杜子春

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芥川龍之介の作品に、「杜子春」があります。芥川、二十八歳の時に発表しています。その年の三月に長男・比呂志が誕生していますから、父親となる作者が、その子の健全な成長を願いながら、『人は如何に生くべきか?』との教訓を与えたかった、そんな創作の動機があったのでしょうか。物語の時は六世紀ごろ、舞台は唐の都・洛陽、親の財産で遊びに明け暮れる杜子春が主人公です。数度の没落と再生を繰り返し、やがて、『では、お前はこれから後、何になったら好いと思うな。』という老人の問いに、『何になっても、人間らしい、正直な暮らしをするつもりです。』と言える人間に変えられて行く物語です。

「短編小説の名手」と言われたほどの芥川でしたから、舞台設定、登場人物、言葉、話の筋道、結語など、どこを取り上げても巧みに書き上げられた小説です。ですから、中学校の国語科の教科書に掲載されているのです。「友情論」、「親子の在り方」、「金銭観」、「死生観」などが語られています。

『金の切れ目が縁の切れ目。』ということが言われますが、大金持ちであった時に寄ってきた友が、<なけなし>になった時には去って行き、飢えても渇いても助けてくれなくなるというこの世の現実に、杜子春は辟易とします。人間不信に陥ったのでしょうか、<脱人間>で「仙人」を志します。その資格審査で地獄に行き、閻魔大王の前に立ちます。そこに地獄に落ちた父母が貧相な馬になって連れて来られます。彼の前で鞭打たれているのを見せられるのです。この審査は、「一言でも口を利いたら・・・到底仙人にはなれない・・・」というもので、何を見聞きしても黙っていなければならないのです。

杜子春は、懸命に耐えて頑張ります。しかし、『心配をおしでない。私たちはどうなっても、お前さえ仕合わせになれるのなら、それより結構なことはないのだからね。大王が何と仰っても、言いたくないことは黙っておいで。』と言うお母さんの懐かしい声を聞いて、意志を曲げて、『お母さん。』と呼び掛けてしまうのです。その瞬間、洛陽の西門の下に戻っている自分を知ります。

親の情の深さと慈しみが、杜子春を感動させ、人間性を恢復させていくのです。とても好い物語です。京や奈良の都ではなく、中国の古代の洛陽を舞台としたのは面白い発想だと思います。やはり「文豪」と称される所以でしょうか。この物語を、先週の授業で作文をしてもらいました。今、その添削をしながら、河南省の古都・洛陽を、いつか訪ねてみたいと思っている、日本の「こどもの日(端午の節句)」の前々日の夕べであります。

(写真は、国花候補の「洛陽牡丹」の花です)

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