言質を取る

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「言質(げんち)を取る(言葉尻を取る)」という言い回しがあります。国会での答弁、最近ではツイッターとかブログで述べた言葉について、「鬼の首を取った」ように喜んで非難や批判を加えることが多くなってきているのではないでしょうか。完全無欠な人はともかく、人は言葉で間違いをおかすものです。言い間違い、書き間違いは、国語学者でなければ誰にでもあります。『漢字を知らない!』と、物書きで飯を食っている新聞記者が、総理大臣を轟々と非難していたことがありました。こういうのを、「揚げ足を取る」というのでしょうか、取られた足を下ろすところまで取り去ってしまうような徹底的な攻勢には、はたから見ていて、どうかなと思ってしまいます。

あんなに非難されても、涼しい顔のできる肝っ玉の座った人ならいいのですが、不用意に語った言葉で、実に多くの人が傷ついてしまうのです。有名になればなったで、蜂の巣を突っついたような騒ぎの中に投げ込まれて、何百と言う記者だと称する者たちに、取材を強要されています。本人だけではなく、家族や親族に取材攻勢をかけるのです。拳は使わないだけで、それは極めて悪質な暴力行為ではないでしょうか。事件の加害者の家族は、もうそこには住むことができなくなったり、勤め先を辞めたり、雲隠れをせざるを得なくなるのです。彼らの仕事には「仁義(道徳上人が守るべき筋道)」はないのでしょうか。

私の愛読書に、「人の語ることばにいちいち心を留めてはならない。あなたのしもべがあなたをのろうのを聞かないためだ。」と書いてあります。人を陥れようとして暴言、妄言(もうげん)、虚言する者の語る言葉には、「馬耳東風」で聞き流すことを言ってるのでしょう。『何で、あんなことを言ったんだろうか?』と考えに考えて、理由がわからないで寝込んで、鬱になってしまう人も世の中にはいるのです。「人の口には戸は立てられぬ」、人は手前勝手、自分勝手に出任せ、口任せにものを言うのです。「馬の耳に念仏」とはよく言ったものですが、分からない振りをしている馬のように、いなないているに限ります。「人の噂も七十五日 」と言うそうですが、七十六日の来ることを願っていれば良いのでしょうか。

自分を愛していてくれる親や友人や師などが語ってくれる忠告や勧告には、耳をそばだてて聞く必要があります。『雅仁!』、『雅ちゃん!』と言ってくれた師匠も母もいなくなったのは残念です。今度は、私が良き助言者になる役割順番が回ってきているのでしょう。

(写真は、「レンギョウ」です)

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