略〉」とです。

甘味なチョコレートには、このようないたいけのない子どもたちの苦く辛く酷い労働があることを知って、ただ戸惑っている昨今であります。多くの子どもたちが、秘密裏に重労働に強制的に従事させられ、賃金も支払われないような、まさに「奴隷」のように働かされているのですね。この事実を知ったマスコミが、大手のロックフェラーが経営する穀物商社カーギル・ネッスル社の経営者に詰問しても答えず、無視したのだそうです。独裁国家の独裁者が問題とされている昨今、このような前近代的な労働搾取が行われ、誘拐事件や人質といった問題を、無視しながら会社経営をしている実態も、どうしても看過できないものです。今後、チョコレートは美味しいのに変わりがありませんが、苦味を覚えながら、マリの子どもたちが親元に帰るか、正統な賃金で働くことができるように願う時としようと決心しております。

《児童の商業的性的搾取に反対する世界会議「宣言」》 http://homepage3.nifty.com/naga-humanrights/shiryo1/child-sakusyu1.htm

をお読みいただきたいと願っています。

(写真上は、http://mikado.gunmablog.net/d2009-01.html所収の「チョコレート」、写真中は、I AM BLOGGING NOW所収の「マリ共和国の子どもたち」、写真下は、「マリ共和国地図」です)

仁医

昨日の夕方、長男の運転する車に乗って、家内が2週間ぶりに退院し、嫁と孫の待つ家に帰ることができました。

そういえば2月15日の夕飯後のことでした。激痛を訴えた家内のために救急車を呼んだのです。『掛り付けの病院に電話を入れて、受け入れを尋ねてください!』と駆けつけてくれた隊長さんに言われ、長男が◯大附属病院に電話をしましたら、『近くの病院で診てもらって下さい!』との返事でした。この隊長さんが、電話で受け入れ病院を見つけてくださり、近くの救急病院の「朝霞台中央病院」に搬送してしてくれました。夜勤の救急医の◯井医師が、丁寧に応急手当をしてくださいました。すでに一ヶ月も家内を診察し、検査して、病状とデータを持っている病院が最適とのことで、◯大に4度も電話で、受け入れをお願いしてくれましたが、診療を断られたのです。危急を要しましたので、彼が何カ所も電話で探してくださって、「板橋中央総合病院」に搬送の手続きをしてくださいました。もう11時をとっくに過ぎていましたが、板橋の病院は快く受け入れてくださいました。当番医のH医師が診察してくださり、即入院の措置をとってくださって、15日の未明に入院したのです。翌朝、◯大からの電話で、『5万円の部屋があるが入院しますか? 』と言ってきたようです。もう入院し、危機を脱していましたので、診療拒否をした病院の治療にすがろうとの思いは、家内も私も、まったくありませんでした。

朝霞台の先生は、電話で応対した◯大の当直医、二名の名前を、『記録しておいてください!』と、名を教えてくれました。彼は、大変に義憤していたのです。最後に出た医師は、家内の主治医の部下で、主治医に聞いての診療拒否の返事だったようです。私は、命の危険のある急患、しかも一月も診てきた患者を、こう言った形で他の病院と医師に委ねてしまう医療姿勢に怒りを覚えて、「内容証明」で院長に抗議しようと思いましたが、大人気ないのと、受け入れてくださった、「板橋中央総合病院」の医師団の懇切丁寧な診療に感謝して満足でしたので、取りやめました。朝霞の先生の言葉によると、死の危険のある重篤な病状だったと言っておられましたから、なお更のことでしたが。そういえば、搬送してくださった救急隊長が、この◯大の名を戴いた練馬の姉妹病院について、『あの病院はちょっと・・・』と、言葉を濁していたのを思い出したのです。そんな病院でも、自分の患者を受け入れてくれる病院を、見付けて紹介もしなかったのは、致命的な問題のようです。それに引き換え、朝霞の先生の配慮にはなおのこと感謝を覚えてなりません。

田舎の名のない病院の医師の方が、実(じつい)も、義も、腕もあるのを知って、《大病院志向の姿勢》の無意味さを教えられて感謝した次第です。ついでももう一言、言って止めることにします。こう言えば、きっと溜飲を下げることができるからです。でも、やめましょう。だって家内は、『この板橋の病院に委ねることができるように、私を大きな力で導いてくれたので、誰も恨んでいませんよ。こちらの医師や看護師のみなさんの医療姿勢に大変感謝していますからね!』と言って平然としているからです。

これこそが、言葉に尽きる15日間の「医療体験」の顛末でした。私は今回、はじめて救急車に、家内は、幼かった次男に付き添っての経験がありますが、自分の病気での経験ははじめてのことでした。救急隊員の方々も、救急病院の医師や看護師や事務職員の適切で臨機応変な応接に感動させられた春のような経験でもありました。彼らには、食べるための仕事という以上の《使命感》を感じさせられたのです。◯井医師は、朝から休まずに、夜の11過ぎまで働いていたと聞きました。さて、この金曜日には、あの晩の当番医のH医師の診察が待っています。その診断で、手術の日取りが決まることでしょう。無事に終わることを信じ、孫たちの激励に励まされている、「仁医」と出会えて心の高揚する「雛祭り」の前の晩であります。

(写真上は「朝霞台中央総合病院」、下は「板橋中央総合病院」です)

ブーメラン


「若気の至り」、みなさんにはおありでしょうか。同じ学校に入った同級生が、『お前って、ケンカが強いんだってな!』と話しかけてきたことがありました。彼は都内の私立高から、私は都下の私立高から入学したのですが、彼が、そういった情報をどこから得たのか不思議でした。彼と私のそれぞれの同級生が、同じN大の同期生で、どうも私のことが噂になっていたようで、そこで話されたことが、私に伝わってきたのです。「噂話」というのは独り歩きしていって、不思議な方法で戻ってくるので、「ブーメラン」のようだなと、ときどき思わされています。

高橋和巳が「堕落」という小説を書きました。戦時中、満州で青年期を送った人物が主人公です。満州国の設立のために、その若い力を注いで、人に言えないような危ういことをして、夢敗れ敗戦を迎えるのです。日本に帰国してから、彼は一変して、「社会事業」を始めるのです。その彼の功績が認められて、ある全国紙の社会事業部門の表彰を受けることになって、その式に出席します。忠実に彼の働きを支えてきた女子職員と同行するです。表彰台に登って、栄誉を受けた彼は、その晩、かつての仲間たちが設けてくれた祝賀会で、それまで断つていた酒を飲んで、彼らの祝福を受けるのです。その日、地方都市で、誰にも目を向けられない戦争の落とし子への地道な彼の奉仕が、世間に知らされることになったのです。それと同時に、彼の隠されていた過去が露になっていく、そういった筋書きです。その晩、同行の職員を犯してしまいます。そして賞としてもらった金を胴巻きに巻いて、都内の歓楽街に繰り出すのです。その路上で、これも酔った若者たちの集団と出くわします。老いぼれた田舎者の彼を、からかおうとでも思ったのでしょうか。手を出された彼は、降る雨を避けるために手にしていた傘を、腰に構えると、年寄りとは思えないような巧みさで、一人の青年の腹部を突いてしまいます。この傷害事件を通して、彼の功績が瓦礫のようにして崩れ落ちて、「堕落」の坂を、真っ逆さまに転げ落ちていってしまう、こう言った終章で話が終わるのです。

私は、この小説を読んでからというもの、人の生涯を、一つの流れの中で捉えることを学ばされたのです。この主人公の「善行」は、『過去を償いたい!』という良い動機だったに違いありません。軍国主義、東洋制覇、満州国建国、父の世代の当時の青年たちにとっては、それは自分の命を費やしても余りある世界が広がって見えたのではないでしょうか。国を愛し、父や母や弟妹を愛するには、満州国建国は日本の生命線だと教え込まれたら、それこそが報国の生き方だと思ったのでしょう。しかし、隣国侵犯は法にも人道にも悖った蛮行だったのです。ですから私たちの国が敗戦を喫したのは、火を見るよりも明らかなことだったのです。「愛国」とは、教育や技能水準を高めて、内に力を蓄えて、国際競争力を武力ではなく技術力で強めることにあります。さらには隣国と助け合い、協力しながら、ともに近代化の道を進むことではなかったでしょうか。ちょうど敗戦後に、焦土の中から立ち上がって、科学技術の面で再生の道をたどったようにしてです。

誤った過去が精算されるのかというと、そうではないのだということを、高橋和巳は、この小説で訴えたかったのでしょうか。男兄弟4人、いえ父を入れますと5人の男の世界で育った私は、何が得意かというと「ケンカ」なのです。負けたことがないというのは、実は怖いことなのです。あの主人公のように、若者に絡まれたら、昔取った杵柄で、拳を振るうのではないかと恐れるのです。付け焼刃のような善人顔の私は、右手を切り落としてでも、あの蛮行をくりかえしたくないと思い続けております。もちろん、私には功績などありませんから表彰される機会はないのですが。「償い」よりも「悔い改め」、これが必要なのだろうと肝に銘じている、春三月であります。

(写真上は、「ミリタリー傘.JPG」の「傘」、下は、【法輪堂】ブログ の「拳」です)