戦時下、戦意高揚のために、多くの軍歌が作られました。聴かせたり、歌ったりして、国の守り手を生み出そうとしたのでしょうか。その中に、「荒鷲の歌(東辰三作詞作曲)」が、1938年に誕生しました。
1.見たか銀翼この勇姿
日本男児が精こめて
作つて育てたわが愛機
空の護りは引受けた
来るなら来てみろ赤蜻蛉
ブンブン荒鷲ブンと飛ぶぞ
2.誰が付けたか荒鷲の
名にも恥ぢないこの力
霧も嵐もなんのその
重い爆弾抱へこみ
南京ぐらゐは一またぎ
ブンブン荒鷲ブンと飛ぶぞ
3.金波銀波の海越えて
雲らぬ月こそわが心
正義の日本知つたかと
今宵また飛ぶ荒鷲よ
御苦労しつかり頼んだぜ
ブンブン荒鷲ブンと飛ぶぞ
4.翼に日の丸乗り組みは
大和魂の持ち主だ
敵機はあらましつぶしたが
あるなら出てこいおかはりこい
プロペラばかりか腕もなる
ブンブン荒鷲ブンと飛ぶぞ
家内の親友で、青年期を、同じ学校で出会って、共に数年を過ごした級友と、手紙のやり取りがあるのです。一年間社会人として働いた後に、保母の資格を得るために入学した学校で二年間学び、それぞれ附属の保育園と幼稚園で、しばらく働いた同僚でもあった様です。
海辺の教会で、ご主人の牧会を支えておいででした。そのご主人から、本が贈られてきたことがありました。多くの本を失ったのですが、ドイツの神学者の書いた本で、座右の銘になって、どこに行くにも持ち歩いてきた一冊なのです。その感謝を込めて、その教会を訪ねたことがありました。近くのホテルの宿泊券をいただいて、泊まり、よい交わりを持ったのです。
それ以前に、私たちのいた教会に、その親友が、家内を訪ねて来たのです。子育ての後期だったでしょうか、牧師夫人として過ごして来られ、同じ様な奉仕の中にあった親友に会いたくなったのでしょうか。山の狭間にある、日帰り入浴にお連れしたのです。溢れる様な自然で、今でも一日過ごしたいと思わされる温泉で、うどんを食べて、2人は楽しそうに談笑していました。女性同士の友情の姿を微笑ましく眺めたのです。
私たちは、その教会を退いて、隣国に出かけている間、しばらく音信が途絶えていたのですが、今年になってからでしょうか、その交流が再び始められています。直近の便りの中に、一首の和歌がありました。
知覧といふ言葉聞くたびに母想う「一度行きたい」言いをりしこと
知覧は、鹿児島にある町で、戦争中、ここが神風特攻隊の基地だったのです。多くの若者が、ここから、開聞岳(かいもんだけ)に向かって飛び立って、沖縄方面に向かった航空発進基地があった町でした。439 名の特攻死を数えた基地でした。
今は、そこに「知覧平和会館」があります。特攻で亡くなったみなさんの写真や手紙が掲出されていて、多くの見学者がやって来るのだそうです。
私は、中学生時代に、かつての予科練の年齢の頃です。変にこだわって、特攻隊員に憧れた時期があったのです。彼らを鼓舞した軍歌を、よく歌っていたでしょうか。時代錯誤の感があって、異様だった思春期を送ってしまいました。
父が責任者で、特攻機に装備されていた防弾ガラスの原料となる石英を、山の麓で掘り出して、京浜のガラス工場で製造され、横須賀にあった、「海軍航空技術廠」の工場に送られて、「桜花」と呼ばれた特攻機などが組み立てられていたのだそうです。
これは、私のたくましい想像力、創作力によるのですが、いえ憶測に過ぎないかも知れません。「コンブ」、家内が言う渾名なのですが、コンブは一人っ子、家内と同年生まれの同年齢、一人の夫の妻、四人の子どもたちの母なのです。家内の父親は兵隊さんにはならなかったのですが、きっとコンブのお父さんは、兵隊になって、戦死されていたのでしょう。兄弟姉妹のない一人っ子の母子家庭で育った一人っ子だったのです。それゆえに厳しい戦後を生きたのでしょう。
でもそれを跳ね返す様に快活明朗で、級友たちみんなを笑わせたり、悪戯らをしていた、クラスの人気者だった様です。それでも、学生寮の家内の部屋にやって来ては、『五分間だけ泣かせて!』と言っては、思いっきり泣いて、さっぱりして、『ありがとう!』と言って、出ていったのだそうです。すごいストレス解消法で、驚かされました。
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身の上話は秘して、お父さんのことや家庭のことは話さなかったそうです。そんな親友のお母さまを思い出して、語った言葉を短歌に詠んだわけです。知覧に行きたい想いの背後にお父さんがおいでだったのでしょう。知覧航空隊から飛び立って、帰らなかった特攻兵だったのではないかと想像したのです。
私たちの世代のお母さんたちは、戦争のことや、戦後の苦労のことなどを話したがらないのですが、「知覧」をあの世代のご婦人が語ると言うのは、その短歌は、封印していたことごとの封を切ったればこその思いだったのではないでしょうか。
小学校の仲良しの家は、お母さんと彼だけで、酒屋を営んでいました。お父さんの影はありませんでした。また。高校の級友の家に泊まったことがありました。客間の壁に、将校の軍帽軍服姿の写真が掲げてありました。彼も独りっ子の母子家庭で育っていました。自分以上の悪戯小僧でしたが、男って面倒なのか、そうちょくちょく会うこともなく過ごしてしまいました。また、大分の出身の同級生がいました。彼のお父さんは、山西省に残留した旧陸軍の将校で、戦争直後、残務を上官に託され、彼の地で亡くなっています。
戦争の影を帯びながら、戦争終結後、物のない時代、経済の急成長の時代を経て、今や老いを迎えている、彼らの老い仲間です。キナ臭くて、国際情勢の怪しい現代を、どんな思いで生きていることでしょうか。
(ウイキペディアの南九州市知覧の市花の桜、特攻機の隼、知覧茶の茶畑です)
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