高価な私

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 ある国の政治指導者が、『私の国には、こんなに多くの人がいるのだから、一億人が死んでも、後、3億人が残るのだから問題はない!』と、人の命を、〈算術〉で測ったのですが、その国の一人は、〈分数〉で考える様な〈物扱い〉をされたわけです。そんな指導者をいただいた国民は、悲劇です。

 今回の新コロナ騒動の中で、「1300万人の都民の中で、たったの2000人が死んだのだ!』と、〈百分率のパーセン〉で意見を述べた人がいます。この様な人の命を軽視する考え方ですが、それが戦争を生み、他国を侵略支配していった論理と同じなのです。

 私の叔父は、赤紙一枚で、戦場に送られました。戦死し、生きて祖国に戻ることなく南方戦線で亡くなりました。結婚前でしたが、母親の悲しみはどれほどだったでしょうか。こう言った悲劇は、溢れるほどあった時代を超えて、平和を享受できる時代に、私たち叔父にとっての甥は生きて、老いの今日を迎えています。

 父と母にとって、四人の子は、一人一人の〈足し算〉で捉え、それぞれの個性に見合って、個性的に育て上げてくれました。父は、私たちの結婚式に出て、祝福してくれて、その1ヶ月後に亡くなりました。父の期待の三番目の子だったのですが、裏切ってしまったのは申し訳なかったのです。でも後ろ指を指されることもなく生きてきましたから、及第でしょうか。

 『神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。(創世記1章26〜27節)』

神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。創世記12628節)』

 人が、一人一人が尊いのは、「神の被造物」だからです。「われわれ」と言われる、「父、子、聖霊の神」の形に、「われわれににせて」人が造られているのです。物ではなく、神と人格的に交わることにできる「創造物」です。「ことば」で交わることができるほどの相互交流があるのです。人が、どんなに蔑んでも、神の目には、「高価で尊い(イザヤ434節)」のです。

 それほどの価値を、人は理解していません。私を教えてくれた教師は、『みんな、全く何もできない障碍を負った一人の少女が、日向で陽を感じる時、お風呂に入る時、えも言われないほどの表情を見せるんだ!人には可能性がある。誰にも可能性があるんだ!』と、頬を紅潮させて興奮して、自己嫌悪していた私に、教壇から話してくれました。

 その一言は、私を動かし、動機づけ、生きていく勇気と激励になったのです。なぜなら神が、私をお造りくださったからなのです。もう社会に貢献することのない退役者ですが、一人の妻の夫、四人の子の父親、四人の孫のジジ、四人兄弟の三男坊、幼い子の友、人々の隣人としては、まだ務めがありそうです。

(“キリスト教クリップアート”の「放蕩息子の帰還」です)

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