陽の匂いがしてきて

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 ある子どもの頃の光景を覚えています。母が、父と男四人の息子たちの食事の世話を終えると、お釜の底に残ったおこげを、しゃもじでこそぎ落として、お茶を入れ、それを茶碗に注いで、食べていた姿です。十二分に食べさせてくれたのですから、母は、自分の食べるご飯なんか、おかずも同じで、少なかったのでしょう。後片付けのついでに、自分は残り物を食べて、台所に立っていたのです。

 余ったご飯は、清水で洗って、竹ザルにとって、日に干して、保存していました。「糒(ほしいい/干し飯)」と言います。一粒のコメでさえも無駄にしなかったのです。ザルの米を手で掬って、頬張った記憶があります。陽の匂いがして美味しかったのです。

 その家事万端の片付けを終えると、聖書と聖歌を手に、駅裏の教会に出かけて行ったのです。その頃、毎晩、集会があったのです。聖書を学び、祈るためにです。十四で教会に連なり、ずっと信仰を持ち続けていたのです。

 週日は、家族を送り出すと、夢中で子育てをしてくれていた時代には、part-timer などという言い方はなかったのですが、少しでも美味しい滋養のある食事を作って、育ち盛りの子たちに食べさせるために、駅の向こう側の菓子工場で働いてくれていました。

 それで受け取ったお金を手にでしょうか、時々、新宿のデパートに買い物に行っていたそうです。もう私たちが独立した頃になって、母が話してくれました。都会の空気を吸ったり、息抜きにというお出かけだけではなかったようです。確かに、母にも、その変化の時が必要だったのでしょう。

 男の子たちは、母のことなんか考えずに、食欲に任せて満腹になっていたのです。その母が、四十歳になる前に、その通勤時に、交通事故に遭ったのです。早めに学校から家に帰っていた私は、母の事故を聞いて、担ぎ込まれた病院に行ったのです。

 怪我した両足に応急措置をした後に、じっと痛みと闘いながらベンチに横になっていました。手に負えなかったのか、隣町の共済病院に入院するようになりました。重症で、両足の化膿で切断の危ういところにあったのです。それ以降10ヶ月近く入院したままでした。

 兄上の兄は、静岡県の会社の工場にいましたし、次兄は千葉県の運輸関係の会社で働きながら、大学で学んでいました。父は、毎日、野菜スープを作って、私にバスに乗って持って行くように言って、それに、私は従っていたのです。中学生の弟との三人、どうにか交代で家事を手伝いながら、母の入院の間を過ごしたのです。

 弟は学校を出て、寮にある団体に勤務し、ある時から、三男の私だけでした。両親と一番長く過ごしたのは、転職して都内に勤務していた次兄で、父の家に帰って来て、父と母の老後を、義姉とみてくれたのです。家族で一緒にいる時間は短いなと思います。私たちにも四人の子どもがいるのですが、上の息子と次女は、中学を出て、十五で親元を離れましたから、共に過ごした時間は短かかったようです。

 最近、動物の中で、チスイコウモリという蝙蝠の生態を知ったのです。熊やライオンは、子育て中、餌の豊富な時には、子どもたちに餌を分けるのですが、餌の不足の時は、自分だけ食べ、子を死なせることもあるのだそうです。ところが、このコウモリは、食べられない仲間に、餌を分けて上げると言うのです。

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 アフリカ大陸に、ケニヤやタンザニアに居住するマサイ族という種族がいます。この人たちは、身体能力の優れた人たちで、民族の結束力が強固なのだそうです。マサイのお母さんは、『食べ物があるなら、それを一人で食べるのではなく、それを仲間に分かち合うように!』と教え、それをマサイの子は守って生活をしてきたのです。

 この人たちだけが、あの奴隷商人の手から免れて、奴隷に売られることがなかったのだそうです。集団で、行動を合い、集団を守ることを身につけていたからなのです。幼い日に学んだことが、種族を守ったわけです。

 母は、聖書を教えてくれましたし、聖書を買ってくれました。宣教師さんの教会の特別集会があると、よく誘ってくれました。何よりも祈ってくれたのです。子ども頃に、母の両足の間に抱え込まれて、両手で抱いて祈ってくれたのを、昨日のことのように覚えています。

(ウイキペディアによる田植え風景、マサイ族です)

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