小さな出来事

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昨夕、家内と路線バスに乗って出かけました。その訪ねた家で夕食をご馳走になって、10時過ぎまで話をして過ごしました。遅くなってしまい、帰路についたのですが、もうバスの運行時間が終わってしまっていました。それでタクシーに乗って帰って来たのです。アパートの前の果物屋さんに明かりがついていましたので、みかんと葡萄を買って道路を渡ったのです。私たちの後ろから一人のご婦人が歩いて来られ、何か話しかけてきました。小声だったので私は聞き取れなかったのですが、「いい夫婦ですね!」と言っていたそうです。こちらの方は、そう言った言葉を、見ず知らずの私たちにも、気軽にかけてこられるのです。

久し振りに寄る店で、懐かしそうに店主が話しかけてきます。「どうして知ってるのですか?」と聞くと、「一年前に買い物に来たじゃあないですか!」と答えます。私たちのことを覚えていてくれたのです。これは時々あることです。「意外と見られているんだ?」と思い、言動に気を付けないといけないと感じています。群衆の中に紛れ込んでいるように感じても、見ている人がいるわけです。最近では、すっかり中国人になったように感じるのです。顔の色も表情も仕草も、少しも変わらないのですから。それでも、ちょっとした違いがあり、みなさんから少しばかり浮いて見られているのかも知れません。

日本男児の私は、妻でありながら、なかなか腕を組んだり、手をつないで歩くのに躊躇してしまうのです。アメリカ人のようにできたら好いのですが。人の目を気にするからでしょうか。でもこちらに来て、だんだんと年を重ねて、足元がおぼつかなくなってきたこともありますし、夜道は日本のように明るくないし、段差もありますので、最近では、腕を組んでくる家内を受け止めて歩いているのです。そう言った様子を見て、好ましく感じられたのでしょうか、そのご婦人が、そう語り掛けてきたわけです。仲睦まじい様子は、好いことなのですね。「日本人の老夫婦が助け合って、異国で生きているんだ!」と思ってくれるのは、対日感情のなかなか好転しない中での少しばかりの「一歩前進」になるのでしょうか。多くの人たちが、いまだに「日本鬼子」と思っておられる昨晩の巷での小さな出来事です。

(写真は、「夕日」です)

ちいさい秋

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「四季の歌」の「秋」を歌う歌詞に、

秋を愛する人は 心深き人
愛を語るハイネのような ぼくの恋人

とあります。与謝野鉄幹は、「人を恋うる歌」の中で、

ああ われダンテの 奇才なく
バイロン ハイネの熱なきも
石を抱(いだ)きて 野にうたう
芭蕉のさびを よろこばず

と歌っています。ハイネの詩は、明治以降の近代化の中で、多くの若者に好まれたようです。しかし、青年たちを啓発して、夢や理想を詠み込む詩ではなく、「恋愛詩」を作ったのですが、当時の大人は、「何と軟弱な!」と感じたのではないでしょうか。与謝野鉄幹も、ご婦人には至極甘かったようですし、政治でも教育でも実業の世界でも、指導的な立場にあった人たちの多くもまた、鉄幹に似た生活をしていたようです。それを「よし」とするものが何時の世にもあるのでしょうか。

「秋」は、「物思う季節」だったり、「人生を探求する季節」なのではないでしょうか。作詞がサトウハチロー、作曲が中田喜直の「小さい秋見つけた」は、

1 だれかさんが だれかさんが
  だれかさんがみつけた
  ちいさい秋 ちいさい秋
  ちいさい秋みつけた
  目かくしおにさん 手のなるほうへ
  すましたお耳に かすかにしみた
  呼んでる口笛 もずの声
  ちいさい秋 ちいさい秋
  ちいさい秋みつけた

2 だれかさんが だれかさんが
  だれかさんがみつけた
  ちいさい秋 ちいさい秋
  ちいさい秋みつけた
  お部屋は北向き 曇りのガラス
  うつろな目の色 溶かしたミルク
  わずかなすきから 秋の風
  ちいさい秋 ちいさい秋
  ちいさい秋みつけた

3 だれかさんが だれかさんが
  だれかさんがみつけた
  ちいさい秋 ちいさい秋
  ちいさい秋みつけた
  むかしのむかしの 風見の鶏 (とり) の
  ぼやけたとさかに はぜの葉ひとつs
  はぜの葉赤くて 入り日色
  ちいさい秋 ちいさい秋
  ちいさい秋みつけた

です。実に素朴で、ホッとさせられる詩ではないでしょうか。この歌に出てきます「だれかさん」や「鬼さん」の顔を、真っ赤な夕日やモミジが照らしているように感じられるのです。広場に集まって、「鬼ごっこ」や「宝とり」を、キャアキャア言いながら集団で遊んだのは、つい昨日のようです。そういえば、「集団遊び」も「広場」も、日本では見られなくなりました。ここ中国では、夕方になると、幼稚園くらいの子どもたちが、さまざまに掛け合いながら遊ぶ声が、アパートの壁に反響して聞こえてきます。ずいぶん影が長くなってきて、ここ華南の地も、もう「ちいさい秋」です。

(写真は、中国四川省稲城の「秋」です)

願い

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この写真は、「外孫」たちの小さなころの後ろ姿です。兄貴が妹をコロに乗せて、家の周りを連れ歩いてるところです。もう二人とも小学生になってしまいました。彼らには、いとこが日本にいて、ほぼ同世代です。私たちの「内孫」になります。曽祖母の葬儀の折りに再会をして、遊んでいるのを見て、血の繋がりの近さをみせていました。自分の子どもたちは、なかなか大きくならなかったように感じたのですが、孫たちの成長の早さには、驚かされます。養育の責任はないし、会うといってもほんのたまなのですから、そんなものなのでしょう。

先日、その長男の息子が、神妙に目をつむっている姿を撮った映像が送られてきました。何かを心込めて決心したと言った「本気顏」をしていて、「わー、成長したんだ!」と思ったのです。まだピカピカの一年生なのにです。ジイジの私など、あの年齢の時には、ハナを垂らして、ボーッとしていて、あんな表情をしたことはなかったのです。感心してしまったのは、ジイジの欲目でしょうか。

異常気象、原発事故の放射性物資の拡散、残虐な事件の頻発、人心の荒廃、人口や食糧の問題、将来への不安、イジメなど、大変に困難な時代を、孫たちは生きて行くわけで、「何をして上げられるだろうか?」と、小さな頭で考えて見ても、何も思いつきません。ただ、「どんなことが起こっても、感謝の心、慌てない冷静さ、勇気をもって問題に立ち向かえる、強い心でいてほしい!」と願うだけです。

"Come back “

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「親分、ポリ公の野郎が来やがりやした!」、日頃、警察官を快く思っていない子分が、親分に、警察官を侮辱語で「ポリ公」と「野郎」と呼び、来たことも「来やがった」と歓迎しない迷惑な思いを込めて言っています。ところが「親分」には敬意を込めて、丁寧に語り掛けているのが対照的で面白い文章です。きっと悪巧みを計画しているか、悪さをした後の話し振りに違いありません。三十年ほど前に、世話をした少年が、警察官を、隠語で「マッポ」と言っていました。

そう言えば、何時の頃からでしょうか、街中や住宅街で、「巡査(警察官の別名)」を見掛けなくなりました。駅前とか、賑やかな所では、「こんなにいるの!」と思うほどいるのですが、住宅街などの「派出所(交番の別名)」には人影がありません。何時でしたか、拾い物をして届けた時に、呼んでも返事のない、不用心な交番がありました。一体、どこに行ってしまったのでしょうか。小学校や中学校に通っていた頃、留守番をしていると、「お巡りさん(警察官の別名)」が、子どの私にも敬礼して、「お母さんはいますか?」と尋ねられたことが、二、三度ありました。母が犯罪を犯したからではありません。そうやって「警邏(けいら、見回ること)」や「巡視(じゅんし)」をしていたのです。地域担当の「巡査」が、住民の安全を確認したり、防犯のために時間を割いていたのです。

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昔と比べて警察官は減っているのでしょうか。それとも、事務的な報告書の作成などの雑務が増えてしまって、パソコン操作などで忙しくなってしまっているのでしょうか、警察官を見なくなっているに気づくのです。地域密着型の警察でなくなっているのです。殺人事件は、駅前とか、飲食街で起こることがほとんどでした。ところが去年でしたか、吉祥寺の住宅街で殺人事件がありました。そして、先ごろ、その隣の三鷹でも殺人事件が起こったのです。こう言った事件と、警察官を見かけなくなってきている傾向と、何となく相関関係があるのではないでしょうか。

「君、幾つ?学生証を見せてください!」と尋問されたことがありました。生意気なくわえ煙草で歩いていた時でした。<未成年者の喫煙>だと踏んでの職務筆問だったのです。私は、やおら学生証を提示したのです。それを確認した巡査(そんなに年齢は違っていなかったと思われますが)は、敬礼をして、「お気をつけて!」と言いました。私はタバコを、「スパッ!と吸って、彼から離れたのです。年齢に見えない「童顔」だったので、これに似たことがいく度もありました。

犯罪が凶悪化していることは事実です。ニュースが伝える殺人事件の多さに驚かされるのです。昔の映画の「シェーン」のラストシーンで、"Come back “と少年が叫んでいました。同じように、「戻って来て!」と、住宅街が叫んでいるのではないでしょうか。お巡りさんが住宅街に復帰することをです。

(写真は、「現在の交番」と「1938年当時の交番」の比較です)

碧空

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「抜けるような空」のことでしょうか、秋空を、「天高く」と形容するようです。台風接近を知らされた日は、まさに「碧空(へきくう)」でした。私たちの住んでいる華南の街は、中国で、「最も自然環境に恵まれた街」とのお墨付きをいただいているそうです。それなりに、長年の植樹や環境保全を続けてきたことがあっての今なのです。多摩川を挟んで東京の西にある「川崎」は、京浜工業地帯の一角で、大企業から零細企業まで、多くの工場がひしめき合って、日本の工業化の要をなしてきた街の一つでした。空気の悪さでは、日本一だった街で「喘息」の発病率も群を抜いて高く、ここから長野や山梨の山村に、疎開した児童も多くいました。「川崎公害」と言われたほどです。石油のコンビナートができ、様々な物資のための運送業のトラックの排気ガスは半端ではなかったからだと言われています。

かつて北京の空も、天高く抜けるような青さだったのですが、最近では「外出を控えてください!」と警戒情報を発するような事態です。まだ、暖房用の石炭を燃やし始める時期にはなっていませんが、電力消費量が急増し、火力発電に頼る中国に電力事情によって、大気が汚染しているのです。それに加え、自家用車の普及があげられます。 二酸化ガスの排気量の増加も半端ではないからです。我が家の上の階のご婦人も、運転免許証をとられて、このところ自動車も手に入れておいでです。駐車スペースが足りなくて、私たちの住む公寓(アパート)の敷地内は、車がひしめいて、植え込み中にも駐めるような現状です。「中国一」の自然環境を誇る街のこちらも、ゆくゆくは排気ガス天国になってしまうのでしょうか。

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実は、「公害対策費」は莫大な資金が必要なのです。静岡県下に富士市があって、紙パルプの製紙工場の街です。「垂れ流し」を住民から指摘されてから改善に取り組んだのですが、その経費は驚くほどの出費だったそうです。新聞購読者が減って「紙の時代」が終焉を迎えようとしている今、製紙工業の行く先も心配ですが。これから中国は、「公害対策」が、最大の課題だと、世界から指摘されています。そのためには、それだけの資金の準備が不可欠でしょうか。そうでないと次の世代に、好い「住環境」を渡せなくなってしまいます。

中国に来る前に住んでいた日本の街は、「自然要塞」のように、巡りに山が林立し、真冬には山颪(やまおろし)の北風がきつかったのですが、空気も水も農産品も抜群に美味しかったのです。とくに山間(やまあい)に分け入ると、「湧き水」があり、それを両手ですくって飲むのですが、ミネラルが豊かで、「うまい!」と声が出てしまうほどでした。人が増え人家が建ち、物流が増えて自然が破壊される、お決まりのサイクルなのですが、「逆サイクル」にすることはできないまでも、「これ以上は…!」の決心で、自然を取り戻したいものです。

二十数年前に、北京から「万里の長城」の観光に出掛けた時に、頂上から見上げた空が真っ青だったのを覚えています。その時、中国で何軒目かの「マクドナルド」が、駐車場の脇に開店営業したばかりだと聞いたことが、なぜか記憶に残っております。

(写真上は、「秋の空」、下は、2006年の冬に天津のアパートのベランダから撮った「暖房用温水施設の煙突」です)

「雑草魂」

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「雑草」とは、yahoo辞書によりますと、「1 自然に生えるいろいろな草。また、名も知らない雑多な草。2 農耕地や庭などで、栽培目的の植物以外の草。3 生命力・生活力が強いことのたとえ。「―のようなしたたかさ」」とあります。道端に生いいでている草は、踏まれても踏みつけられても、「なにくそっ!」と立ち上がって生き続けるのです。よく「生命力の強さ」の象徴として語られます。種田山頭火が、

秋となつた雑草にすわる

ふまれてたんぽぽひらいてたんぽぽ

と、詠んでいます。ずいぶんと下向きな俳句で、山頭火という人の生き方が、何となく分かるようです。メジャー・リーガーに上原浩治という、レッドソックスのピッチャーがいます。彼のことを、「雑草魂」の持ち主だというそうです。 六年前に渡米して、三つのチームを渡り歩いて、今年「抑え投手」として、地区優勝に大きく貢献しました。故障の多い選手でしたが、今年の活躍は見事で、今や話題の中心にいます。彼も無名高校で野球をし、将来は体育の教師になりたくて大学進学を志すのですが、受験に失敗します。一浪して、大阪体育大学に入ってから、外野手から投手にコンバートしたのでした。ジャイアンツで活躍しますが、彼の「野球観」とプロ野球との違いに傷ついた過去があっての今なのだそうです。

日の当たる道を歩み続けるよりも、人生というのは、道端の野草や雑草のようにして生きた方が、強靭な精神を養うのではないでしょうか。同じ山頭火の句に、

あるがまま雑草として芽をふく

と詠んだものがあります。野辺の道行きを好んだ山頭火の目は、名のない雑草に向けられています。十歳の時、母の悲劇的な死の姿を目にして、大人になります。早稲田に学んだのですが、病んで中退しています。幼い日の母との死別の悲しい衝撃が、彼を旅と深酒とに逃避させますが、俳句を好んだのです。そこにだけ正直な心を読み込むことができたのでしょうか。自分の心を、一枚、また一枚と脱ぐようにして生きた、五十年あまりの生涯だったようです。上原浩治のことを考えていたら、山頭火に思いが向いてしまいました。彼も雑草のように強く生きることができたにちがいないのですが。「雑草魂」、好いですね!

(写真は、雑草の一種の「うまごやし」です)

「もみじ」

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小学校の運動会が終わった二学期のころでしょうか、音楽の時間に、二部輪唱で歌ったのが、「紅葉(もみじ)」でした。作詞が高野辰之、作曲が岡野貞一で、実に懐かしい歌です。

1 秋の夕日に 照る山紅葉(もみじ)
  濃いも薄いも 数ある中に
  松をいろどる 楓(かえで)や蔦(つた)は
  山のふもとの 裾模様(すそもよう)

2 渓(たに)の流れに 散り浮く紅葉
  波にゆられて 離れて寄って
  赤や黄色の 色さまざまに
  水の上にも 織る錦(にしき)

信州長野の「梓川」や、利根川に合流する北関東の「渡良瀬川」の川沿いに見られるような、燃えるような紅葉は、私たちが小学時代を過ごした東京都下では見るができませんでした。生まれてから六才まで育ったのは、中部山岳の山深い村でしたが、幼い私には、まだ「紅葉」に感動するような感性は育っていませんでした。ただ、山路を歩いて、カサカサと落ち葉を踏んだ音と、枯葉の匂いの記憶が残っているだけです。冬と夏を挟んだ 「新緑の春」と夏と冬を挟んだ「紅葉(こうよう)の秋」は、日本が一番美しく彩られ季節です。

先日、遊びに来られた学生さんが、故郷の「四川省」の美しい観光地を紹介してくれました。それで、ネットで検索してみたのです。私の上の兄家族が住んでいる東京郊外と同じ名称の町で、「稲城(いなぎ)」です。省都の成都からは、だいぶ離れたところで、チベット族が住み続けてきた地域で、その景観の美しさで、観光開発されてきているようです。もう何年も前に訪ねたアメリカ合衆国の「モンタナ州」のミズーラという街の近くの大自然に、とても似ているように感じられたのです。写真でしか見ていませんが、実際にこの目で、その景色を見たら、きっと息を飲むような感動に包まれるのではないでしょうか。写真をアップして見ますと、どうも秋が綺麗なようです。

私たちの住んでいるのは、華南の街ですから、亜熱帯気候で、冬も青い葉が茂り、花でさえ咲くほどです。「もみじ」は、すこし山深いところに分け入ったらみられそうですが、街場ではむりのようです。来年の秋に訪ねらたら、「もみじ 」の歌を歌ってみたいものです。そこには、松や蔦や楓などの植生があるのでしょうか。そろそろ自然界は、これから休息の季節に入っていくように感じられます。

(写真は、「楓<かえで>」です)

大陸的

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「嚏」と書いて、「くしゃみ」と読みます。難読漢字の一つです。中国語では、「喷嚏penti」と言いますから、日本語では「当て字」なのでしょう。隣りの室から、時々、「ハクショーン!」と大きなクシャミが聞こえてきます。家内です。「遠慮ないくしゃみ」でして、日本にいた時にはこんなに大胆ではなかったのです。こちらに来て、ご婦人たちが口に手を当てて、「クシュン!」すると思っていたのです。ところが、隣りの家の「ハクショーン!」を聞いた家内が、それを真似し始めたわけです。「ほんとうに気持ちいいの!」と言ってやめません。

「人に、どう思われるか?」などと言うようなことは考えないで、こちらの人は、自然体で生きているのは、素晴らしいと思うのです。まさに「大陸的」な大らかさや屈託のなさです。とくに生理的なことには、日本人がコントロールして、抑えてしまうようなことをしません。「どうしようか?」と言って、周りを気にしたりされないのです。ですから「屁(おなら)」や「欠伸(あくび)」だって自然体です。人の生理現象が、どうであっても天下国家には関係がないわけです。もし難しい問題が起こってしまったら、広い大陸ですから東西南北、どこにでも新天地を求めて移り住むことができるのです。閉鎖的な村社会に住み続けてきた私たち日本人は、そう容易に他に行くこことはできなかったわけです。

中学の時の担任で社会科の先生が、「鎌倉時代の日本人は、もっと大らかだった様です!」と言っていたのを覚えています。戦乱で明け暮れた戦国時代、耕した畑や、稲の苗を植えた田んぼが戦で踏み荒らされてしまうことが繰り返されたのですが、狭い日本では、どこにも移住できずに、じっと「我慢の子」だったわけです。中国の南方に、「客家(kejiaクウジア)」と呼ばれる人たちがいます。その意味は、「よそ者」です。北方中国で繰り返された戦乱を逃れた「漢族」の末裔です。彼らの一部が作った「土楼」が、福建省や広東省や江西省に散在していて、「世界文化遺産」に登録されているところもあります。城壁のように土壁で周りが作られ、多くの人たちが集団で住む集合住宅なのです。驚くほどの知恵と工夫が施されています。今でも住居として使用されていて、漢族の聡明さを感じさせられるのです。

狭いところに住んでいても、心が狭くならなかったのでしょうか、そこから飛び立って東南アジアに働きに行った人たちも多かったようです。客家人の中には、中国の政治指導者の鄧小平や李鵬、台湾の李登輝、シンガポールの「建国の父」と呼ばれる、李光耀(リクワンユー)、フィリピンのアキノ元大統領などのお歴々がいます。中国では少数者ですが、影響力の大きな民であるのです。私たちの住んでいる街にも、この方たちの故郷のレストランが、あちらこちらにあります。

日本の様な狭い国の中で、気ばかりを使って生きてきた人には、住んでみることを心からお勧めします。夏など、木陰の路側のコンクリートの上や、電動自転車の上で、スヤスヤと寝ている人を見かけます。お店の店番をしていても、いびきをかいている人だっておいでです。まあ、日本では、キリキリ神経が張り詰めていて、こんな自由で放心したような光景は見ることができません。お出でになられると開放されて、「住んでみたい!」と思われること必至です。「人情」も日本に似ておりますので。「嚏」も「欠伸」も「オナラ」も見逃してくれます!

(写真は、福建省にある「土楼」の一つです)

人間観察

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「初めての親」を1972年の5月、27才の時に始めました。彼を見た時に、その小ささとか弱さと「いのちの神秘」さに驚かされ、その「責任」の重さに圧倒される ほどでした。父母に育てられながら、親を見て、触れて、感じてきたのですが、自分が親になったことの「歯痒さ」もありました。私は、就学前に肺炎を病んでから、小学校の低学年の間、自分が病弱だったことから、両親に甘やかされて育てられたので、多分に我儘でした。自分の中では、両親は、「甘やかしてくれる親」だったわけです。今思い返して見ますと、あふれるほどの愛情と関心を受けたことは、「特権」だと思うのです。「特愛された子」の安定があるように思っています。通常、最初の子と「末っ子」は、愛情を親から格段に受けるのでしょうけど、私は三男でありながら、親の愛を独占したようです。もし祖父母がいて、忙しい両親に代わって育てられていたら、取り返しのつかない「我儘だらけの孫」になっていただろうと思うのです。ところが、両親は「子育て」に責任をとってくれたのです。過分に「拳骨(げんこつ)」が浴びせかけた父でしたが、総じて評価すると、「最高の父親」だったのです。

先日、連休中のスーパーで、買い物を済ませ、スナック・コーナーでお茶を飲みながら、「人間観察」をしていました。お婆ちゃんやお爺ちゃんと一緒の子どもたちの言動は、「一人っ子」の特徴と、祖父母の養育の影響が感じられてならなかったのです。彼らのしている「嘘泣き」や「駄々をこねること」や「注意を聞かないこと」は、私の父には通用しませんでした。すぐに「ゲンコツ」が飛んできたからです。寵愛を受けていた私も例外ではなかったのです。先日、「私の子育て中には、時々、<鞭(むち)>を使っていました!」と、若い親御さんたちの中で話したのです。「不従順と約束不履行、不当に怒りをあらした時に、そうしました!」、「手ではなく、それなりに用意した<愛のムチ>でお尻を!」打ったことも、話に付け加えました。祖父母は鞭を使わない方が好いのですが、親が使うことを勧めたいのです。私は、「懲らしめ必要論者」です。子どもたちの心にある「反抗心」は、砕かなければ、それが増長していくからです。私に多くのことを教えてくださったアメリカ人実業家は、このことも教えてくれたのです。こちらの家庭や「子育て」」ぶりを見ていますと、祖父母に一任のように見受けられます。思春期の若者の暴走は、アメリカや日本だけのことではなく、こちらでも、たびたびニュースになっています。

「たびたび窃盗をしていた!」子が大人になって、同じ事件を犯しました。親御さんは、自分の養育責任の間に、事件を教訓に、子を懲らしめたり、責任をとらすことをしないばかりか、事件のもみ消しをしていました。蔑(ないが)しろにしてきた「盗癖」が増幅し、熟成されて、衆目の前に晒されてしまったわけです。だから「親に恥をかかす子」に生長してしまったことになります。人は偶然に罪を犯しません。初めは微細で軽微な過ちなのです。それが放置されている間に中程度の過ちになり、やがて「国法」を破る重犯罪になってしまいます。「痛さで教える躾」は、子供の頃以外にできません。「年をとった犬に芸を教えることはできない!」のは、この世の哲理です。

自分の歩いてきた道を振り返りますと、「恥の体験」が溢れるほどあります。その数々は、「好かったことです!」と断言できます。赤っ恥をかいて、何度首をすくめては、「恥をかかないように生きよう!」とか、「親兄弟に恥をかかせないようになろう!」と決心できたからです。時々思い出して、「誰か覚えてる人がいないか?」と辺りを見回してしまうほどです。「切れる老人」が増加してるのだそうですが、糖分の摂取を当分ひかえて、「静かな心」で、人生の「秋」を生きたいと願う「神無月(かんなづき)」です。

(写真は、四川省の稲城の「秋の風景<2>」です)

「たけなわの秋」

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最後の「月餅」を冷蔵庫から取り出して、遊びに来ていた若者と、三分の一づつ食べました。私たちの中国滞在のために、いろいろと助けていてくださる方が、大きな製パン業をされていて、その工場で作られた物でした。私たち日本人は、「これ、つまらない物ですがおひとつ!」と言いますが、「私たちの月餅は、とても美味しいんです!」と言って、ご夫人が「中秋節」に、わざわざ二箱も持って来て下さったのです。自信作の「月餅」は、本当に美味しかったのです。

この年齢になると、「羊羹」とか「どら焼」とか「きんつば」を、渋茶で食べたくなるのです。以前、家内はあまり好まなかったのですが、最近では嗜好が私に似てきているようです。「甘党」の父似で「餡(あん)」で作られた和菓子に目のないの私に慣らされたのです。この「月餅」は、型で焼かれた外形は、みな同じですが、味や餡は様々です。どの「月餅」も、「中秋の名月」を象った卵の黄身(加工してあります)が入れられてありまた。しかし頂いた内の一箱lは、「パイ生地」に独特な餡が入っていて、東京の、和洋折衷のケーキに食感が似ていていました。今まで食べたもの中で一番美味しかったのです。

「十五夜」に、父の家では、普通の家庭がするような、野原に生えているススキや月見団子や栗などの果物を、月に供えることはしませんでした。そう言えば父の家は、季節行事とか宗教行事をしなかったのです。父も母も超然とし、それを好まなかったからだったからでしょうか。どの家でもすることを、しないでいても平気だったのは、当時では珍しいことだったのです。だからと言って、私たち四人兄弟が、社会性や情緒面に欠けていたことはないと思うのです。でも団子だけは食べたのを覚えています。それよりも何より、当時、一般家庭では口にすることのなかった「ケーキや「かつサンド」や「あんみつ」を食べさせてくれましたから、お腹は大喜びでした。

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実は、この八月に、こちらに戻ってきた時に、渋谷の「東急のれん街」へ出掛けて買った、製パン会社の社長さんへのお土産を持ち帰ったのです。「虎屋の羊羹」でした。「これなら口の肥えた彼とご家族にも喜ばれるかな!」と思ったからでした。家内にも買ったので,旅行カバンが重くて難義してしまいました。彼らは、私たちが儀礼的に言う、「この間は、美味しい物をご馳走様でした!」との言葉は、中国のみなさんにはありませんが、かんしゃはあふれています。家内は、夢に見るほどに懐かしい味に、「ありがとう!」と喜んでくれました。

天津にいました時に、アメリカ人のご家族が食事に招いてくれたことがありました。奥様は台湾の出身で、台湾料理でもてなしてくれたのです。その帰りに、「これ、貰い物なのですが・・・」と言って頂いたのが、「虎屋の羊羹」でした。「異国で虎屋!」に大喜びしたのです。それ以来、「虎屋フアン」になってしまった私たちですが、そうたやすく食べられるほどの値段でないのが、玉にキズです。

「食欲の秋」、今朝方の気温は、20度を切りましたので、まさに「たけなわの秋」です。日中は夏、夜間は秋と言った季節感のここ華南の街です。秋の連休、街ゆく人の顔は、緊張感のない「休みの顔」をしておいでです。私は、来週の金曜日まで休みになっています。一週間ほど前に分かりましたが、もっと早く分かっていたら、いろいろと計画できたのですが。「今日は、何をしようか?」の一日になりそうです。「紺青」とか「碧空」という言葉をつけるに相応しい秋空です。

(写真上は、四川省の稲城の「秋の風景」、下は、「羊羹」です)