孫と私とランドセル

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「また」というのは、以前にあったことや起こったことが、今度も、繰り返される時に用いる言葉でしょうか。日本のニュースを見ますと、この週末に、ある地域では百年ぶり、百二十年ぶりの大雪が、『また雪が降った!』と伝えていました。私たちがいた、先週末の東京にも、結構な雪が降り積もっていました。『明日は出かけて行って、孫兵衛に、約束のランドセルを買って上げなければいけないけど、雪で行けるかな?』と心配したのですが、翌朝、交通機関に乱れはないと、ニュースが伝えていました。降り積もった雪に足を取られながら、私にぶら下がる家内と一緒に、東急東横線ー地下鉄副都心線ー東武東上線で、孫兵衛の待つ駅に降りることができました。

駅前も除雪が思うようにいっていないで、スパイクの付いていない靴でしたから二人とも、滑り滑りで駅前の大型スーパーに入り、そこの地階のフードコートで、長男と孫たちと落ち合ったのです。午前中でしたので、外は、まだ深々と雪が降っていましたが、店内は効き過ぎた暖房で、コートを脱いで、汗を拭うほどでした。一緒に、「ランドセル特売コーナー」に行って、品定めをしたのですが、『これがいい!』と言ったのは、昨年の売れ残り値引き品でした。すぐに、『これね!』と言って買うことにしたのです。何と爺孝行の孫ではないでしょうか。この店も、正直に去年物と今年物とを区別して売っていたのは、大手のスーパーだけあって『流石!』と思ってしまいました。

在米の孫兵衛たちにも買ってあげたかったのですが、「ランドセル」は日本文化の産物、『要らないわ!』と言われて、「外孫」には何の入学祝いもせずじまいなのです。これって不公平でしょうか。不公平といえば、外孫たちの母親、私たちの次女が小学校に入学した時のことです。着る服は、巡りめぐって従姉妹のお下がりでした。また、新一年の定番のランドセルも、上の兄の長女が六年間使った「卒業済みランドセル」の代物だったのです。くすんだ赤で、所々に傷がついて、それなりに年代物でした。『歌織が使ったのでいい?』と次女に聞きましたら、『うん、いいよ!』と言ってくれました。『嫌!』と言ったら新しい物を買おうと考えていたのですが、親の意向、経済状況(!?)を理解してくれたのでしょうか。不満や不平を何一つ言うことなく、<ピカピカの新一年生>が<お下がり>で身を調えて入学式に出て、それ以来6年間使い通したのです。

授業参観に行きました時、教室の後ろの物入れに、たくさんのランドセルが並んで光り輝いて収まっていたのですが、次女のだけが、異様にくすんでいました。でも一番居心地がよさそうに、『デン!』と座りこんでいたのは見事だった。「まだ使える物を使うこと」、「物を大切にすること」を、次女は学ぶことができたのだと思っています。「みんなと違う自分の物」を持って使うことは、性格や人種や才能などの違う人々の中で生きていかなければならない彼女にとっては、良い学びだったのでしょうか。絵を描くのが遅い子の絵を描く手伝いをして、自分の絵が描けないで、先生に怒られてしまった次女でしたが、相手を顧みることにできる心があったことからして、「ランドセル事件」は落着したようでした。

あのランドセルは、何度もした引越しの後で、何処かに行ってしまったようです。そう言えば、まだまだ貧しかった戦後間もない頃、ランドセルを買ってもらえなかった級友たちが何人もいました。彼らは、ズタ袋に教科書や筆箱を入れて登下校していたのです。彼らは、どんなその後を生ききているのでしょうか。彼らの消息を知りたい思いに駆られている、『日本では、また雪が降った!』のニュースを聞いた日曜日の午後であります。

(写真は、教室の机に下げられた「ランドセル」です)

子守唄

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「春天来了」、中国のみなさんにとって、一番響きの好い、聞いて嬉しくなるフレーズなのではないでしょうか。文字通り『春が来たんだよ!』という意味です。もちろん、熱帯地域には四季はないのですが、それでも微妙に春を感じる時があるのではないかなと思ってしまうのですが。春夏秋冬、はっきりとした季節の移り変わりのある日本の中部山岳に生まれた私にとっても、春の到来は、思い出とともに心地よい時であります。新暦の元旦は、まだ冬の真っ最中でして、暑いコートを着て、手をポケットに突っ込み、肩をすぼめての外出ですが、旧暦の元旦(今年は1月31日でした)は、まだまだ寒いのですが、太陽の輝きも強さを増していますし、気分的に春を思うことができるのです。

今、「爆竹」と「花火」の炸裂音が、四方八方から次々と聞こえてきます。「火薬」を発明した中華民族の末裔のみなさんにとっては、誇らしい音響と、煙と、匂いなのでしょう。戦の銃器に用いないで、平和のために、喜びのために用いるのであれば、強烈な爆発音も、<子守唄>に聞こえてきそうです。2007年の「春節」と「元宵節」を、天津で過ごしました。年越し蕎麦を口にし、「除夜の鐘」を聞きながら「元旦」を、静まり返って迎える日本の街中とは違って、心の準備をしないままに、「春節」の前日だったでしょうか、「天塔(テレビ塔)」の前を、自転車で通っていた時に、突然、右側で爆竹が鳴り始めて、真っ赤な紙片が散らばり、驚かされたことがありました。外国人向けのアパートの7階に住んでいたのですが、建物の横が空き地でしょうか、広場になっていました。そこから花火を打ち上げていたのですが、窓の横で花火が開くものもあって、午前零時、旧正月の元旦になった後まで続いていました。初めての中国の「過年」、正月を、その爆竹と花火で、驚きの中に歓迎されたのです。

中国も日本も、それぞれの仕方で正月を迎え、終えるわけです。「けじめ」をはっきりとさせることについては、中国も日本も同じなのでしょう。来週の月曜日から、授業が始まります。気を引き締めて、学生のみなさんとともに学ぼうと願っております。私にとっての「爆竹と「花火」の炸裂音は、『今年も精一杯するんだぞ!』との叱咤激励の声のように聞こえてまいりました。

(写真は、「爆竹(鞭炮bianpao)」です)

ランタン

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1940年と言いますから、昭和14年に、「上海の花売り娘」という歌が大流行しました(川俣栄一の作詞、上原げんとの作曲で、岡晴夫が歌いました)。戦争中でしたが、当時の上海は、日本人の青年たちにとっては、『一度行って見たい!』と願った街の一つだったようです。

紅いランタン 仄かにゆれる
宵の上海 花売娘
誰(たれ)のかたみか 可愛い耳輪
じっと見つめる 優しい瞳
ああ上海の 花売娘

霧の夕べも 小雨の宵も
港上海 花売娘
白い花籠 ピンクのリボン
襦子(しゅす)も懐かし 黄色の小靴
ああ上海の 花売娘

星も胡弓(こきゅう)も 琥珀の酒も
夢の上海 花売娘
パイプくわえた マドロス達の
ふかす煙りの 消えゆく影に
ああ上海の 花売娘

この歌に、「ランタン」が出てきます。中国語では「紅灯籠」と言って、旧正月「春節」の最後の日である「元宵節(日本では<小正月>に当たります)に街中を飾って、行く「正月」を惜しむのです。日本でも、長崎にはこの習慣が残っていて、「長崎ランタン・フェスティバル」という行事が行われるようです。今日が、その「元宵節」です。漢代に始まった中国のみなさんが、とても大切にしている行事なのです。四川省開県には、「対罵」という習慣があるそうです。これは「元宵節」の夜に、家の外に椅子を出して、憎んでいる人に向かって、思いを込め、力を込めて罵るのだそうです。罵られた人は、それを黙って受けなければならないとのこと。思いもよらないで、憎まれていることを知ることもあるのでしょうね。罵った相手と、明日から顔を合わせたら、どういう風に付き合って行くのか、ちょっと心配になりますが。意外とあっけらかんとしている、そんな大らかな国民性を感じますから、問題は起きないことでしょう。

寒くて何もかもが縮こまっていた冬が終わり、「春到来」の喜びの宵なのです。みなさんは、今晩、「湯円」を食べるのです。地方地方によって作り方が違うようですが、白い皮の中にゴマの餡を入れた、ピンポン球ほどの大きさでしょうか、これが美味しいのです。何処かで買ってきて、私たちも日中友好を願い、楽しんで頂くことにしましょう。

(写真は、「ランタン(紅灯籠)」です)

白い東京

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今朝、5時過ぎになっていたでしょうか、窓のカーテンを、そっと開けて見ましたら、道路が真っ白でした。どうも一日中雪が降るそうで、16年振りの大雪、関東地方でも降雪量が多いと予報されています。歌に、山崎唯一の作詞作曲の「白い想い出」があります。

雪が降ってきた ほんの少しだけど
私の胸の中に 積りそうな雪だった
幸せをなくした 暗い心の中に
冷たくさびしい 白い手がしのびよる

雪が溶けてきた ほんの少しだけど
私の胸の中に 残りそうな雪だった
灰色の雲が 私に教えてくれた
明るい陽ざしが すぐそこに来ていると

灰色の雲が 私に教えてくれた
明るい陽ざしが すぐそこに来ていると
すぐそこに来ていると

子どもの頃には、雪が降ることが多く、降雪量も多くて、東京都下の街で、橇(そり)遊びをした思い出があります。これから、長男家族の住んでいる町に出掛けようと思っています。今春小学校に入る孫がいて、「ランドセル」をプレゼントすることを約束していますので、その約束を果たすためにです。家内も一緒にと思いましたが、大雪になって帰宅が遅れたりするかも知れませんので、一人で出かけることにしています。

雪といえば、昨晩、黒海沿岸のソチで、冬季オリンピックが開催されました。武器ではなく、スポーツで競い合う平和の祭典ですから、国際友好にとっては素晴らしい機会です。無事に終了することを願っています。これから出かける私も、滑らないようにしないといけないと思っている、白い東京の朝であります。

(写真は、雪の降る街路です)

世界一

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来週、中国の華南の街に帰るつもりでおります。今や第二、第三の「ふるさと」となっていますので、とても楽しみです。多くの友に会えるからでしょうか。今朝あるコメントを読みながら、思い出したことがあります。我が家にお客さまが見える時に、食事を作ったり、食後のデザートを作ったりします。そして、茶碗やお皿も洗って後片付けをします。そういった私の姿をご覧になって、みなさんが驚かれるのです。概ね日本の男性は、ドテンと座って、新聞やテレビを見ながら何も家事をしないと思っているからです。既成概念というもので、テレビや映画からの<日本人男性像>です。ところが、毛色の変わった日本人の男性がいることを知って驚かれるのです。

私たちを食事に招いてくださる家庭の多くが、奥様だけでなく、ご主人が料理をされ、しかも大変美味しく作っておられるのです。しかも何種類も、何種類も料理を作ってもてなしてくれます。ご主人が浙江省の出身で、奥様はマレーシアの華人で、お子さんのいないご家庭に招かれたことがありました。「郷土料理」とのことでしたが、実に美味しかったのです。多分、向こうで食べた料理の中で、プロの作ったものも含めて、一番美味しかったし、綺麗だったのが、このご主人が作ってくれたものでした。『また、食事に招いてくれないかな!』と思っているのですが。

この地の男性は、<中国一>なのだそうです。優しいですし、温順な気質を持っておいでです。天津にいました一年の間、街中の路上や市場の中で、よく喧嘩を見かけたのです。しかも激しい殴り合いや取っ組み合いです。男性同士だけではなく、女同士、男と女の組み合わせで、実に多彩でした。南の街にやって来て、そう言った光景を見かけないのです。気候も温暖、食べ物も豊富、厳しい要素が少ない社会や地域だからかも知れません。で、『ここの女性は幸せ!』だと自認しているようです。ですから、<かかあ天下>なのでしょう。

家内が時々出掛けて行く「日本人奥様会」があります。日系企業の駐在員の夫人の他に、中国人の男性と国際結婚をされた夫人がおいでです。時々我が家にもおいですが、みなさん幸せなお顔をされておいでです。優しいご主人に愛されておられるからに違いありません。姑さんが食事のお世話をされていて、入り込む隙がないのだとも聞いています。妻業と親業に専念できるのですから、素晴らしいことです。世界で一番良いのは、日本人の妻と中国人の夫のカップルですから、<世界一の夫婦>が、こちらにいることになります。

仕事中心、寝るための帰宅、休日はゴロゴロかパチンコ、会話はない、無味乾燥の夫、そんな男性の我儘さが、日本の社会なのでしょうか。あるご婦人が、ご自分のお父様が、そんな父親、夫だったことから、『父のような男との結婚は嫌!』と、中国人男性を生涯の伴侶に選ばれておられます。日本人の男性は、猛省をしなければならないのでしょう。

(写真は、中国の大河「長江」の源流の唐古拉山脈です)

長兄

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今日は、上の兄を入院先の病院に見舞ってきました。先週末、家の中で転倒し、入院したとの連絡がありました。八王子の病院まで、最寄りの駅から、弟の運転してくれる車に乗せてもらって、家内と出かけてまいりました。早期に救急搬送され、初期処置が良かったようで、ニコリとして家内と私をベッドの上に座って、迎えてくれました。今日は、一般病棟に移り、リハビリもしているとのことでした。父が脳溢血で倒れたままで、入院先で召されていますから、父の子の私たち四人は、脳溢血や脳梗塞に注意しなければならないようです。

私の愛読書に、「友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。」とあります。長兄として、父の期待を背に、頑張って生きてきました。大学では、運動部のスタメンとして活躍して、大学選手権で優勝したチームの一員でした。下の三人の弟たちの<憧れの兄>だったわけです。着ないで家に吊るしてあった学生服と、大学帽をかぶって、外出したことが、三男の私にはありました。話し言葉も、読んでいる本も、仕草まで真似をしたのです。

国体のラグビーの予選の試合で、タックルをした時に、頭部を打撲して、1週間もの間、この兄は人事不省になったことがありました。父は、つきっきりで、静岡市の病院に入院中の兄の世話をしたのです。それこそが、父の兄への愛や期待の現れだったわけです。その世話があって、兄は奇跡的に回復をしたのです。怖い親でしたが、優しくて涙もろさを併せ持っていたわけです。父を歓喜させるような大出世をしなかったのですが、一人の人として、立派に生きてきたと言えるでしょう。父の腰からの最初の子なのです。父を越えて生きてきたのではないでしょうか。

やり手で仕事の好きな兄は、七十を越えた今も現役で働いていますから、仕事ができない今は、ちょっと辛いことでしょう。『もう若手に仕事を任せて、ゆっくりする時ですよ!』と、体が人生が、今回の入院が語りかけているのではないでしょうか。十二分に働いてきていますから、そんな時期が来ているに違いありません。次兄も、昨年長く働いた仕事を辞めているのです。弟として、まだまだ長生きして、相談ににってもらいたいこともあります。『俺がいなくては!』と、仕事の出来る人は思うのだそうです。でも、後任の器は、十分に育って備えられていて、登場を待っているのです。それで世の中は潤滑に動くのです。西郷も坂本も高杉も、惜しまれて早世し、逸材がいなくても、明治維新政府、近代日本は動いたではありません。

今日は四月の気温だったそうで、着て出た防寒着を脱いでしまい、腕まくりまでしてしまいました。兄を見舞って、そんなことを思っている「節分」の夕べであります。

(写真は、「セツブンソウ」です)

我孫子

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山手線の日暮里から、千葉、茨城、福島、宮城の各県を結ぶJRの常磐線があります。昨日の日曜日、その沿線の「我孫子」まで家内と一緒に、中国で出会った方と、その友人のみなさんを訪ねることができました。話をしたり、みなさんがお作りになられたもので食事会まで開いて下さいました。このご婦人は、私たちが住んでいます街にある大学で、長年日本語教師をされたことがあり、教え子に招かれておいでになられた時に、何度か、私たちを訪ねてくださったのです。学生に慕われていて、日本を訪ねる学生のみなさんのお世話をなさり、交流を続けている、<親中派>です。一昨年、十人ほどのグループで中国旅行の途中に、我が家にも寄ってくださったのです。その時は、お茶と手作りの小さなお菓子でおもてなしをしただけでしたが、昨日は、大ご馳走になりました。

この常磐線の沿線の「馬橋」という駅から、「流山電鉄」という私鉄が走っていまして、その終点駅にある事務所で、次兄が働きながら、都内の大学に通っていたのです。小遣いをもらいに、何度も出かけたことがあります。そのことを、全く忘れていましたので、駅名を見て思い出したわけです。ある時、兄の知り合いの年配の方の宴席に連れて行ってもらって、ご馳走になったことがあって、『いいのかな?』と思いながらお腹をイッパイにしたことがあったのです。豊かな農家のおじいさんだったように記憶しています。

その頃の車両は、ローカル線だからでしょうか、ずいぶん古かったと思いまます。ところが昨日、何十年ぶりに乗った電車は、小田急、東京メトロ、JRの相互乗り入れの新型車でした。息子の住む家の最寄り駅から、東横線と副都心線直通電車で、明治神宮前で、千代田線に乗り換えて、我孫子まで一本で行くことができたのです。東京近郊に住む人たちの通勤や通学、買い物や訪問などで利用される人にとっては、驚くほどに便利になっているのが、改めて分かったのです。乗り換えが少なくて、少々余裕で乗り継ぎましたのに、1時間半ほどの電車の旅は、実に快適でした。

昨日の食事の折に、一昨年、私たちの家を訪ねてくださった時の様子を、その時の旅行のリーダーの方が、その印象記を日記に残しておいでだったのです。その日記を、ダウンロードされ印刷して読んでお話しされたのです。その一日にあったことを、公私にわたって、翌日の早朝に日記に記しておられるのだそうです。ついぞ、そのようなことをしたことのない私は、『あれは、何時のことだったっけ?』とうる覚えなのです。ところが二年前の三月の訪問の期日と時間と共に、正確に書き残しておられる「律儀さ」に驚かされてしまいました。お聞きしながら、『そんなこと、話したんだ!』と思ったりしたのです。

<親中派>の日本語教師のご婦人の影響でしょうか、中国旅行をされたからでしょうか、みなさんが<親中派>になっておられ、来日されている中国からのみなさんとの出会いもあるようです。一般民衆は、中日双方に良い印象が溢れているようです。昨日の我孫子のように!市内の名所、自然が大事に保存されている「手賀沼」に案内してくださり、日本唯一の「鳥の博物館」、「手賀沼親水広場水の館」に案内してくださいました。軽い疲れを感じながら夕闇の頭頭に、幾つものお土産を手にして降り立ちましたら、日曜日の有名な駅の周りは、ファッション誌から出て来たような若者たちで溢れていました。

(写真は、我孫子にある「手賀沼」です)

リケジョ

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「リケジョの新星」と言うことばを、新聞で読みました。「万能細胞」を作ることに成功した、小保方晴子さんのことです。つまり、「理系女子」のことなのです。IPS細胞研究でノーベル賞を受賞した山中教授に勝るとも劣らない研究をして、脚光を浴びている新鋭の研究者です。これが医学の難病の治療に用いられるとしたら、素晴らしいことになります。科学的な発明や発見は、悪用されかねませんが、人の幸福につながるとするなら、大いに奨励されるべきことになります。

「女子力」が認められ、男女の差別や区別なく、高く評価されることは、21世紀には相応しいことであります。『女性の管理職が欧米に比べて極めて少ない!』と言われてきた日本の社会で、科学の世界で、こう言った研究成果が正しく評価されたことは、女性の「母」から生まれた男として、大いに喜びたいのです。この研究者が、ユニホーム、立場に象徴の制服を身にまとっていないことに、何となく「反骨」を感じたのは私だけでしょうか。母がよく着て、家内も使っていたことがあって、最近は見られなくなった「割烹着(かっぽうぎ)」を、この方が着ていることに庶民性を感じて微笑ましいのです。

昨日、兄の家に向かう途中、夕方のラッシュを、一人の女性がさばいていました。制服からではなく、歩き方を見て、すぐに「警察官」だと認めることができました。『私は国家権力を持った、逮捕権のある者で、吹く笛ひとつで、車を止めさせ、発進させたりできるのよ!』といった声にならない声が聞こえてきました。実を言うと、普通の女性には見られない態度の大きさでした。悪意で言っているのではなく、職務や立場から来る確信なのでしょうか。何度か笛でストップさせられた者の「僻(ひが) み」からかも知れません。立場のない者は、官憲や役人を、そいう風に見るのでしょうか。そういえば昔の役人や警察官は威張っていて、尊大な口を聞いていました。だから、『役人なんかには絶対にならない!』と心に決めていました。いえ、なれなかったのですが。

一時、<理系>が進学先として好まれなかったのですが、最近は変わったのでしょうか。「割烹着の晴子さん」に啓発されて、「リケジョ」が増えて行くかも知れませんね。秀でた女性が、ますます活躍したらいいと思っております。また年配者が研究室を牛耳っているのではなく、若者たちが、縦横無尽に活躍してほしいものですね。子に若き研究者は、優しく見守り支持してくれた研究者の先輩に、感謝の意を表していたのが、よかったですね。一月末の幸先の良いニュースでした。この後の研究をそっと見守っていきたいものです。

(イラストは、小保方春子さんです)

お祝い

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<富士山の隣りに夕日が見られる部屋>を、昨日は訪ねました。家の玄関からは、奥多摩も秩父も丹沢も遠望でき、スカイツリーも見えるのだそうです。学校時代に山が好きで、山仲間とよく歩いた山々を眺めながら、余生を生きて行くのでしょう。私の弟は、好い買い物をしたのです。昨年11月に、自分の誕生日に引越しを済ませたと言っていました。形あるものを、子どもたちや孫に残すことは、良いことだと思いました。長く教師として教育に携わって、心血を捧げてきた彼の永年の汗の結晶の有形の一つなのです。

新築でしょうか、転居になるのでしょうか、その「お祝い」に出掛けたわけです。駅前のスーパーで食材を買って、そこまで迎えに来てくれた弟の車で、連れて行ってもらいました。その11階の玄関で、『あそこに見えるのが・・・』と、その眺望を解説してくれたのです。家内が作ったのは、少々、季節遅れの「お雑煮」でした。彼には珍しくないのですが、『美味しい!』と三人で食べました。帰国する私たちに、『これお土産に持って帰ってください!』と友人が家に届けてくれた、高級中華食材の<干し鮑>入りでした。

奥さんを病気で亡くして十五年、男手一つで三人の子を育ててきました。仕事帰りに食材を買って、賄いをし続けての年月でした。実に良くやってきています。再婚の話も多くあったのですが、顔を縦に振らずに、これまで一人で生きてきたのです。一昨年召された母が、末の息子で可愛いのでしょうか、元気な頃には、針仕事やおかず作りとか、何かと手助けをしてきたようです。今は故あって、可愛くて仕方がないと相好を崩し、また厳しく孫の世話をやいています。学校から戻って来た孫ベーに『はい、ピアノ!』と言って練習をさせていました。第二回目の<子育て>でしょうか。そのピアノの上に、四人兄弟の嫁の中で、最美人の義妹の微笑んでいる写真が置いてありました。退職後も、同じ職場に一室、一つの机を与えられ、週三日ほど出かけては、後輩の相談にのったり、学生の世話をしているのです。

この家の一間は、実は、家内と私の帰国時のための<宿舎>なのだそうです。車も蔵書も家も所帯道具も、一切を処分して出掛けた「レカブ人」、旅人然として生きている私たちのために、引き上げて来た時に住むことも考えていてくれているのです。そう思っていてくれる彼の気持ちが嬉しくて、どんなに励まされていることでしょうか。そう言えば、小さい頃に、父に叱られて、家から追い出されると、一緒に出てくれ、一緒に泣いてくれたのが、この弟なのです。六十年経っても、意地悪でいじめっ子だった兄貴の私なのに、同じ気持ちを向けていてくれるのです。私の愛読書に、こんなことが書いてあります。

「友はどんな時にも愛するものだ。
兄弟は、苦しみを分け合うために生まれる。」

『夕方になったら、賢ちゃんのところに行こう!』との彼の提案で、彼の孫べーと私たちで、次兄を訪問しました。『今晩はすき焼きだよ!』と言って義姉がご馳走してくれました。お腹をお肉や焼き豆腐、そして愛とで満たしました。弟は、「保護者会」のために早めに帰り、私たちは兄に駅まで送ってもらって帰ったのです。有形、無形の「愛」があるのですね。そんな満たされた一日でした。駅前のコンビニで、<ミートソース・スパゲッティー>を息子に買った宵でした。

(写真は、「奥多摩連峰」です)

基点

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どこの国にも、「基点」となる中心地があるのでしょう。アルゼンチンの首都・ブエノスアイレスに行きました時に、大統領府の近くに「オベリスク」と言われる塔を見上げたのです。それは「記念碑」の一つで、67mの高さがありました。その旅の帰途、家内の上の兄が長く暮らしているブラジルを訪ねました。その首都のサンパウロの中心地にも、「オベリスク」があって、「ここを起点に、ブラジル全土に、道路網が広がっているのです!」と聞きました。

そうしますと、ラテン系の国によく見られる、この「オベリスク」の日本版というのは、「日本橋」ではないでしょうか。「江戸五街道(東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥羽街道)」の基点で、明治維新以降は、日本の「道路元標」が置かれているからです。あの弥次さん喜多さんが東海道を歩いた、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」の旅は、この「日本橋」が出発点でした。

1
お江戸日本橋七つ立ち 初上り
行列揃えて あれわいさのさ
こちや 高輪 夜明けの提灯消す
こちやえ こちやえ
2
恋の品川女郎衆に 袖ひかれ
のりかけお馬の鈴が森
こちや 大森細工の松茸を
3
六郷あたりで川崎の まんねんや
鶴と亀との米まんじゆう
こちや 神奈川いそいで保土ヶ谷へ
(以下省略)

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父の会社が、この日本橋にありました。何度か行きましたが、首都高速道路ができてからは、高架道路の下に隠されてしまいました。東京の町の最も大切にしなければならない場所であるのに、そんな風にせざるを得なかった「近代化」や「便利さ」というもには、文化や伝統や風情の保護の仇敵なのでしょう。曙を遮ってしまうコンクリートの橋脚は、弥次喜多の旅立ちには似合わないからです。そういえば、私の同級生が数人で、日本橋から京都まで、空手着に高下駄を履いて上洛したことがあったのを思い出しました。また、ブラジルに行きました時に、サンパウロの空港に迎えてくれた義兄も、人生の旅を終えて、祖国に帰ることなく、天のふるさとに帰って行ってしまいました。

(写真上は、ブエノスアイレスの「オベリスク」、下は「日本橋」の夜景です)