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 きっと、日本の今頃は、蝉の鳴き声も聞こえなくなって、もう秋めいてきているのではないでしょうか。先日、「十五夜」が終わりましたから、日中は暑い日があっても、そろそろ虫の音だって聞こえてくるかも知れませんね。海の向こうから、『素晴らしい季節がまたやってきた!』と、喜ぶ声が聞こえてきそうです。もちろん、暑かった夏だって、やってくる寒い冬だって、それぞれに素晴らしいのですが、秋がことのほかに素晴らしいのは、景色の中に見る色彩が、真っ青な抜けるような空と透徹した空気の中で、際立ってくるからではないでしょうか。

 中部山岳の山奥に生まれて、父に伴って上京し、再び古里に戻ってきて、四人の子育てをしました。美味しい葡萄や桃やリンゴの獲れる里から高原を車で走って、さらに山深い林道を抜けたことが、秋にはよくありました。細くて険しい道でしたが、その秋の景観は息を呑むほどに素晴らしかったのです。晩秋になりますと、紅葉が渓谷いっぱいにあふれて、渓流にまで押し寄せていました。そんな山里に、鄙びた温泉があって、落ち葉を肩に受けながらの露天風呂は、秋色の贅沢三昧だったのを思い出してしまいました。無料の温泉だって、ちょっとぬるくて文句が言いたいほどでしたが、楽しむことも出来ました。「長生きしてくれたら親父を連れてきたかったのに」、などと思ったりしていました。 

 秋がよければ、新緑の春だって負けてはいません。『緑という色は、こんなにも多彩なのか!』と思うことしきりなのです。山道を抜けて見下ろす麓の景色は、桃の花が、まるでピンクの絨毯のように張り広げられて、満開でした。農家の方が育て上げた木が、造物者と農夫に、『ありがとう!』とでも言っているように咲き誇って、感謝しているようでした。目を見上げますと、四方の山々も、季節ごとに、その様相はちがいますが、それぞれに、何かメッセージが聞こえてきそうに感じられます。私の生まれ故郷は、何年も前に訪ねたモンタナにだって、ハワイにだって負けないほどだと、心から実感しています。

 先日の「十五夜」ですが、こちらでは「中秋節」で、月餅を食べて家族で祝う祝祭日でした。知人が、この日の宴に招いてくださって、街中のレストランに参りました。美味しい料理をごちそうになって、知人に別れを告げて、バス停で待っていましたときに、そこから見上げた十五夜の月は、青みを帯びてなにか幽玄さを感じさせ、震えるほどに綺麗でした。一瞬、『どうして、ここで満月を仰ぎ見ているんだろうか?』と、一瞬不思議な感慨がして、あたりを見回しましたら、中国語の会話が聞こえてきたのです。広大な大陸から見上げる月は、仲麻呂が長安からはるかに偲んだ奈良の都の月とも、私の古里の山かげから昇って山肌に消えていく月とも趣を異にしているのでしょう。そう云えば、ごちそうになった円卓には、月餅がのっていて、頂戴しました。中村屋製を食べたことがありますが、こちらの月餅の具が、餡以外のものもあって多彩なのです。そう云えば、餡の中に、月を思わせる卵の黄身が入っていて、中国のみなさんも、満月をこうして楽しむのだと、改めて思わされたことです。

 人恋しい秋ですが、いつの間にか、『静かな静かな里の秋・・・』と歌い出していました。おセンチになってしまったようで、いくつになっても、季節の変わり目の気分というのは、故郷を離れても変わることなく、よいものです(斎藤信夫作詞・海沼実作曲 )。

      静かな静かな 里の秋
      お背戸に木の実の 落ちる夜は
      ああ 母さんとただ二人
      栗の実 煮てます いろりばた

      明るい明るい 星の空
      鳴き鳴き夜鴨(よがも)の 渡る夜は
      ああ 父さんのあの笑顔
      栗の実 食べては 思い出す

      さよならさよなら 椰子(やし)の島
      お舟にゆられて 帰られる
      ああ 父さんよ御無事(ごぶじ)でと
      今夜も 母さんと 祈ります

 無事や健康を祈る父は逝き、母は高齢になりました。それでも古里は記憶の中に、実に鮮明なのだと、歌いながら思ってみたりして、母の笑顔も思い出しました。

(写真は、中秋の名月、「十五夜」です)

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 こちらに越してきましてから、一月が経ちました。かつては畑地の広がる農村部だったのですが、北京や天津や上海といった中心都市だけではなく、ここ地方都市にも、周辺部からの人口流入の動きが見られます。そういった人々のための住宅の確保のために、宅地造成が進んでいるのです。そこには、香港のように18階もの高層アパート群が立ち並び、中央資本が投入されてでしょうか、大きな商業施設が、大きな通りの向こう側に建設中です。旧市街から政府関係の施設の移転計画の中で、ここには近年中に、地下鉄の駅もできるそうで、交通の至便な地域になろうとしています。

 中学生の頃でした。弟が友人のお母さんからスクーター(オートバイに似たガソリン・エンジン付き乗り物のことです)をもらってきたことがありました。まだまだ走る代物(しろもの)でしたから、ガソリンを買ってきては、高台にある畑地の広がる中を走りまわっていたのです。もちろん、免許証を取れる年齢に達していませんでしたから、〈無免許〉でした。そんなことを知っていても、親を含め近所の大人は鷹揚(おうよう)なもので、黙認してくれました。交通事情も今のようなことがありませんでしたから、危険性は少なかったのですが、それでもいけないことをしていたことになります。そのスクーターを乗り回した農地が、やがて日本最大の公団住宅用地に造成されていき、近代化の象徴のように高層住宅が建ち並び始めていました。引越し先に住み始めてから、そんな昔の出来事を思い出しております。

 この地域にお住まいのみなさんの背景は、どうなのでしょうか。どのような人たちが、家を購入して、それぞれに内装して住んでいるのでしょうか。私たちの大家さんは、同じ省の地方の農村部に住んでおられるご両親を呼び寄せるために、この家を購入されたのだそうです。その故郷の楠(くすのき)を製材して、運んでこられて、木製の床と収納を作っておられます。最近の中国の住宅には、石材の床がほとんどなのですが、この家は、木の香が立ち込めております。ご子息の孝行心に応えられたらいいのですが、長らく住んでこられた村から離れられないのでしょうか、越してこられないまま、5年が経ちました。どなたも住まないままになっていた家を、なんと私たちにお貸しくださったのです。自分の親の代わりに、自分と同じ世代のよその親に貸したことになります。

 一昨日、隣家のおばあちゃんが亡くなられて葬儀が行われていました。日本の葬儀が〈陰〉だとしますと、こちらは〈陽〉と言ったらいいかも知れません。もちろん愛してきたお母様の死は、悲しいに違いありませんが、葬儀から陰湿な感じが伝わってこなかったのが印象的でした。日本では、黒ずくめの喪服を着用するのですが、Tシャツに短パン姿の喪主の頭には、白い鉢巻が巻かれ、腰には、真っ赤な帯を締めておられました。お母様の遺体が家を離れる朝は、6時から、音楽隊が3時間も演奏を続けておられました。どんな音楽が奏でられていたのかといいますと、多くの歌の中に、なんと「北国の春(いではく作詞・遠藤実作曲)」が流れておりました。

    白樺(しらかば) 青空 南風
    こぶし咲くあの丘 北国の
    ああ 北国の春
    季節が都会ではわからないだろうと
    届いたおふくろの小さな包み
    あの故郷(ふるさと)へ帰ろかな 帰ろかな

    雪どけ せせらぎ 丸木橋
    落葉松(からまつ)の芽がふく 北国の
    ああ 北国の春
    好きだとおたがいに言いだせないまま
    別れてもう五年あの娘(こ)はどうしてる
    あの故郷へ帰ろかな 帰ろかな

    山吹(やまぶき) 朝霧 水車小屋
    わらべ唄聞こえる 北国の
    ああ 北国の春
    兄貴も親父(おやじ)似で無口なふたりが
    たまには酒でも飲んでるだろか
    あの故郷へ帰ろかな 帰ろかな

 それを聞いたとき、「中国と日本は、切り離すことのできない、文化的な絆で結ばれているのではないか!」と思わされて仕方がありませんでした。国全体には抗日、反日の雰囲気は否めませんが、民間レベルでは至極友好的なものを感じてなりません。葬儀に関わることができませんでしたが、お母様の遺骨が家に戻ってきましたときに、玄関のドアーを開け放って、深々と敬礼をして喪主のご主人と奥様をお迎えしました。ご主人と目があいましたときに、彼も無言で頭を下げて、感謝をあらわしておいででした。うーん、これって中日友好の一歩になるでしょうか。

(写真は、北国の春を告げる花、「辛夷(こぶし)」です)

小言

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 〈母の小言〉、言われたことがありますか?叱らない母でしたので、私には、その記憶がありません。人生の教訓を学んだことはあります。学校出立てで働いていた職場で、上司に躓いた時のことです。「雅ちゃん、人を信頼し過ぎてはいけません!『鼻で息をする人間をたよりにするな』ということを聞いたことがあるわ!」と、母は諭してくれたのです。きっと、母似の私の弱さを知っていて、そう言ってくれたのですが、母もまた人を信頼しすぎてしまった経験があったに違いありません。だれもが高等教育を受けられない時代に生まれ育った母でしたが、驚くほどの知恵があったことを思い出します。

 あるお母さんが、こんな注意を息子に授けました。三つほどの教訓です。1つは、「あなたの力を女に費やすな!」と教えました。この年まで生きてきて、女性で、人生を棒に振ったり、家庭を壊してしまったり、連れ添っていながら口も聞かない夫婦が多くいるのを見てきました。その反面で、この凶暴で無遠慮な敵に屈しなかった男たちも知っています。津浪のように襲いかかってくるのですが、確りと身をかわしたり、漂流して助かっている人がいるのです。女が悪いのか、男が悪いのか判断しかねますが、「魚心あれば水心」と言われますから、永遠につづく戦いの領域に違いありません。ある書物を読んで、感銘を受けた私は、四国の愛媛県に、その作者を訪ねたことがありました。三十代でした。出来れば、この方の弟子にさせていただきたかったのですが、彼は私の願いを聞き流して返事をされませんでした。私の書いたものを見ていただきましたら、お褒めいただいたのですが。その彼は、「わたしは、この年になっても、女性を犯したいと思う思いと戦い続けているのです!」と言われたのです。仕方が無いとか、本能だと言って戦わない人が多いのですが、彼は戦い続けて生きてこられたことを、若い私の前で告白されたのです。母と同世代の方でしたが、そんな正直さが好きだったのです。師弟関係は生まれることなく、数年の後に、この方は亡くなられました。

 「強い酒を呑むな!」と、このお母さんは、さらに教えました。強い酒は、こころの傷んでいる者、境遇に恵まれない人、物心両面で貧し方の飲むものである。だから、辛さや悲しさや悔しさを飲んで忘れようととしている人たちに飲ませ、「あなたは強い酒を飲むな!」と言ったのです。飲み過ぎて日常の義務を忘れてしまって、人生を台無しにする人がいるからです。そんな人が、私の廻りに何人もいました。中学生の時、通学電車の中で、酔ったおじさんが、戦争体験を、くどくどと話していたのに出くわしました。「酒飲みになって、こんな鰯の腐ったような目の大人にはならないぞ!」と決心した私でしたが、実は25歳まで酒を飲み続けました。そうですね、酒を飲んで楽しかった思い出よりも、惨めさを覚えたときのほうが遥かに多かったのだと思います。放歌吟声で騒々しく、酔態を晒したことが多くありました。あの当時の私を撮ったVTRが残っていたら、恥ずかしくて見てはいられませんし、誰にも見せたくありません。

 さらに、このお母さんは、「しっかりした妻を見つけよ!」と言いました。美人で、スタイルがいいのに越したことはありませんが、〈真珠〉よりも遥かに高い価値を、女性のうちに発見して、その様な女性を妻にするように勧めたのです。このお母さんは、夫ある身でありながら、ほかの男性の子を産みました。その子は、生まれて間もなく亡くなります。彼の兄にあたりますが。お母さんは、この男に嫁して彼を産むのです。夫がいるのに、その男の誘いを拒めなかった過去を持ちますが、自分の息子には、「夫に良いことをする妻」を娶り、気品も身につけ、いつも微笑み、知恵深く語る女性を妻にするように、懇々と説くのです。「麗しさは偽りで、美しさも虚しいのです!」と言って、心を飾る女性を推薦しています。

 そういえば、母に叱られたことを思い出しました。学校に入ってから、しばらくして、「俺、美容師の学校に行こうと思ってるんだけど?」と母に語ったのです。友人が、学校の帰りに、渋谷の駅の近くの夜間美容学校に行っていて、「廣田、やってみないか!」と誘われましたので、母の同意を求めて、何となくそう言ってみたのです。そうしましたら、「雅ちゃん。男は決して女の髪などを触ってはいけません!」と強く注意されたのです。男の職業としては相応しくないし、男と女の秩序を教えてくれたのです。素直な私は、その母の一言で、その話は終わってしまいました。多感ですが、未熟な青年期にあった出来事を、思い出して、赤面の至りです。母親の小言や教訓は、万金に値するにちがいありません。

(写真は、二人の母親の前で裁きを下す「王」です)

朱熹

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 父が、旧制の県立中学に合格した理由を、「俺は、口頭試験の時、試験官の前で、『教育勅語』を諳(そら)んじたのだ。試験は駄目だったが、それで入学が許されたよ!」と、こう謙遜に話してくれました。そして時々、その「教育勅語」を私の前で語ってくれたのです。

 「朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美 ・・・・」

 小学生だった私には、「朕(ちん)」は、「わたし」ということだろうとは分かったのですが、あとは聞いただけではチンプンカンプンでした。これは、明治政府が道徳教育を推進していく必要を覚えて作成されたものです、天皇が、国民に語りかける口調でできており、1890年(明治23年)10月30日に公布されています。それ以来、「元旦」、「紀元節」、「天長節」、「明治節」の〈四大節〉の祝祭日には、学生生徒児童の前で、校長先生が厳粛に読み上げたのです。小学生の父は、それを聞いて覚えたのでしょうか。この「教育勅語」を記した写しは、箱に入れられて、「御真影(天皇皇后の写真。当時の森有礼文部大臣の発案により、講堂の正面に掲出されていました)」とともに、学校の中にあった「奉安所」に納められていました。金日成と金正日の写真が、朝鮮民主主義共和国の中で、そこかしこに掲げられているように、写真や書写文書への拝礼が義務付けられていたのです。

 天皇を頭(かしら)にした家族、国民は臣民であることが求められていた時代でした。終戦と共に、1948年6月19日に廃止されました。「教育勅語」には、「朱子学」の影響が大きいと言われております。明治期に、日本人の道徳心を涵養するために用いられた、道徳律に強く影響を与え、それ以前、徳川幕府の「正学」とされていた、この「朱子学」とは、どういう教えなのでしょうか。

 福建省福州の北の三明市に「尤渓 」という場所がありますが、ここで生まれた「朱熹(しゅき/日本では〈朱子〉と呼びます)1130年10月~1200年4月、宋代の人) 」が、「朱子学」のは開祖です。儒教が、多くの学説、多くの著作にって、まとまりを失っていたのを体系化したのが朱熹で、その功績が高く評価されています。幼い日から、「孟子」、「論語」を読み学んできた彼は、良き師と出会って、19歳で「科挙」に合格したほどの逸材、儒教の教えに精通していました。ひとことで言うと、「自己と社会、自己と宇宙は、“理”という普遍的原理を通して結ばれていて、理への回復を通して社会秩序は保たれるとした(ウィキペヂアより)。」彼は、田舎での官吏の道を選び、昇進や出世の野心を持たない人でしたから、故郷の難民の救済のために働くのですが、50代には、教育に専念します。


 この「科挙」という制度ですが、これは、「高等官資格試験制度」で、現代の日本での「公務員試験」に似ているでしょうか。この「科挙」の予備校が、福建省の〈、武夷山(ユネスコの世界遺産にされた観光地です)」の近くにあって、毎年多数の合格者を輩出していたそうです。そうしますと、福建省は昔から教育省だったことになりますね。この学校を開いたのが、朱熹でした。この「科挙」は、一代きりで、世襲することのできない制度でした。親の家督を〈世襲〉で受け継いで、藩の身分も職をも受け継いできた幕藩下の日本とは、ずいぶんと違うものですね。今でも日本は、俳優や歌手の子が、「親の七光り」で、親と同じ道を歩み、芸能界にデビューする傾向が多いようですが、有名になるのは極めて低い確率だと何かに書いてありましたが。最近の国会議員の紹介欄に、「世襲」かどうかの記述があるのは、世襲反対の論調の表れで、なにか面白いものを感じてしまいます。私の父親には、猫の額ほどの土地があっただけで、身分も職も階級もない〈野の人〉で、子が世襲できる何ものをも持たなかった明治人でした。ですから自分で自分の人生の道を見つけなければいけなかったのは、男子として何と幸いなことだったでしょうか。

 徳川250年の精神的支柱が、「朱子学」だったのですが、この教えが明治時代にも脚光を浴び、富国強兵のバックボーンとしても、この教えがあったようです。中国大陸に満蒙開拓者を送り込み、兵を進め、南方に物資を求めさせ、米英と開戦に至る動きの中に、この教えがあったと指摘される学者もおいでです。何か、複雑なものを感じてなりません。一度、武夷山に行かなくては!

(写真上は、中国の誇る名所「武夷山」、下は、廬山の白鹿洞書院にある「朱熹」の像です)

中興の祖

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 デンマークは、人口が5510000人、43000平方km(九州より少し大きいくらい)の国土、一人あたりのGDP(Gross Domestic Product /国内総生産)が56000ドル(日本が45600ドル)、首都はコペンハーゲン、ユトランド半島と446の島からなる国で、正式には、〈デンマーク王国〉と呼ばれます。童話作家のアンゼルセンを生んだ国、世界最高水準の社会福祉国家、チーズとバターの産出で有名です。女子テニスのキャロライン・ウオズニアッキの祖国でもあります。

 この国を、明治の著述家の内村鑑三が、「デンマルク国の話」という本を刊行して、日本に紹介しています。これは、1911(明治44)年10月22日、東京柏木の今井館で行われた講演を文章化にしたもので、ちょうど100年前の作品になります。この本は、インターネット・http://www.aozora.gr.jp/cards/000034/files/233_43563.html
で読むことができます。この本に出てまいります、エンリコ・ミリウス・ダルガス(Enrico Mylius Dalgas、1828~1894) について紹介いたしましょう。

 ダルカスは、デンマークの〈中興の祖〉といったらいいのではないでしょうか。内村の時代、デンマークは、世界一の豊な国でした。人口一人の富は、驚くことにイギリスやアメリカよりも多く、何と日本の十倍も多かったのです。その理由は、鉱山や世界の船舶が停留する貿易港があったのでも、海外に植民地を持っているのではなく、良質な牛乳やバターを産する土地が、その富の原因だったのです。牧場と家畜、樅(もみ)と白樺(しらかば)との森林と、その沿海の漁業 によって立つ国でした。もともとは、そうではなかったのですが、どうしてこのようなな国になったのでしょうか。36歳の工兵士官だったダルガスが、デンマークの3分の1以上のユトランドの不毛の土地を改良したからでした。


 デンマークは、1864年に、ドイツとオーストリアと戦争をしましたが、戦いに破れて、賠償として国の南部にある最良のシュレスウィヒとホルスタインのニ州を割譲されて失ってしまいます。人は少なく、残ったユトランドは荒漠とした原野が広がり、財政も逼迫(ひっぱく)していたのです。あの戦いの中、ダルガスは、工兵として働きながら、「・・・、橋を架し、道路を築き、溝(みぞ)を掘るの際、彼は細(こま)かに彼の故国の地質を研究しました。しかして戦争いまだ終らざるに彼はすでに彼の胸中に故国恢復(かいふく)の策を蓄えました。すなわちデンマーク国の欧州大陸に連(つら)なる部分にして、その領土の大部分を占むるユトランド(Jutland)の荒漠を化してこれを沃饒(よくにょう)の地となさんとの大計画を、彼はすでに彼の胸中に蓄えました。 」と内村は記しています。ダルガスは、報復の戦いの代わりに、剣に替えて鋤を手にして国土を開墾していくのです。そのために、ユトランドに群生する〈ヒース〉という植物を駆逐する必要がありました。

 最初に手がけたのは、樅(もみ)の木の植林でした。植林には成功したのですが、ある程度の高さに成長すると枯れてしまうという問題に直面したのです。彼は考えに考えて、「アルプス産の小樅の木と一緒に植えよう!」との思いがひらめきます。そうすると両者はともに成長して行きます。しかし、樅の木はある程度で生育をやめてしまったのです。また失敗でした。この問題を解決したのが、彼の長男のフレデリックに与えられた啓示の知恵でした。「大樅がある程度以上に成長しないのは、小樅をいつまでも大樅のそばに生(はや)しておくからである。もしある時期に達して、小樅を斫(き)り払ってしまうならば大樅は独(ひと)り土地を占領してその成長を続けるであろう !」とお父さんに語り、それを実行しました。するとその難問題は解決されたのです。親子の連繋によって、1860年には、ユトランドの山林はわずかに157000エーカーに過ぎませんでしたが、47年後の1907年にいたりましては476000エーカーに拡大したのです。この植林によって、気候も変わっていきます。灼熱の夏の夜には、霜が降りていたのが止んでしまって、ヒースは失せて、理想的な田園が、ユトランドに広げられてれていったのです。

 このダルガス親子は、鋤と樅の木でもって、窮状にあったデンマークを救ったのであります。下の備えをなし、上から知恵を得て、見違えるような国となったわけです。我が国・日本も、デンマークに倣って、剣ではなく、鋤を手にして、この困難な状況を打開していきたいものです。その様な備えと知恵の〈人〉の起こらんことを、〈平成の中興の祖〉の出現を心から切望してやまない、八月の末であります。

(写真上は、エンリコ・ミリウス・ダルガスの切手、下は、ユトランドの自然です)

失いしところのもの

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 〈火中の栗を拾う〉、語源由来辞典によりますと、「17世紀のフランスの詩人ラ・フォンテーヌが、イソップ物語を基にした寓話に由来する。その寓話とは、猿におだてられた猫が、囲炉裏の中の栗を拾って大やけどし、猿がその栗を食べてしまったという話である。 」とあります。狡猾な猿の術中に、猫が落ちてしまうのですが、この猿でさえも、たまには木から落ちことがあるのです。ところが、猫だって、知恵がないわけではありません。〈猫が熾(おき)をいらうよう〉と言います。猫は炭火に手を出しては、さっと引っ込めるように、ちょっかいを出すのです(「熾」は炭火、「いらう」はいじる、という意味です)から、猿に唆(そそのか)されても、火の中の栗を、「いらう」に違いありません。フォンテーヌが言うように、やすやすと手を突っ込むことは考えられませんが。もちろん、自然観察をして作りだされた寓話ではないのですから、そのような習性にこだわることはないのかも知れません。

 日本は、これからどうなっていくのでしょうか。国旗を掲げることも、国家を歌うこともできないような、このような国民が世界にあるでしょうか。星条旗を掲げたアメリカの黒船が来航したのは、日本を植民地化しようとしてでした。星条旗の星を機体につけた爆撃機が、広島や長崎や主要都市を爆撃して、多くのいのちを奪いました。ユニオンジャックの旗を掲げて、イギリスは、代価の代わりにアヘンを中国に持ち込みました。どの国旗にも忌まわしい過去の出来事を裏面に隠し持っています。それなのにアメリカ人もイギリス人も、自分が生まれ育った国の旗として、自らの国の旗を誇り高く掲げて、敬礼でさえもしています。どうして日本人は、してはいけないのでしょうか。どうしてある人たちは、罪悪感を覚えて、やましさだけを感じてしまうのでしょうか。自分の国を愛せないで、隣国への愛も互いの平和もありえません。

 山梨県の大和村に、裂石山雲峰寺があります。ここに皇室から甲斐武田氏に与えられた日本最古の「日章旗」が残されているのです。この土地の歴史に詳しい方とキノコ採りに山に入ったときに、案内されて見ることができました。それを見たとき、日中戦争や太平洋戦争の時に用いられた軍用旗のことを思い浮かべることはありませんでした。その旗に、日本の歴史の流れを感じて、感銘を受けたのを覚えております。「日の丸」を軍用旗としてだけ思い描くことを、だれが教えたのでしょうか。私は誇りを持って、私の生まれ育った国の「旗印」としてだけ意識しております。

 国を愛する宰相、子や孫の世代に素晴らしい国を継承させられる首長、夢を次の世代に繋げられる頭領、四海の隣国と正しい関係を築き程々の距離をおいて国交することができる首相が、選ばれて就任されることを切に願っております。時期を考えますと、東北大震災で被災された地域の復興、その影響で冷え込み落ち込んだ経済産業界の再生、生きる意欲を失ったかに見える国民の心の高揚など、大変な時局での舵取りをしなければなりません。誰もが臆して手を出さない、火中の栗を拾う様な大変な仕事を、真正面から立ち向かうことのできる知恵を与えられて、対処される宰相の出現を、心から願っております。救国の大事業は、売名ではできない国家的な仕事なのですから。


 デンマークの歴史の中に一人の「人」がいました。敗戦と困窮と荒漠とした原野、そして意気消沈した国民の前に、立ち上がったのがダルガス(Enrico Mylius Dalgas、1828~1894) でした。多くの人が、「今やデンマークにとって悪しき日なり」と言う中で、彼は、「まことにしかり」と、国家の窮状に同意したのです。「しかしながら、われらは外に失いしところのものを内において取り返すを得べし、君らと余との生存中にわれらはユトランドの曠野を化して薔薇の花咲くところとなすを得べし」と、遥かに将来の可能性を信じて告白し、立ち、国民の先頭にたったのです。彼が言ったように、デンマークのユトランドの痩せこけ、アイスランドの土地は、肥沃の大地に変わって、美しい薔薇の花を咲かせる土地に改良されたのです。

 私たちの愛する国は、地震と津波と原発事故の放射線の影響下で、人も家畜も土地も作物も海も汚染され、壊れ崩れました。「内に失いしところのもの」は甚大です。そして、残念なことに諸外国からの評価も落してしまいました。しかし、再び美しい花を、人の心と東北の地に咲かせることを信じて立つ、「人」を、この国は欲しているのです。その指導力のもと、勤勉で忍耐強い私たち日本人は、国土の再生、産業の隆盛、消沈した魂に活力を得ることができるに違いありません。今日のアジアの裕福な商都シンガポールを、ここまで建て上げたのは、広東省の貧農の子孫・客家の李光耀 (リ・クワンユー)でした。

 多くのものを津浪にさらわれ、地震で砕け落とされましたが、必ず「失いしところのもの」を取り返すことができます。誇り高き祖国日本の再建を果たすことができますから。大丈夫、日本!

(写真上は、デンマークの「地図」、下は、「農村風景」です)

人気

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 サッカーは、FW(forward、フォワード)5人とDF(defence、デフェンス)5人とGK(goalkeeper、ゴールキーパー)1人の11人制の球技です。やはり花形は、攻撃陣のFWであって、得点ゴールを上げるのです。テレビのカメラは、90%は攻撃選手に向けられ、その攻撃を防御するデフェンスは、刺身のツマのように、脚光をあびることは極めて少ないのです。もちろん、近年はデフェンスに優れた選手がいて、果敢に攻撃してくる相手方を、巧みにかわす花形選手も出てきています。それでも、何時でも騒がれるのは、フォワード選手なのです。

 私は、鹿島アントラーズ、名古屋グランパス、京都サンガで活躍し、今は現役を退いた秋田豊のプレイが好きでした。その他にも、ヴィッセル神戸、宮本恒靖のフアンなのです。彼らはDFの名選手でした。サッカーは、守りがあっての攻撃だと信じておりますので、デフェンスの目立たない地味なボールさばき、球出しが攻撃につながるのですから、実に重要なチームの要であるのです。私は、11人制のハンドボールの最後の世代の選手でした。サッカーと同じコートですが、35メートルラインというのがあって、攻撃と守備を6人で行うのです。攻撃陣にデフェンスから一人、守備陣にフォワードから一人が加わって、結局は7人制の競技だったわけです。私たちの時代以降、ハンドボールは〈7人制〉に移行して、バスケットボールと同じ程のコートになりました。サッカーは、DFも攻撃して得点を上げる機会がよくありますが、11人制のハンドボールには、そういった機会は極めて稀だったのです。私はFWをさせていただき、9番を着せていただいてセンターフォワードをしました。ところが私たちの時には、東京都2位で、国体もインターハイも出場することがかないませんでした。大学の運動部に推薦入学をされたのですが、行かず仕舞いでした。走って走って走った高校時代でしたから。

 8月2日、元日本代表で、〈横浜マリノス〉で活躍し、今シーズン、〈松本山雅〉に移籍した松田直樹選手が、練習中に、心筋梗塞を起こし、4日、信州大学・高度医療センターで亡くなれました。34歳でした。私の子どもたちと同世代ですから、亡くなられたニュースを聞いて、驚かされました。秋田豊が41歳、宮本恒靖が34歳ですから、彼らと共に戦った名選手だったのです。それでも、秋田、宮本の陰に隠れたDFでしたが、サッカーフアンにとっては、とても人気のあった選手でした。松田選手の亡くなった後の、フアンの悲しみの大きさや深さが尋常でないことを知って、それにも驚かされました。現役選手の練習中の死亡事故というのが、長年支えてきたフアンには、大きなショックなのでしょうけど、やはり、彼の人柄なのではないでしょうか。

 聞くところによると、怪我などで欠場する同チームの選手の名前を、ユニフォームの下の下着に書きこんで、『お前も一緒に戦っているんだぞ!』とのメッセージを送っていたのだそうです。浪花節の心根が、人を感動させるのでしょうね。グラウンド上の勇姿と、家庭人の彼とにはギャップがあった破天荒な人生だったとも聞いております。わけ合って別れた奥様がおいでです。3人のお子さまの、悲しみを超えて、健やかな成長を心から願っております。惜しい選手を亡くしてしまいました。

(写真は、横浜マリノスの欠番となった、松井田直樹の「3番」ユニフォームです)

あなたを産んだ母を楽しませよ 

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 新聞購読の機会をなくして6年になりますが、「毎日新聞」に、自分の母親を語る欄がありましたし、「文芸春秋」にもオフクロ欄がありました。そこでは著名人が、亡き母や老いた母を、思い思いに語っているのです。千差万別、様々な母親の思い出や影響があることを読んで、結構面白い記事だと感心しました。『この人にはこんな母親がいたんだ!』と思うこと仕切りだったのです。年配のお爺ちゃんが、自分の母を語る語り口は実にほほえましいものがあります。とくに男の子にとっての母親は特別な人だと思うのです。至高者が極めて親密な関係に置かれた関係で、9ヶ月間その母の胎の中で育まれ、誕生するや自分で飲んだりすることの出来ない赤子だった私たちを、実に献身的に世話をしてくれた育児者でありました。その記憶は全くないのですが、体が覚えているわけです。さらに初めて身近にした女性でもあるわけです。月の輪熊の母子の様子がテレビで放映されているのを観たことがありますが、その関係の影響力は、その子熊の一生を支配するほどの重要な意味が母子の関わりの中にあるそうです。生きていくことを学ばさせ、子はそれを習得していくわけです。ペンギンでも狼でも猫でも、その母子関係は実に細やかで、実務的な教育がなされいることを知らされております。

 もちろん病死などの離別で、母親の思い出や影響の全くない方もおられるのですが、それをお許しになられた天意を認めるなら、欠けたるところを、充分に補ってくださるに違いないと信じるのです。60過ぎの知人が、『おかあちゃん会いて-よー!』と泣いているのを、焼き鳥屋の卓を囲んだ隣リの席で見た時、いくつになっても、子にとっての母は母なのだと確信させられました。複雑な家庭環境の中で見失ってしまったお母さんへの愛惜と追慕だったのでしょう。《マザコン!》と非難されたことが、以前、ありました。自分の母を誇って語ったことが、その方にはずいぶんと迷惑だったわけです。人には様々な過去と背景がありますから決して傷つけようとしたのでも、無配慮にでもなく、母の教えに感謝して語ったのですが。同じ母の子でも母に対する思いや評価は、兄弟でも様々に違うわけですから、仕方がなのかも知れませんね。私の愛読書には、

  「あなたの年老いた母をさげすんではならない。あなたを産んだ母を楽しませよ」

とあります。私の母が86歳の頃、老いを迎えて、息苦しくなったり高血圧であったり、しっかり者だったのですが、そうだったが故に、弱さを感じて心を病んでしまったのです。二度の大病を超えて、生きてきた母が、ひと回り小さくなって来ていました。その母の通院に付き添い駐車場から診察室まで遠かったので、帰りに、母をおんぶしたのです。おぶってもらった記憶はありますが、今まで母親を背負う機会がなかったのです。平成の啄木の様に、砂浜ではなくビルの廊下を二百歩ほど背負ったでしょうか。『このおじさん何してんの?』といった顔を向ける若者の間を、ちょっと気にしながら歩みました。やはり軽いんですね。その時「砂の上の足跡」と言う有名な詩がありますが、その詩を思い出しました。母を86年間、とくに14才の少女の時からおぶってくださったのは、至高者だったことに気付かされた、雨の初冬の夕方でありました。

 福沢諭吉が、母親のことを書き残しています(「福翁自伝」にです)。虱(しらみ)だらけの乞食の女性を家に連れてきて、食事と交換に、その虱退治をするのを常にしていたのだそうです。その取った虱を、諭吉が受け取って、石で打ちたたいて潰したのだそうです。実におかしな趣味の女性だったことになりますが、人を乞食だからといって差別したり、軽視したりしないで、相手の必要を満たそうとした人付き合いや生き方を語っているのです。そういった母親の血をひているのが、この福沢諭吉でした。こう言ったことを、17~18歳で知っていたら、私は慶応進学を目指したのですが、残念でなりません。

 正しい価値観に生きる母親から、世に貢献する人が生まれるのでしょうか。教育を受ける受けないは無関係で、21世紀の日本でも、お母さんたちに頑張って子育てをしていただいて、この世紀の必要に届くことのできる、心の確りした人を育て上げて欲しいものです。今では小さくなってしまった母親ですか、その背中をこちらに向けた向う側で、してくれていたことごとを思い出して、心から感謝しております。みなさんのお母様方に、心からの健康と長寿の祝福を心から願っております。

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 結婚したての若かりし頃、「奥さんは、〈首〉なのです。その上に載っている〈頭〉を、その〈首〉が自在に動かしているからです!」という話を、何かの講演会の例話で聞きました。当時は、その意味がまったく分かりませんでした。しかし、やがて結婚生活を重ねて、子どもたちが次々に与えられていく中で、どんなに威張って「俺が・・・!」と意気込んで、主導権を発揮し、亭主関白宣言でやっていこうと思っていたのですが、だめでした。カラ元気ばかりで、実際は弱気だった明治男の父同様、やはり家の中では、女性のほうが上であり、まさに〈首〉であるという現実に直面せざるを得なかったのです。

 ご老人のいる家を訪ねて、いつも感じたことは、好き勝手に生きてきた老主人は、すっかり弱くなってしまい、背中を丸めて隅にいるのですが、家の真ん中で高笑いをして指揮棒を振っているのは老夫人なのです。若いうちは、手綱を手にしながら好きに走らせ、泳がせていましたが、重大事の決定は御台所によるというのが、パターンでしょうか。そうでなければ、お爺さんは、すでに亡くなってしまい、おばあさんはてかてかした脂顔で、家の中のすべてを牛耳っているという型でしょうか。とにかくご婦人のほうが強いのは、日本が、ずっと〈母系社会〉だったことを証ししております。

 最近、現首相の夫人の事を伝え聞くことが何度かありました。経済産業相が、手のひらに「忍」という字を書いて、予算委員会に臨んだのだそうです。このことが閣僚内で話題とされたとき、首相が、「彼は疲れがたまっていたのだろうが、思うところはある。俺だってこらえているんだ。首相執務室に以前から〈忍〉の字を飾っている」と打ち明けたのだそうです。この話に、首相夫人が割り込んできて、即時退陣を迫られた経済産業相が、涙ぐんでしまったことを取り上げて、「泣くような人に大臣は務まらない。私だったら、そんな人はさっさと別れるわ!」と。その人の妻でもないのに豪語したのだそうです。ツマらないことを言ったものです。さらに主人に向かっても、「あなたが泣いたら別かれるわよ!」とダメを押した、いえ脅したのだそうです。

 このことを聞いたときに、現首相の〈弱腰〉、〈煮え切らなさ〉、〈優柔不断さ〉の原因が分かったような気がしました。家にいて、子どもたちが巣立って独立しまった今、二人で話しをしている時、主導権はご婦人が握っていて、あれやこれやと指示を下すのでしょうか。それをメモった首相が、国民とマスコミと閣僚の前で、夫人の考えを自分の意見として述べてきたのだということがでしょうか。そんな想像をかたくしてしまうのですが、真偽の程は。これでは、一国の命運を握って、決断をくださなければならない指導者は、決して務まりませんね。

 「今になって、どうして?」と言われますが、全学連の革マル派にだって親交があり、過激な反政府活動をしてきた人、当時の警察庁にマークされていた人物、日本人が憎んだ拉致犯に関係する政党に献金をして支持するような男、暴力革命を願う思想家に、この掛け替えのない国の舵取りなどさせておけないとかねがね思ってきました。もちろん女性の知恵深い助言は、男を助けますが、助言者の域を超えて、頭になってしまうなら、一国は滅びてしまいます。そんな歴史の顛末を、幾度と無なく聞かされてきていますので、とても心配してきました。「私よりも◯子のほうが能力が高い!」と奥様を褒めるのはいいのですが、その能力に頼っての決定で国が動くとしたら、危険千万なことに違いありません。我が国が、何ともちぐはぐな状態で、軋む音が聞こえている、1つの大きな原因は、ここにあったのではないでしょうか。それが終わろうとしているので、ひと安心しております。はい。

(写真は、菅大臣神社〈菅原道真の「菅」です〉での現首相の姿です)

なぜ

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 昭和32年(1957年)5月30日、銀座の山葉ホールで「講演会」が開かれました。〈東京~大阪3時間の可能性〉という主題で、「鉄道技術研究所(旧国鉄の研究所で、現在の鉄道技術総合研究所です)」の主催でした。鉄研の篠原武司所長の挨拶についで、「車両について」客貨車研究室長・三木忠直が、 「線路について」軌道研究室長・星野陽一が、「乗り心地と安全について」車両運動研究室長・松平精が、そして「信号保安について」信号研究室長 ・川辺一が、おりからの雨を押して集った500名もの聴取者に向かって、「東海道新幹線」の可能性を訴えたのです。この終戦後、最大の鉄道運輸事業の構想は、大きな反響を呼びました。

 おりから、鉄研創立50周年を迎えていましたから、その年の1月8日に所長に就任した篠原は、これまで地道になされてきた基礎研究の適用や、研究員の志気を高めるために、何かできないかを考えていたのです。戦争が終わって、働き場を失った旧陸海軍の技術者たちを、この研究所は受け入れていました。この新幹線事業の中心的な役割を担ったのが、三木忠直でした。彼は、インタヴューに応えて、『とにかくもう、戦争はこりごりだった。だけど、自動車関係にいけば戦車になる。船舶関係にいけば軍艦になる。それでいろいろ考えて、平和利用しかできない鉄道の世界に入ることにしたんですよ!』と答えています。戦時中、自分が設計した爆撃機や特攻機で、多くの若者を死なせたことの罪責に苦しんでいた三木は、今度は技術の平和利用を切望していたのです。この事業計画は、国会の承認を受け、昭和34年4月20日に着工されます。

 この講演会が開かれた年の4月に、私は国分寺を下車駅とした中学校に入学したのです。中央線の国立と国分寺とを結ぶ線路の右奥に、この研究所がありました。構想が公にされ、研究や試作や実験がなされていた研究所の脇を、中高と6年間通学したのです。鉄道マニアではなかったので、そんなプロジェクトが静かに着々と、しかも熱烈に行われているのに、全く気づかずにおりました。新幹線が開業した1964年(昭和39年)10月1日、そのころ新幹線の帝国ホテルのビュッフェへ、食材の搬入のアルバイトを、東京駅でしていたのです。

 その開業から、今年で47年が経ちますが、この間、乗客の死亡事故が皆無であることは驚嘆のいたりであります。『なぜ?』なのでしょうか。その理念は、『安全神話など存在せず、唯一の神話は、決しておろそかにしない細やかな事前の制御と、いかにリスクを最小限に抑えるかにかかっている!』という、〈安全運転〉への飽くことのない研究、実験、検査、適用、反省、改善の努力の積み重ねを、今日の今日に至るまで積み重ねていることにあるのではないでしょうか。それは、事業の成功よりも、乗客一人のいのちの尊重が基本にあるからです。地震、台風、豪雨に見舞われる日本の気象や地形の条件のもと、決して無理な運行をしないことにも、人身事故の回避に繋がっていると思えます。

 私の父も、戦時中には、飛行機製造の軍需工場の責任者として、戦争に加担した過去がありますが、戦後は、旧国鉄の車両の部品を製造し納品する会社の経営に関わっていましたので、父もまた技術の平和利用に戦後を生きていたことが分かるのです。私は、こちらの大学の授業で、NHKが放映しました番組、「プロジェクトX 挑戦者たち 執念が生んだ新幹線~老雄90歳・飛行機が姿を変えた~」のDVDを教材に、授業で使ったことがあります。戦争の被害を受けた過去のある国で生まれ育った学生のみなさんに、日本の「新幹線」が、戦闘機が姿を変えた鉄道車両であって、平和を祈念した技術者たちの血の出るような研鑽と努力の結果、生み出されたものであることを、知っていただきたかったからであります。

 結果には、必ず原因があります。死亡事故のない陰で、地道に頑固に不断に行われてきた事々の積み重ねがあってこそ、好結果が生まれ、《世界で最も安全な乗り物》との評価を受けているのであります。私たちの人生も同じに違いありません。地道な一歩一歩の歩みが、たとえ平々凡々たる生き方の中であっても、確かさや確信をもたらすのであります。『生きてきてよかった!』、そう思う生涯を送りたいものです。

(写真は、最新型のJRの「新幹線」の車両です)