空気が澄んでいる、冬場だからでしょうか、東武日光線の踏切の音が、遠くから聞きえてきます。始発電車が走っていく様です。日の出はまだですが、踏切の近くに父の家があって、そこに住んでいた時の情景が思い出されて、それと重なってきます。この音は「郷愁」を呼び覚ます音の一つなのです。
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「子どもは言葉を食べて成長します。子どもの言葉が豊かになるのは、家庭での言葉が豊かであるかどうかにかかってきます。耳で聞く言葉が豊かであるというのは、何より大切なことです。(松居直)」
一昨日、上の娘から FaceTime があって、 母娘の会話を聞いていました。お母さんの事情で、おばあちゃんが面倒をみている3歳の女の子の世話を、娘が頼まれてしているのだそうです。
どうも生活習慣が身についていないそうで、自己表現を言葉ですることもできないで、排泄習慣もできていないそうです。きっとサリヴァン夫人が、ヘレンに初めて会った時の様な状況に似ているのかなと思ったのです。もちろんヘレンとは違って三重苦ではなく、言葉を教えられていない様です。
人の語ることばを必要としているので、話しかけて上げる様に、私は口を挟んだのです。子どもたちは、様々な家庭環境に中で育っています。東京でもホホルルでも、戦時下のウクライナでも、子どもたちは自分の育っていく環境を選ぶことはできません。
働かなければ食べていけないお母さんたちがいます。躾などする時間的な金銭的な余裕がないかも知れません。一緒にいることもままならず、やむなく母子分離の中で生きている、このお嬢さんが、必要としてるのは、機械を通して耳に届く金属音ではなく、人が口で舌で語る「ことばなのでしょう。
よくテレビに子守役をまかして、つけっぱなしの中に置かれている子どもたちがいます。それでことばを覚えていくことはありません。お母さんの腕に抱かれ、お母さんの呼吸や胸の鼓動を感じ、語りかけることばで、子どもはことばを覚えるのです。
私を育ててくれた母のことを思い出しています。私が、お腹にいた時、山形から中部山岳地帯の山奥に、汽車を乗り継いで、父の仕事で、長旅をして越して来たのです。母は27歳でした。戦時下の物資の乏しい中で、育ててくれたのです。イタズラ小僧で病弱でしたから、手を焼かした子であったのでしょう。頭をポカッツと叩かれたことなどありませんでした。弟は、つねられたことがあり、私がそれを一緒にやったと言っていますが、信じられないのです。
人の悪口を言うことなどありませんでした。交通事故で大怪我をしても、卵巣がんになった時も、弱音を吐きませんでした。グッつと我慢していたのです。父にも四人の男の子にもそうだったのでしょう。
「ことば」を覚えたのも、話しかけてくれたからでしょう。もちろん戦後の山奥では、絵本などの幼児書籍などなかったのです。高等教育など受けていなかったのに、漢字を知っていて、よく聞くと教えてくれました。聖書を読んでいた人だったのでしょう。『聖書にこう書いてある。』と言って「聖句」を教えてくれたのです。
恵まれない環境の中で3歳になったお嬢さんに必要なのは、「ことば」です。欠けていることに注目するのではなく、これから学べる可能性を信じて上げることでしょう。自分は迷惑な存在ではなく、『あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ43:4)』、神が、どの様にご覧になっているかを知らせるのです。喜怒哀楽を表せる感情表現ができて欲しいのです。欠けたるを補うことにできる神がいるのです。
聞き続けると、蓄積された「ことば」が、語り出されていくのです。だから子どもたちをhappy にさせられる「ことば」を親は、《語って上げること》です。特殊事情の場合は、母の代役として、語って上げることでしょう。一個の人格の尊厳を認めながらです。「キリストの大使」になるかも知れないからです。松居直氏は、「現在は言葉がやせ細っており、言葉を必要としない究極の状態が戦争だ!」とも言っています。ウクライナ戦時下、一方的に語るだけではダメです。「ことば」が引き出される必要があります。
(松居直氏の「福音館書店」が出版した「ぐりとぐら」の表紙です)
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ここ栃木市は、昨年11月に市立美術館が開館し、街並みが文化度を増してきました。栃木中学校(現栃木高校)や栃木小学校(現中央小学校)があった地域が、廃藩置県で「栃木県」の庁舎が置かれた街でしたが、宇都宮に移されるまでの十三年間だけ県都であったそうです。その庁舎が「栃木県町役場」」になって、今は改装されて、見学者が訪ねています。その脇には、「県庁堀」が残っているのです。入船町という地域です。やはり舟運の街だったから、湊町もあります。
その近くを散歩中に、今では僅かに残る木造の古民家を見つけたのが、この写真です。戦後間もない頃に建ったのでしょう、モルタルや新建材の壁の家々の中に、ポツンと残されています。住み人がいなくなった空き家の様です。こう言った家が軒を連ねていた時代があっての今なのでしょう。
朝明けが綺麗でした。茨城県の筑波山系の稜線がくっきりして見えます。距離的にはけっこうありそうです。五年目の栃木ですが、地方都市ですから、古い家が壊され、空き地が目立ち、栄枯盛衰、様々な歴史があった街なのです。
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『あなたは、キリスト・イエスにある信仰と愛をもって、私から聞いた健全なことばを手本にしなさい。 そして、あなたにゆだねられた良いものを、私たちのうちに宿る聖霊によって、守りなさい。(2テモテ1:13~14)』
代表的な日本文化で、最たるものは「落語」ではないでしょうか。浄瑠璃も文楽も歌舞伎も、日本文化なのですが、日本語の真髄を話芸で表現する「噺(はなし)」は、決して噺家が自重するような〈ばかばかしい〉ものではなさそうです。人生の機微に触れ、人情を大切にした世間のありがたさを語ってきています。
あの屈託のない笑いは、疲れを癒し、自分の現状を肯定して生きられるようにと励ましでさえも感じるのです。何と言うか、《しみじみした思い》にされるのです。幕末から明治にかけて活躍した、三遊亭圓朝は、落語の先覚者でした。主に人情噺を得意としていて、創作落語家でもあったのです。
江戸っ子で、長州や薩摩出身の役人たちが、江戸の町を、わがもの顔で闊歩するのが、悔しかったのか、江戸っ子の気風(きっぷ)を取り上げた「文七髪結(かみい)」を作っています。年末の高座で演じられる題目だとされているのです。噺のあらすじは、次の様です。
「だるま横丁の左官の長兵衛。ウデのいい職人だが、博打にハマって借金を抱えている。冬の夜道、今日も博打に負けて、着物をとられてしまってはんてん一枚で貧乏長屋へ帰ってきた。娘のお久がいない、どこを探してもいないと女房。
そこへ、吉原の大店(おおみせ)、佐野槌(さのづち)から使いがやってきた。お久はそこにいると言う。長兵衛は着物がないので女房の着物を着て、佐野槌へ。逆に女房は、長兵衛のはんてん一枚。
佐野槌で長兵衛は、女将から話を聞かされる。お久は自分を売って金をつくろうとしたのだ。長兵衛の博打の借金を返し、また長兵衛が仕事に精を出すようにしたかった。
お久の真情に心を動かされた女将は、長兵衛に説教した上でを貸す。長兵衛が来年の大晦日までに五十両返さないと、お久は店に出されて、客をとる。
五十両を懐に抱えたその帰り道、長兵衛は吾妻橋で身投げしようとする若者、お店(たな)の奉公人、文七に出会う。文七は売掛を回収した五十両をすられてしまい、絶望のあまり大川へ身を投げようとしていた。文七は身寄りがなく、五十両を貸してくれる人などいないと言う。
文七は死のうとするこの若者を助けたいが、さりとて五十両を渡してしまえば、お久を返してもらうことが難しくなると悩むが、死を前にした男を救おうとハラを決め、文七に五十両を渡してしまう。
長兵衛は、この金は娘が吉原に行って必死の思いでこしらえたものであるということは、文七に話したが、自分のことは名乗らなかった。
鼈甲問屋・近江屋卯兵衛と番頭が店で待ちわびている。文七が帰ってきて、回収した五十両を差し出す。驚く卯兵衛と番頭。
五十両は、相手先の屋敷で碁に誘われ、それに夢中になった文七が碁盤の下に忘れてしまったのを、相手先の使いが届けてくれていたのだ。文七の打ち明け話を聴いてさらに驚く卯兵衛。
五十両を出してくれた吉原の大店は佐野槌に違いないと目星を付けた。翌朝早く、番頭は早速、佐野槌へ。卯兵衛は文七を連れて長兵衛の長屋を訪れた。卯兵衛は長兵衛に五十両を返そうとする。
いったん人にやったものは受け取れないと渋る長兵衛に、なんとしてもとあたまを下げ、受け取ってもらう。
さらに角樽と酒二升の切手を礼として差し出す。そして、肴としてお気に召していただければ、と言いながら外に声をかけると、そこに美しく着飾ったお久が姿を現した。
卯兵衛は佐野槌からお久を身請けしたのだ。はんてん一枚の女房も衝立の後ろから飛び出してきて、抱き合って喜ぶ親子三人。のちに文七とお久は結ばれ、麹町で“元結”の店を開いた。」(「落語亭」の記事です)
江戸の人情、哀愁、細かな人間の心理描写などが盛り込まれている噺です。説教者になりたての頃、話術も大切と、以前好きだった落語を聞こうとしたのです。ただ「間」が大切だと感じたからです。それで落語だけではなく、中西龍と言うアナウンサーのラジオ番組の話し方にも耳を傾けたりしました。でも、教会の説教壇は、寄席ともラジオ番組とも違うのです。「神のことば」を取り継ぐのですから、話術以上のものの必要に気付いたわけです。
パウロは、信仰者の母や祖母に育てられ、また自分から「健全なことば」を学んだテモテに、恐れずに語る様に勧めています。「神のことば」が、聖霊によって人の心の中に触れるからです。に東北弁の強い訛りの説経者が、その晩の特別集会の講壇に立った時、その教会に、東大を出て、政治組織に関わる弟が、兄の勧めで出席していました。『こりゃあ駄目だ!』と、お兄さんが思ったのとは裏腹に、弟さんは、その説教を聞いて救われてしまったのです。この方は、後に牧師となられています。
アメリカ原住民(インディアン)に伝道した、ブレイナードが説教していた時、通訳者が酒に酔っていたのですが、呂律の回らない舌で通訳された福音を聞いて、会衆者の中に、回心する者が起こったのです。神さまは、そんなことも許されるのです。
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『お金は要りません!』、もう何年も何年も前に、初めて訪ねた隣国でお会いした、一人の伝道者のことばです。まだ、貧しい時でしたが、国は経済成長のために外貨が欲しく、外国人の観光客を呼ぼうとしていた時代だったのです。私の旅行当時は、外国人は、兌換紙幣を使っていて、その後、しばらくして訪ねた時には、残ったその紙幣は紙切れ同然でした。
聖書や研究書やトラクトを、現地に要請もあって、秘密裏に持ち込もうとしての旅行だったのです。空港に着く最終便でしたから、税関吏も帰りを急ごうと、とてもソワソワしてるのが感じられ、簡単な検閲でした。反面、実に緊張していた私たちには、それは肩透かしだったのです。〈迷信書〉でカバンいっぱいでしたが、無事に持ち込めて、ただ主に感謝したのを思い出します。
二つ目の訪問先の内陸部の街に着いた時、田舎の汽車の停車場のような空港でした。今は近代的な空港になっている様です。ちょっと目を鋭くした日本人ではと、見間違うほどの顔立ちの民族の方が、空港に溢れていました。ポプラの並木道が延々と続く道を、送迎バスに乗せて頂いて街中に着いたのです。そこで五十前後の方が、優しい目をして迎えてくれたのです。持参した物をお渡ししましたら、大変喜んでくださったのです。
翌日郊外に連れ出してくださり、パオの中で、交わりをし、民族衣装に身を包んだ踊り手の舞まで観せてくださり、歓迎会を開いてくれました。草原で、馬に乗ったのですが、ちらりと私を見て、初心者だと見抜いた馬は、ソッポを向いて、知らん顔でした。馬丁さんに叩かれて、いやいや私を乗せて歩き始めたのです。
翌日、その方の家に招かれて、奧さまが作って下さった大ごちそうで歓迎してくれたのです。5人も子どもさんがいて、上の子は二十歳ほどで、下は二歳ほどでした。下の子は、13年間の収容所から帰って来てから誕生したのだそうです。ご家族全員で、賛美を歌って聞かせてくれました。
『日本人の私たちに、何ができますか?』と聞きましたら、『私だけが、私の働きだけが豊かになるのは願いませんので!』と言う理由で、そう答えられたのです。お子さんたちも大きく、10幾つもの群れをお世話している方で、必要は見えていたのに、そう言われたので驚いたのです。よその国では、献金要請をする人たちが多いのだそうですが、そういったことをしないでw伝道を続けておいででした。
その代わり、『来てください!』と、この方が言ったのです。それから二つの街を訪ねて、帰国しました。その後、その街で語られた言葉が、何年もの間、時々思いの中に繰り返し、鸚鵡返しの様に聞こえていました。私は、六十になる前に、行こうとしたのですが、道は開きませんでした。『そんな年齢で出掛けても、働きはできないでしょう!』と、その伝道に携わってきた方に言われたこともありました。
ところが、道が開かれたのです。英語圏の団体が、呼んでくれたのです。それで、13年間、その国に滞在したわけです。帰国する前の年、2018年の秋に、港町の高台にある養老院を、表敬訪問したのです。95歳だと言う、省の西の方の街の出身のご婦人が、ご両親が伝道者で、どんなことをなさっていたかを話してくれました。その方は医者をされて来たそうで、主のために医療で献身されてきた方でした。凛とした、素晴らしい信仰者でした。
歳を重ねても、社会は変わってしまっても、蒔かれた福音の種は、しっかりと実を結び、輝いた老齢期を生きておいででした。その方と同室の方も、クリスチャンで、帰りに、『これで食事をして、帰ってください!』と、お金を渡されました。かつての軍港の街の食堂で、お連れくださったご婦人お二人と家内と4人で、主に感謝し、老信徒たちに感謝して昼食をとったのです。
(民族楽器の「馬頭琴」です)
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『あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。(伝道者12:1)』
『あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。(同12:1)』
父と母は、四人の子を産み育ててくれ、私は二人の兄と、一人の弟がいて、三男坊です。子どもの頃に、時々、父はいっしょにキャッチボールをしてくれたのです。みんな運動が好きでした。上の兄は、柔道もし、陸上部にいたのですが、大学ではアメリカンフットボールをしていました。次兄は、甲子園を目指した高校球児で、都のベスト16で終えました。弟は、アイスホッケーや少林寺拳法や登山や柔道をし、仕事も体育教師をしました。私は、バスケットボールやハンドボールをやりました。
やはり、「若さ」っていいなと、思い返しています。未熟で、悔しいことも、恥ずかしいことも、多々あった時でしたが、無茶をしても、道を外しても許してもらえたと言うのが正直な思いです。若い期間は短いのですが、人生にとって大切な時期なので、その時期を虚しく過ごさないように聖書は勧めています(伝道者11:10)。その「若さ」を躍動させられるスポーツに、関心を向けていくのは創造の理に叶っているかなと思うのです。
この年齢になっても、やはり血が騒ぐと言うのでしょうか、スポーツ競技の放映や放送、選手の活躍ぶりを見聞きすると、ムズムズじてくるのです。そのスポーツの中でも、陸上競技が圧巻でしょうか。今でこそ沿道に応援をする人たちが、声をかけ、旗を降る姿が実に素敵なのが「駅伝」です。ひたすら孤走する姿は詩人の様です。
昨日今日と、「箱根駅伝」、第99回東京箱根間往復大学駅伝競走を、ラジオ放送で、大手町と箱根芦ノ湖の往路復路の駅伝の様子に、いつの間にか聞き入ってしまっていました。何時もそうなのですが、『この走者の中に、キリストを信じている若者がいるだろうか?』と思ってしまいます。このみなさんの「若い日」、そうあって欲しいと願うのは、「創造者を知ること」なのです。
私たち四人の卒業校が、今回の競技会に参加していました。3人の兄弟たちの母校は学校のゼッケンを胸に走っていましたが、私の学んだ学校だけは、「関東学生連合」にentry して、復路のある区間を走っていました。
それぞれが学ぶ学校の誇りを胸に〈襷を繋ぐ〉、この競技は、自分のためにだけではなく(今も、襷を繋げず、繰り上げ発走で、走った八区の選手が、号鳴して、詫びている声が聞こえて来ました)、母校の栄誉のために競うのです。また、そこには人格はないのですが、走った走路に向かって、頭を下げて感謝をする姿も感銘を与えてくれます。走り終えた走者の苦悶の表情は、眼界に挑戦できる気力や体力のある世代の若者の、美しい姿です。
「第1回(1920年2月14〜15日)」から始まって、来年は、「第100回」になります。最初は、1917年「東京奠都五十年奉祝・東海道駅伝徒歩競走」だったそうです。母の生まれた年でした。関東と関西の2チームが出場し、京都三条大橋-上野不忍池間、なんと516キロほどを走り継いだのです。その区間を23区間に分け、3日間、昼夜を貫いて走り継いだ競技でした。この大会の成功に終わったので、1920年開催の「箱根駅伝」の構想のきっかけとなったそうです。第一回大会は、4チームの参加でしたが、その後、21チームの参加で開催されています。
どの競技をするにしろ、肉体の鍛錬は、少しは益だと聖書は言います。私を教えた宣教師さんは、『肉体の鍛練もいくらかは有益です(1テモテ4:8)』の「いくらか」を、「しばらくの間」つまり、「肉体に留まる間」でしょうか、「体がそれに耐えられる間」には有益だと言っていました。そうでしょう。70〜80年の生涯を、壮健で過ごすのはよいことです。たとえそうでなくても、精一杯生きることなのでしょう。
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千代田生命が企画し、募集した「創作四字熟語」が、世相を四字で言い表す、漢字力が素晴らしいと思います。中国で生まれた漢字には、興味が尽きません。日本で生まれた漢字も熟語もあるのです。サイトにあった、30年間の最高傑作です。中学一年の国語の時間に、「呉越同舟」と言う四字熟語を学んだのを覚えています。2022年は「遠客再来」でした。旅行や宿泊の支援があって、遠くへの旅が再開したからです。
あの正岡子規が、34歳で早逝していたことを知って、驚いてしまったことがありました。写真で、子規の容貌を見て、六十近い初老の顔を覚えていたからです。俳句を読んでも、老成した枯れた俳人の句だとばかり思っていたこともあって、意外だったのです。この時季を詠んだのでしょうか、次のような子規の俳句が残っています。
いくたびも 雪の深さを たずねけり
「不如帰」と書いて、“ホトトギス“と読ませるのですが、この俳人は、自分の俳号を「子規」にしました。「hototogisu」と入力しますと、漢字の候補に「子規」が出てきます。「鳴いて血を吐く ホトトギス」と言われるように、このホトトギスは口の中が赤いので、鳴くと血を 吐いているように見えるわけです。このことについて、“ウイキペディア“に次のようにあります。
『 中国の故事「杜鵑の吐血」にちなむ。長江流域に(秦以前にあった)蜀という傾いた国があり、そこに杜宇という男が現れ、農耕を指導して蜀を再興し帝王となり「望帝」と呼ばれた。後に、長江の氾濫を治めるのを得意とする男に帝位を譲り、望帝のほうは山中に隠棲した。望帝杜宇は死ぬと、その霊魂はホトトギスに化身し、農耕を始める季節が来るとそれを民に告げるため、杜宇の化身のホトトギスは鋭く鳴くようになったと言う。また後に蜀が秦によって滅ぼされてしまったことを知った杜宇の化身のホトトギスは嘆き悲しみ、「不如帰去」(帰り去くに如かず/帰ることが出来ない)と鳴きながら血を吐いた、と言い、ホトトギスのくちばしが赤いのはそのためだ、と言われるようになった。」のだそうです。
正岡子規は、「野球」を好んで、その普及に尽力したスポーツマンで、「打者」、「走者」、「四球」、「直球」などの野球用語を英語から翻訳した人でもありました。しかし、22歳の時に喀血し、結核に罹ってしまうのです。それで、「子規」と号しています。当時、結核は不治の病だったので、一旦罹ると、それは死を意味していたのです。
上にあげました、俳句ですが、大雪が降った日のことです。床に伏せている子規は、外出することなどできませんでした。ただ思いの中で、降り積もった雪の深さを、何度も何度も確かめるように、思い続けていたに違いありません。それとも家人に、雪の量を尋ねたのかも知れません。
これがまあ ついの栖(すみか)か 雪五尺 一茶
五尺も積もる雪深い地で、一茶は晩年を過ごし、死期を感じたのでしょうか。昨年末は、寒波襲来で、日本海側の北陸、東北、北海道の降雪は、記録的だとニュースが伝えていました。ここ栃木県も、奥日光や那須では、雪が深く積もっているのです。それに比べ、関東平野の奥に位置する栃木市のわが家では、日差しが差し込んで、陽が落ちるまで暖房なしで過ごせるのです。子どもの頃を過ごした街や村でよく雪が降って、雪合戦やソリなどの遊びを楽しんだのを思い出します。
(村田収の描いた雪の風景です)
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『エルサレムの平和のために祈れ。「おまえを愛する人々が栄えるように。 おまえの城壁のうちには、平和があるように。おまえの宮殿のうちには、繁栄があるように。」 (詩篇122篇6~7節)』
『終わりの日には困難な時代が来ることを、承知していなさい。(2テモテ3:1)』と聖書にあります。今、世界を見回してみますと、「困難な時代」の到来に違いありません。強権を握った独裁者の新たな台頭、世界と主要国の内的分断、世界の国々の左傾化と他方で右傾化、ロシアによるウクライナ侵略戦争、人権の侵害、神の定めた秩序への反逆、男女の違いがボケてきたこととおかしな権利主張、さらには地震の頻発、原子炉や核爆弾の脅威、気象異常による風水害、地殻変動による地震、温暖化による氷河の溶解、食料の毒化、人の愛の冷化、人間不信、家庭崩壊、疫病の世界大の感染、医療に限界、などなどがあって、聖書が警告していることが起こっています。
混迷の時代、不安の時代、恐怖の時代の真っ只中に、世界が置かれ、一人一人がいます。これからの時代、世界は、そして人はどうなっていくのでしょうか。イエスさまは、弟子たちの「終わりの日の前兆」、「主の再臨」についての質問に答えて、次の様に言われました。
『イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私がそれだ』とか『時は近づいた』とか言います。そんな人々のあとについて行ってはなりません。 戦争や暴動のことを聞いても、こわがってはいけません。それは、初めに必ず起こることです。だが、終わりは、すぐには来ません。」 それから、イエスは彼らに言われた。「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、 大地震があり、方々に疫病やききんが起こり、恐ろしいことや天からのすさまじい前兆が現れます。(ルカ21:8~11)』
「神の都」と呼ばれたエルサレムについて、イエスさまは、続けて次の様に言われました。
『しかし、エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、そのときには、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。(ルカ21:20)』
2000年の時を経て、世界中に散らされたユダ人たちは、Zionism と言った、『エホバなる神が父祖に約束された地に帰ろう!』との願いが、散らされていた地のユダヤ人たちに、一様に起こったのです。族長のアブラハムと契約を結ばれた主なる神さまによって、イスラエルが復興させられて、1948年に、国として建国させられました。
今やウクライナ戦争に向けられたロシアの銃口は、究極的には、イスラエルに向けて銃火を吹こうとする前触れなのでしょう。建国以降、イギリスやアメリカは、イスラエルを助けて、今日に至っています。やがて国力を弱めていくアメリカは、経済的にも軍事的にも助ける力を失くす時がきます。ところが、
『恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしがあなたを助ける。──主のことば ──あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者(イザヤ41:14)』
「わたし」とおっしゃる神さまが、天の万軍を率いて、直接、このイスラエルを助ける日が来ます。北からの連合軍は、その日一日で滅びてしまいます。これは、聖書に預言されたことなのです。
「エルサレレムの平和」、「わたしがあなたがたを引いて行ったその町の繁栄(平安)」を求め祈れと、天に高く上げられた神さまが命じられて、2023年を迎えました。主の御名があがめられますように!
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ペットボトルの水をもたずに散歩を始めて、途中で、美味しいコーヒーを飲みました。一杯120円で、20円値上げされていました。また両毛線の線路脇で、健気に咲くタンポポの姿に元気付けられたのです。無人野菜販売小屋をのぞいたのですが、小銭がなくて、手に取っただけでした。よく歩いた一年でした。
三百六十五日が一日の様に、主に守られて、平穏に過ごすことができて、私たちは大晦日を迎えることができました。世界では、ウクライナへのロシアの侵略戦争、ミャンマーの政変後の混乱、物価高、人心の動揺、豊かな時代の貧困などで、よいことが少なかった一年でした。
例年のことですが、新しさへの期待が、心ん中に膨らんできますが、それが年の暮れの慣わしなのでしょう。そんな気持ちで新年を迎えようとしています。ただ期待は、万物に創造者に、救い主に向けたいものです。このブログの一年のご講読に感謝します。
こんな年の暮れは初めてですが、出かけようと思ったのですが、行き先が仕事じまいとのことで、時間を持て余してしまったので、桂三木助の「芝浜」を聞いているところです。聖書の言う「改心(回心)」と、話の筋が似ているので、呵責なしで聞いている年の瀬であります。ありがとうございました。
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