新天新地で永遠の時を過ごす

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 作詞が竹内まりあ(Miyabi )、作曲が村松崇継の「いのちの歌」を、四月最後の日曜日の午後、日曜日に、「まちかどメディカル・カフェ in  宇都宮」の11周年の会で聴きました。

生きてゆくことの意味 問いかけるそのたびに
胸をよぎる 愛しい人々のあたたかさ
この星の片隅で めぐり会えた奇跡は
どんな宝石よりも たいせつな宝物
泣きたい日もある 絶望に嘆く日も
そんな時そばにいて 寄り添うあなたの影
二人で歌えば 懐かしくよみがえる
ふるさとの夕焼けの 優しいあのぬくもり

本当にだいじなものは 隠れて見えない
ささやかすぎる日々の中に かけがえない喜びがある

いつかは誰でも この星にさよならを
する時が来るけれど 命は継がれてゆく
生まれてきたこと 育ててもらえたこと
出会ったこと 笑ったこと
そのすべてにありがとう
この命にありがとう

 NHKの番組で、この歌が主題曲になって、連続テレビ小説「だんだん(2008年放映)」の劇中歌や、「開拓者たち(2012年放映)」の中で歌われていました。出雲地方では、「ありがとう」を、番組名の「だんだん」と言うのですが、出雲生まれの母の口からは聞いたことが、一度もありませんでした。

 この歌の歌詞には、価値ある「出会い」、暖かな人との「関わり」、奇跡的な「めぐりあい」、困難な場面での「寄り添い」、避け得ない「さようなら」など、人と人の交流の場面が歌い込まれているのです。これらは、生きていればこその人と人との交わり、いのちあればこその喜怒哀楽なのでしょうか。いのちの大事さが読み込まれているのです。

 『ヱホバかくイスラエルの家に言たまふ 。汝ら我を求めよ さらば生べし。ベテルを求むるなかれ ギルガルに往なかれ ベエルシバに赴く勿れ ギルガルは必ず擄へられゆきベテルは無に歸せん。汝らヱホバを求めよ 然ば生べし(文語訳聖書 アモス書5:4-6)』

 聖書は、『主(Jehovah,Adonai/エホバ)を求めて生きよ!』と言います。病んだり裏切られたり失敗したりして絶望しても、主を求めるなら、生きていけると、いただいた生への感謝を持って、神さまがお定めくださった一生を、『ありがとうございます!』と、感謝して生きていくことなのでしょう。 《神ありの一生》を送れる奇跡に、「隠れて見えない」ものを見ることができて、ただ驚くばかりであります。

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 この肉を脱いで、この世を去る時に、私たちの口には、感謝があふれるのでしょう。先週、一人の伝道者が、退職をするとおっしゃるお便りをくださいました。在米の日本人教会を長く牧会されたご夫妻です。同窓の先輩なのです。私たちの結婚式で、お世話になって、その後、間もなく、私たちは母教会を出て、宣教師さんの開拓伝道に従事するために、お会いしないまま今日に至ったのです。

 『我また新しき天と新しき地とを見たり。これ前の天と前の地とは過ぎ去り、海も亦なきなり。 我また聖なる都、新しきエルサレムの、夫のために飾りたる新婦のごとく準備して、神の許をいで、天より降るを見たり。 また大なる聲の御座より出づるを聞けり。曰く『視よ、神の幕屋、人と偕にあり、神、人と偕に住み、人、神の民となり、神みづから人と偕に在して、 かれらの目の涙をことごとく拭ひ去り給はん。今よりのち死もなく、悲歎も號叫も苦痛もなかるべし。前のもの既に過ぎ去りたればなり』(文語訳聖書 黙示録21章1-4節)』

 出会いも別れも再会もある今ですが、やがて永遠の時を過ごす新天新地、新しいエルサレムが天から降ってくるのです。そここそが私たちが、永遠に過ごす世界であると言うのが、聖書の約束です。その約束を握って、多くのクリスチャンたちが、この世の馳せ場を駆け抜けて、そこに突入するのでしょう。

(Christian clip artsのイラストです)

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