循環型社会だったお江戸

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  お江戸日本橋七つ立ち 初上り
行列揃えて あれわいさのさ
こちや 高輪 夜明けの提灯消す

こちやえ こちやえ

六郷渡れば川崎の まんねんや
鶴と亀との米まんじゆう
こちや 神奈川いそいで保土ヶ谷へ

こちやえ こちやえ

行列揃えて あれわいさのさ
こちや 高輪 夜明けの提灯消す

こちやえ こちやえ 

 江戸の日本橋を起点に、江戸五街道が整備され、軍事上も、政策上も、商業上も、そして文化や習俗でも、重要な意味と価値を持った、それらの伝達の経路でした。父の会社が、日本橋のライオン像が表玄関にある三越本店の近くにあって、子どもの頃に、何度か連れて行ってもらったことがあります。

 その街道には、「道標(みちしるべ)」が、一里ごとに置かれ、「一里塚」と呼ばれていました。その一里、四町で約4kmごとに「塚」が置かれ、そこに植えられたのが、「榎(えのき)」でした。


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 港区に、「芝二本榎」と言う地名が残されていて、ここも「一里塚」で、歩行で旅をする人への気配りがあったわけです。江戸の物質、情報、生活振り、文化、教育などが、地方にもたらされて、江戸風な生き方、あり方が伝わって行ったたわけです。

 幕末に、わが国を訪れた外国人は、当時、世界最大都市の江戸が、どれほど文化的な街であったかを記録に残しています。浮世絵や歌舞伎や音曲などの娯楽が代表されるだけではなく、上下水道、生活物資の流通、本の印刷や出版、子弟の教育、清潔な街並など、数え上げるときりがないほど優れていたのです。

 南信州の山の中に、「村歌舞伎」が伝えられていて、幕府は禁制にしたのですが、江戸や京で上演された出し物が、村人たちの演出や出演で、密かに演じられ、武家の生き方や倫理や道徳まで、片田舎にも伝えられていたのです。
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 「菅原伝授手習鏡 寺小屋の段」が上演されると、当時、南信の県立高校で英語教師をしていた娘婿の関係で、大鹿村に呼ばれて、家内と一緒に出掛けて、観劇したことがあったのです。江戸中期に始められた歌舞伎で、新橋の歌舞伎座以上に素晴らしくて、舞台に向かって投げ銭をしてしまうほどでした。

 日本中、京や江戸の感化を受け、貧しいながらも、相当に文化的な雰囲気が、日本全国の山漁村にまでも伝播されていたのです。今でこそ、文化の中心のパリの街では、かつてはし尿は、街路にばらまかれていたのに、江戸の街は、住宅ごとに共同便所があって、近在の農村から来た農家のみなさんが買い上げて、肥料にし、作物を作っては、それらを売りにやって来る、いわゆる「循環型社会」が出来上がっていたのです。

 今、日本の街が綺麗だと、外国人観光客やメデイアが言うのは、偶然ではなく、住環境を住みやすく、整えて、保って生活して来た、長い歴史があってのことなのです。そんな江戸がモデルになって、地方の街も、清潔にされ、活気付けられていった面があったのです。この街を流れる巴波川も、舟運で栄え、江戸の香りも物資と共に運ばれてきて、「小江戸」のようだったそうで、その名残を、今も感じられます。

(ウイキペディアの江戸の街、榎、大鹿歌舞伎です)

 

書くということ

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 これまで自分の思いを表現することの大切さをよく聞いてきました。次男から、ブログを始めるように勧められて、やり始めたのが、十数年前でした。また、この数年来、参加させていただいている集いの中でも、思っていること、感じていることを表現するように勧められてきています。自己表現をすることで、何かが始められたり、きっかけなったりするようです。

 病んだり、愛する人を失ったり、心が傷つけられるなどの経験は、どなたにも起こり得ます。そんな出来事から解放され、赦したり、受け入れたりすることができる、その切っ掛けがあったら、素晴らしいわけです。そのようにしますと、何か縺(もつ)れた糸が解(ほど)けていくようなれるのでしょう。

 心のうちに、蟠(わだかま)っていたことが、文字やことばや絵などの創作によって、表現されるなら、時は移り、人は去っても、そうされたことの事実や、経緯、そうした人の実態が分かったり、されたことの背後にあった、その人の奥深い所に隠されていた過去などが、朧(おぼろ)げに気付き始めるのです。

 そう言った意味で、詩や俳句や短歌、作文、blog、手紙、memoなどで表現することは、自分や家族や友人などを、知る上で役立つのでしょう。お隣の国の学校で、日本語教師をしていた時に、「写作(xiezuo 作文)」を担当させていただきました。中国の社会で20年生きてこられて、日本語を学び始めた学生のみなさんに、多くのテーマで書いてもらったのです。その中に、「三行ラブレター」がありました。

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 けっこう難しい主題だったのです。三行の文章で、愛や思慕や感謝を表現するのに、みなさんは、限られた時間内に、それを書き上げたのです。ある年度に書いてもらった、その「三行ラブレター」を、四編ご紹介してみましょう。

《お父さんへ》

父さんが作れる たった一つの料理
中国料理の特に卵焼き
どんな料理よりも優しい味

《お母さんへ》

もらった命、もらったやさしさ
きつく叱られた幼き日々も 贈り物だったんだ
本当にありがとう

《友だちへ》

お天気予報
最初にあなたの住む街を見ます
今日はあたたかくなりそうですね

《おばあちゃんへ》

午前中ずっと私の歩く道路に沿って探していて
ただ、私の服から落ちたボタンのためだったと知って
涙が止まらなかった 、おばちゃん ありがとう

 なかなか感謝に溢れ、人を思う思いの深さのある秀作だったのです。日本語を学んでいる学生さんたちが、自分の周りにいてくれた両親、祖父母、恩師、友人たちへの感謝や思い出を、短く母国語ではなく、学んでいる日本語で文章化したわけです。とても懸命に、書き上げていたのが、教師として嬉しかったのです。

 もう恋文を書くようなことは、私にはありませんが、妻だけには、尽きない感謝があります。互いの弱さをもちながら、それに反発したり、受け入れたりの年月だったでしょうか。さらに父や母や恩師への感謝の想い、兄弟や友人たちへの懐かしい想いも、歳を重ねるほどに強くなってきているでしょうか。それを文章で表現できるのは、感謝なことであります。

(ウイキペディアによる福音書を記すマタイ、チビたえんぴつに補助じくを付けた様子です)

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クリーン・プラザ見学会

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 小雨の降る月曜日に、老人会(時節柄 “ Elder Club “ の方がよさそうですね)のみなさん九人で、〈蔵タク( ” Demand交通 ” と市の案内にある予約制の乗合タクシーのことです)〉に乗って、市の週末処理場の見学に行って来ました。

 そこも、英語表現で、クリーン・プラザ(Clean Plaza と呼ばれていて、外国の施設に行くみたいでした。そう日々出されるゴミの処理施設のなのです。自分の家庭から出す不用品が、どのように処理されているかを、市の職員の方の案内で、見学させていただいたのです。

 まず、三階会議室でVideo を観て、実際に施設を案内をしていただいたのです。広報によりますと、

「ゴミ焼却施設」

 ⚪︎完成年月 平成15325

 ⚪︎建設費 1411,200万円(本体工事費のみ、リサイクルプラザ含む)

 ⚪︎処理内容 もやすごみの焼却処理

 ⚪︎処理能力等 連続燃焼式 237

「リサイクルプラザ」

 ⚪︎完成年月日 平成15325

 ⚪︎処理内容 もやさないごみ・粗大ごみ及びペットボトル・トレイの資源化処理

 ⚪︎ 処理能力等 併用方式 30t/5h粗大ごみの再生展示

「リサイクルセンター」

 ⚪︎完成年月日 平成3330

 ⚪︎建設費 24,565万円(本体工事費のみ)

 ⚪︎処理内容 空カン・空ビンの資源化処理

 ⚪︎処理能力等 手選別処理 20t/5h

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 実際に作業の様子を見学させていただき、大変な作業をしている様子に感謝な思いがしてまいりました。年配者や外国人の方が、主に作業に従事していたでしょうか。ベルト上に流れてくる瓶を、色別に仕分けしたり、プレスされた空き缶を運んだり、大きな家具やマットなどは重機で運んだり、ここも手作業もありました。

 出流山や、お隣の鹿沼市の粟野に抜けていく街道の脇道に入った緑が溢れて箇所に、近代的な施設がありました。焼却で出る排気ガスの処理が万全であることを、木々の緑や咲く花が証明していました。電気も、水も、処理作業で作り出されるEnergie を使用しているそうです。余分な電気は、外部の電気会社に売っているとお話しされていました。

 どうも老人クラブの見学は稀で、ほとんどは市内の小学四年生の校外見学でやって来られるそうです。また外国人のみなさんも、おいでだと言っていました。

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 作業の様子を見学させていただき、大変な作業をしている様子に感謝な思いがしてまいりました。年配者や外国人の方が、主に作業に従事していたでしょうか。ベルト上に流れてくる瓶を、色別に仕分けしたり、プレスされた空き缶を運んだり、大きな家具やマットなどは重機で運んだり、ここも手作業もありました。

 見学を終えて、迎えの蔵タクで迎えていただくのを、センターのベンチに座りながら待っていました。その時の団欒も楽しいものでした。92歳の自治会の古老の方の発案で、今回の見学が実現しました。蔵タクの手配、時間調整など、心憎いほどの細かな配慮を見て驚かされました。立派な方なのです。好い半日の見学に感謝でした。

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ポカンとしている私

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 「社会的弱者」、「経済弱者」、「買物弱者」、などと言われる人たちがおいでです。そう言ったみなさんに、その社会、国家、集団などが、どのように援助していくかが問われています。

 病気や障害や事件、天候などの天変地異の出来事によって、損害や損失などをこうむった人たちに、どう接していくかが問われるわけです。そのような立場、環境にある人たちが、社会的に、経済的に、身体的に健康であるように援助していことが求められます。

 イスラエルの社会の中で、とくに経済弱者であった、寡や孤児や外国人への配慮や援助が、神によって定められていました。

『汝他國の人または孤子の審判を曲べからず。また寡婦の衣服を質に取べからず。汝誌ゆべし。汝はエジプトに奴隸たりしが汝の神ヱホバ汝を其處より贖ひいだしたまへり。是をもて我この事をなせと汝に命ずるなり。汝田野にて穀物を刈る時、もしその一束を田野に忘れおきたらば、返りてこれを取べからず。他國の人と孤子と寡婦とにこれを取すべし。然せば汝の神ヱホバ凡て汝が手に作ところの事に祝福を降したまはん。 汝橄欖を打落す時は、再びその枝をさがすべからず。その遺れる者を他國の人と孤子と寡婦とに取すべし。また葡萄園の葡萄を摘とる時は、その遺れる者を再びさがすべからず。他國の人と孤子と寡婦とにこれを取すべし。汝誌ゆべし汝はエジプトの國に、奴隸たりしなり。是をもて我この事を爲せと汝に命ず。(文語訳聖書 申命記24章17〜22節)』

 イスラエルの主なる神さまは、社会的弱者に対して、格別な配慮をし、この寡(やもめ)、孤児、在留異国人のみなさんの食べたり、飲んだり、着たり、住んだりすることについて、共に住む他者に責任を果たすように、イスラエルの民に命じたのです。

 聖書を学んだ学校で、この箇所をテキストに、退職して帰国する外国人教授の最終講義がなされたのです。旧約聖書の研究をされてきた学究派の聖書教師でした。社会弱者を顧みられる神さまを、学徒に語りたかったのでしょう。淡々と、時に昂りを見せながら話されたのです。

 非生産的、非貢献的な人間への神の顧みということ、寄るべなき者を、決して見捨てられない神さまがいて、人にも、寄るべない者を顧みるように要求する神がいらっしゃることに、まさに聖書が知らせる神さまのご性質の最もはっきりしたことではないでしょうか。

 生きていたって役に立たないと思われている人たち、価値も意味もないとしている人間社会に、そう言った人々と共に生きるために、心を配り、物を分け与えるように願う神が、聖書の示すお方なのです。強者だけが生き残れるような人間社会に、弱者保護規定を設けられたお方を、神だと知ってから、わたしは、自分の生き方が変えられたのです。

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 今も「弱者」がいますが、最近身につまされているのが、「情報弱者(デジタル弱者)」です。デジタルの世界の驚くほどに進歩し、変化し、その日進月歩の現実についていけない、われわれ世代が、その動きの中で、ポカンとしてしまっているわけです。

 日本語の会話の中に、カタカナ語が混じると、何が何だかチンプンカンプンで、ついていけないと言うか、拒否反応が出ているのと同じです。ラジオのニュースの中で、カタカナ語が出てきますと、英和辞書で字引きをするのですが、日本語化されている英語は、spelling がわからず苦労してしまうのです。

 今や、家内も私も「デジタル弱者」なのですが、携帯電話を持たない、キャッシュカードを使わない、車を持たないなど、旧態依然とした生き方をしている方が、時々いらっしゃいます。上の兄は、頑なに携帯電話を持ちませんし、近所の家内の友人も、家に黒電話を置いてるだけなのです。

 それでいて、生活に困ったり、不便を感じていないのです。文明の力に操られないで、人として、ごく自然に生きているわけです。でも、ITとか AIとか言う時代に、だんだん生きにくくなってしまっています。そんな私たちを「アナログ世代」とか言うそうですが、昨日も、家内の通院に付き合い、薬局で投薬を受けました。

 保険証の代わりに、マイナンバーカードで顔認識をされていました。テレビドラマの中にあった、なんだか犯罪者の面通しのように見えたのです。初めての職場は、出社や退社時には、名簿の記入でしたが、その内にカードに変わり、今では、顔認識、眼球認識(虹彩認識: Iris recognition)になっているそうです。何か、人が物扱いされているようで、怖いのです。

 一枚のプラスチックのカードの挿入、さらに眼球認識に目をのぞかれると、個人情報が悪用され、昔、宣教師さんに、終わりの時代に、「世界政府」ができて、そこに全人類の情報が管理されると、聖書研究で聞きましたが、そんな時代の到来なのだろうかと、とても心配で仕方ありません。でも、主のおいでの前触れでもありそうです。

(Christian clip artsのイラスト、ウイキペディアによる眼球です)

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フタリシズカ

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 この花は、「フタリシズカ」と言う花だそうです。呉市の山間部に咲いている様子を写した写真で、昨日送信していただきました。源義経の夫人だった静御前の名に因んで命名されています。「吾妻鏡(あずまかがみ)」に記された故事によるのでしょうか。

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陽の匂いがしてきて

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 ある子どもの頃の光景を覚えています。母が、父と男四人の息子たちの食事の世話を終えると、お釜の底に残ったおこげを、しゃもじでこそぎ落として、お茶を入れ、それを茶碗に注いで、食べていた姿です。十二分に食べさせてくれたのですから、母は、自分の食べるご飯なんか、おかずも同じで、少なかったのでしょう。後片付けのついでに、自分は残り物を食べて、台所に立っていたのです。

 余ったご飯は、清水で洗って、竹ザルにとって、日に干して、保存していました。「糒(ほしいい/干し飯)」と言います。一粒のコメでさえも無駄にしなかったのです。ザルの米を手で掬って、頬張った記憶があります。陽の匂いがして美味しかったのです。

 その家事万端の片付けを終えると、聖書と聖歌を手に、駅裏の教会に出かけて行ったのです。その頃、毎晩、集会があったのです。聖書を学び、祈るためにです。十四で教会に連なり、ずっと信仰を持ち続けていたのです。

 週日は、家族を送り出すと、夢中で子育てをしてくれていた時代には、part-timer などという言い方はなかったのですが、少しでも美味しい滋養のある食事を作って、育ち盛りの子たちに食べさせるために、駅の向こう側の菓子工場で働いてくれていました。

 それで受け取ったお金を手にでしょうか、時々、新宿のデパートに買い物に行っていたそうです。もう私たちが独立した頃になって、母が話してくれました。都会の空気を吸ったり、息抜きにというお出かけだけではなかったようです。確かに、母にも、その変化の時が必要だったのでしょう。

 男の子たちは、母のことなんか考えずに、食欲に任せて満腹になっていたのです。その母が、四十歳になる前に、その通勤時に、交通事故に遭ったのです。早めに学校から家に帰っていた私は、母の事故を聞いて、担ぎ込まれた病院に行ったのです。

 怪我した両足に応急措置をした後に、じっと痛みと闘いながらベンチに横になっていました。手に負えなかったのか、隣町の共済病院に入院するようになりました。重症で、両足の化膿で切断の危ういところにあったのです。それ以降10ヶ月近く入院したままでした。

 兄上の兄は、静岡県の会社の工場にいましたし、次兄は千葉県の運輸関係の会社で働きながら、大学で学んでいました。父は、毎日、野菜スープを作って、私にバスに乗って持って行くように言って、それに、私は従っていたのです。中学生の弟との三人、どうにか交代で家事を手伝いながら、母の入院の間を過ごしたのです。

 弟は学校を出て、寮にある団体に勤務し、ある時から、三男の私だけでした。両親と一番長く過ごしたのは、転職して都内に勤務していた次兄で、父の家に帰って来て、父と母の老後を、義姉とみてくれたのです。家族で一緒にいる時間は短いなと思います。私たちにも四人の子どもがいるのですが、上の息子と次女は、中学を出て、十五で親元を離れましたから、共に過ごした時間は短かかったようです。

 最近、動物の中で、チスイコウモリという蝙蝠の生態を知ったのです。熊やライオンは、子育て中、餌の豊富な時には、子どもたちに餌を分けるのですが、餌の不足の時は、自分だけ食べ、子を死なせることもあるのだそうです。ところが、このコウモリは、食べられない仲間に、餌を分けて上げると言うのです。

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 アフリカ大陸に、ケニヤやタンザニアに居住するマサイ族という種族がいます。この人たちは、身体能力の優れた人たちで、民族の結束力が強固なのだそうです。マサイのお母さんは、『食べ物があるなら、それを一人で食べるのではなく、それを仲間に分かち合うように!』と教え、それをマサイの子は守って生活をしてきたのです。

 この人たちだけが、あの奴隷商人の手から免れて、奴隷に売られることがなかったのだそうです。集団で、行動を合い、集団を守ることを身につけていたからなのです。幼い日に学んだことが、種族を守ったわけです。

 母は、聖書を教えてくれましたし、聖書を買ってくれました。宣教師さんの教会の特別集会があると、よく誘ってくれました。何よりも祈ってくれたのです。子ども頃に、母の両足の間に抱え込まれて、両手で抱いて祈ってくれたのを、昨日のことのように覚えています。

(ウイキペディアによる田植え風景、マサイ族です)

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神を求めて生きる

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『ヱホバかくイスラエルの家に言たまふ。汝ら我を求めよ。さらば生べし。(文語訳聖書 アモス書5章4節)』

 巴波川の浅瀬の流れに、勢いよく飛んで来たかと思うと、水の中を潜って、1、2メートル泳いでる間に、小魚を咥えたのでしょうか、流れから出て、嘴(くちばし)に魚の光る背腹を見せていましたら、たちまち飲み込んでしまったのです。その川鵜の捕食している様子を、先日、巴波川の流れに観ていました。その素早さと、捕食の巧みさに驚かされたのです。

 岐阜県の長良川に行かなくても、川鵜の生態を眺められたのは感謝でした。陸の王者のライオンが、獣を脱兎の勢いで、獣を追い続けて、ついに獲物を獲る様子を思い出したのです。

 自然界、とくに肉食動物の世界は、捕食の世界に違いないのですが、河川から流れ込む海に、プランクトンが養われ、それを小魚が食べ、大きな魚が、それを捕食しながら、命が保たれるサイクルを、創造者が定められたのでしょうか。

 生きていくため、生き抜くためには、この弱肉強食は致し方がないのでしょうか。この川鵜やライオン以上に、人を喰って、人を犠牲にして生きていることの多いのが、この人の世でもあります。人間は、本来、助け合いながら生きてるのだと思いたいのですが、そうではない現実が多くあります。

 『この故に若しキリストによる勸、愛による慰安、御靈の交際、また憐憫と慈悲とあらば、 なんぢら念を同じうし、愛を同じうし、心を合せ、思ふことを一つにして、我が喜悦を充しめよ。(文語訳聖書 ピリピ書2章1-2節)』

 人は、慰められ、憐れみや慈悲を必要としています。それを家族や兄弟姉妹、同信の友、隣人のみなさんとの間で与え合うのです。生きるために、私たちは、助け合いながら、ここまで生きてきました。創造者でいらっしゃる神さまは、人を、そのように造られておいでです。そんな助けがあって、今日まで過ごしてくることができました。

 その上、この私に、《神のいのちで生きる》ことを教えてくれたのが、母でした。と言うよりも、母自身が、そのように生きていたからでもあり、その生きる姿を見続けて、育ててくれた恩恵を、今にして思うのです。

 厳しい星の下に、母は誕生したのですが、両親に愛されて育った自分には、想像することもできない。〈父無し子(ててなしご)〉の現実の中で、父を求めて、本物の父に出会えたのは、何にも増して母には、幸いなことであったわけです。

 聖書が伝える神は、「父なる神」であります。「父性を担われる神」と言うのが的確な表現かも知れません。創造者としての神さまでいらっしゃるからで、自分自身が、この神のみ手によって創造されたことを信じられたです。こんなに優れた人間が、偶然の積み重ねによって作り上げられることってあるでしょうか。

 ベランダの鉢に真っ黒な土を入れ、そこに種を蒔くと、真っ白い花が咲くことに、大人になった今でも驚くのです。赤や黄色やピンクなどの様々な色彩の葉弁をつけた花々が咲く様子に、意図されて造られた創造の美が際立っているのは、一体どこに起因しているのでしょうか。

 さて川鵜は、水中で捕食するだけではなく、隊列を組んで、空を飛翔して、渡りと言う長距離を移動する習性も持っているのです。泳げて飛べるなんて、ちょっと羨ましいものです。しかも仲間の無事を願いながら、先頭飛行を交代しながら行くのだそうです。

(ウイキペディアによる、川鵜の映像です)

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昭和情緒

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 家内が、初めて入院した時に、帰国して、次男の家に居候していたことがありました。GUNZE製の下着を好んで着用していたので、それを買って上げようと、次男に話しましたら、『巣鴨が好いよ!』と言ってくれたのです。

 JR山手線は、池袋より向こうには、あまり出掛けたことがなく、不案内でしたが、東急東横線で渋谷に出て、山手線に乗ったのです。巣鴨駅からしばらく行ったところに、放射線状に行く商店街があって、そこが「巣鴨商店街」なのです。

 昔から、地蔵信仰で参詣客が多くて、その道筋に市が立って、大変ににぎわっていたのだそうです。江戸彼岸桜と大島桜との交配で咲き始めた「染井吉野」で有名で、その桜の発祥地が、「染井」で、この巣鴨の近くなのです。

 その街が、「おばあちゃんの原宿」と呼ばれていると、次男が言っていました。東京の街には、商店街の名所が多くあって、下町情緒のあふれる店が軒を連ねている風情が残されています。それでもスーパーマーケットの勢いに押されながらも、それでも地域に密着した商店街は、商いを続けているようです。

 私たちの住む地域も、昔話を聞きますと、かつては押すな押すなの人で溢れかえっていた商店街だったそうです。江戸、明治、大正、昭和と、時代は変わりながらも、栄えていたのですが、車社会になって、大型スーパーが郊外の沿線道路脇に出店してから、どこの街も、その様相は一変してしまったようです。

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 駅からの道筋に、何軒かの喫茶店が、近所にあって、年配者のお客さんが、コーヒーを飲みながら、昔語りをしておいでなのでしょうか、時を過ごしている様子が、窓ガラス越しに伺えます。

 昨日は、友だちが届けてくれたと言われて、近所のご婦人から美味しいイチゴと新玉ねぎをいただきました。先週末には、お隣の群馬の出身の方が、小玉スイカが届いたと言って、お持ちくださったのです。そんな、《昭和のやりとり》が残されていているのです

 時が静かに流れていき、昔を思い出しながら、共通の思い出を語りながら、ここには交わりが残されています。みんな若い日があり、楽しい思い出も辛い過去もお持ちなのです。それで今があります。その巣鴨商店街で、冷やし中華を食べたのを思い出しました。これも昭和の味覚でしょうか。

(ウイキペディアの巣鴨商店街、冷やし中華です)

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先生

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 明治から大正にかけて活躍した、添田唖然坊という演歌師が歌って、大変人気を得た「のんき節」に、「先生」が歌われています。先生は「偉い」のですが、それよりも、「えらい(『たいへん!』という意味で)」が、甲信地方でおもに使われますが、仕事をしたり、生きたりする大変さで、言うのかも知れません。

學校の先生は えらいもんぢやさうな
えらいから なんでも教へるさうな
教へりや 生徒は無邪氣なもので
それもさうかと 思ふげな
ア ノンキだね

 でも、「好い先生」がいてくれて、柳の若枝のように柔軟な小学生や中学生、高校生や大学生の私を教えてくれた、学校の先生に出会い、教えられて今日があります。

 蛍狩りに出かけて、捕ってきたホタルを、『どうしても担任の先生に見せたい!』と、小学生だった次男が言って、一緒に先生のお宅を訪ねたことが、わが家の子育ての出来事の中にありました。喜んで持っていきましたら、先生は、とても喜んでくれたのです。

 そんな話を、family chat に、先日送信しましたら、自分の担任の先生のことが話題になって、とくに娘たちから、にぎやかな応答があったのです。

 田舎から転校してきた私を、小学校2年の2学期から担任してくださった先生でした。幼稚園も行かず(山奥に住んでいてなかったからですし、入院したりでしたが)、病気がちで登校日数の極めて少なく、井の中の蛙(かわず)の私は、登校した日には、じっとイスに座ることができずに、立ち歩いては同級生にちょっかいを出していました。どうも世間知らずで、しかも多動性の問題児だったのです。

 国語の授業の時でした。教科書の記事の擬音、『ガタカタ、ゴットン!』だったと思うのですが、その音を、『電車の線路の切り替えの分岐する箇所で起きる音です!』と私が答えたのです。それを聞いて、『よく分かったわね!』と、先生は褒めてくれたのです。それから自分が変わったのを覚えています。褒めるって、褒められるって、すごいことなのだと、今でも思い返すのです。

 学校に行き始めて、叱られたり、立たされたこと(いろいろ思い出して、教室の後ろ、廊下、校長室の他に、校庭、自慢ではないのですが林間学校でお寺に泊まった時に、墓のそばの山門に夜中に立たされことまでありました)などばかりなのに、一度だけほめられたことは、大きな生きていく励みになったのです。

 これまで、〈立たされ坊主〉なのに、二度、教師の仕事をさせてもらいました。信じられなかった同級生たちに、『俺が確かめ役に選ばれた!』と言って、学校に訪ねてきたことがあったのです。会ってすぐに、『準、お前、本当に先生やってるんだな!』と、目をマンマルくしていたのです。

 よい先生に出会ったのですが、自分は良い教師ではなかったようです。それでも、恩師の真似をしたことがありました。中国の教室は、掃除が行き届いていなかったので、朝イチに行って、教室の床や机の中のゴミを拾ってゴミ箱に入れ、学生用机や教卓をティッシュペーパーで拭いて、学生さんたちの来るのを待っていました。

 もう一つは、みなさんに挨拶をする時は、中学の三年間、担任をしてくださった先生が、朝礼終礼、授業の初めと終わりに、教段から降りてしておられたのに真似て、それをしたのです。あのようになさった教師は、他にはいませんでした。

 この先生は、先生でありながら、無言で、そんなことを教えてくださったのです。また社会科の授業を担当されて、読むべき本の紹介をホームルームで紹介されたり、どう大人と関わるかなども教えてくれたのです。恋愛のチャンスの捉え方まで教えてくれました。教師になりたいと願っていた私の前に、その機会が開いてくれたのです。

 教会の中で、牧師さんを、『先生!』と読んでいるのですが、私たちの宣教師さんたちは、その呼称を呼ばせなかったのです。ご自分を、ジャック、チャック、ジョージと呼ばれるのを、喜んでいました。偉さではなく、謙遜さで、人は測られ、呼ばれ、関わるのです。キリストのゆえに、罪を赦されて、教会の主に選ばれ、任じられて主の御用に当たっておられた宣教師さんたちは、ご自分のタイトルに、reverend を使われませんでした。

 『じゅんさん』と、牧師さんの孫で、今年小4になったお嬢さんは、私を、そう呼んでくれます。そう呼ばれて、実に、いい気持ちなのです。天国に行ったら、多くの人たちに会うのですが、グレシャム・メイチェン、バクストン、竹森満佐一のみなさんを、きっと〈先生なし〉で呼ぶのではないでしょうか。

 呼ばれたみなさんが、ただ《罪赦された》ことの感謝でいっぱいだから、きっと抵抗なしに聞いて、お互いに感謝し合うのではないでしょうか。

 そういえば、〈信徒訓練〉で、教会では、〈先生〉と呼ばせるのだと言っていた若い伝道者の顔を思い出しています。そう呼ばせて、教会の中で、秩序を保つためだとも言っていました。キリストの教会には、そんな秩序が必要とは驚いたのです。でも、天国で、父や母と再会した時に、『おとうさん!』、『おかあさん!』と呼んでしまいそうで、どう呼びかけるのでしょうか。

(Christian clip artsによる、人に目を明けられたイエスさまです)

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