安心

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 「さいた」、花が〈咲いた〉ではないのです。「最多」は、TOKYO2020大会の金メダルの日本の獲得数です。柔道監督に就任して9年間、候補選手を懇切に指導してきた、日本代表、井上康生監督の手腕が、高く評価されています。この方自身も、2000年にシドニー大会、100kg級に出場して、金メダルに輝いた経験を持っています。その栄光の冠だけではなく、「人柄」が高く評価されているのです。

 日本の柔道界は、猛者揃いとの定評なのですが、大舞台に上がると、お腹を壊してしまうほど、pressure に弱いと言われてきたのを、克服させた功績は大きいのではないでしょうか。そんな若い監督の次の記事が、彼を言い表しています。

 『選手への情熱は、今年2月、東京五輪代表選手を発表する場にもうかがえた。落選した選手を思い、涙したのだ。「選考を思い浮かべる中で、ギリギリで落ちた選手たちの顔しか浮かびません。ほんとうに彼らはすべてをかけてここまで戦ってくれました。」』

 選考に漏れた候補者を忘れないでいる指導者は、珍しいのではないでしょうか。選手の99.99%は、栄光の座に登れないのですが、選ばれた者が、その様に、共に励んだ仲間を忘れないでいるのも、スポーツとしては、Sparta 的でなくて、いいと思うのです。その辺に、近代オリンピックを導いたクーベルタンの考え方もあるのではないでしょうか。

 そんな「最多」を心から喜ぶのですが、喜べない「最多」があります。日本の「コロナ感染者数」、コロナによる「死者数」です。世界では、感染者は〈2億人〉、コロナによる死者数は〈438.6万人/81日の時点〉なのです。

 昨日次男に、『after  corona にはみんなで会おうね!』と言う話を持ちかけたら、『Afterは来ないと思うようになってきた!』と言ってきました。その後、『ちょっと暗い話だったね!』と言い添えていました。

 思うに、経済社会の論理は、尽きるところ〈お金〉を、どう儲け、どう備蓄し、どう運用するかなのでしょう。儲けるためには、犠牲を考慮しないことが多いのです。少しの犠牲は、大きな富には見逃されてしまう、これが人の歴史でした。二十一世紀も、教訓を学ばないので、同じ考え方です。

 貧乏人の遠吠えの様ですが、有名なスポーツ選手は、引退後に、三億円の家を買って生活することができる話を聞いて、数万円の月家賃で住んでいる、『じっと手を見る!』私たちには想像できない、お金社会の現実です。

 偏り過ぎている現実を、憂えるのは、貧乏層の遠吠え、断末魔でしょうか。お金に縁のない人生でしたが、だれにも無心したり、借りたりしないで、生きてこれたことは、感謝なことです。お金以上に、素晴らしいものがあるのです。ただ、〈コロナ終息〉を願う、厳しい残暑の夕べです。

 もう一言、柔道の井上康生監督は、《家庭の人》でもあるそうで、お子さんたちをしっかり育て上げている《良き父親》です。父に誉を与え、感謝できる子たちが、彼の家にいることは、「安心」が伝わってきます。

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高価な私

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 ある国の政治指導者が、『私の国には、こんなに多くの人がいるのだから、一億人が死んでも、後、3億人が残るのだから問題はない!』と、人の命を、〈算術〉で測ったのですが、その国の一人は、〈分数〉で考える様な〈物扱い〉をされたわけです。そんな指導者をいただいた国民は、悲劇です。

 今回の新コロナ騒動の中で、「1300万人の都民の中で、たったの2000人が死んだのだ!』と、〈百分率のパーセン〉で意見を述べた人がいます。この様な人の命を軽視する考え方ですが、それが戦争を生み、他国を侵略支配していった論理と同じなのです。

 私の叔父は、赤紙一枚で、戦場に送られました。戦死し、生きて祖国に戻ることなく南方戦線で亡くなりました。結婚前でしたが、母親の悲しみはどれほどだったでしょうか。こう言った悲劇は、溢れるほどあった時代を超えて、平和を享受できる時代に、私たち叔父にとっての甥は生きて、老いの今日を迎えています。

 父と母にとって、四人の子は、一人一人の〈足し算〉で捉え、それぞれの個性に見合って、個性的に育て上げてくれました。父は、私たちの結婚式に出て、祝福してくれて、その1ヶ月後に亡くなりました。父の期待の三番目の子だったのですが、裏切ってしまったのは申し訳なかったのです。でも後ろ指を指されることもなく生きてきましたから、及第でしょうか。

 『神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。(創世記1章26〜27節)』

神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。創世記12628節)』

 人が、一人一人が尊いのは、「神の被造物」だからです。「われわれ」と言われる、「父、子、聖霊の神」の形に、「われわれににせて」人が造られているのです。物ではなく、神と人格的に交わることにできる「創造物」です。「ことば」で交わることができるほどの相互交流があるのです。人が、どんなに蔑んでも、神の目には、「高価で尊い(イザヤ434節)」のです。

 それほどの価値を、人は理解していません。私を教えてくれた教師は、『みんな、全く何もできない障碍を負った一人の少女が、日向で陽を感じる時、お風呂に入る時、えも言われないほどの表情を見せるんだ!人には可能性がある。誰にも可能性があるんだ!』と、頬を紅潮させて興奮して、自己嫌悪していた私に、教壇から話してくれました。

 その一言は、私を動かし、動機づけ、生きていく勇気と激励になったのです。なぜなら神が、私をお造りくださったからなのです。もう社会に貢献することのない退役者ですが、一人の妻の夫、四人の子の父親、四人の孫のジジ、四人兄弟の三男坊、幼い子の友、人々の隣人としては、まだ務めがありそうです。

(“キリスト教クリップアート”の「放蕩息子の帰還」です)

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あれから15年

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 中国で初めて住んだ東北部の街の交通大学の校舎が見えます。その学校の教室を借りて、語学学校がありました。毎朝、自転車で、外国人公寓(gōngyùアパート)から通っていたのです。私たちが一番高齢の学生でした。

 行く前に、中国語のできる友人から学んではいたのですが、あの教室で、あんなに真面目に学んだのは、私にとっては初めてのことでした。帰りには、自転車を降りて、行き合う街の人に、習いたての中国語で語りかけるのです。みなさん相手になってくれて、日本人だとわかる私たちを物珍しがって、発音を直してくれたのです。よい会話練習になりました。

 この自転車で街中に出ては、街で一番古い教会に、日曜日の朝は出掛けて行きました。帰りに小吃店(食堂)でお昼をし、時々同級生も、教会に来ていて、一緒に食事をしたのです。卒業したみなさん中国中の街に散って行きましたが、今はどうされておいででしょうか。

 日本が砲火で攻撃した街でしたし、東北部では大きな街でした。私たちよりも年配のみなさんが、涙を流して、公認教会の聖餐に預かっているのを見て、その真剣さに驚かされたことがありました。

 自転車に乗っているのは、家内です。2006年の秋だったと思いますから、15年前になります。スイス、カナダ、アメリカ、オーストラリア、ドイツ、イギリス、ブラジル、マレーシアなどから来ていたみなさんと同じ学校でした。英語と中国語混じりでの会話が、じょじょにできる様になって行きました。

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 今日は8月1日、日曜日、4時過ぎの朝焼けが赤く綺麗でした。東京ではオリンピックの競技が続いています。コロナの感染者が激増してるとニュースが伝えています。初めて会った時が十代だった家内が、78歳の誕生日を迎えました。よい日曜日であります様に!

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 『もし大きな教会、強力な教会、社会的に影響力にある教会を作るなら、この世を変えることができる!』と言う誘惑が、教会と教会の指導者たちには一番大きいのだそうです。

 私たちの母教会を開拓された方は、戦後間も無く、マッカーサーに派遣された宣教師でした。弱冠三十代で、奥様と二人で来日されたのです。この方は、『数年で、日本最大の教会を建設するのだ!』と心に決めて伝道を始めたのです。間も無く数人の男性が教会にやって来ました。

 一人の方は、祈りも聖書理解も分かち合いも優れていました。〈ニッポンのパウロ〉の様だともて囃されたのです。宣教師の良き助け手となり、間も無く、宣教師は、この方に、教会の責任を委ねたのです。ところが、小さな不満で決裂し、群れが分裂してしまいます。宣教師に付く者と、この新しい指導者に付く者とに、二分してしまったのです。

 宣教師と働き人との関係が出来上がる前に、どのような人かをよく理解しないで、責任を取らせたことが原因でしょう。この方は、後年近くの街の教会の牧師となりますが、ある問題を起こして、牧師職を解任されています。

 教会に残ったのは中年のご婦人と若い姉妹たちだけでした。ところが何年経っても何年過ぎて、伝道しても伝道しても、その教会に集って来るのは、若い女性ばかりだったのです。たまにやって来る男性は社会生活のおぼつかない人たちで、教会や教えに躓いては去って行きました。

 この宣教師は、完全に挫折してしまったのです。あの野心は、完全に消えていたのです。しかし、帰国しないで日本にとどまり続けました。毎日聖書を教え続けました。しばらく後に、東京から程遠くない街に、もう一つの教会を立て上げてから、この二つの教会を新しい宣教師たちに任せて、アメリカに帰って行きました。傷心しての帰国でした。

 ところがです、あの若い女性たちの間から、四人の牧師の夫人が生まれたのです。毎晩集会に集って、聖書を教え続けた実りが、この四人だったのです。一人の姉妹の子から二人の牧師も出たではありませんか。

 あの宣教師の働きは、日本最大の教会は作れなかったのですが、今もあり続ける教会を牧会する者たちを、直接的に間接的に信仰的に養育をしたことは、小さな働きではないはずです。今、枝分かれして、14ほどの教会が、日本のあちこちにあって、牧会と伝道がなされているのです。

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 地上で一番大きな、人数の多い教会は、エジプトのアレキサンドリアにあった教会だと言われている。『その教会よりも大きな教会を作る!』と言うことを目指して、韓国のソウルに世界一の教会ができていました。「弟子訓練」を掲げて、そう言った教会が作られたのです。信徒の力を活用し、信徒を競争させて、「大教会」を作ったのです。

 私は、この教会を三度訪ねたことがあります。私の心の内にも、「大教会建設」の野心があったからです。でも、私には、そう言った信徒の力を教会建設のために結集させる賜物や力量のないことを知ったのです。

 教会に託された使命とは、「大教会建設」なのでしょうか。ある牧師セミナーに参加したことがありました。講師は、アメリカでも最大級の教会の有名な牧師でした。どうしたら成功者、つまり大教会の牧師になれるかの成功事例を話していました。そんな集会に出て、宿泊していた部屋に戻ってくると、若い牧師たちは、大きな刺激を受けて、心が高揚し、顔も紅潮していたのです。

 『教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。(エペソ123節)』

 そんな牧師たちの中に、瀬戸内海の島々を訪ねて、そこで伝道している伝道者がいて、次のような言葉をふと漏らしたのです。『私がしている伝道は、小さなエンジンをつけた小舟に乗って、島から島へと、そこにいる数人の信者さんを訪問する奉仕なのです。大教会の建設など、全く無関係な伝道に従事してるのです。』とでした。彼らもまた宣教師の働きを継いでいたのです。

 その話を聞いた時に、我に返ったのです。そして、99匹の羊を牧場において、失われた一匹に羊を追う牧夫の聖書の話を思い出したわけです。日本では、信徒数が少なく、日曜日に礼拝を守る信徒が、30万にも満たないし、信徒も高齢化しているのです。

 一人の魂をないがしろにして、何千何万もの教会の幻を見ているのを、主は喜ばれていないことが分かったのです。いえ、聖霊なる神は、そう言った願いを持つことを、喜ばれていないことを、私の思いに語りかけたのです。人を救うのは、聖霊の業であって、人の考え出したプログラムによるのではないことを知らされたのです。

 器が整っていないのに、まあまあの規模の大きさの教会を作り上げた牧師が、金銭や女性の問題で、堕落して行くのを、何度も見聞きしました。大教会建設のビジョンを掲げ、どうそれを実行するかの方策を研究し、大きく成長した教会に出かけて行って見学し、その方策を学んで帰る旅行が、多く開催されました。しかし、方策や理論で教会が建設されるのではないのです。

 ある大会の講師に選ばれた方の後ろの席についていました。その方の背広の肩の襟に、虫食いの小さな跡を見つけたのです。大都市ではなく、地方の街で伝道されていらっしゃる方で、聖会講師であっても、それが一張羅だったのです。3人の子育てをしながら、地方の因習の強い街で、牧会をされ、今もなお続けておいでです。まさに《聖霊の御業》とは、それではないでしょうか。この方の二人の息子さんは、ご両親と同じ道に生きておいでです。
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