中学生

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私の仕事の事務所の近くに、中学校がありました。 よく学校の外で、彼らの喧嘩を見かけたことがありました。「荒れた時期」だったのでしょうか、静かになって波がよその学校に押していくと、また数年後にその荒れた波が、再び返してくるのを繰り返していたようです。市内の中学校で、今年は「⚪️⚪️中」、翌年は「△△中」、その翌年は「◻️◻️中」と言っていた時期がありました。白の運動帽を前後ろに被ぶって、事務所の前を通って行くのですが、一目瞭然の彼らでした。

あの子たちは、中学を出て働き始めていました。もう家庭を持って、四十代後半から、五十代になって、そろそろ孫を抱くような年齢になっているのではないでしょうか。よく、人懐っこく事務所のドアーを開けて入り込んで来ました。焼きそばやカレーライスを作ってあげると、美味しそうに食べていた顔は、じつにあどけなかったのです。 近くの市営団地の子たちが多かったようです。両親が共働きで忙しかったり、お母さんが水商売をした家庭の子もいました。構ってもらえなくて、寂しそうな表情を見せていました。

どう生きて来たのでしょうか。噂も聞かないままで時が過ぎてしまいました。彼らもまた、子育てに苦労して、『今時の子どもは、どうしようもねえや!』などと言って育て上げて、好々爺になっている彼らの顔を見て見たいものです。会ったら、『おっちゃん、あの時はありがとうございました!』とか言うのでしょうか。 どうなんでしょうか、今日日の中学生は?あの頃、私の知る限りでは、自らの命を断つてしまうような事件を耳にしたことがなかったのですが。時々、ニュースに残念な事件を聞くと胸が痛んできます。喧嘩を推奨するのではありませんが、喧嘩に至らない「陰湿ないじめ」が横行してるのでしょうか。もしかすると、一対一とか、集団対決と言った喧嘩ができなくなっているのではないでしょうか。

ある時、その中学校の校門の脇を通っていた時、校庭で教師たちが手持ち無沙汰でウロウロしていました。もう少し行ったところで、二人の三年生が「タイマン」を張っていたのです(s一対一の殴り合いの喧嘩のこと)。一方は生徒会の役員(後になってお母さんと二人で事務所に感謝の菓子折りを持ってきてくれた時に分かりました)、もう一方は「K」という体格の良い団地の子でした。勝負がついていたのに、まだやっていたので、間に入って止めました。殴り合いなどしたことのない役員さんが、買った喧嘩で、その男気をほめてあげたのです。

この二人も、それぞれの道を歩んで、真性の「おじさん」になっているのでしょう。バスに乗り込んでくる、こちらの中学生たちを眺めながら、今朝、彼らを思い出していました。 (写真は、事務所の近くを流れていた「川」です<出典はウイキペディア>)

言質を取る

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「言質(げんち)を取る(言葉尻を取る)」という言い回しがあります。国会での答弁、最近ではツイッターとかブログで述べた言葉について、「鬼の首を取った」ように喜んで非難や批判を加えることが多くなってきているのではないでしょうか。完全無欠な人はともかく、人は言葉で間違いをおかすものです。言い間違い、書き間違いは、国語学者でなければ誰にでもあります。『漢字を知らない!』と、物書きで飯を食っている新聞記者が、総理大臣を轟々と非難していたことがありました。こういうのを、「揚げ足を取る」というのでしょうか、取られた足を下ろすところまで取り去ってしまうような徹底的な攻勢には、はたから見ていて、どうかなと思ってしまいます。

あんなに非難されても、涼しい顔のできる肝っ玉の座った人ならいいのですが、不用意に語った言葉で、実に多くの人が傷ついてしまうのです。有名になればなったで、蜂の巣を突っついたような騒ぎの中に投げ込まれて、何百と言う記者だと称する者たちに、取材を強要されています。本人だけではなく、家族や親族に取材攻勢をかけるのです。拳は使わないだけで、それは極めて悪質な暴力行為ではないでしょうか。事件の加害者の家族は、もうそこには住むことができなくなったり、勤め先を辞めたり、雲隠れをせざるを得なくなるのです。彼らの仕事には「仁義(道徳上人が守るべき筋道)」はないのでしょうか。

私の愛読書に、「人の語ることばにいちいち心を留めてはならない。あなたのしもべがあなたをのろうのを聞かないためだ。」と書いてあります。人を陥れようとして暴言、妄言(もうげん)、虚言する者の語る言葉には、「馬耳東風」で聞き流すことを言ってるのでしょう。『何で、あんなことを言ったんだろうか?』と考えに考えて、理由がわからないで寝込んで、鬱になってしまう人も世の中にはいるのです。「人の口には戸は立てられぬ」、人は手前勝手、自分勝手に出任せ、口任せにものを言うのです。「馬の耳に念仏」とはよく言ったものですが、分からない振りをしている馬のように、いなないているに限ります。「人の噂も七十五日 」と言うそうですが、七十六日の来ることを願っていれば良いのでしょうか。

自分を愛していてくれる親や友人や師などが語ってくれる忠告や勧告には、耳をそばだてて聞く必要があります。『雅仁!』、『雅ちゃん!』と言ってくれた師匠も母もいなくなったのは残念です。今度は、私が良き助言者になる役割順番が回ってきているのでしょう。

(写真は、「レンギョウ」です)

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<このブログは、日本からの桜の頼りを聞いた時に書きました>

まさに百花繚乱、花の春がやってきました。昨日(3月29日)の昼間は、春雷が轟き、突風と豪雨が吹き荒れていました。夕方5時半に始まる二人の式のお祝いのために、市内のホテルに、車に便乗させてもらって行く途中、街路樹の生木がポッキリと折れて、道路側に倒れているのを見たほどでした。あんなに激しい嵐は、初めての経験でした。『酷い天気の日に結婚式が行われるんだ!』と思っていたら、知人の小学一年生が、こんなことを言っていました。『雷鳴と稲妻と暴雨、それが止んで快晴になって、一日のうちに全部の天気があるなんて、この二人は特別に祝福されているんだ!』とです。なんと建設的で、文学少年のようで、子どもらしい捉え方、見方をするとは、大人の私は、ただ恥じ入るばかりでした。

新婦のお父様が、涙を目に浮かべながら、家内と私の列席を喜んで感謝してくれました。新郎も素晴らしい青年で、お似合いの二人の門出をともに喜び祝福できて感謝でした。これから、違った家庭で育った二人が、愛したり赦したり、ある時は泣いたり笑ったり、悲しんだり喜んだりの生活が始まったわけです。ここに健全な価値観を持って建設されて行く家庭ができるわけです。その地域の祝福になれるようにと願った次第です。

去年の春に結婚式があって、知人たちとバスで出かけて、祝福したのですが、その二人が駆けつけて列席しておられました。若奥さんは、来月には出産されるとのことで、大きなお腹を突き出して、ちょっと大変そうでした。こうやって家族が増し加えられて行くというのは、結婚の神秘なわけです。自分も父と母とによって生まれ、四人の子どもたちも家内と私によって生まれてき、息子や娘たちも子をなして行くという命の継承は、実に驚くことだと感じ入りました。これが祝福された方法なわけです。

来月には、43周年になる私たちの結婚を振り返ってみますと、大ベテランの域に達しているのだということになります。3時間もバスに揺られてやって来られた二人から、彼らの住んでいる町の特産のお土産をいただきました。彼ら結婚式の前に、『お二人から結婚についてお話を聞きたいのですが!』と二度ほど、我が家を訪ねて来たことがあったのです。その感謝でしょうか、今夕、美味しく頂いたのです。

もう日本では桜が満開だそうですが、われわれの結婚式の前後にも桜が満開だったのを思い出しています。時間の経つはやさに驚きつつ。

(写真は、爛漫の桜です、大きく見たい時には、写真をタップしてください)

ボタン

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<このブログは三月に書いたものです>

三月は「卒業式」が行われ、人生の区切りをつけつける月です。我が家の長男が、中学校を卒業したのが1987年、次男は1995年、それぞれの春三月だったでしょうか。その頃に、中学や高校で、女子が、卒業する男子から学生服のボタンをもらうと言ったことがあったのです。スポーツなどで人気のあった男子学生の学生服の<第二ボタン>を欲しがったのです。首から二番目で、しかも心臓に近いボタンだったからでしょうか、淡い初恋や憧れが、そう言った願いを起こさせたのでしょう。流行歌とか学校物の小説とか、アニメななどが火付け役をして流行したのかも知れません。

思春期の真っ只中の別れの季節で、おセンチになるからでしょうね。なんとなく<形見分け(亡くなった人の思い出に記念に何かを分けてもらうこと)>に似ています。私たちの1960年前後の時期には、ありませんでした。また、欲しがっても、<ジャバラの制服>で、ボタンがなく、コンの制服をホックで止めていたのですから、女子部の女学生にも、通学途中で好意を寄せてくれた女学生にも、あげようがありませんでした。戦争時代の海軍の軍服や、学習院の制服に似ていたのです。

そう言えば、1944年には、戦況が厳しく、学生までもが戦士となって戦場に駆り出される事態になり、あの「学徒出陣」が、明治神宮の野球場で行われた悲しい歴史が、私たちの国にはあります。旧制の大学や専門学校を繰り上げ卒業されて、中国大陸や南方に送られたのです。彼らも、許嫁や恋人に、ボタンを残して戦地に赴き、ある学生は銃弾に倒れて不帰の人となったのでしょう。父は、対中、対米英戦争が終わった時には35歳でした。兵役の適齢期でもあったのですが、軍需産業に従事していて兵役にはつきませんでした。

人は殺しませんでしたが、人を爆撃する軍用機に関わる仕事をしたのですから、その責を問われても仕方がありません。我が家は軍からのお金で生活をしていたことになりますから、終戦間近に生まれている私の、産着もミルクも父の財布で賄われたのです。自責の思いを感じるのです。それで、中国のみなさんに謝罪をしています。でも一度も責められたことがないのは感謝で好いのでしょうか。

暖かな思い出は好いのですが、悲しい思い出になってしまうようなことが、二度と繰り返されないように、そう願う三月の初めであります。

(写真は、早稲田大学の応援団の団員の「学生服」の姿です)

馥郁

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<このブログは二月に書いたものです>

「ふくいく」と読んで「馥郁」と書く言葉があります。『香りがよいさま。よい香りが漂っている様子。例えば、蕎麦や梅の花など。「馥郁とした」「馥郁たる」の形で用いることが多い。』と実用日本語辞典にありました。桜の花が咲き始める前に、まだ寒さの厳しい時期に、「梅」の花が咲き始めるので、それこそが春の前触れであったのでしょうか。

江戸時代以降の「花見」は、上野の山を代表するような、「桜」でした。ところが、いにしえの奈良の都の「花見」は、桜ではなく、この「梅」であったそうです。桜には香りがありませんが、梅の花には、「馥郁たる香り」があって、目で見るだけではなく、嗅覚で楽しむことができるのです。ここ中国では、「百花の王」と呼ばれるのは、この「梅花」なのです。清代末には、国花に制定されたのですが、現代中国では、「牡丹」だと主張する人と、「梅」だとする人がいて、まだ決まっていないのだそうです。

小学校への通学路に、お寺がありました。このお寺の塀の中に、たくさんの梅の木が植えられていたのです。小学生の私には、梅の花よりも「実」の方に関心がありました。大粒の梅がなると、落ちてしまう物が多くあったのです。それを拾うと、まるで桃の実のように、いい匂いがしているので、かじってみると、美味しいかったのです。それが楽しみで、毎年、実の成る時季に、そっと食べたのですが、幾つ食べたことでしょうか。実は、『落ちた梅の実は、決して食べてはいけない!』と言われていたのです。食べた子どもが疫痢になって死んだことがあって、禁止されていたのです。欠食児童でもなく、三度三度の食事を母が作ってくれましたし、<おやつ>だってあったのですが、その禁を冒して食べていたのです。今考えますと、よく守られたものだと思うのです。

日本から戻って来ます時に、必ずと言って買ってくるものに、「梅」があります。漬物にしたものです。あまり高くないので、『しめた!』と思って、こちらに戻ってから開けて見ますと、「原産地:中国」と記されてあるのです。輸出した梅が、加工されて持ち帰られ、食卓にのって、食べるのですから、梅にしたら、ずいぶんと長い旅をしたことになります。そういえば、アメリカに行きました時に、お土産で買って来たものに、”made in Japan”と書いてあるのを読んで、苦笑いをしたこともありました。

二月の私の鼻には、梅の香りがしてくるようです。まもなく「弥生三月」、桜咲く月となります。「風流さ」というものには無縁に生きてきましたのに、今は、そう言った風情が、『好いなあ!』と感じられるようになった自分が、ここにいるのであります。

(写真は、「梅の花」です)

花も実もあるこの街で

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三週間ほど前に、とても暑い日がありましたので、『夏が来ましたね!』と言いましたら、『夏は、<労働節>が来て始まるんですよ。』と、我が家の上の階のご婦人が教えてくれました。日本でしたら、梅雨が終わってからが夏なのですが、こちらでは五月一日が真正の夏の始まりなのです。

まだ暑さと寒さを繰り返す日が続き、『もう要らないよね!』と言ってしまった上着を、また出してきて着たりしていました。さすが、昨日は、夏服でしょうか、半袖が主流でした。私は、大好きな麦わ ら帽子を出して、それを被り、二人の若い客人のために、野菜と果物を近くの店に買い出しに出かけたのです。天気予報は<多雲>でしたが、雲間から時々さしてくる陽の光は夏そのものでした。

ブログのアップを休んでいる二ヶ月ほどの間に、このアパートの中の木や草が花をつけては散って行くのを繰り返していました。今は、ハイビスカスの紅い花びらが鮮やかに目に飛び込んできます。ブーゲンビリアも、あちこちで咲き(!?)始めています。工業路の沿道の花水木も、二週ほど、バス利用の通勤途上の私の目を楽しませてくれましたが、もう散ってしまっています。

日本の中部や関東地方で見られない珍しい花を、『これは何と呼ぶのですか?』と聞くのですが、教えてくださる方が少ないのが残念です。この街で植樹をし、お世話をしてくださっている方に、感謝の気持ちを表したい思いがしてまいります。美しく樹木や花で装った街で生活ができて、仕合わせだと感じております。そういえば、金木犀の匂いがだいぶ前にしてきていました。

今朝は、バスで出かけて、用をすませて昼食をご馳走になって帰宅しました。帰りに果物屋さんによって、今日のご褒美に、瓜とマンゴスチンと梨を買いました。もう梨が出回っているのです。日本では、これからだったと思いますが、ここは花も実もある街であります。

(写真は、「花水木」の花です)

音と声

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毎朝、まだ夜が明けないうちから、聞こえてくる音が、三つあります。一つは、道路を清掃する人たちの日常談義です。二つは、小鳥の鳴き声です。最後は、『コケコッコー!』のニワトリの夜明けを告げる鳴き声です。これが一番の大声なのです。二羽どころではないようです。ここはアパートが林立する住宅区域で、農家などは周りに一軒も見あたりません。ですから農家の庭先の鶏小屋からではなく、アパートの道路に面した一階の店舗のシャッターの中から、漏れ聞こえてくるのです。

このニワトリは、卵用ではなく、食肉用なのです。日本では、何処かで処理されて店頭で売られる鳥肉なのですが、こちらでは、店頭で処理されて即売されています。鴨やアヒルや鳩も、籠の中でひしめいているのです。例外なく、何処かで処分されるのですが。目の前でされているものを、買って帰る心備えができていない私たちは、店頭で買うことができないままでいます。気持ちの問題なのでしょうけど。

道路を挟んだ右の方にある店舗の中からですから、結構至近距離から聞こえるてきます。いつもしている「耳栓」を越えてやってくるのです。日毎に車の台数がましていて、バス通りを走る数も激増してるからでしょうか、車のエンジン音とタイヤの音が強くなってきているのです。それに、道路上で店開きをしている屋台や、階下の食堂で、声高に興じている音も声も、以前に比べて強くなってきている、そんなこの頃なのです。よく「中国版ジャンケン」が、徐々に興奮して、喚(わめ)くようになってきます。週末が酣(たけなわ)です。

午前零時過ぎになっても遠慮なくしていますので、防衛、いえ防音対策としての「耳栓」は欠かせないのです。日本人も中国の皆さんも、骨格も体格も全く変わらないし、声帯も変わらないのですが、話し声の高さが違います。日本人は、相手との距離と周りを気にしながら、口先で話します。ところが、こちらのみなさんは、腹式でしょうか、お腹の底から声を出すのですから、強烈です。狭い日本と広い中国で、人と人との距離が違うからでしょうか。

バスで、隣に座っているおばさんが、携帯に向かって、百メートルも向こうにいる人にでもある様に、お腹から話していることがよくあります。『あんなに大声を出したら、スッキリするだろうな!』と思うのですが、どうしても真似できないジレンマで、いつも小声と「耳栓」の家内と私であります。

(写真は、太陽が昇り始める「夜明け」です)

杜子春

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芥川龍之介の作品に、「杜子春」があります。芥川、二十八歳の時に発表しています。その年の三月に長男・比呂志が誕生していますから、父親となる作者が、その子の健全な成長を願いながら、『人は如何に生くべきか?』との教訓を与えたかった、そんな創作の動機があったのでしょうか。物語の時は六世紀ごろ、舞台は唐の都・洛陽、親の財産で遊びに明け暮れる杜子春が主人公です。数度の没落と再生を繰り返し、やがて、『では、お前はこれから後、何になったら好いと思うな。』という老人の問いに、『何になっても、人間らしい、正直な暮らしをするつもりです。』と言える人間に変えられて行く物語です。

「短編小説の名手」と言われたほどの芥川でしたから、舞台設定、登場人物、言葉、話の筋道、結語など、どこを取り上げても巧みに書き上げられた小説です。ですから、中学校の国語科の教科書に掲載されているのです。「友情論」、「親子の在り方」、「金銭観」、「死生観」などが語られています。

『金の切れ目が縁の切れ目。』ということが言われますが、大金持ちであった時に寄ってきた友が、<なけなし>になった時には去って行き、飢えても渇いても助けてくれなくなるというこの世の現実に、杜子春は辟易とします。人間不信に陥ったのでしょうか、<脱人間>で「仙人」を志します。その資格審査で地獄に行き、閻魔大王の前に立ちます。そこに地獄に落ちた父母が貧相な馬になって連れて来られます。彼の前で鞭打たれているのを見せられるのです。この審査は、「一言でも口を利いたら・・・到底仙人にはなれない・・・」というもので、何を見聞きしても黙っていなければならないのです。

杜子春は、懸命に耐えて頑張ります。しかし、『心配をおしでない。私たちはどうなっても、お前さえ仕合わせになれるのなら、それより結構なことはないのだからね。大王が何と仰っても、言いたくないことは黙っておいで。』と言うお母さんの懐かしい声を聞いて、意志を曲げて、『お母さん。』と呼び掛けてしまうのです。その瞬間、洛陽の西門の下に戻っている自分を知ります。

親の情の深さと慈しみが、杜子春を感動させ、人間性を恢復させていくのです。とても好い物語です。京や奈良の都ではなく、中国の古代の洛陽を舞台としたのは面白い発想だと思います。やはり「文豪」と称される所以でしょうか。この物語を、先週の授業で作文をしてもらいました。今、その添削をしながら、河南省の古都・洛陽を、いつか訪ねてみたいと思っている、日本の「こどもの日(端午の節句)」の前々日の夕べであります。

(写真は、国花候補の「洛陽牡丹」の花です)

駿馬

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中学と高校の同級生や先輩たちの中に、中央競馬会の調教師の息子たちが、大勢いました。彼らは幼稚園からの持ち上がりで在学していたのです。いつでしたか、テレビのチャンネルを変えていたら、同級生が競馬中継の解説をしていて、<おじさん顏>になっていて驚きました。1941年に、サトウハチローの作詞、仁木他喜雄の作曲で、「めんこい仔馬」が世に出ました。

1 ぬれた仔馬のたてがみを
なでりゃ両手に朝のつゆ
呼べば答えてめんこいぞ オーラ
かけていこうかよ 丘の道
ハイド ハイドウ 丘の道

2 わらの上から育ててよ
今じゃ毛なみも光ってる
おなかこわすな 風邪ひくな オーラ
元気に高くないてみろ
ハイド ハイドウ ないてみろ

3 西のお空は夕焼けだ
仔馬かえろう おうちには
おまえの母さん まっている オーラ
歌ってやろかよ 山の歌
ハイド ハイドウ 山の歌

4 月が出た出た まんまるだ
仔馬のおへやも明るいぞ
よい夢ごらんよ ねんねしな オーラ
あしたは朝からまたあそぼ
ハイド ハイドウ またあそぼ

甲府連隊の連隊長が、『ぜひ譲って欲しい!』と願ったほど、父が乗っていた馬は「駿馬(しゅんめ)」だったそうです。その街にあった父の事務所と軍需工場のあった山村との間を往来するために、父は馬を使っていたのです。ある時、馬の世話をする方の、子供さんが病気になって、滋養のある食べ物をたべさせなければならなかったのです。その人は、なんと父の馬を潰して、肉にしてしまい、子供に食べさせてしまいました。父は知らずに、その人の届けた「馬肉」を食べてしまったのです。せめてもの罪滅ぼしにと、そうした彼を、父は、我が子を思う彼の「父性愛」に免じて、不問に付したと、生まれる前の話を母に聞いたことがあります。

だからでしょうか、晩年の父が、ごろっと炬燵に横になりながら、「めんこい仔馬」を歌っていたことがありました。あの馬には、「⚪️⚪️号」とか「太郎」とか名前があって、呼びかけて大事にしていたことでしょう。ですから、きっと自分の愛馬やあの家族を思い出し、戦時中にはやっていたこの歌を口ずさんだのでしょう。その父も61で亡くなり、父の逝った年齢を八つも超えてしまっている今の私は、時々、アルバムに父の五十代の写真を見ることがあります。父より老けている自分の顔と見比べて、やはり似てきているので苦笑してしまいます。その父の数少ない愛唱歌の一つでした。

今、父が青年の日を過ごした瀋陽(父は「奉天」と言っていました)から、はるかに遠い華南の街で教師をしています。なんだか『雅!』と呼びかける声が聞こえてきそうです。この夏が来ますと、滞華満八年になります。父を思い出しながら、「めんこい仔馬」を、そっと口ずさんでいる、「労働節」の休みで週末であります。

(絵は、蒙古襲来を迎え撃つ兵士を乗せた「馬」です)

ブログを再開します!

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こんばんは。

お読み下さるみなさん、お元気にお過ごしでしょうか。

しばらく休んでいた、ブログの投稿を、今晩から再開したいと思います。

昨日から、「労働節」の三連休です。家のベランダから見下ろすバス通りの車も電動自転車も人も、せわしなさの感じられない休暇のなか日です。

ご挨拶だけにしておきます。

おやすみなさい。