端午の節句に

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 四人の男の子の成長を願って、出雲の母の実家から、「ちまき(粽)」が、子どもの日の前に送られてきました。母が蒸してくれ、砂糖醤油をつけて食べたのです。

 この「端午の節句」になると、粽を包んだ笹の葉の匂いがしてきます。中国でも、よく頂きました。あちらでは「粽子(zòngzi)と言っていたのです。私たち兄弟が食べたのは、米粉を練って作った淡白なものでしたが、華南の地では違っていました。

 豚肉や鶏肉・砂糖・卵・干しエビ・干し貝・シイタケ・ナツメ・アズキ・ハスの実をもち米と混ぜて、笹・ハス・アシの葉などに包み、蒸したり茹でたりして作っていました。その形状や食材は、その土地その土地で違っていたのです。でも、私たちの食べたのと同じような形状もありました。中国の粽に、次のような故事があります。

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 『屈原が汨羅(ペキラ)の淵に身を投じた、その命日は5月5日だったという。そのとき、楚の人たちは屈原の死を悲しみ、糯米(もちごめ)を蒸した粽(ちまき)を作って川に投げ、供養したという。一説には、魚がその体をついばまないようにするためだったともいう。これが、5月5日、つまり端午の節句に「ちまき」を食べる習慣の始まりだという。また、投身した屈原を救おうと、近くの漁民が龍舟(ドラゴンボート)を漕ぎだしたが、間に合わなかったことを悔やみ、それからドラゴンボート競争が始まった、という伝説も生まれた。粽も龍舟も江南地方の伝統的な食べ物や行事であったものが、後漢のころに屈原と結びつけられて生まれた伝説であるらしいが、このような伝説が生まれたのも民衆の中でも屈原が忘れられなかったためであろう。(「世界史の窓」からです)

 母の家の近所の方で、戦後、予科練から帰って来て、父の仕事を手伝ってくれた方(そうまだ十代だったと思います)が、夏前になると、二十世紀梨を、また、出雲そばと蒲鉾(野焼きと言っていました)を暮れに、毎年送ってくださったのです。父が亡くなってからも、世帯を持った四人の父の子のそれぞれの家に送ってくれたのです。

 これらは、家庭の事情で、親戚付き合いの少なかったわが家では、毎年五月と、初夏と、暮れに、親戚を感じ、母のふるさと感じる食べ物だったのです。

 亡くなる前に信仰を告白した父は、子ども頃に、生まれた街の教会に、父の父親(私たちには祖父ですね)に連れられて行ってもらったのだそうです。

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 仏壇も神棚も札も、何もないわが家でしたし、日本のしきたりに拘らなかった父でしたが、「鯉幟(こいのぼり)」を、庭に竹竿を立てて、泳がせてくれたこともありました。

 健康に、強く育つように願ってでした。『泣いて帰ってきたら家に入れない!』と言って、強くあれと願った父でもありました。その父の思いを、思い出して、父よりも20年近くも長生きでいられる感謝を覚える、五月五日であります。

 今朝、弟からMail があり、この「ちまき」の懐かしい思い出を書いてよこしました。朝起きして一番に、そのことを思い出したとのことです。共通する思い出があって、家族や知人や友人との関わりも思い出しました。

(ウイキペディアの粽、横山大観の描いた屈原、中華圏のの粽子です)

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庭に咲く紫花が

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『わが霊魂よヱホパをほめまつれ。わが神ヱホバよ。なんぢは至大にして尊貴と稜威とを衣たまへり 。なんぢ光をころものごとくにまとひ、天を幕のごとくにはり。水のなかにおのれの殿の棟梁をおき、 雲をおのれの車となし、 風の翼にのりあるき 、かぜを使者となし熖のいづる火を僕となしたまふ 。ヱホバは地を基のうへにおきて 永遠にうごくことなからしめたまふ 。(文語訳聖書 詩篇104篇1-5節)』

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行って帰ります

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 どの言語にも「挨拶用語」があります。私たちが長く住んだ中国の華南の街では、「你好nihao」の代わりに、「吃了没有chilemeiyou 」と言っていました。『メシ食ったかい?』と言った意味なのです。実際的な挨拶で、飯抜きでは話にならないからでしょう。

 アジアの社会では、eye contact ですませてしまうのではないかなと、韓国や中国を訪ねて、お会いした瞬間に、目を合わせ、顔色や表情を見て、いまさら『お元気?』など聞かずにすまそうとするように感じたのです。これも、面倒なこと、一見すれば分かることを省くような、挨拶のあり方なのでしょう。

 母の故郷の出雲地方では、出掛けていく時に、『行って来ます!』と言うのではなく、『行って帰ります!』と言うのです。『必ず帰ってくるので、安心してください!』との想いが込められていて、出掛ける者と見送る者との親しい家族関係が、素敵だなと思ったのです。

 見送る方も、『行ってお帰り!』と言うのだそうです。『きっと帰っておいでね!』との思いが溢れているのです。華南の街を発つ時に、『你一定回来吧!』と言ってくれました。『あなたの居場所はここだから、きっと、また帰って来てください!』との思いを込めて言ってくれたのです。

 そう、中国語は、『再見!』と言います。英語の” See you again “ と同じです。中国の学校で、日本語を教えていた時に、挨拶語について触れたことがありました。中国は礼節の国なのですが、何時からでしょうか、なかなか挨拶語が聞こえなくなってきたようです。朝、学生さんたちは、教室に入ってくる時に、無言で入って来るので、『早!』とか『早上好!』と、天津の中国語学校で学んだように、『おはようございます!』と声掛けをする内に、みんなが『おはようございます!』と言うようになっていきました。

 授業の終わりには、『さようなら!』と言うと、みんなもそうするようになったのです。何時でしたか、甥っ子の子が、小学生の低学年の頃に、『あばよ!』と言って驚いたことがありました。作詞と作曲が中島みゆきの「あばよ」を、研ナオコが歌っていました。

何もあの人だけが 世界中でいちばん
やさしい人だと限るわけじゃあるまいし
たとえば隣の町ならば となりなりに
やさしい男はいくらでも いるもんさ
明日も今日も 留守なんて
見えすく手口 使われるほど
嫌われたなら しょうがない
笑ってあばよと 気取ってみるさ
泣かないで泣かないで 私の恋心
あの人はあの人は お前に似合わない

あとであの人が聞きつけて ここまで来て
あいつどんな顔していたと たずねたなら
わりと平気そな顔してて あきれたねと
忘れないで冷たく 答えて欲しい
明日も今日も 留守なんて
見えすく手口 使われるほど
嫌われたなら しょうがない
笑ってあばよと 気取ってみるさ
泣かないで泣かないで 私の恋心
あの人はあの人は お前に似合わない

明日も今日も 留守なんて
見えすく手口 使われるほど
嫌われたなら しょうがない
笑ってあばよと 気取ってみるさ
泣かないで泣かないで 私の恋心
あの人はあの人は お前に似合わない
泣かないで泣かないで 私の恋心
あの人はあの人は お前に似合わない

 女性シンガーが「あばよ」と歌ったのには驚かされたのですが、語源辞典を見ますと、「さらばよ(さあらばや\そうならば)」を簡略化した言い方で、「また逢わばや」、から転じたものだと言っています。また「按配(あんばい)よう」にあるとの説も取り上げられています。

 小学生時代を過ごした、東京都下の三多摩地区では、『あばよ!』と言って、級友と学校や遊びが終わった後に、別れ際に言った覚えがあります。同じ街で生まれた弟の孫が、小学生の頃に、そう言っていました、さらに時代劇の映画で、鞍馬天狗が去っていく時に、『さらばじゃ!』と言っていました。それは、『いざ去らば!』、『わたしは、ここから去って行きます!』と言う意味だったわけです。

 もう「卒業式」では歌わなくなったのだそうですが、文部省唱歌の「仰げば尊し」の歌の中にも見られました。

仰げば尊し、わが師の恩。
教の庭にも、はやいくとせ。
おもえばいと疾し、このとし月。
今こそわかれめ、いざさらば。

互いにむつみし、日ごろの恩。
わかるる後にも、やよわするな。
身をたて名をあげ、やよはげめよ。
今こそわかれめ、いざさらば。

朝ゆうなれにし、まなびの窓。
ほたるのともし火、つむ白雪。
わするるまぞなき、ゆくとし月。
今こそわかれめ、いざさらば。

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 この「いざさらば」を、「いざあばよ」と歌いたくなる誘惑に勝った日がありました。恩師に、そんな言い方は失礼だったからです。この離別の時の言葉は、印象的ですが、主イエスさまは、聖書の記事によりますと、

 『かく録されたり、キリストは苦難を受けて、三日めに死人の中より甦へり、  且その名によりて罪の赦を得さする悔改は、エルサレムより始りて、もろもろの國人に宣傳へらるべしと。  汝らは此等のことの證人なり。  視よ、我は父の約し給へるものを汝らに贈る。汝ら上より能力を著せらるるまでは都に留れ』  遂にイエス彼らをベタニヤに連れゆき、手を擧げて之を祝したまふ。  祝する間に、彼らを離れ[天に擧げられ]給ふ。(文語訳聖書 ルカ伝24章46~51節)』

 『さようなら!』と、イエスさまは言いませんでしたが、次のように再会の時があることを話されました。

 『なんぢら心を騷がすな、神を信じ、また我を信ぜよ。 わが父の家には住處おほし、然らずば我かねて汝らに告げしならん。われ汝等のために處を備へに往く。 もし往きて汝らの爲に處を備へば、復きたりて汝らを我がもとに迎へん、わが居るところに汝らも居らん爲なり。(ヨハネ伝14章1~3節)』

 また、パウロは、テサロニケの教会に書き送った手紙の中で、次のように言っています。  

 『我らが前に命ぜしことく力めて安靜にし、己の業をなし、手づから働け。 これ外の人に對して正しく行ひ、また自ら乏しきことなからん爲なり。 兄弟よ、既に眠れる者のことに就きては、汝らの知らざるを好まず、希望なき他の人のごとく歎かざらん爲なり。 我らの信ずる如く、イエスもし死にて甦へり給ひしならば、神はイエスによりて眠に就きたる者を、イエスと共に連れきたり給ふべきなり。 われら主の言をもて汝らに言はん、我等のうち主の來りたまふ時に至るまで生きて存れる者は、既に眠れる者に決して先だたじ。 それ主は、號令と御使の長の聲と神のラッパと共に、みづから天より降り給はん。その時キリストにある死人まづ甦へり、 後に生きて存れる我らは、彼らと共に雲のうちに取り去られ、空中にて主を迎へ、斯くていつまでも主と偕に居るべし。 されば此等の言をもて互に相めよ。(テサロニケ後書4章11~18節)』 

 聖書には、「マラナタ」と言う挨拶後があります。

 『22:20 これらの事を證する者いひ給ふ『然り、われ速かに到らん』アァメン、主イエスよ、來りたまへ。(黙示録22章20節)』

 『主イエスさま、おいでください!』との意味のアラム語です。主の再臨を信じる信仰者は、そう告白し、祈るのです。

 『なんぢら心を騷がすな、神を信じ、また我を信ぜよ。わが父の家には住處おほし、然らずば我かねて汝らに告げしならん。われ汝等のために處を備へに往く。 もし往きて汝らの爲に處を備へば、復きたりて汝らを我がもとに迎へん、わが居るところに汝らも居らん爲なり。(ヨハネ伝14章1~3節)』

 そのことばへの返事のように、イエスさまは、『行って帰ります(十字架の死から生き返られて、父の右の座に行かれて再び、あなたのもとに帰って来ます)!』とお約束されたのです。きっと会える日のあるを確約して、父のみ許に行かれたからです。間も無くおいでくださるでしょうか。それでワクワクして、主のおいでをお待ちしたいものです。

(Christian clip artsのイラストです)

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権威者の特権か権威の濫用か

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 もう何年も前のことになりますが、天津の街で生活していた時に、政府関係の車両が庁舎から出てくる様子を、道路の端で眺めていました。日本とは違って、一般的に道路の幅員は広くち作られていますが、政府関係施設の周辺は特別な地域になっていたのです。そこに出てきた黒塗りの高級車の走り方は、まさに〈傍若無人(ぼうじゃくぶじん)〉で、ブレーキなどを踏むことがなく、活きよいよく我が物顔で、車道の中に割り込んできたのです。

 一般車両を全く無視した、その走行の仕方に驚いたのです。権威の濫用、思い上がった国家権力者の振る舞いは、民に仕える公僕、僕だと言う考えが、全くないのです。そこは、「人民共和」を国名にも定めているように、人民こそが中心で、役人は僕(しもべ)である国を作り上げたのに、実際は、古代国家にあった、あの「清(しん)」の時代の役人天国のままだったのです。

 私たちの国には、「道路交通法」があって、道路は、万民が利用しているのです。隣国にも、その法律があって、ある公的機関の壁一面に、図示されてあるのを見ました。私たちの国では、皇族も政府高官も、その法律に服する義務があって、例外や特権はないのです。

 先頃も、皇居から一般道に、天皇ご夫妻の乗車した車列が出ようとされた時に、救急車両のサイレンが聞こえてきたのです。優先や特権で、止まらずに道路に出ることをしないで、停止線で止まって、病人を搬送する救急車の行く道の邪魔を避けたのです。

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 その救急車も、一瞬驚いたようでしたが、人命優先、法に従って、走り抜けて医療機関に向かったのです。それこそが、民主国家の有り様であって、国家の象徴である天皇であっても、この道路交通法に服されたのです。 

 「道路交通法」には、次にようにあります。

(緊急自動車の優先)
第四十条 交差点又はその附近において、緊急自動車が接近してきたときは、~一部省略~ 車両(緊急自動車を除く。以下この条において同じ。)は交差点を避け、かつ、道路の左側(一方通行となつている道路においてその左側に寄ることが緊急自動車の通行を妨げることとなる場合にあつては、道路の右側。次項において同じ。)に寄つて一時停止しなければならない。

2 前項以外の場所において、緊急自動車が接近してきたときは、車両は、道路の左側に寄つて、これに進路を譲らなければならない。
(罰則 第百二十条第一項第二号)

 また、「消防署便り」に次にようにありました。 

 『 消防車や救急車は、一刻も早く現場に急行し、 消防活動や応急処置を行わなければなりません。このため、消防車や救急車などは「緊急自動車」として、緊急時に一般の車両よりも優先して 走行することが法律で認められています。

消防車や救急車などの緊急走行

   300 メートル離れた位置でも発光が確認できる 赤色か黄色の警光灯を点滅し、90 デシベル以上の サイレンを鳴らし走行。前照灯は上向き点灯が推 奨されています。法定最高速度は時速 80 キロ(高速道路の対面通行でない区間は時速 100 キロ)で す。赤信号や一時停止標識で停止する必要はあり ませんが、徐行して安全確認を行う義務があります。』

 天津の市政府の小役人が、特権を振り回して、強引な走行をしていく姿を見て、国の役人、政府の高官、主席は、どれほどの特権を発動していることかと思わされたのです。もちろん車の中に、役人がいて、どれほど偉そうな顔をしていたかを見極めることはできませんでした。でも推して知るべきでしょう。

 羽田空港から北海道に飛んでいた航空機に、一人の国会議員が搭乗していたのです。この議員が、客室乗務員に、横暴な振る舞い、偉そうな言動をしていたそうです。その様子を眺めていた、ある歌手が、そのことを、名指しで非難していました。議員さんの責任は大きいし、影響力も大きいわけです。

 この歌手は、黙っていられなかったようです。命懸で乗客の保安業務や機内サービスで世話をしているCA(CabinAattendan)に対して、礼や感謝を失した振る舞いに、この方は、堪忍袋の緒を切ってしまったのです。時代劇に出てくる、あの悪代官と同じ輩が、平成の代(よ)にもいるのです。

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 その反面で、謙虚な天皇の主催の春の園遊会が、先頃、赤坂御苑であったそうです。これまで一度もお招きいただいたことのないのが、私は残念なのですが、何の功(いさおし)のない私には、そんな機会はなさそうです。でもやがってやってくる天国には、神さまの主催の園遊会があるのでしょう。その席にはべる望みをもって、今は我慢しましょう。

 そういえば、今日から五月、一昨日、二日早く、「柏餅」を手に、近所のご婦人が、わが家を訪ねてくださったのです。『やっぱり日本茶がいいわね!』と、家内はお茶を淹れてくれて、春の味覚を感謝しながら味わったのです。柏の葉の香りに、懐かしい思い出が呼び覚まされるようでした。今日は雨の予報で、「皐月晴れ」は望めそうにありません.好い月をお過ごしください。

(柏餅、ウイキペディアの1860年代のアメリカ南北戦争で使用された馬車救急車、赤坂御苑の遠望です)
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