書くということ

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 これまで自分の思いを表現することの大切さをよく聞いてきました。次男から、ブログを始めるように勧められて、やり始めたのが、十数年前でした。また、この数年来、参加させていただいている集いの中でも、思っていること、感じていることを表現するように勧められてきています。自己表現をすることで、何かが始められたり、きっかけなったりするようです。

 病んだり、愛する人を失ったり、心が傷つけられるなどの経験は、どなたにも起こり得ます。そんな出来事から解放され、赦したり、受け入れたりすることができる、その切っ掛けがあったら、素晴らしいわけです。そのようにしますと、何か縺(もつ)れた糸が解(ほど)けていくようなれるのでしょう。

 心のうちに、蟠(わだかま)っていたことが、文字やことばや絵などの創作によって、表現されるなら、時は移り、人は去っても、そうされたことの事実や、経緯、そうした人の実態が分かったり、されたことの背後にあった、その人の奥深い所に隠されていた過去などが、朧(おぼろ)げに気付き始めるのです。

 そう言った意味で、詩や俳句や短歌、作文、blog、手紙、memoなどで表現することは、自分や家族や友人などを、知る上で役立つのでしょう。お隣の国の学校で、日本語教師をしていた時に、「写作(xiezuo 作文)」を担当させていただきました。中国の社会で20年生きてこられて、日本語を学び始めた学生のみなさんに、多くのテーマで書いてもらったのです。その中に、「三行ラブレター」がありました。

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 けっこう難しい主題だったのです。三行の文章で、愛や思慕や感謝を表現するのに、みなさんは、限られた時間内に、それを書き上げたのです。ある年度に書いてもらった、その「三行ラブレター」を、四編ご紹介してみましょう。

《お父さんへ》

父さんが作れる たった一つの料理
中国料理の特に卵焼き
どんな料理よりも優しい味

《お母さんへ》

もらった命、もらったやさしさ
きつく叱られた幼き日々も 贈り物だったんだ
本当にありがとう

《友だちへ》

お天気予報
最初にあなたの住む街を見ます
今日はあたたかくなりそうですね

《おばあちゃんへ》

午前中ずっと私の歩く道路に沿って探していて
ただ、私の服から落ちたボタンのためだったと知って
涙が止まらなかった 、おばちゃん ありがとう

 なかなか感謝に溢れ、人を思う思いの深さのある秀作だったのです。日本語を学んでいる学生さんたちが、自分の周りにいてくれた両親、祖父母、恩師、友人たちへの感謝や思い出を、短く母国語ではなく、学んでいる日本語で文章化したわけです。とても懸命に、書き上げていたのが、教師として嬉しかったのです。

 もう恋文を書くようなことは、私にはありませんが、妻だけには、尽きない感謝があります。互いの弱さをもちながら、それに反発したり、受け入れたりの年月だったでしょうか。さらに父や母や恩師への感謝の想い、兄弟や友人たちへの懐かしい想いも、歳を重ねるほどに強くなってきているでしょうか。それを文章で表現できるのは、感謝なことであります。

(ウイキペディアによる福音書を記すマタイ、チビたえんぴつに補助じくを付けた様子です)

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