病む時にもいと近き助け

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『ヱホバは彼がわづらひの床にあるをたすけ給はん。なんぢかれが病るとき、その衾裯をしきかへたまはん。(文語訳聖書 詩篇41篇3節)』

 「病院考」、これまで、自分や両親や兄弟、家内や子たち、そして自分が病んでかかってきた病院のことを、さまざまな病歴を思い出して、記してみようと思います。

 先月末に、ある医科大学附属病院に、検査のために行きました。予約した時間まで、時間がありましたので、初めての院内を見て回ったのです。家内の診察で、日赤広尾病院などにも行ったことがありましたが、その規模と、廊下から見える範囲の医療機器や医療関係者の働かれり有り様が、最初に入院した、1950年頃の病院と、雲泥の差でしたので、そんな思いに駆られたようです。

 山奥に住んでいた時に、風邪をこじらしたのか、肺炎で、国立病院に入院したのです。小学校に入学前のことでした。その入院先は、戦前の旧連隊の病院だったのが、戦後、国立病院に移管され、その街で一番の総合病院でした。廊下を歩くと、ギシギシとした音がして、木造の古びた学校の校舎みたいでした。

 下の弟が、三歳ぐらいでしたが、母が付き添ってくれ、ベッドの下で寝ていました。週末になると兄たちがやって来て、励ましかからかいか、見舞ってくれたのです。上の兄が、ベッドに横になっていて落ちて、下に置いてあったオマルに手を突っ込んだ出来事を覚えています。大きな行列で、ベッドの周りに人垣ができたことがあって、何かと思ったら、県の偉い人が見えて、院長や事務長などの大名行列だったのです。

 その病院では、一大事だったのでしょう。そんな大騒ぎを、今で思うと、父が地元出身ではなく、戦時下の国への貢献の過去、戦後の県有林の払い下げ材の事業をしていた関係で、その病んだ子の見舞いが、大仰にあったのは、思えば知事選の運動の一環だったのでしょうか。学齢期前の私には、全く関係のないことであって、賑やかだけの出来事を覚えています。

 その入院中の私のために、横須賀の実家に、大切に仕舞われていた、イギリス製の純毛の毛布を、父が持って来てくれ、戦後の空調などない冬の病室で寝ている私への父の愛だったのです。その毛布を、どうしたことか、暇にかまけた私は、ハサミで切り刻んでしまって、みんなが驚き呆れられてしまったのです。

 その肺炎のおかげで、東京に越してから、風邪をひいた私を、電車に乗せて、立川にあった国立病院通いを、母がしてくれたのです。『今度肺炎を起こしたら死んでしまう!』と、医師に厳重に言われた母が、必死になって、大病院に連れて行ってくれたのです。うる覚えですが「マキ先生」という名の主治医だったと思うのです。小学校3年ほどまでは、その繰り返しでした。

 そんな死線を彷徨いながら、生きられたのは、『死なせまい!』と、躍起に世話をしてくた母の愛、祈りだったのでしょうか。わがままな三男を、宥めたりすかしたりしての病院通いで、小学校四年になってから、突如元気になって、クラスの番長にまでなってしまったのです。

 でも、基礎的な初等教育を受ける時間が少なかったのでしょうか、文字は書けて、意味は分かっても、書き順が間違っていて、今でも直しようがありません。〈くノ一〉を〈一くノ〉で書いてしまうのです。それでも聞き学問で、ラジオからの知恵だけは与えられたのは、怪我の功名だったのでしょう。何よりも、教室での立ち歩きやチョッカイ出しで、いつも怒られ、立たされたのです。

 中耳炎での激烈な痛みもありました。兄の同級生のお姉さんが、自転車の後ろに乗せてくれて、街中の耳鼻科に連れて行ってもらったこともありました。あれ以来、泳ぐと耳に水が入って、すぐに中耳炎を起こしていました。鼓膜が破れ、しかも両耳だったのを、何年も何年も経って、六十才前に、知り合い方の紹介で、仙台の耳鼻咽喉科で、再生手術をしてもらいました。

 そればかりか、よく怪我をしました。手傷や脛の傷は数え切れないほどの傷跡を残しています。宣教師さんの住んでいた貸家を受け継いで住むために、この方が庭に作った建て増し部分をかたずける仕事をしていて、屋根から落ちて肋骨骨折で入院したのです。結婚式を挙げさせていただいた整形医の病院に入院させていただいて、懇切に診てもらいました。

 腕をつっている腱板を、右腕左腕を、10年の間隔で、二度も損傷し、縫合手術を行いました。一回目は、教会に来ておいでの姉妹が看護師をしておられた市立病院で、家内が英語を教えていた小学生のお母さんが病棟勤務でした。2回目は、ネットで見つけた、札幌の整形外科医院ででした。札幌には、中国から帰国した足で、スーツケースを宅配してもらい、その足で伺いました。

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 治療の願いは、メールで院長に伝え、MRIの映像を送って、鍵盤断裂が確定し、治療の取り付けを前もってしておいたのです。すぐに手術だと思っての札幌行きでしたが、その医院は、一日に12人もの手術を毎日するほどの注目医院でした。押し掛けの〈中国から来た日本人の患者〉の私を、市内のホテルに一泊させて、その手術日に、〈十三番目の最終患者〉で、異例の手術してくださったのです。

 手術後、系列医院でリハビリをするのが普通なのですが、この院長は、『僕の手元でお世話しますから!』と、退院まで本院に居続けさせてくださって、懇切なリハビリを受けたのです。時々、この院長には感謝と、現況を伝えております。

 これまで最大の入院手術は、左腎臓の摘出でした。39才の夏に、東京の女子医科大学で行いました。末っ子が3才の時でしたが、家内のOKがあって、次兄への移植手術をしたのです。その手術は11時間を要したそうで、麻酔から目覚めた時の痛みは、これまで味わったことのないほど激烈でした。その兄は、今年83歳になり、健在でおります。

 入院と手術前に、『主の十字架の痛みを、少しでも味わえたらと思っています!』と、ある方に話したのですが、その体の奥から湧き上がる術後の痛みは、想像を絶していて、じっと見守ってくださった看護師さんに、『痛いので、鎮痛剤をお願いします!』と、豪語した舌の根が渇く前に、そんな必死な嘆願してしまったのです。

 主の十字架の苦しみなど、万分の一でも味わうことなどできない、ただ赦された罪人の私は、あの言葉を恥じ、『ごめんなさい!』と、主に呟いたのです。四国の大学病院から研修に来られていた女医さんが、傷口の縫合をされたと聞いたのですが、一本のメスの跡ではなく、刀傷のようにみみず腫れして、今でも、振り返るとつることがあります。

 ある集会に参加した折、お風呂で、この傷口を見て、眼をマンマルくして、『ジュンせんせいは元ヤクザだったんですか?』と聞かれて、ニコニコして聞き流しました。先日も老人センターの百円風呂で、広いお風呂に入っていた先客が、私の腹部を見て、『何の傷ですか?』、と驚いて聞いてきたのです。普段は、左腕で、そこを隠しているのですが、角度が低いところから見たので、丸見えだったのでしょう。

  驚きを鎮めるために、経緯をお話ししましたら、至極感心されて、『言わなかった方が良かったかな!』と思ったのです。もうお会いすることも、そうなさそうでしたので、一見の方と安心しました。

 先月は、その医科大学附属病院に通院し、中国の省立や市立や大学の医学部の病院に、家内が二、三度入院し、シンガポールでも、救急搬送で治療を受けていますので、外国の病院の経験も、直接間接にありますから、病院について、語り得る資格があるのかも知れません。

 医学なしの今の私はなく、いのちの付与者で、保持者の神さまの憐れみなしに、私の今はないのです。母がドクダミの葉を揉んで、傷口に当ててくれました。転んで頭を強かに打った私の頭に手を置いて、祈ってくれたこともありました。今年、八十になる私ですが、昨日、検査結果が出て、今後の治療方針を、主治医がお話しくださったのです。

 驚くのは、この病院を紹介してくださった隣り人は、同じ症状で治療中なのです。《友だち》だと言ってくれ、ご夫人もご一緒に行き来や物のやり取りのある同世代の方なのです。夕方、病院の帰りしなに報告に行くと、手作りハンバーグを頂いてしまいました。善き隣人です。

(Christian clip arts によるイラスト、近所の別の方に頂いたドクダミの葉です)

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獅子と戯れる時がくることでしょう

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『おほかみは小羊とともにやどり、豹は小山羊とともにふし 犢 をじし、肥たる家畜ともに居てちひさき童子にみちびかれ、牝牛と熊とは、くひものを同にし、熊の子と牛の子とともにふし、獅はうしのごとく藁をくらひ。乳兒は毒蛇のほらにたはふれ 、乳ばなれの兒は、手をまむしの穴にいれん。(文語訳聖書 イザヤ書11章6-8節)』

 道を歩いていいると、若い頃には、そんな願いは全くなかったのですが、この頃は、途中で「小休止」したくなる時があります。でも、途中には、車社会だからでしょうか、ほとんど、そんな箇所がありません。散歩コースに、美味しい珈琲店があって、何度か立ち寄りました。そんな spot を見つけて、たまには休むこともあるのです。

 北は総合運動公園方面、南はこちらを流れる川の下流方面、西は カインズの店方面、東は生協ストアー方面に、その日の気分で歩き始めていきます。それでも最近は、「バス停」に、小型のベンチが置かれる箇所が出てきました。どなたかの寄進でしょうか。どうもお年寄りの病院通いが多いからなのでしょうか。

 最近凝っているのが、「ぶらんこ」なのです。おかくらたみの詩に「ぶらんこ」があります。

花びらが、「もう いいわ。」っておりて いったので、

かぜは、ひとりで のっていました。

かぜが、ぶらんこに のって いたら、

花びらが、「のせて。」ってきたので、

いっしょに のりました。

花びらが、「もう いいわ。」って

おりて いったので、

かぜは、ひとりで のっていました。

 岡村民、1901(明治34)年、長野県に生まれています。日本大学の国文科に学びますが中退し、幼稚園を経営し、童謡詩人、童話作家でもありました。まぶたに、花びらを乗せて揺らぐぶらんこの光景が浮かんできます。このところ、近所の公園と運動公園に、あおのぶらんこを見つけて、通るたびに、それをこいでいるのです。童心に返るというのでもなく、昔しっかりとこげなかったことへの老いの再挑戦なのです。

 ブランコと、それに乗せてもらっているおじいさんは、どうもmismatch で、そぐわないかも知れませんが、花びらになったように、振り子時計の気持ちになったり、高く行くようにとこぐ力が、じょじょに強くなっていくのです。

 その公園には、滑り台も鉄棒も、ジャングルジムもあるのですが、落ちて怪我を負いかねないので近づかないことにしています。時々、兄弟でしょうか、姉妹でしょうか、彼らの遊び回っているのを見て、その満足そうな顔が、郷愁を誘い、平和な時代の子どもたちの嬉々とした姿が眩しいのです。その公園には、「ベンチ」が置かれてあります。

 運動公園の中には、「東屋」もあって、小休止や雨宿りのために、時々利用するのです。ある箇所は、お爺さんたちの溜まり場のようになっていて、二つほどのベンチに、肩を寄せ合って座って、どんな話題でお喋りしているのでしょうか。時々、『仲間に入れてもらおうかな!』と思ったりたりはしますが、未挑戦の今です。

 生きてきた道を、「人生街道」と言っても良いのでしょうか。日本橋を起点に、江戸五街道には、「一里塚」が置かれ、また、宿場も設けられて、旅人のための便宜が図られていたのです。実に賢い道路管理があったようです。街道沿いには、茶店が置かれ、旅の疲れが癒されたように、「人生のベンチ」もあったらいいのではないかなと思ったりします。

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 崖崩れや、川止め、獣や盗賊の出現などの情報の交換がなされたように、人生街道にも、小休止場所がって、情報を得ているようです。そこは「息抜きの場」でもあって、これって人に必要な場所に違いありません。それだけではなく、「会話の機会」が、人には必要不可欠なことでもあります。ただし、情報氾濫の今の世では、正しい情報を聞き、答える有益な会話の場が必要なのかも知れません。

 私は、週の初めの日に、人との会話ではなく、魂の創造者、永遠のいのちの付与者である、《神さまとの会話》の素晴らしさを味わっているのです。讃美を歌い、祈り、信仰を告白します。それと共に、講壇からなされる礼拝説教を聞くこと、これこそが、不可欠の神と人との会話なのです。

 驚くような事件の頻発の世界に、熊も獅子もまむしも、幼い子供と戯れるような時が、間なくやってくるのでしょう。私たちの神は、「平和の君」でいらっしゃり、やがて平和な時の到来があることでしょう。その時は、面と面と向かって、父との会話、救い主との会話をすることでしょう。

(私の愛乗のぶらんこ、「いらすとや」のベンチです)

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砂漠花が咲いて

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『荒野とうるほひなき地とはたのしみ、沙漠はよろこびて番紅の花のごとくに咲かがやかん。盛に咲かがやきてよろこび且よろこび且うたひ、レバノンの榮をえ、カルメルおよびシヤロンの美しきを得ん。かれらはヱホバのさかえを見われらの神のうるはしきを見るべし。(文語訳聖書 イザヤ書35章1-2節)』

 今朝、わが家のベランダで開花した、「ノトカクタス(サボテンの一種です)」です。素晴らしく綺麗で、圧倒されてしまいました。砂だらけの砂漠に、いのちが育つことの象徴の植物、背の高いサボテンが、アメリカの西部劇映画に登場していました。

 イザヤも、楽しみや喜びを輝かす「番紅(サフラン)」の花を、荒野や砂漠にも咲かすことを語り、記しました。過酷な自然の中に、いのちを育む、創造の神さまのみ業なのです。

 これらの花よりも、はるかにいのちに溢れ、輝き、喜ばれる神さまがおいでなのです。何度も刺されたので、隅に追いやっていたサボテンの鉢が、大歓迎で、テーブルの上に運ばれました。外は昨夜来の雨ですが、この部屋が輝き出しています。

(上の写真は昨夕、下は今朝撮影しました)
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小遠足の思い出話

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『もろもろの花は地にあらはれ、鳥のさへづる時すでに至り、班鳩の聲われらの地にきこゆ。無花果樹はその靑き果を赤らめ、葡萄の樹は花さきてその馨はしき香氣をはなつ。わが佳耦よ、わが美しき者よ、起て出きたれ。(文語訳聖書 雅歌2章12-13節)』

 ローカル線の電車の運転手さん、市バスの運転手さんと、話す機会があり、人の移動の助けをしている仕事柄、興味深い話をお聞きする機会が多いのです。

 群馬県桐生市に、JR 両毛線の桐生駅を始発に、渡良瀬川の岸を走る電車の始発駅があります。1610年に銅鉱石が発見され、徳川幕府の直轄の鉱山として、その採掘を始めた足尾銅山を結ぶ電車なのです。そこで採掘された銅は、加工を経て、日光東照宮や芝増上寺の造営に使われたそうです。さらに、「鋳銭座」を設け、寛永通宝などの銅銭を鋳造したのです。

 明治期になって、鉱脈が尽きたのか、減産に減産を重ねていきます。ところが古河財閥の手で、新鉱脈が発見されるや、20世紀の初めには、日本の銅の40%を採掘していくのです。そのようなので中で、馬の背での運搬では間に合わなくなり、鉄道が敷設されるに至ったわけです。当時、栃木県下では、宇都宮に次ぐ人口の多い街として、賑わったのが、この足尾だったそうです。

 鉱山王のグリン・ビビアンが、クリスチャンとなって、世界中の鉱山で働く坑夫に重荷を持ち、各国にの鉱山の街に、教会ができるように、この方の遺産が捧げられ、伝道を開始していくのです。ここ足尾でも伝道が開始され、1908年に、キリスト教会が始まります。その教会の建物は、現在も、通洞駅近くにあって、礼拝のために使われていて、過疎になった街に、灯火をかかげ続けています。

 その鉄道が、民営に移管されてた「わたらせ渓谷鉄道」で、2020年の初夏に、私は利用をしたのです。その電車に乗って、上下線の待ち合わせ停車の時間に、運転手さんと話をしたのです。ローカル線の若手の方で、キビキビと運転され好感度満点だったからでしょうか、話しかけたのです。

 『みなさんには楽な仕事に思われるんですが、神経を大変使って、日頃運転しているんです!』、『夜間走行時には、カモシカや日本シカが線路上に出てきて、轢(ひ)いてしまうことが、3週間に一度くらいあるんです!』、それで質問を私がしましたrs、『事故処理は、どうされるのですか?』と、すると、『電車を止めて、線路上に降りて、自分でするんです!』と言っておられました。

 熊とかは皆無で、轢かれるには、逃げようとしない鹿だけで、どうも仕方がないことなのだそうです。渓谷美を見せる沿線では、そんなことが起こっていたのです。帰りは、通洞駅から、東武日光駅まで、日光市営バスに乗車しました。実に美しい、梅雨前の緑の木々の間を走り抜けたのです。また出掛けてみたい小遠足でした。

 足の銅山の公害があったことなど忘れさせるほど、渡良瀬川の流れも清く澄み、木々の緑も圧倒されるほどでした。ここも強者どもが夢の跡で、何事もなかったかのように、自然が溢れた静かな地でした。

 先日乗った市営バスの運転手さんが、『花いじりをした後は、年配者は、石を集めるのだそうです!』と、趣味の変化の話をされておいででした。ベランダに植木鉢が、今は溢れていますが、これから出先で拾った「石」が集められ、やがて置かれるのでしょうか。「収集家( collector  )」とは、年寄りのタイトなのでしょうか。

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 鏃(やじり)や土器のかけらを、家に置いていたことがあった小学生の頃を懐かしく思い出してしまいました。そろそろ入梅でしょうか。銚子港に、入梅いわしが水揚げされたとニュースが伝えています。

(わたらせ渓谷鉄道の車内、ウイキペディアのイワシの魚群です)

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朝顔の鉢植えを終えて

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 今季も、「朝顔」をベランダに咲かせる準備を終えました。種を冷暗所で発芽させ、それを、五月末になって鉢植えしたのです。真夏には、日陰を作って、涼を添えてくれる、花ある景色が好きだからです。

 華南の街の八階のベランダにも、いっぱいに咲かせたことがありました。下から見るには高すぎる景色でしたが、住む私たちには、一夏の慰めでした。年が明けて、正月になっても花を咲かせていたのには驚きました。

(“ ぴくらいく ” からの朝顔のイラスト画です)

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強者どもの今を

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 兄たちの世代で、脚光を浴びた文化人や政治家や芸能人、そしてスポーツ選手たちの今を伝える記事が、マスコミに多く取り上げられてられています。戦時下に生まれ、厳しい戦後を過ごし、激変する社会に中を走り抜けてきた世代でしょうか。

 戦争で父を亡くしたり、あるいは両親の不和と離婚、けっこう恵まれない星の下を生き抜いてきたみなさんが多くおいでです。人には言えない辛苦を通った方もいるのです。日本プロ野球で、前人未到の記録を残した名選手に、張本勲がいます。先頃までは、テレビ番組のcommentatorとして活躍していた方です。

 先日、ジャイアンツの試合で、張本勲が、始球式をしている映像を見ました。杖をついて、おぼつかない足取りで、マウンドまで歩み、ピッチャープレートのだいぶ前から投げておられましたが、外野からの強烈な返球や、バットをブンブンと、振り回す姿を知っている私には、バウンドしながらキャッチャーミットに届いたボールを見て、なにか物悲しく感じてしまったのです。

 王、長嶋などの選手の陰に隠れていましたが、真にプロフェッショナルのプロ野球選手でした。朝鮮半島の出身のご両親によって、広島で生まれ、ガキ大将で喧嘩に強い頑強な少年期を過ごしていたそうです。原爆が投下された時に被爆されておいでです。子どもの頃に、手を火傷して、機能不全になるところをなんとか持ち堪えて、野球と出会って、その能力やSenseをもって、日本野球界に、「安打製造機」と異名をとって、貢献した記録保持者なのです。

 一家を支えたお父さんを亡くし、その後は、お母さんが、豚や牛の内臓を加工したホルモンを、広島の街で売り歩いて、子育てをしたのだそうです。お姉さんも亡くしています。そんな厳しい中を、生き抜いた猛者です。

 その彼の近影を見て、また、先頃亡くなられたプロレスの猪木、その他に銀幕を飾ったり、ステージの上で活躍した、兄世代の芸能人の逝去のニュースも多く聞きます。鋼鉄のように鍛え上げた身体を持っていても、老いには叶わないようです。人の限界を覚えるのです。聖書は、

『われらが年をふる日は、七十歳にすぎず。あるひは壯やかにして八十歳にいたらん。されどその誇るところは、ただ勤勞とかなしみとのみ。その去ゆくこと速かにして、われらもまた飛去れり。(文語訳聖書 詩篇90篇10節)』

 人の盛んな時期は、短いのだと、そんなニュースを目にし、病気がちの自分も含めて、父が、よく言っていたように、

『いつまでもあると思うな親と金!』

これに、「若さ」や「勢い」や「溌剌さ」なども加えられるでしょうか。いつまでも、それらはなさそうです。先週は、隣人で、いろいろと心配してくださる、こちらに来てからできた友人に紹介されて、大学附属病院の循環器内科に、検査で出かけました。外科ばかりで、何度も何度も私は入退院を繰り返してきましたが、今や内科疾患で医者通いです。

 下野国の国府のあった街、下野市に、超近代的な地域医療の拠点が出来上がっています。薄暮のグラウンドでシュートを打ったり、 大男を相撲でぶん投げたり、高尾山を駆け上がった日もあったのに、今の様子ですが、これでいいのだと思うのです。人の一生を、静かに、また賑々(にぎにぎ)しく過ごして来ての今、それでも小走りしては、ふと気付いて、『もう無理はしない!』と、自分に言い聞かせています。

 そう「飛び去る日」がくるのですが、その日まで、いただいた命を大切に、感謝で生きようと、病院の玄関から出た次第です。その同じ日には、弟が入院中だと知らせてき、次兄と義姉とは、自分も入院してヘルニアの手術をし、家内も入院手術をしたことにある病院に、一緒に、姪の運転で通院中だと、電話がありました。上の兄もスポーツ選手でしたが、大怪我の後遺症などで、今や、あちこち痛いのだそうです。それぞれの病情報交換して、祈り合うこの頃です。これで、いいのでしょう!

( “ いらすとや “ による野球選手です)

この日を喜び楽しまん

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『これヱホバの設けたまへる日なり。われらはこの日によろこびたのしまん。(文語訳聖書 詩篇118篇24節)』

 6月4日午前4時20分台の「日の出」です。昨日の夕方の大雨と打って変わって快晴です。「主の造られた日」ですから、『喜び楽しもう!』と思います。 

 好い一日をお過ごしください。

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デジタル弱者の私

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 「社会的弱者」、「経済弱者」、「買物弱者」、などと言われる人たちがおいでです。そう言ったみなさんに、その社会、国家、集団などが、どのように援助していくかが問われています。

 病気や障害や事件、天候などの天変地異の出来事によって、損害や損失などをこうむった人たちに、どう接していくかが問われるわけです。そのような立場、環境にある人たちが、社会的に、経済的に、身体的に健康であるように援助していことが求められます。

 イスラエルの社会の中で、とくに経済弱者であった、寡や孤児や外国人への配慮や援助が、神によって定められていました。

『汝他國の人または孤子の審判を曲べからず。また寡婦の衣服を質に取べからず。汝誌ゆべし。汝はエジプトに奴隸たりしが汝の神ヱホバ汝を其處より贖ひいだしたまへり。是をもて我この事をなせと汝に命ずるなり。汝田野にて穀物を刈る時、もしその一束を田野に忘れおきたらば、返りてこれを取べからず。他國の人と孤子と寡婦とにこれを取すべし。然せば汝の神ヱホバ凡て汝が手に作ところの事に祝福を降したまはん。 汝橄欖を打落す時は、再びその枝をさがすべからず。その遺れる者を他國の人と孤子と寡婦とに取すべし。また葡萄園の葡萄を摘とる時は、その遺れる者を再びさがすべからず。他國の人と孤子と寡婦とにこれを取すべし。汝誌ゆべし汝はエジプトの國に、奴隸たりしなり。是をもて我この事を爲せと汝に命ず。(文語訳聖書 申命記24章17〜22節)』

 イスラエルの主なる神さまは、社会的弱者に対して、格別な配慮をし、この寡(やもめ)、孤児、在留異国人のみなさんの食べたり、飲んだり、着たり、住んだりすることについて、共に住む他者に責任を果たすように、イスラエルの民に命じたのです。

 聖書と Counseling を学んだ学校で、この箇所をテキストに、退職して帰国する外国人教授の最終講義がなされたのです。旧約聖書の研究をされてきた学究派の聖書教師でした。社会弱者を顧みられる神さまを、学徒に語りたかったのでしょう。淡々と話されたのです。

 非生産的、非貢献的な人間への神の顧みということ、寄るべなき者を、決して見捨てられない神さまがいて、人にも、寄るべない者を顧みるように要求する神がいらっしゃることに、まさに聖書が知らせる神さまのご性質の最もはっきりしたことではないでしょうか。

 生きていたって役に立たない人など、価値も意味もないとされている人間社会に、そう言った人々と共に生きるために、心を配り、物を分け与えるように願う神が、聖書の示すお方なのです。強者だけが生き残れるような人間社会に、弱者保護規定を設けられたお方を、神だと知ってから、わたしは、自分の生き方が変えられたのです。

 今も「弱者」がいますが、最近身につまされているのが、「情報弱者(デジタル弱者)」です。デジタルの世界の驚くほどに進歩し、変化し、その日進月歩の現実についていけない、われわれ世代が、その動きの中で、ポカンとしてしまっているわけです。

 日本語の中に、カタカナ語が混じると、何が何だかチンプンカンプンで、ついていけないと言うか、拒否反応が出ているのと同じです。ラジオのニュースの中で、カタカナ語が出てきますと、英和辞書で字引きをするのですが、日本語化されている英語は、spelling がわからず苦労してしまうのです。

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 今や、家内も私も「デジタル弱者」なのですが、携帯電話を持たない、キャッシュカードを使わない、車を持たないなど、旧態依然とした生き方をしている方が、時々いらっしゃいます。上の兄は、頑なに携帯電話を持ちませんし、近所の家内の友人も、家に黒電話を置いてるだけなのです。

 それでいて、生活に困ったり、不便を感じていないのです。文明の力に操られないで、人として、ごく自然に生きているわけです。でも、ITとか AIとか言う時代になって、だんだん生きにくくなってしまっています。そんな私たちを「アナログ世代」とか言うそうですが、昨日も、家内の通院に付き合い、薬局で投薬を受けました。

 保険証の代わりに、マイナンバーカードで顔認識をされていました。テレビドラマの中にあった、なんだか犯罪者の面通しのように見えたのです。初めての職場は、出社や退社時には、名簿の記入でしたが、その内に、機械にカードを挿入するようになり、今では、顔認識、眼球認識(虹彩認識: Iris recognition)になっているそうです。何か、人が物扱いされているようで、怖いようです。

 一枚のプラスチックのカードの挿入、さらに眼球認識になると、個人情報が悪用され、昔、宣教師さんに、終わりの時代に、「世界政府」ができて、そこに全人類の情報が集められ、すべての人が管理されると、聖書研究で聞きましたが、そんな時代の到来がきていそうで、心配です。黙示録には、「666」の謎の数字が出てきますが、謎解きがなされています。

(ウイキペディアの監視カメラ、そろばん使用法です)

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涼暮月

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 六月になりました。「水無月(水の月、水のある月という意味でしょうか)」と言われて、「涼暮月(すずくれづき)」と呼ばれたようです。日中は暑くなりますが、夕暮れには涼しさを感じられる情緒、情感の溢れた呼び方の月ですね。英語では、”June bride” で、好まれて結婚式が、よく行われる月なのだそうです。梅雨に代表される月でこれなしにお米は育たないのです。

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(隣家から頂き、その庭に咲き、そして我がベランダで咲く紫陽花です)

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循環型社会だったお江戸

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  お江戸日本橋七つ立ち 初上り
行列揃えて あれわいさのさ
こちや 高輪 夜明けの提灯消す

こちやえ こちやえ

六郷渡れば川崎の まんねんや
鶴と亀との米まんじゆう
こちや 神奈川いそいで保土ヶ谷へ

こちやえ こちやえ

行列揃えて あれわいさのさ
こちや 高輪 夜明けの提灯消す

こちやえ こちやえ 

 江戸の日本橋を起点に、江戸五街道が整備され、軍事上も、政策上も、商業上も、そして文化や習俗でも、重要な意味と価値を持った、それらの伝達の経路でした。父の会社が、日本橋のライオン像が表玄関にある三越本店の近くにあって、子どもの頃に、何度か連れて行ってもらったことがあります。

 その街道には、「道標(みちしるべ)」が、一里ごとに置かれ、「一里塚」と呼ばれていました。その一里、四町で約4kmごとに「塚」が置かれ、そこに植えられたのが、「榎(えのき)」でした。


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 港区に、「芝二本榎」と言う地名が残されていて、ここも「一里塚」で、歩行で旅をする人への気配りがあったわけです。江戸の物質、情報、生活振り、文化、教育などが、地方にもたらされて、江戸風な生き方、あり方が伝わって行ったたわけです。

 幕末に、わが国を訪れた外国人は、当時、世界最大都市の江戸が、どれほど文化的な街であったかを記録に残しています。浮世絵や歌舞伎や音曲などの娯楽が代表されるだけではなく、上下水道、生活物資の流通、本の印刷や出版、子弟の教育、清潔な街並など、数え上げるときりがないほど優れていたのです。

 南信州の山の中に、「村歌舞伎」が伝えられていて、幕府は禁制にしたのですが、江戸や京で上演された出し物が、村人たちの演出や出演で、密かに演じられ、武家の生き方や倫理や道徳まで、片田舎にも伝えられていたのです。
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 「菅原伝授手習鏡 寺小屋の段」が上演されると、当時、南信の県立高校で英語教師をしていた娘婿の関係で、大鹿村に呼ばれて、家内と一緒に出掛けて、観劇したことがあったのです。江戸中期に始められた歌舞伎で、新橋の歌舞伎座以上に素晴らしくて、舞台に向かって投げ銭をしてしまうほどでした。

 日本中、京や江戸の感化を受け、貧しいながらも、相当に文化的な雰囲気が、日本全国の山漁村にまでも伝播されていたのです。今でこそ、文化の中心のパリの街では、かつてはし尿は、街路にばらまかれていたのに、江戸の街は、住宅ごとに共同便所があって、近在の農村から来た農家のみなさんが買い上げて、肥料にし、作物を作っては、それらを売りにやって来る、いわゆる「循環型社会」が出来上がっていたのです。

 今、日本の街が綺麗だと、外国人観光客やメデイアが言うのは、偶然ではなく、住環境を住みやすく、整えて、保って生活して来た、長い歴史があってのことなのです。そんな江戸がモデルになって、地方の街も、清潔にされ、活気付けられていった面があったのです。この街を流れる巴波川も、舟運で栄え、江戸の香りも物資と共に運ばれてきて、「小江戸」のようだったそうで、その名残を、今も感じられます。

(ウイキペディアの江戸の街、榎、大鹿歌舞伎です)