循環型社会だったお江戸

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  お江戸日本橋七つ立ち 初上り
行列揃えて あれわいさのさ
こちや 高輪 夜明けの提灯消す

こちやえ こちやえ

六郷渡れば川崎の まんねんや
鶴と亀との米まんじゆう
こちや 神奈川いそいで保土ヶ谷へ

こちやえ こちやえ

行列揃えて あれわいさのさ
こちや 高輪 夜明けの提灯消す

こちやえ こちやえ 

 江戸の日本橋を起点に、江戸五街道が整備され、軍事上も、政策上も、商業上も、そして文化や習俗でも、重要な意味と価値を持った、それらの伝達の経路でした。父の会社が、日本橋のライオン像が表玄関にある三越本店の近くにあって、子どもの頃に、何度か連れて行ってもらったことがあります。

 その街道には、「道標(みちしるべ)」が、一里ごとに置かれ、「一里塚」と呼ばれていました。その一里、四町で約4kmごとに「塚」が置かれ、そこに植えられたのが、「榎(えのき)」でした。


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 港区に、「芝二本榎」と言う地名が残されていて、ここも「一里塚」で、歩行で旅をする人への気配りがあったわけです。江戸の物質、情報、生活振り、文化、教育などが、地方にもたらされて、江戸風な生き方、あり方が伝わって行ったたわけです。

 幕末に、わが国を訪れた外国人は、当時、世界最大都市の江戸が、どれほど文化的な街であったかを記録に残しています。浮世絵や歌舞伎や音曲などの娯楽が代表されるだけではなく、上下水道、生活物資の流通、本の印刷や出版、子弟の教育、清潔な街並など、数え上げるときりがないほど優れていたのです。

 南信州の山の中に、「村歌舞伎」が伝えられていて、幕府は禁制にしたのですが、江戸や京で上演された出し物が、村人たちの演出や出演で、密かに演じられ、武家の生き方や倫理や道徳まで、片田舎にも伝えられていたのです。
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 「菅原伝授手習鏡 寺小屋の段」が上演されると、当時、南信の県立高校で英語教師をしていた娘婿の関係で、大鹿村に呼ばれて、家内と一緒に出掛けて、観劇したことがあったのです。江戸中期に始められた歌舞伎で、新橋の歌舞伎座以上に素晴らしくて、舞台に向かって投げ銭をしてしまうほどでした。

 日本中、京や江戸の感化を受け、貧しいながらも、相当に文化的な雰囲気が、日本全国の山漁村にまでも伝播されていたのです。今でこそ、文化の中心のパリの街では、かつてはし尿は、街路にばらまかれていたのに、江戸の街は、住宅ごとに共同便所があって、近在の農村から来た農家のみなさんが買い上げて、肥料にし、作物を作っては、それらを売りにやって来る、いわゆる「循環型社会」が出来上がっていたのです。

 今、日本の街が綺麗だと、外国人観光客やメデイアが言うのは、偶然ではなく、住環境を住みやすく、整えて、保って生活して来た、長い歴史があってのことなのです。そんな江戸がモデルになって、地方の街も、清潔にされ、活気付けられていった面があったのです。この街を流れる巴波川も、舟運で栄え、江戸の香りも物資と共に運ばれてきて、「小江戸」のようだったそうで、その名残を、今も感じられます。

(ウイキペディアの江戸の街、榎、大鹿歌舞伎です)

 

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