神を求めて生きる

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『ヱホバかくイスラエルの家に言たまふ。汝ら我を求めよ。さらば生べし。(文語訳聖書 アモス書5章4節)』

 巴波川の浅瀬の流れに、勢いよく飛んで来たかと思うと、水の中を潜って、1、2メートル泳いでる間に、小魚を咥えたのでしょうか、流れから出て、嘴(くちばし)に魚の光る背腹を見せていましたら、たちまち飲み込んでしまったのです。その川鵜の捕食している様子を、先日、巴波川の流れに観ていました。その素早さと、捕食の巧みさに驚かされたのです。

 岐阜県の長良川に行かなくても、川鵜の生態を眺められたのは感謝でした。陸の王者のライオンが、獣を脱兎の勢いで、獣を追い続けて、ついに獲物を獲る様子を思い出したのです。

 自然界、とくに肉食動物の世界は、捕食の世界に違いないのですが、河川から流れ込む海に、プランクトンが養われ、それを小魚が食べ、大きな魚が、それを捕食しながら、命が保たれるサイクルを、創造者が定められたのでしょうか。

 生きていくため、生き抜くためには、この弱肉強食は致し方がないのでしょうか。この川鵜やライオン以上に、人を喰って、人を犠牲にして生きていることの多いのが、この人の世でもあります。人間は、本来、助け合いながら生きてるのだと思いたいのですが、そうではない現実が多くあります。

 『この故に若しキリストによる勸、愛による慰安、御靈の交際、また憐憫と慈悲とあらば、 なんぢら念を同じうし、愛を同じうし、心を合せ、思ふことを一つにして、我が喜悦を充しめよ。(文語訳聖書 ピリピ書2章1-2節)』

 人は、慰められ、憐れみや慈悲を必要としています。それを家族や兄弟姉妹、同信の友、隣人のみなさんとの間で与え合うのです。生きるために、私たちは、助け合いながら、ここまで生きてきました。創造者でいらっしゃる神さまは、人を、そのように造られておいでです。そんな助けがあって、今日まで過ごしてくることができました。

 その上、この私に、《神のいのちで生きる》ことを教えてくれたのが、母でした。と言うよりも、母自身が、そのように生きていたからでもあり、その生きる姿を見続けて、育ててくれた恩恵を、今にして思うのです。

 厳しい星の下に、母は誕生したのですが、両親に愛されて育った自分には、想像することもできない。〈父無し子(ててなしご)〉の現実の中で、父を求めて、本物の父に出会えたのは、何にも増して母には、幸いなことであったわけです。

 聖書が伝える神は、「父なる神」であります。「父性を担われる神」と言うのが的確な表現かも知れません。創造者としての神さまでいらっしゃるからで、自分自身が、この神のみ手によって創造されたことを信じられたです。こんなに優れた人間が、偶然の積み重ねによって作り上げられることってあるでしょうか。

 ベランダの鉢に真っ黒な土を入れ、そこに種を蒔くと、真っ白い花が咲くことに、大人になった今でも驚くのです。赤や黄色やピンクなどの様々な色彩の葉弁をつけた花々が咲く様子に、意図されて造られた創造の美が際立っているのは、一体どこに起因しているのでしょうか。

 さて川鵜は、水中で捕食するだけではなく、隊列を組んで、空を飛翔して、渡りと言う長距離を移動する習性も持っているのです。泳げて飛べるなんて、ちょっと羨ましいものです。しかも仲間の無事を願いながら、先頭飛行を交代しながら行くのだそうです。

(ウイキペディアによる、川鵜の映像です)

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