ボタン

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<このブログは三月に書いたものです>

三月は「卒業式」が行われ、人生の区切りをつけつける月です。我が家の長男が、中学校を卒業したのが1987年、次男は1995年、それぞれの春三月だったでしょうか。その頃に、中学や高校で、女子が、卒業する男子から学生服のボタンをもらうと言ったことがあったのです。スポーツなどで人気のあった男子学生の学生服の<第二ボタン>を欲しがったのです。首から二番目で、しかも心臓に近いボタンだったからでしょうか、淡い初恋や憧れが、そう言った願いを起こさせたのでしょう。流行歌とか学校物の小説とか、アニメななどが火付け役をして流行したのかも知れません。

思春期の真っ只中の別れの季節で、おセンチになるからでしょうね。なんとなく<形見分け(亡くなった人の思い出に記念に何かを分けてもらうこと)>に似ています。私たちの1960年前後の時期には、ありませんでした。また、欲しがっても、<ジャバラの制服>で、ボタンがなく、コンの制服をホックで止めていたのですから、女子部の女学生にも、通学途中で好意を寄せてくれた女学生にも、あげようがありませんでした。戦争時代の海軍の軍服や、学習院の制服に似ていたのです。

そう言えば、1944年には、戦況が厳しく、学生までもが戦士となって戦場に駆り出される事態になり、あの「学徒出陣」が、明治神宮の野球場で行われた悲しい歴史が、私たちの国にはあります。旧制の大学や専門学校を繰り上げ卒業されて、中国大陸や南方に送られたのです。彼らも、許嫁や恋人に、ボタンを残して戦地に赴き、ある学生は銃弾に倒れて不帰の人となったのでしょう。父は、対中、対米英戦争が終わった時には35歳でした。兵役の適齢期でもあったのですが、軍需産業に従事していて兵役にはつきませんでした。

人は殺しませんでしたが、人を爆撃する軍用機に関わる仕事をしたのですから、その責を問われても仕方がありません。我が家は軍からのお金で生活をしていたことになりますから、終戦間近に生まれている私の、産着もミルクも父の財布で賄われたのです。自責の思いを感じるのです。それで、中国のみなさんに謝罪をしています。でも一度も責められたことがないのは感謝で好いのでしょうか。

暖かな思い出は好いのですが、悲しい思い出になってしまうようなことが、二度と繰り返されないように、そう願う三月の初めであります。

(写真は、早稲田大学の応援団の団員の「学生服」の姿です)

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