あなたがた三人の交わりに

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 「三人寄れば文殊の知恵」と、日本では言うのですが、お隣の中国では、「三人寄れば無責任」、と言うのだそうです。中国の人は行動力があるのです。それで、群れて何かをするよりは、個人での行動が多い様です。と言うことは、大同団結という様に、複数の人が協力して物事を進めるのが得意ではないのかも知れません。だからこそ、人が多く集まると、他人任せ、人任せになってしまうのだそうです。

 同じ三人でも、日本では、それに真反対なことを言うのです。東シナ海を挟むと、そんなに違うのでしょうか。日本では、狭い国土ですから、遠くに逃げることができない地理的な環境の中で、足並みを揃えて生きていかなければならず、意に沿わなくても我慢して、我を引っ込めて同調していかなければならなかったのでしょう。それで、他者の三人の意見を聞いて、賢く生きてきたのかも知れません。

 同調圧力が迫ってきて、みんなの意見に不本意ながら合わせでしまいます。それが無難だからです。ところが、大陸中国のみなさんは、広い大陸を縦横に移動して生きていけるわけです。中国の南に、福建省があって、「永定」と言う町があります。出会って知り合いになった若い方に誘われて、彼の「老家laojia/故郷」を訪ねたことがありました。そこには、「土楼tulou」という、土で塗り固めた城壁、要塞の様な集合住宅がありました。

 古く、中国の北部、東北地方から、内乱の戦さを逃れて、移って来て住み着いたのだそうです。厚く強固な土壁の中に、たくさんの家族が生活を営んでいて、今も住居として住んでおいででした。その中心に深い井戸があって、そこから生活用水を汲み上げていました。それを「土楼tulou」と呼び、私たちを連れて行ってくれたのは、世界遺産になっていた所でした。

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 共同で、砦の様な、お城の様な住居は、現存で二万もあるそうです。漢民族の知恵が溢れていました。この人たちは、「客家」と呼ばれ、極めて賢い人たちを生んでいます。シンガポールが、アジア一の貿易国となっていますが、その国を導いた李光燿(Lee Kuan Yew)も、中華人民共和国の国家主席であった胡耀邦、最高指導者の鄧小平、台湾の総統の李登輝と蔡英文などは、みなさんが客家人です。

 狭い土楼の中で、揉め事も多かったに違いありません。どう言うふうに、その争いを収めたのでしょうか。きっと、決め事があって、懲罰もあったことでしょう。そこで知恵が求められ、長老たちがいて、調停や和解、また罰則が決められていたに違いありません。人の集まる場所に起こることが、丸く収められる方法があったわけです。

 「世間」は、味方につけると救われますが、敵に回すと大変な目にあいます。その駆け引きを心得なくては生きてはいけませんから、それに苦労しながら、中庸な物の考え方や主張、そして行動を選ぶのです。ですから、「世間知らず」では、この社会の中では生きづらく、いえ生きていけないと言えます。それで、「世間慣れ」や「世間ずれ」をしていかねばなりません。

 それで、「世間通」の人がおいでです。どう見ても、自分は、「世間外れ」していて、なかなか同調できない場面に出くわして、世間に沿わずに生きてきてしまいました。もしかしたら、「我を通す」生き方なのかも知れません。聖書には、世間の人、逃散した人も群れも、みな罪人だと言うのです。

『「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。(新改訳聖書  1テモテ1章15節)』

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 自分を「罪人の頭」だと断罪していたパウロは、「罪人を救うキリスト・イエス」、復活されたイエスさまとの出会いを通して、赦されて、その赦しを信じて、全く変えられたのです。「神の子」と、今度はみとめることができたのです。それから、そのキリストを宣べ伝えるために、将来の栄誉を捨て去って、面倒な世間を捨てて、伝道の生涯を送り、最後には、ネロ帝の迫害で殉教してしまったと伝えられています。

 パウロを、急転直下、全く変えてしまった、神の御子イエスさまは、今話題にしている「世間」に来られたのです。ユダヤ人の社会も、世間そのものであったのです。伝統と慣習でがんじがらめの社会でした。その世間のただ中に、いのちの共同体である「キリストの教会」を形作るために働かれたのです。

 そこに一石を投じたのです。「福音」です。その福音に応答して、人は変われるのです。日本の社会も、とかく面倒な世間があったのです。長い宗教的な伝統やしきたりや慣習があって、それを逸脱すると、仲間外れにされて、村八分になったりしてしまうわけです。それと同じ同じユダヤの社会の状況下で、世の伝統や慣習に流されたりしないで、33年半の生涯を生き抜いたのです。

『ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。(マタイ18章20節)』

 ただの三人では、やかましいだけかも知れませんが、「わたし(イエス・キリスト)の名において集まる・・・三人」の間には、イエスさまがいてくださるのです。そこが祝福の場となるからです。それこそが、真の「キリストの教会」と言えます。

(Christian clip  artsの変貌山の三人、ウイキペディアの土楼、Christian clip arts のパウロです)

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