新しいエルサレムの到来を

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 『住めば都!』、昔の人は、そう言ったのですが、確かに昔の人だけではなく、二十一世紀に生きる私も実感して、そう言います。この6年ほどの間に、この街で、友人までできるほどになって、大いに喜んでいる今なのです。

 まさに、『あなたの友、あなたの父の友を捨てるな。あなたが災難に会うとき、兄弟の家に行くな。近くにいる隣人は、遠くにいる兄弟にまさる。(新改訳聖書 箴言27章10節)』で、兄弟と同じような隣人に恵まれて、この街で過ごすことができています。

 この春には、年老いた私たち夫婦を連れ出して、こちらで出会ったご夫妻が、桜見物をさせてくださったのです。暑い時には、冷かぼちゃスープ、煮物、ご両親から送られてきた阿蘇の漬物、野菜ご飯などを届けてくださったのです。その様な隣街で牧会されるご夫妻もいてくださるのです。私たちの子どもたちの世代の方で、感謝ばかりです。

 家内の散歩で出会った近所のご婦人は、鮭の切り身やお刺身や果物などを時々届けてくださいます。また川向こうの隣人で、私と同病で治療中のご主人は、チェロ演奏などのビデオ鑑賞やお茶に招いて下るったのです。ついこの間も、奥さまが煮た黒豆を美味しく炊いて届けてくださったり、お嬢さんの所から送られてきたリンゴなどをいただくこともあり、先日は、弟さんが贈ってくれたという千疋屋の果物をご馳走してくださいました。

 そればかりではありません。先日は、中国で出会って、その会社の工場で、聖書研究の集いを、長くさせていただいた夫妻と息子さんが、2人の近所のご婦人たち同伴で訪ねてくれました。今は東京に住んでいて、向こうと行き来しておいでです。日本での事業展開も進めておいでなのです。そんな忙しい中、時間をとって、ここをまた訪ねてくれました。中国の工場で作った月餅や、家内の体に良い漢方の食べ物や茶葉などを、溢れるほどに、息子さんの運転の車で届けてくれました。

 受けるばかりで、お昼をご馳走しようと、評判のレストランに行きましたら、食事中に支払いを、息子さんがしてしまいました。このご家族が、東京で出会った同じ中国人のご婦人方もご一緒でした。これまで、ご主人やご家族も訪ねてくださってもいるのです。闘病している家内を励ますために、お見舞いのためにです。驚いてしまうような愛を、また示してくださったのです。

 年取った夫婦が、自分たちの国のために来てくれたことへの感謝があるのだそうです。「日本鬼子(鬼のように悪どいことを戦時下にした日本人)」と言う中国人の多い中、そんなリスペクトを示してくださるのです。この6年間、経済的にも、驚くほどに助けていただいて、身に余る愛に、実に溺れそうです。

 2018年の暮れに、体調を崩した家内が、若い友人の運転で、近くにあった省立医院の新院に行き、そこで診察してもらったのです。もっと精密なMRIにある本院での診察を勧められ、年明けの2019年の元旦に、華南の街の省立医院に参りました。そこで即入院になり、治療が開始されたのです。その治療を担当してくださった主治医が、『すぐ帰国して、治療を日本の病院でなさってください!』と勧めてくれ、そのために緊急帰国しなくてはならなくなりました。慌ただしい中、入院治療費も帰りの飛行機代も、みんな支払ってくださっていました。この方の家でも週ごとに聖書研究会を続けました。

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 帰国にあたって、どこの病院にするか決めかねて、兄弟たちに相談しましたが見当がつきませんでした。ところが、前年にお邪魔して、泊めていただいたのが、栃木市の知人の持ち家で、ご両親が長く住んでおられ、隣で商家を営んでいらっしゃる息子さんのお店の敷地内にある家が、空き家になっているのを思い出して、そこに滞在さでていただけるか相談しましたら、『どうぞ!』と言ってくださったのです。

 実は、その前年の帰国時に、この街を訪ねていたのです。その時、その方のお孫さんが入院された病院のことを聞いていましたし、その大きく成長したお嬢さんにも会っていたのです。それを思い出して、相談しましたら、その大学病院を推薦されたのです。

 あちこち問い合わせるよりも、ここだとの思いがあって、帰国して、その足で、こちらに来たのです。お邪魔した家は、寝具までクリーンングしていてくださり、泊まる準備をしていてくださっていたのです。その親切には感謝が尽きません。

 翌日、息子の車で、予約なしで大学病院の総合診察科で診ていただきましたら、緊急入院が決まり、呼吸器アレルギー科の病棟での入院治療になったのです。その対応の良さに驚かされました。結局、このご夫妻のご好意にあまえて、そこに、まず私が住ませて頂いたのです。

 治療を3ヶ月間続けた後、退院になり、どこの病院で緩和治療をするかを担当看護師さんと話し合いましたら、栃木メディカルセンター栃の木に空きがあるということで退院したのです。もう痛み止めの治療、ターミナルケアーを継続するしかなかったので、待機していたのです。実は、家内には痛みはなかったのですが、医療麻薬を飲む様になっていました

 入院中、担当の看護師さんが、家内の身体や足を洗ってくださったり、じつに懇切な看護、同僚から陰口をきかれても、課せられた以上の優しいお世話をしてくださったのです。それは、宝石のような家内の入院生活の経験だったそうです。ときどき病棟に、この方を訪ねて、チョコレートを届けて家内は感謝をしていました。子どもたち家族が見舞いに来た時も、インフルエンザの大流行中にも関わらず、面会の機会を設けてくださったのです。

 ところが家にいる間に、そこを終(つい)の病院にするために転院するのではなく、大学病院で続けて通院治療することになったのです。その間に、驚くほどに病状が好転していきました。キイトルーダーと言う新薬の投与が40回ほど続いて、家内の病巣の形骸が残るだけで、患部が消えてしまったのです。今では、3ヶ月ごとの検査の通院がなされています。これも驚いたままです

 その間に、宇都宮の“ メディカル・カフェ“で出会った知人の伝手(つて)で、漢方専門医を紹介してくもらったのです。この医師が、月一で、長く投与された薬の後遺症への対処を開始してくださって、今日に至っています。

 着の身着のままで帰国した私たちに、生活するための家財道具一式、鍋釜茶碗、箸にいたるまでを、この夫妻の息子さん夫妻が、みんな下さって、新生活を始めたのです。家もなけれれば何一つない私たちを、そんな風に支えてくださったのです。華南の教会のみなさんも、ずっと変わることなく支え続けてくださっているのです。

 また兄や弟、子どもたちに支えられ、それで、この6年間生活してこれたのです。今の住まいの家賃などを考え、もう少し安い家賃の家を探したり、これからを、ちょっと思い煩っていましたら、子どもたちが、『心配しないで!』と言ってくれました。

 どのような時も、心配をよそに、どうにかなってきた私たちなのです。いえ、どうにかしてくださる神さまがいてくださり、友や隣人や子や兄弟がいて、万端が感謝なのです。

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 やがて、「新しいエルサレム」から天から下ってくる日があると、聖書は言います。

『また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。

私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。

そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、

彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」(新改訳聖書 黙示録21章1~4節)』

 その時は、死、悲しみ、叫び、苦しみのない時なのです。それまでは、それらのことがあり続けますが、終わりがあり、頬の涙が、すっかりぬぐい取られる日が来るのです。そして、新しい神の都の住民として、そこに永遠に住むことができると約束されています。感謝すべきかな、であります。

(”Christian clip arts”に向かわれるイエスさま、ベツレヘムの星という花、ウイキペディアのエルサレムの旧市街です)

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知覧の地で過ごした若者たちに

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 戦時下、戦意高揚のために、多くの軍歌が作られました。聴かせたり、歌ったりして、国の守り手を生み出そうとしたのでしょうか。その中に、「荒鷲の歌(東辰三作詞作曲)」が、1938年に誕生しました。

1.見たか銀翼この勇姿
日本男児が精こめて
作つて育てたわが愛機
空の護りは引受けた
来るなら来てみろ赤蜻蛉
ブンブン荒鷲ブンと飛ぶぞ

2.誰が付けたか荒鷲の
名にも恥ぢないこの力
霧も嵐もなんのその
重い爆弾抱へこみ
南京ぐらゐは一またぎ
ブンブン荒鷲ブンと飛ぶぞ

3.金波銀波の海越えて
雲らぬ月こそわが心
正義の日本知つたかと
今宵また飛ぶ荒鷲よ
御苦労しつかり頼んだぜ
ブンブン荒鷲ブンと飛ぶぞ

4.翼に日の丸乗り組みは
大和魂の持ち主だ
敵機はあらましつぶしたが
あるなら出てこいおかはりこい
プロペラばかりか腕もなる
ブンブン荒鷲ブンと飛ぶぞ

 家内の親友で、青年期を、同じ学校で出会って、共に数年を過ごした級友と、手紙のやり取りがあるのです。一年間社会人として働いた後に、保母の資格を得るために入学した学校で二年間学び、それぞれ附属の保育園と幼稚園で、しばらく働いた同僚でもあった様です。

 海辺の教会で、ご主人の牧会を支えておいででした。そのご主人から、本が贈られてきたことがありました。多くの本を失ったのですが、ドイツの神学者の書いた本で、座右の銘になって、どこに行くにも持ち歩いてきた一冊なのです。その感謝を込めて、その教会を訪ねたことがありました。近くのホテルの宿泊券をいただいて、泊まり、よい交わりを持ったのです。

 それ以前に、私たちのいた教会に、その親友が、家内を訪ねて来たのです。子育ての後期だったでしょうか、牧師夫人として過ごして来られ、同じ様な奉仕の中にあった親友に会いたくなったのでしょうか。山の狭間にある、日帰り入浴にお連れしたのです。溢れる様な自然で、今でも一日過ごしたいと思わされる温泉で、うどんを食べて、2人は楽しそうに談笑していました。女性同士の友情の姿を微笑ましく眺めたのです。

 私たちは、その教会を退いて、隣国に出かけている間、しばらく音信が途絶えていたのですが、今年になってからでしょうか、その交流が再び始められています。直近の便りの中に、一首の和歌がありました。

知覧といふ言葉聞くたびに母想う「一度行きたい」言いをりしこと

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 知覧は、鹿児島にある町で、戦争中、ここが神風特攻隊の基地だったのです。多くの若者が、ここから、開聞岳(かいもんだけ)に向かって飛び立って、沖縄方面に向かった航空発進基地があった町でした。439 名の特攻死を数えた基地でした。

 今は、そこに「知覧平和会館」があります。特攻で亡くなったみなさんの写真や手紙が掲出されていて、多くの見学者がやって来るのだそうです。

 私は、中学生時代に、かつての予科練の年齢の頃です。変にこだわって、特攻隊員に憧れた時期があったのです。彼らを鼓舞した軍歌を、よく歌っていたでしょうか。時代錯誤の感があって、異様だった思春期を送ってしまいました。

 父が責任者で、特攻機に装備されていた防弾ガラスの原料となる石英を、山の麓で掘り出して、京浜のガラス工場で製造され、横須賀にあった、「海軍航空技術廠」の工場に送られて、「桜花」と呼ばれた特攻機などが組み立てられていたのだそうです。

 これは、私のたくましい想像力、創作力によるのですが、いえ憶測に過ぎないかも知れません。「コンブ」、家内が言う渾名なのですが、コンブは一人っ子、家内と同年生まれの同年齢、一人の夫の妻、四人の子どもたちの母なのです。家内の父親は兵隊さんにはならなかったのですが、きっとコンブのお父さんは、兵隊になって、戦死されていたのでしょう。兄弟姉妹のない一人っ子の母子家庭で育った一人っ子だったのです。それゆえに厳しい戦後を生きたのでしょう。

 でもそれを跳ね返す様に快活明朗で、級友たちみんなを笑わせたり、悪戯らをしていた、クラスの人気者だった様です。それでも、学生寮の家内の部屋にやって来ては、『五分間だけ泣かせて!』と言っては、思いっきり泣いて、さっぱりして、『ありがとう!』と言って、出ていったのだそうです。すごいストレス解消法で、驚かされました。

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 身の上話は秘して、お父さんのことや家庭のことは話さなかったそうです。そんな親友のお母さまを思い出して、語った言葉を短歌に詠んだわけです。知覧に行きたい想いの背後にお父さんがおいでだったのでしょう。知覧航空隊から飛び立って、帰らなかった特攻兵だったのではないかと想像したのです。

 私たちの世代のお母さんたちは、戦争のことや、戦後の苦労のことなどを話したがらないのですが、「知覧」をあの世代のご婦人が語ると言うのは、その短歌は、封印していたことごとの封を切ったればこその思いだったのではないでしょうか。

 小学校の仲良しの家は、お母さんと彼だけで、酒屋を営んでいました。お父さんの影はありませんでした。また。高校の級友の家に泊まったことがありました。客間の壁に、将校の軍帽軍服姿の写真が掲げてありました。彼も独りっ子の母子家庭で育っていました。自分以上の悪戯小僧でしたが、男って面倒なのか、そうちょくちょく会うこともなく過ごしてしまいました。また、大分の出身の同級生がいました。彼のお父さんは、山西省に残留した旧陸軍の将校で、戦争直後、残務を上官に託され、彼の地で亡くなっています。

 戦争の影を帯びながら、戦争終結後、物のない時代、経済の急成長の時代を経て、今や老いを迎えている、彼らの老い仲間です。キナ臭くて、国際情勢の怪しい現代を、どんな思いで生きていることでしょうか。

(ウイキペディアの南九州市知覧の市花の桜、特攻機の隼、知覧茶の茶畑です)

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朝ぼらけ

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 「朝ぼらけ」の東の空です。なんと綺麗なことでしょうか。昨夜は十三夜で、月もまた綺麗でした。地上はいざこざしていますが、創造の世界は、秩序正しく整然としてあります。

九月十三夜  上杉謙信

霜満軍営秋気清
数行過雁月三更
越山併得能州景
遮莫家郷憶遠征

霜は軍営に満ちて秋気清し
数行(すうこう)の過雁(かがん)月三更[さんこう)
越山併(あは)せ得たり能州の景(けい)
遮莫(さもあらばあれ)家郷(かきょう)遠征を憶(おも)ふ

 謙信は、武人であるだけではなく、素晴らしい詩を、漢詩で詠む人だったことにも驚かされます。甲斐の武田信玄に、塩を送ったという話にも、敵味方に関わらずに、温情を示したことにも驚かされます。謙信のお膝元の上越の橋の上で、家内と、その街の祝福を祈った日を、懐かしく思い出します。

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クレーマーたち

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 「クレーマー」、英語のスペルで “ claimer “ と書き、日本語では、「〘 名詞 〙 ( 洋語claimer ) クレーム② 一般に、商品、相手の行為や処置などに対する苦情を申し立てること。とくに執拗なクレームを言う人に対して使われることが多い。(日本国語大辞典)」とあります。「執拗に苦情を言う人」です。

 もう20年ほど前に、川越の年金事務所に出かけた時に、内容は聞き取れないほど、支離滅裂に、係官に罵声で不満を言ってる四十代の男がいました。周りなど全く気にせず、気に食わないことがあったのでしょう、責め訴え続けていたのです。そう言った言い方を注意したり、叱ったりしないで、ただ静かに聞いているだけの事務官の忍耐にも感心したのです。同僚たちも上司も助け舟を出すことなく、もう膠着状態でした。

 順番を待ちながら、その罵声を聞いていた間、その内容が分かりませんでした。年金受給への不満か何か、または応対の態度が気に食わなかったのかも知れません。しばらく続くと、制服を着た警察官が四人ほど来て、そのやりとりを眺めていたのです。その男は、物を投げたり、暴力に訴える様なことはなかったので、様子見だったのでしょう。

 どう収まるかを見届けようとも思いませんでしたし、自分の順番になって、要件をすませましたので、そこを出て帰路に着いたのです。あんなに執拗に、責めるのを見て、聞いていて、公務員の窓口業務、苦情処理とは大変だなあと思ったのです。どうも、そう言う様なことが多くあるのでしょう、窓口の方は慣れている様子でした。

 もう一人、激しい口ぶりの患者が、獨協医科大学病院にいました。初めは静かな口ぶりで、支払い窓口で話していたのです。その窓口の係りの女性は、その不満を言葉でぶつけられて、言い訳がましい応答をしていました。その七十代の男の感情を害したのでしょうか、口ぶりが徐々に激してきて、しまいには、大声になっていったのです。

 プツン、と切れるような音は聞こえませんでしたが、まさにそんな状態でした。埒が開かなかったのか、『ここの責任者を出せ!』と怒鳴っていました。するとその受付の女性は、『私が、この部署の責任者です!』と、冷静な態度と口振りっで言ったら、肩透かしを食ったのでしょうか、権威を認めたのか、声が小さくなって、しばらく何かを言いながら、その場を去っていったのです。

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 人の集まる場所によっては、とくに受付には、そう言ったクレーマーが多く来るのでしょう。病状が思わしくなかったり、経済的な理由、人間関係の問題、将来への不安が、そう言った不満を抱いてしまい、その思いや現状を、何かにぶっつけるのでしょうか。こう言うことが多くありそうです。

 自分も、けっこう長く牧師をさせていただきましたので、いろいろな方々とお会いし、いろいろな不満をぶっつけられ、責められらことも何度もありました。落ち度は相手にではなく、こちらにあったこともあります。でも、いつも冷静でいられたのは、「事実」だけの上に立とうとしたことと、今も思っています。相手の方の「感情」だけに揺さぶられずに、その背後にある、目に見えない過去と、そこで負われたこころの傷などを見極めようとしました。

 そういった人たちに、言わなければならないことは、言ったのです。とくに若い信者さんに対して、よくない影響力や不信を植え付けて欲しくないと、いつも思いました。それで、「事実」だけをお話しし、責めることはしませんでした。一度だけ、去るようにお願いしたことがありました。家内を守るためでした。今でも、それは、主と人との前に正しかったと思っております。

 相手からの責め立ての背後にある、「感情」、とくに、過去に負われて、傷ついた経験がおありなのが分かったのです。自分の経験の判断だけではなく、教会の主、人の一生や心の組み立てをご存知のお方がお示しくださったからです。変えられない過去、でも変えられて、心を正しく収めて生きていける様な、これからの日々があるのを、その人に期待したのです。

 だから先走った判断は下しませんでした。自分にも、傷つけられた過去が多くあるからです。それとともに、人の心を傷つけててしまったことが多くあったのです。

 二年ほど前になりますが、これも獨協医科大学病院の家内がかかっている科の待合室で、四十代ほどの男性が、『お待たせしまったじゃあねえや、何でこんなに待たせるんだ!』と言って、看護師さんを、強い声で責めていました。

 どうにかなることだったら、どうにかできますが、避け難い現実を、みんな待っている待合室中で、みんなが思っていることを、この人は口に出してしまったのです。相手の立場を考えたら言わない様な、責め立ての言葉をぶっつけたわけです。病が重くて、患者が苛立つのは分かりますが、そうであればあるほど、相手を顧みる思いが必要だなあと思ったのです。

 人の集まる場所では、生の感情が出やすいのかも知れません。胃がキリキリしていたら、そんなこと、あんなことを言いたい人は大勢いるのです。羨ましいのは、考えなしに言ってしまえる人です。でも平安のない背中を見せて、その場を去って行かれました。病は、気を病ませるのでしょうか。『注意しよう!』と思った自分でした。

(ウイキペディアの人のいない待合室です)

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友と兄弟と私が

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『友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。(新改訳聖書 箴言17章17節)』

 先月から今月にかけて、次兄と弟とが入院していることを、先日、知らせてくれました。かく言う自分も、12月には入院加療が予定されている現状です。もう「ポンコツ兄弟」、つまり、みんな後期高齢者で、長生きをさせていただいて、ここまで[病んでは癒えて]を繰り返して、お互い励まし合っている四人兄弟なのです。

 先日は、心房細動治療の様子を、「日記」に書かれて、逐一知らせてくださっていている、同病、同病院、同主治医の隣人で友人が、お茶に、家内と二人を呼んでくださったのです。和菓子や、弟さんからの病気見舞いの千疋屋の果物も出してくださり、懇切に、治療の次第を知らせてくださったのです。それは、これから受ける自分にとっては、大きな助けでした。その治療の体験記が、自分にとって大きな助けになっていることから、これから受けるかも知れない治療の動きを、このブログに、書こうと思ったのです。お読みくださって、もしかの時の備えにしてくださったら嬉しいのです。

 昨年の11月、夕食時に、ポトリと右手から箸が落ち、20秒ほど右腕の感覚がなく、左手で腕をさすっているうちに、感覚が戻ってきたのです。それまで、フラっとした経験は二度ほどありましたが、構わないでいたことを思い出したので、今度は、異常を感じて、近所の民生委員をなさっていたご婦人に、家内が様子を伝えました。即、救急車の出動要請をした方が良いとのことで、家内に119番通報をしてもらい、獨協大学病院に搬送していただいたのです。

 同じアパートに住んでおいでのご婦人も、元看護婦さんで民生委員をされておいでで、救急車の後を、ご自分の車を運転してついてきてくださったのです。家内に代わって、付き添ってくださったわけです。その救急診察の結果、入院になりました。そんな感謝な隣人のみなさんに恵まれているのです。

 入院中の最後のMRI撮影で、小さな血栓が見つかっりました。それで血液サラサラにための薬を飲み、リハビリ歩行訓練や脳トレ検査などをして、8日目に退院できた次第です。

 今年の2月3日に、市の定期健診に行きました。検査の終わりに、担当医師が、心電図の検査結果を見て、聴診器で心臓の音を聞いて、『不整脈が見られます!』と言ってくれました。去年の11月の脳梗塞の原因が、血栓ができたのによるかも知れないと言われていていたのです。4日ほどして、市の健康福祉センターから職員の方が来宅され、「精密検査」をできるだけ早くする様に勧めてくれました。

 それで掛かり付け医に行きましたら、簡単な血液検査と心電図で、『大丈夫でしょう!』と診断されました。素人判断で、大丈夫ではなさそうに思えて、川を挟んだ隣人で、友人に様子をお話ししましたら、同じ病状で、自治医科大学附属病院で治療していると聞き、彼の主治医を推薦していただいたのです。それで掛かり付け医に、紹介状を書いてもらって、5月31日に、自治医大に行きました。ちょっと時間的に間隔を置いてしまったのですが、急ぐべきだったと反省しております。

 その病院で、血液とX線検査をして、さらに、二人の検査技師によって、ずいぶん時間をかけた丁寧な心電図を撮ってもらいました。その後の主治医の診察で、心房細動とのことで、電気ショックをすること、そしてカテーテルアブレーション治療を受ける予約をしてくれました。先ず不整脈の治療薬を70日処方していただき、その服用の結果で、再度治療計画を立てたいと言われました。

 70日経って、この10月3日の通院日に、心電図を撮りましたら、改善してないとのことで、その後、全身麻酔で電気ショック治療を受けました。そして年末に、カテーテルアブレーションを行うことになったのです。

 これまで外科ばかりに罹ってきた身ですが、心臓に問題を抱えていると聞いて、これまで一瞬たりとも休まずに鼓動を打って、血液を循環してくれた心臓の働きに、『ありがとう!』と感謝して、この身体を組み立ててくださり、支えつづけて下さった創造の神に感謝したのです。今は、《もう少し》を願ってお祈りをしているところです。

 上の兄は、高校では陸上、大学ではアメリカンフットボール、成人以降はテニスをし、下の兄は、高校では野球をし、弟は中学の頃から登山、高校では柔道、大学では少林寺拳法、アイスホッケーをし、卒業後、母校の体育教師をしてきておりました。この私も、高校でハンドボール、成人以降はテニスをしてきました。みんなけっこう高レベルの運動選手をしてきているのです。上の兄は全国優勝チーム、弟も全日本レベルの選手でした。

 物資不足の戦中から戦後を、健康で、けっこう強い身体をいただいて、産み育ててもらってたことを、二親に感謝したことです。そして、年相応の弱さを覚える時を迎えて、通院したり、入院したり、健康管理が必要だったりの今になりました。

 三十代で、仲のよかった級友を亡くしたり、恩師のみなさんを亡くしたりしてきています。《どれだけ長く生きるか》なのでしょうか、または、《どれほど意味のある年月を過ごしたか》なのでしょうか。2023年度の平均寿命は、女性が87.14歳、男が81.09歳でした。けっきょく、父の体質を継いでいる私たち4人は、みんな脳梗塞を経験してきているのです。

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 父は、くも膜下出血を起こした後、あまり時が経たないうちに、脳溢血で亡くなってしまったのです。あっけない死でした。そんなことで、今週、今後の自分のことについて、家内と四人の子に、文書で、自分の心構えを書き送ったのです。39歳で、次兄に腎移植をする時には、ちょっと仰々しく遺書を書いたのですが、生き延びたのです。今回は、ありうることの備えをしておこうと思って、心構えを書き送った次第です。

 聖書に、『私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。(詩篇90篇10節)』とあります。百まで生きたい願いはあるのですが、間も無く平均寿命に年齢になりますので、その心の準備をした次第です。今思うのは、不調を感じたら、早め早めに専門医の診察を受けるべきかと思っております。

 娘から、こんな応答がありました。『思いをメッセージで送ってくれてありがとう。何も心配いらないね。私たちは天国へ行ける特権をいただいているからね、感謝です。その信仰をそれぞれ受けられたのは私たち兄弟にとって遺産より多くの恵みですね、ありがとう。』と、読んでいたら、もう夜が白んできました。

(ウイキペディアのイラストです)
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今季の朝顔

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 「朝顔」、こんなに耐えて、それでも咲き続けてくれた年は、これまでありませんでした。どこの家の玄関横や窓の下、山車会館の裏手の庭に、毎年咲いていた朝顔が、今年は、みんな時期をくるわされたのか、暑さ負けをしたのか、遅咲きでしたし、花数が極めて少なかったのです。

 わがベランダの朝顔も例外なく、遅咲きで、タネの不良を思わされましたが、暑さが少しやわやぎ始めたことから、倍返しの様に咲き続けてくれました。伸びるところがないほどに蔓を伸ばして咲いて、励まし慰めてくれました。

 『ありがとう😊』の思いで褒めたり感謝の夏でした。昨日は、のびた蔓を落としました。葉っぱが枯れ始めていましたので、綺麗ななまま終えてもらおうと思ってでした。それでも、今朝は、幾輪かが咲いてくれています。

 唐の都からやってきたタネたちの末裔でしょうか。遺伝子を受け継いで日本の家々の庭に咲く朝顔は、艶やかではありませんが、実に穏やかで美しいのです。我が家のものは、かくべつに素敵です。

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この社会の潤滑油の様に

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 「受援力」、助けを求めたり助けを受けたりする心構えやスキルや援助のことを言っています。『内閣府が、災害後に防災ボランティアの支援を生かすため、被災地側がボランティアの支援を受け入れ、上手に寄り添うことができるように、と2010年につくったパンフレットに用いられた言葉です。これは、東日本大震災をきっかけに少しずつ知られるようになっています。』と、内閣府の定義があります。

 今年は、能登半島を中心に、地震や異常なほどの多量の降雨による災害に見舞われ、被災された方々は、大変な被害に遭われています。中学3年だった次男が、阪神淡路大震災の折に、災害援助に行かれる宣教師さんに同行して、この「受援力」を発揮したことがありました。災害弱者に対する優しい気持ちは、尊いなあと思ったのです。

 帰国していた長男も、中学生だった次男も、それぞれのチームで、阪神圏の被災地に、復興の手伝いに出掛けて行きました。長男は、京都の教会で待機して、お手伝いをしていたのですが、その教会に集まって、会議をしていた牧師さんたちが、夜に酒盛りをしているのに躓いたのです。

 私たちに交わりの諸教会では、宣教師さんも牧師さんたちも、飲酒や喫煙をしませんでしたし、長男が留学中に参加していたアメリカの教会の牧師さんたちも、お酒は飲まなかったので、驚いてしまったのです。泊めていただいたのが、あるグループの教会だったそうで、飲酒の自由のある群れだったわけです。

 自分は、若い頃に相当の量を飲んでいたのですが、信仰を持ってから、喫煙と飲酒の悪習慣から見事に離れられたのです。というか飲めなくなり、吸えなくなってしまったのです。全く必要なくなったからです。酒が入らなくても、楽しく生きられるようになりましたし、付き合いだって不自由をしませんでした。

 それぞれ違いや伝統があるということが分かって、長男には好い機会だったに違いありません。『酒飲むな!』と言った教えがあったのではありませんでしたが、パウロが、『酒に酔ってはいけません(エペソ5章18節)』と、エペソの教会に勧めていますから、やがて放蕩に行き着く飲酒習慣は持たないでいるのが最善なのです。

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OFUNATO, Japan (March 15, 2011) – A fishing boat is noticeably out of place after being swept ashore during a massive tsunami that impacted this Japanese fishing port. The town was devastated by an 8.9-magnitude earthquake that triggered the destructive tsunami, which ravaged Japan’s eastern seaboard. Teams from the United States, United Kingdom and China arrived here to assist in searching for missing residents. (U.S. Navy photo by Mass Communication Specialist 1st Class Matthew M. Bradley/Released)

 東日本大震災後でも、長男は、教会のチームでの支援で、ずいぶん長い間、定期的に出かけていました。

『あなたがた自身が知っているとおり、この両手は、私の必要のためにも、私とともにいる人たちのためにも、働いて来ました。このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」(使徒20章34~35節)』

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と聖書にありますから、教会も、この「受援力」を発揮してきているのです。教会の主でいらっしゃるイエスさまは、物質的にも精神的にも社会的にも、困難なところにあった人たちに近づいて、手を差し伸べておられたので、それに倣って教会は、「受援力」を発揮してきています。

 時間があると、わが家に「散髪道具一式」を持ってやって来られて、家内の髪の毛を切ってくださる、音楽伝道者がおいでです。東日本大震災では、いち早く駆けつけて、支援の手を差し伸べて、さまざまな援助をされて来られています。家を借りて、気仙沼で奉仕されていたそうです。ご長女は、そこで誕生されているのです。今でも、そこで出会った方々との交わりがある様です。

 その援助の中で、被災者の方たちの散髪もなさったそうで、その経験で、もうずっと家内の散髪のために、おいでくださって、髪の毛を切ってくださっるのです。お母さまの通院のためにおいでになると、時を見計っては寄ってださいます。帰国した2019年の秋に、市内を流れる巴波川や永野川が氾濫して、お借りしていた家が床上浸水になった時に、その「受援力」での奉仕で、助けてくださって以来のお付き合いなのです。昨日は、突如来てくださって、家内の散髪をしてくださったのです。

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 正月以降、能登半島の地震の被災地援助をされ、このたびの水害でも出掛けられて、お宅に帰られてすぐの訪問でした。アメリカに留学したことがあって、県南の街に、奥様とお二人のお子さんとお母さまとお住まいなのです。あの「スーパーボランティア」として知られる、大分県日出町の尾畠春夫さんの様には有名ではありませんが、わが家では有名なのです。善意と奉仕は、この社会の潤滑油です。

(東日本大震災の時のリストバンド、震災被害、能登半島地震の被災の様子、オリーブオイルです)

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事実を調べること

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『それがあなたに告げられて、あなたが聞いたなら、あなたはよく調査しなさい。もし、そのことが事実で、確かであり、この忌みきらうべきことがイスラエルのうちに行われたのなら、(新改訳聖書 申命記17章4節)』

 「隔離」、脳梗塞で入院した昨年の11月、その病院の脳神経内科の病棟は、8階でした。一週間ほどでしたが、見舞いと着替えを届けるために息子たちが来て、階段そばにある控え室で待っていました。そしてガラス越しに話をしたのです。入院患者は、ロックされたドアーで、出入りが遮断されて、直接会えないのです。もちろん、一階にあるコンビニにも行かれませんでした。病棟から入院患者が離れる危険性を防ぐためでした。

 まさに隔離病棟さながらでした。どこにいく予定もありませんが、隔離されていると言うことで、急な病変への配慮がありますが、不自由を感じるのは、その中にいない限りは感じられません。そんな経験をしたのです。

 子育て真っ盛り、まだ次男が3歳ほどの頃に、入院していたこともありました。『術後すぐに動いたほうがいいですよ!』と、先輩の入院患者さんに言われて、翌日には、歩行サポートの歩行器に寄りかかりながら歩き出したのです。痛くて、階下に行くなどできませんでした。同じ階の廊下だけを歩けたのです。その時は隔離ではなかったのですが、それだけで不自由を私は感じていました。

 退院して、仕事に復帰して間もなく、一人の牧師夫人を、「婦人ランチョン」にお招きしました。すでに召されておいでの関西圏で活躍された牧師さんのご夫人だったのです。この方が、瀬戸内海の小島にある教会で、私のことをお話しされたそうです。それで、その教会のみなさんから、けっこう高額な献金をいただいたことがあったのです。

 この教会は、ハンセン病の患者さんたちの教会で、まだ隔離政策のおかげで、社会と隔絶されておいででした。それは、欧米諸国では、はるか以前に、隔離政策は排除されていたのに、日本では律法上の政策によって、まだ不自由を強いた隔離が実効していた時期でした。

 「小島の春」を出版して脚光を浴びた小川正子も、「生きがい」と言う著書で、高い評価を受けていた、神谷美恵子も、この隔離政策を、医師として主張した人で、この方たちの功罪が、とかく言われてきています。今の上皇后に必要のあった時に、この神谷美恵子が相談相手になっていたことがありますが、隔離反対のみなさんからは厳しい評価が下されていたのです。

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 偉人と言われているシュバイツアーも、野口英世も、マザー・テレサも、キング牧師も、実に功罪二面の人でした。貢献が先走りして、隠されていた部分、公に表沙汰にされないままで、看過されてきた暗部や陰を持ち合わせていることを忘れてはなりません。私は、この名だたるみなさんを引き摺り下ろそうとしたいのではありません。故意に隠された事実に注目しているだけなのです。

 敢えて隠されてきた、成功的な人物の scandalous な部分、その「事実」に触れないのは、不公正なのではないでしょうか。あの織田信長が、戦国武将の中では高評価を、いまだに得ているのですが、彼が覇権を握る段階でしていた、破廉恥で、非人間的なことごとを隠蔽するのと同じように思えるのです。『仕方がなかった!』と言うのは、追随者の言い訳なのです。

 『事実、真実を語るとパニックが起こるから!』、と公表を控えて、事実を隠蔽してしまうのは、正しいことではありません。今回のコロナ騒動の中で、政府主導で行われたワクチン接種で、安全性を確かめる期間をおかないで摂取した結果、多くの死者や後遺症患者が出て、その実数を知らせないでいたりしているのも、そう言ったことの一つだからです。

 事実は、知らされるべきです。人や出来事を糾弾するためではありません。薬害から守られるためですし、「思い違い」から解放されるためでもあります。何事にも、事実かどうかを調べる必要がありそうです。

(ウイキペディアの瀬戸内海の風景、近所の病院の待合室の生花です)

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