黄金色の絆で

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 『我また身をめぐらして日の下を觀るに 迅速者走ることに勝にあらず強者戰爭に勝にあらず 智慧者食物を獲にあらず 明哲人財貨を得にあらず 知識人恩顧を得にあらず 凡て人に臨むところの事は時ある者偶然なる者なり 。(伝道者の書9:11)』

 「ことの良し悪し」を決められるのは、神さまでいらっしゃるので、聖書に記される出来事に、正邪の軍配を振ることは、私にはできません。ありままの「事実」として読むべきなのです。

 聖書に出てきますラケルの故事から、イスラエル人は、「ベツレヘム近郊のラケル墓所には今も参拝者が巻いた赤い糸が多数見られる。また仏教国の中には、右手首に赤い糸をお守りとして巻くところ(日本)もある。」と、今でも言うのです。

 このラケルは、イスラエルに族長の一人、ヤコブの夫人でした。このヤコブは、アブラハムの孫、イサクの子で、適齢になった時に、父ヤコブの妻ラケルの実家に出かけるのです。そこで叔父ラバンの羊を飼い、羊たちを巧みに飼い、7年間懸命に働き、ラバンの娘ラケルを妻に願い出るのです。

 婚礼の夜、彼の床にいたのは、姉のレアだったのです。叔父によると、この地方では、姉をさておいて妹を先に嫁にやる風習はないので、姉を与えたと言って騙されたです。もし妹も欲しければ、もう7年間働くように言われ、懸命に働いて、ラケルも妻として迎えるのです。

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 そこから、ヤコブの嫁たちと彼女たちの女奴隷たちによる、複雑な相克劇が繰り広げられます。姉のレアには子が産まれますが、ラケルには子ができません。それで、ラケルは女奴隷によって子を得ようと画策します。それでレアも子を産み、産み終わると、女奴隷によってヤコブに子を与えます。石女(うまずめ)のラケルには、ななかな子ができませんでしたが、やっと与えられるのが、ヨセフでした。兄たちの妬みを買って、奴隷に売られて、エジプトの奴隷となった彼が、パラオの次の立場に昇進して、ヤコブ一族を、世界的な飢饉の中で、エジプトの豊かな食糧で救うのです。

 そのヨセフの母ラケルは、もう一人の子、ベニヤミンを難産の末に産みます。ところが産後、間もなくラケルは亡くなり、エフラタに向かう道の傍らに葬られるのです。それがラケルの一生でした。その墓は、イスラエル人にとっては、意味深いものがあって、その巻いた赤い糸を供える風習が残っていたのです。

 人と人との出逢い、そして別離にも、神秘的なことがあることから、〈運命の糸〉があると言う考え方が、多くの国にあります。日本では「右手の小指」に赤い糸をつける風習が残っていると言われています。

 中国にも、こんな話が残されています。

 「唐代の李复言(りふげん)の小説『続妖怪記』(旧名『続玄記』)に登場する有名な唐代の伝説である。 魏國が若い頃、ある夜、松城の宿屋で月明かりの下に座って一冊の本(鴛鴦譜)を見ている老人に出会った。 魏國がその本について尋ねると、老人は、それはオシドリの本で、世界中の人々の結婚の本だと答えた。 老人はまた、遠くに見える野菜売りの姥の娘、今はまだ3歳だが、14年後の妻だと言った。 ウェイグーは若く卑しい彼女を嫌い、刺し殺すために人を遣わした。 十数年後、彼は結婚し、妻が、あの少女で、眉に傷があることを知った。 このことを知った松城の県判事は、この宿を「定婚店」と名づけた。 赤い糸を持つ老人は、以後「月下の老人」と呼ばれるようになった。(中国の百度のサイトの「定婚店」からのp翻訳)」

 ところが、聖書は、『・・・すべての人が時と機会に出会う。』と言います。人と人、男と女、親と子、人と機会などを出会わせるのは、神さまであって、決して運命などではありません。思い返してみますと、父と母、3人の兄弟、妻子、親族、教師、級友、上司や同僚、主にある兄弟姉妹、隣人、多くの人との出会いは、神の必然であって、いつも驚かされています。

 昨日は、次兄と義姉を、何年ぶりかで訪ねました。栃木から東武日光線で栗橋駅、そこから、湘南線で新宿駅、そこから京王線で分倍河原、そこから南武線の乗り換えてでした。京王デパートでお弁当と T ops  のチョコレートケーキを買っての見舞いだったのです。体調不良と知って、家内の勧めもあっての訪問だったのです。兄宅でお昼をし、デザートでケーキを食べ、談笑して辞しました。帰りは南武線で溝口駅、そこから東急田園都市線で南栗橋で降り、そこから東武日光線で帰って来ました。

 兄たちと弟、これも神さまが与えてくださった肉の出会いです。八十前後に差し掛かりながらも、一緒に育った兄弟は、実に良いものです。家内のお見舞いカードに押し花、この春先から干して作った自家製の干し椎茸も持参しました。これもまた、神さまがくださった素晴らしい、黄金色の《絆》なのです。

(ウイキペディアのメタリックの黄金色、ラケルの墓です)

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諸般の惡しき事の根なり

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 それ金を愛するは諸般の惡しき事の根なり、ある人々これを慕ひて信仰より迷ひ、さまざまの痛をもて自ら己を刺しとほせり。(テモテ前書6:10)』

 世の中を動かしている「金(かね)」を揶揄して、歌った添田唖蝉坊(あぜんぼう)の作曲による「金金節」です。

金だ金々 金々金だ
金だ金々 この世は金だ
金だ金だよ 誰が何と言おと
金だ金だよ 黄金万能

金だ力だ 力だ金だ
金だ金々 その金欲しや
欲しや欲しやの顔色目色
見やれ血眼くまたか目色

一も二も金 三・四も金だ
金だ金々 金々金だ
金だ明けても 暮れても金だ
夜の夜中の 夢にも金だ

泣くも笑うも 金だよ金だ
バカが賢く 見えるも金だ
酒も金なら 女も金だ
神も仏も 坊主も金だ

坊主可愛や 生臭坊主
坊主頭にまた毛が生える
生えるまた剃るまたすぐ生える
はげて光るは つるつる坊主

坊主抱いてみりゃ
めちゃくちゃに可愛い
尻か頭か 頭か尻か
尻か頭か 見当がつかぬ
金だ金だよ医者っぽも金だ

学者・議員も政治も金だ
金だチップも賞与も金だ
金だコミッションも賄賂も金だ
夫婦・親子の中割く金だ

金だ金だと 汽笛がなれば
鐘もなるなる ガンガンひびく
金だ金だよ 時間が金だ
朝の5時から 弁当箱さげて

ねぼけ眼で 金だよ金だ
金だ工場だ 会社だ金だ
女工・男工・職業婦人
金だ金だと 電車も走る

自動車・自転車・人力・馬力
靴にわらじに ハカマにハッピ
服は新式 サラリーマンの
若い顔やら 気のない顔よ

神経衰弱 栄養不良
だらけた顔して 金だよ金だ
金だ金だよ 身売りの金だ
カゴで行くのは お軽でござる

帰る親父は 山崎街道
与市べえの命と 定九郎の命
勘平の命よ 三つの命
命にからまる サイフのひもよ

小春・治兵衛 横川忠兵衛
沖の暗いのに 白帆がみえる
あれは紀の国 みかんも金よ
度胸どえらい 文左衛門だ

江戸の大火で暴利を占めた
元祖・買い占め・暴利の本家
雪の吉原 大門うって
まいた小判も 金だよ金だ

お宮貫一 金色夜叉も
安田善次郎も 鈴弁も金だ
金だ教育 学校も金だ
大学・中学・小学・女学

語学・哲学・文学・倫理
理学・経済学・愛国の歴史
地理に音楽 幾何学・代数
簿記に修身 お伽に神話

コチコチに固くなった頭へ詰める
金だ金だと むやみにつめる
金だ金だよ 金々金だ
そうだ金だよ あらゆるものが

動く・働く・舞う・飛ぶ・走る
ベルがペン先が ソロバン玉が
足が頭が 目が手が口が
人が機械か 機械が人か

めったやたらに 輪転機が廻る
金だ金だと うなって廻る
「時事」に「朝日」に「万朝」「二六」
「都」「読売」「夕刊報知」

捨子・かけおち・詐欺・人殺し
自殺・心中・空巣に火つけ
泥棒・二本棒・ケチンボ・乱暴
貧乏・ベラ棒・辛抱は金だ

金だ元から 末まで金だ
みんな金だよ一切・・金だ
金だ金だよ この世は金だ
金・金・金・金 金金金金だ金々 金々金だ
金だ金々 この世は金だ
金だ金だよ 誰が何と言おと
金だ金だよ 黄金万能

金だ力だ 力だ金だ
金だ金々 その金欲しや
欲しや欲しやの顔色目色
見やれ血眼くまたか目色

一も二も金 三・四も金だ
金だ金々 金々金だ
金だ明けても 暮れても金だ
夜の夜中の 夢にも金だ

泣くも笑うも 金だよ金だ
バカが賢く 見えるも金だ
酒も金なら 女も金だ
神も仏も 坊主も金だ

坊主可愛や 生臭坊主
坊主頭にまた毛が生える
生えるまた剃るまたすぐ生える
はげて光るは つるつる坊主

坊主抱いてみりゃ
めちゃくちゃに可愛い
尻か頭か 頭か尻か
尻か頭か 見当がつかぬ
金だ金だよ医者っぽも金だ

学者・議員も政治も金だ
金だチップも賞与も金だ
金だコミッションも賄賂も金だ
夫婦・親子の中割く金だ

金だ金だと 汽笛がなれば
鐘もなるなる ガンガンひびく
金だ金だよ 時間が金だ
朝の5時から 弁当箱さげて

ねぼけ眼で 金だよ金だ
金だ工場だ 会社だ金だ
女工・男工・職業婦人
金だ金だと 電車も走る

自動車・自転車・人力・馬力
靴にわらじに ハカマにハッピ
服は新式 サラリーマンの
若い顔やら 気のない顔よ

神経衰弱 栄養不良
だらけた顔して 金だよ金だ
金だ金だよ 身売りの金だ
カゴで行くのは お軽でござる

帰る親父は 山崎街道
与市べえの命と 定九郎の命
勘平の命よ 三つの命
命にからまる サイフのひもよ

小春・治兵衛 横川忠兵衛
沖の暗いのに 白帆がみえる
あれは紀の国 みかんも金よ
度胸どえらい 文左衛門だ

江戸の大火で暴利を占めた
元祖・買い占め・暴利の本家
雪の吉原 大門うって
まいた小判も 金だよ金だ

お宮貫一 金色夜叉も
安田善次郎も 鈴弁も金だ
金だ教育 学校も金だ
大学・中学・小学・女学

語学・哲学・文学・倫理
理学・経済学・愛国の歴史
地理に音楽 幾何学・代数
簿記に修身 お伽に神話

コチコチに固くなった頭へ詰める
金だ金だと むやみにつめる
金だ金だよ 金々金だ
そうだ金だよ あらゆるものが

動く・働く・舞う・飛ぶ・走る
ベルがペン先が ソロバン玉が
足が頭が 目が手が口が
人が機械か 機械が人か

めったやたらに 輪転機が廻る
金だ金だと うなって廻る
「時事」に「朝日」に「万朝」「二六」
「都」「読売」「夕刊報知」

捨子・かけおち・詐欺・人殺し
自殺・心中・空巣に火つけ
泥棒・二本棒・ケチンボ・乱暴
貧乏・ベラ棒・辛抱は金だ

金だ元から 末まで金だ
みんな金だよ一切・・金だ
金だ金だよ この世は金だ
金・金・金・金 金金金

 昔、どこかの国の銀行家が亡くなった時に、棺に入れられるにあたって、一つのことを注文をしていました。棺の両脇に穴を開けてもらうように依頼したのです。棺に納められた時、その棺の左右に穴を開け、両腕を出すように遺族に頼んだのです。それを見た葬儀出席者は驚いたでしょうね。

 巨万の富を運用し、ご自分も多くを得た銀行家も、一銭も持たずに、死んでいくということを、世に伝えたかったからでした。それなのに、お金のために人を騙し、人を殺し、国を売る人は止みません。

 事業を興し運営するためにはお金が必要です。教育をするにも受けるにもお金が必要です。社会福祉や社会事業を行うにもお金が必要です。政治をするにも莫大な選挙資金、運営資金が入ります。実家に帰るにもお土産代、交通費、滞在費などが必要です。貨幣経済の社会では、お金が、どうしても必要です。宗教法人も、医者も、そして詐欺師も、人を騙して、あれやこれやと策を講じては金集めをして暗躍している現状であります。

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 唖蝉坊は、関東大震災の後に、「コノサイソング」を作詞作曲歌唱しています。

コノサイ コノサイ コノサイだ
なんでもかんでもコノサイだ アラマ オヤマ
コノサイこうしてもらいたい
コノサイですから勘弁してください エーゾ エーゾ
コノサイ流行 エーゾ エーゾ

泣くなそんなに泣くと地震がくると
親が子供をだまかせば アラマ オヤマ
子供のいうことフルってる
地震がありゃまたコノサイで貰える貰える エーゾ エーゾ
コノサイ流行 エーゾ エーゾ

チンチンドンドン復興院
鐘だ太鼓だ鳴り物入りよ アラマ オヤマ
御膳ならべてチンドンドン
大きな風呂敷ふしぎな風呂敷 エーゾ エーゾ
のびたりちぢんだり エーゾ エーゾ

風呂敷ひろげてコノサイだ
風呂敷たたんでコノサイだ アラマ オヤマ
何でもコノサイコノサイだ
お膳立てばかりで御飯もたかずに エーゾ エーゾ
バラック内閣 エーゾ エーゾ

唄はコノサイ復興節
エーゾ エーゾとはやり出す アラマ オヤマ
何がエーゾとたずねたら
コノサイコノサイでいろいろもらえる エーゾ エーゾ
貧乏コノサイ エーゾ エー

 演歌の祖である唖然坊は、明治5年(1872年)に、神奈川県大磯で誕生しています。海軍兵学校に進学を目指しますが、合格後、そこに進学しないで、汽船の船員になりますが、挫折をして、横須賀で沖仲仕となって石炭の積み下ろしに従事しています。その後、「荘子節」を歌う演歌師に関心を向け、「演歌を歌う唖の蝉」という意味で、唖然坊を名乗って歌ったのです。

 多くの演歌を作詞作曲していきますが、唖蝉坊の社会風刺の目や想いは、実に厳しくも的を得ていました。ご子息の知道(芸名はさつき)も、父と同じく演歌師の道を歩んでいます。唖蝉坊は、全国行脚をしながら、演歌を歌い、ついには、浅草の屑屋の二階に居候し、そこで亡くなっています。まさに、金に縁のない一生だったのです。

(ウイキペディアによる、添田唖蝉坊、浅草です)

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乗ってみたい汽車がある

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CNR SL-751 im Eisenbahnmuseum Shenyang
Toshiba Digital Camera

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 「乗り物」と言うよりは、動く物への関心が、幼い子どもたちにはあります。山奥から東京に出て来て、一番興味深かったのは、家の近くに甲州街道があり、その交通量の多さに驚かされたのです。新宿から八王子の大和田橋を渡って市内を抜け、小仏峠の直下のトンネルを抜けて、相模湖、大月、甲府、諏訪を経て、松本と、飯田方面に分岐して行くのです。

 その大和田橋まで、日野自動車が作ったトラックが、工場から試運転をして折り返していたのを、兄たちが道端に座り込んで、ベーゴマを磨いていた真横で、眺めていました。まさか自分が、大人になって自動車を運転するなどとは思いもしなかった頃、子どもの自分は、お決まりの車や汽車、進駐軍の立川基地に離着陸して、家の真上を飛んで行く飛行機に、目を丸くして見入っていたのです。

 山奥の村にやって来たのは、まだガソリンエンジンの自動車や電動エンジンで動く自動車はなく、戦時下にガソリンを手に入れなかった日本は、戦後は、まだモクモク煙を吐く、木炭エンジンのバスで、それに乗った記憶があります。

 車や車輪を回す働きに、強烈な関心がありました。中央本線を走っていた蒸気機関車の蒸気を吐く、シュシュシュの蒸気音と、ポッポーの汽笛が、今でも懐かしく思い出されます。

 旧暦の明治5912日(新暦の18721012日)に、新橋と横浜(桜木町)の間に、最初の汽車が走ったのです。鉄道先進国のイギリスの技術に、全面的に習っての開業でした。明治のみなさんは、その「陸蒸気」を、驚異の目で眺めたのでしょう。それから瞬く間に、鉄道網が日本列島を縦横に結んでいくのです。今、新幹線網が張りめぐされることも、だれも想像しなかったことだったのでしょう。

 ところが、鉄道開業から、90年余りで、東海道新幹線が開業され、現在では、リニア新線の開業準備が着々となされていて、世界に、鉄道技術を輸出するほどの先進国と、日本がなっているわけです。

 中国で日本語を教えていました時に、NHKの「プロジェクトX 挑戦者たち 執念が生んだ新幹線」のDVDを教材に、授業をしたことがありました。日本が、中国大陸に、満州国を建国し、関東軍を派遣し、日華事変を起こして、侵略を行ない、「大東和共栄圏」を唱えて、アジア政策を遂行した過去への猛烈な反省から、戦後、平和産業の鉄道事業に携わった人物に、十河信二と三木忠直がいます。

 オリンピック東京大会の開催に合わせて、平和産業の雄である、「新幹線」を開業するにあたって、その提案をしたのが、第四代の日本国有鉄道の総裁だった十河(そごう)でした。戦前は、南満州鉄道株式会社の理事になり、その在任中、特急「あじあ号」の運行に直接関わっています。日本国内で実現できなかった、線路の標準軌(日本国内は狭軌の1067mでしたが1435mmの標準軌)を採用した満鉄で、「あじあ号」を走らせたのです。その最高速度130km/hを記録したほどでした。大連と新京間の701kmを、約8時間30分で走り抜いたのです。その速度は画期的でした。

 この「あじあ号」の成功が、戦後の東海道新幹線の開業につながったと言われています。新幹線事業は猛反対の中、十河のくじけない執念で、運輸委員会を動かして実現に至ったのです。その電車の設計に携わったのが、三木忠直(みきただなお)でした。三木は、旧日本空軍の技術士官で、「桜花」と言う戦闘機を設計した、少佐でした。

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 軍人として、やむを得ない軍命に服して、特別攻撃機の設計に携わり、多くの若者を死なせた責を、強く感じつつ。悶々として戦後を生きていました。この新事業が建て上げられた時、三木は請われて「設計」の責任を負ったのです。『飛行機を作っても、船を作っても戦争につながる。でも大地を走る電車なら平和に供することができる!』と思って、新幹線の開業に、後生涯を捧げたのです。

 若い日の父は、満州に渡り、南満州鉄道で働き、日中戦争時には、水晶の掘削の軍需工場で防弾ガラスの生産の一翼を担い、戦後は、国鉄の車輌の部品を製造する仕事に従事したのです。あの十河は、「新幹線の父」と言われたのですが、彼が総裁退任後、参議院選挙に立候補した時、選挙活動に、父が、全国を跳び回って担当していました。

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 もう夢が叶うかどうかは怪しいのですが、アメリカ合衆国に西海岸から東海岸への列車旅行を、家内と二人でしたい思いが、若い頃からあるのです。東海岸にいた義姉は、帰天してしまっていますので、訪ねて泊めてもらうことは無くなってしまいましたし、近頃では、なかなか遠出は難しくなっています。

 もう一つの願いは、まったくの夢ですが、父が乗った「アジア号」で、旅順から奉天、長春に、鉄道の旅をしたみたいのです。中国では、「和諧(hexie/調和の意)」が、総延長が2776Kmで全土を網羅しています現在、「アジア号」の車両が、大連の記念館にあるのだそうです。これまで天津と北京と大連までは行くことができましたが、そのほかの東北部への旅は叶えられずに帰国してしまいました。夢の中ででも、父の足跡をたどってみたい願いが、まだ残っているのです。

(ウイキペディアの南満州鉄道の「あじあ号」、旧新の新幹線の車輌、桜花ニニ型、「アメリカ大陸横断の物語」の列車です)

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母を訪ねて

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 「草原のマルコ(母をたづねて三千里)」の歌を、深沢一夫の作詞、坂田晃一の作曲の「母をたずねて三千里」の主題歌でした。

はるか草原を ひとつかみの雲が
あてもなくさまよい とんでゆく
山もなく谷もなく 何も見えはしない
けれどマルコ おまえはきたんだ
アンデスにつづく この道を

さあ出発だ 今 陽が昇る
希望の光 両手につかみ
ポンチョに夜明けの 風はらませて
かあさんのいる あの空の下
はるかな北を めざせ

小さな胸の中に きざみつけた願い
かあさんの面影 もえてゆく
風のうた草の海 さえぎるものはない
そしてマルコ おまえはきたんだ
かあさんをたずね この道を

さあ出発だ 今 陽が昇る
行く手にうかぶ 朝焼けの道
ふくらむ胸に あこがれだいて
かあさんにあえる 喜びの日を
はるかにおもい えがけ

 この歌で歌われていた番組は、わが家の子どもたちが小さい頃に、フジテレビで放映していたアニメでした。主人公のマルコが、音信不通となったお母さんを訪ねて、三千里の旅を続けて、南米大陸のアンデスに行くのです。子どもたちには、残念なことに、わが家にはテレビがなかったので、友だちの家で観ていたのでしょう。

 イタリアの港町ジェノバに住む少年マルコは、両親と鉄道学校に通う兄とともに暮らしていましたが、生活は日増しに苦しくなっていたのです。とうとうお母さんが、アルゼンチンへと出稼ぎに行くことになってしまいます。寂しさをこらえ見送るマルコだったのですが、やがて母アンナからの便りが途絶えてしまうのです。そんなお母さんを捜しに行きたいというマルコの固い決意に、お父さんも、とうとう、その旅を許し、マルコの長く苦しい旅が始まります。マルコは、明るく元気な性格の少年で、アルゼンチンでの様々な人との出会いや出来事を乗り越え、ついに、アンデスの麓のトゥクマンの街で、母アンナと再会する、そんな物語でした。

 私たち兄弟四人の母のことですが、近所か、親族か、母の誕生の経緯を知っていた方が、『あなたの母親は、今のお母さんではなく、奈良に嫁いでいる!』と知らされたのです。寝耳に水のようなことばに、戸惑った十七歳の母は、出雲の地から、旧国鉄(JR)の汽車に乗って、生母を訪ねる奈良への旅をしています。昭和7年、1934年頃だったと思われます。


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 出雲市、米子、鳥取、豊岡、園部、京都、新田辺、大和西大寺、そして奈良へ、現在のJR鉄路のキロ数で423.6km、ほぼ百里の旅だったことでしょう。私が、小学校一年の時、私たち四人兄弟を引き連れて、東京駅から、鈍行列車で出掛けたので、小さな子連れの汽車の旅は大変な時代でした。

 それは、母の奈良への母を訪ねる旅から、十数年経っていましたが、三十代の母に連れられて蒸気機関車が牽引する汽車の旅は、長く退屈で窮屈な旅の記憶があります。母は、まだ幼い弟や我儘な私を引き連れての旅、難儀だったに違いありません。

 でも、母に会いたい一念の旅を思うと、会える期待、その喜びは大きかったのでしょう。でも、生母に会った時に、歓迎されざる客だったのです。『今の幸せを壊さないど欲しい。帰って!』と言われたのだそうです。本当の母親に会う一途の思いがくじかれてしまい、どんなに辛かったことでしょう。

 産んだ娘を育てる決意を持たずに、自分の幸せと生んだ娘の幸せを、どう天秤棒にかけたのでしょうか。ある藩の菩提寺の家柄に嫁いだ祖母には、祖母の立場も言い訳もあったのかも知れません。涙をこらえて、出雲に傷心の思いで帰る道は、母には辛かったことでしょうね。

 でも、この生母が亡くなった床の枕の下に、どこから手に入れたのか、母が産んだ私たち四人、孫の写真が、置かれてあったのだと、聞いています。その写真を繰り返し出しては眺めて、きっと申し訳ない気持ちを新たにし、孫たちの無事の成長を願っていたのかも知れません。

 私たちの母は、薄幸な娘だったのでしょうか。十四才の時に、イエスさまを救い主と信じ、神を「父」と知って、「真実な父」との出会いは、その母の生涯の支えであったのです。その神と救い主を、母が、私たち息子たちに四人に知らせてくれました。自分が産ん息子たちが、どんな悪さをしたのを聞いても、見ても、決して叱ることはなかったのです。私たちに背中を向けて、向こう側で、聖書を読み、讃美を歌い、祈っていた母がいて、私たち四人の今があるのでしょう。

(ウイキペディアによるトウクマンの地図、奈良の若草山です)
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名のみの春

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 日本海を渡ってくる大陸の風が、越後の山並みを超えて、北関東に運ばれてきて、頬をなぜる風は、まだ冷たく、陽の光と相争うかのように感じられます。それでも三月になりますと、大平山の木々の芽がふくらんできていて、何か山肌がもくもくしてきているようなのです。

 この季節になると思い出すのが、北宋の詩人、蘇軾の「春夜」の詩です。

春宵一刻値千金
花有清香月有陰
歌管楼台声細細
鞦韆院落夜

[読み]春宵一刻(しゅんしょういっこく)値千金(あたいせんきん)
花に清香(せいこう)有り月に陰(かげ)有り
歌管(かかん)楼台(ろうだい)声(こえ)細細(さいさい)
鞦韆(しゅうせん)院落(いんらく)夜(よる)沈沈(ちんちん)

[和訳] 春の宵の一刻は千金に値するほど素晴らしい。花は清らかな香りを放ち、月はおぼろに霞んで見える。歌声や笛の音がにぎやかだった楼台も今は静まり、かすかな声が聞こえるだけで、乗る人もないぶらんこのある中庭に、夜はひっそりと更けていく。

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 「春宵」と言うのは、宵の口のことではなく、深夜なのだそうです。日が沈む頃から、時が経つに従って、「夕」、「暮」、「昏」、「宵」、「夜」と呼び方が変わるのだようです。「一刻」は十五分、その「値」は千金に匹敵するほどだと言うのです。

 庶民には、そんな感じ方はなかったのでしょうけど、蘇軾は、開封(Kāifēng)の街の大きな高級官吏の邸宅に住んでいた、若い頃の満ち足りた環境の中で、更けていく夜を、心地よく感じているのでしょう。

 それにひきかえ、同じ春を感じ、春を詠んだ、旅の途中の恵まれない境遇の唐代の詩人、杜甫の「春望」は、杜甫自身の境遇を読み取ることができます。

国破山河在 城春草木深
感時花濺涙 恨別鳥驚心
烽火連三月 家書抵萬金
白頭掻更短 渾欲不勝簪

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[読み] 国破れて 山河在り (くにやぶれて さんがあり)
城春にして 草木深し (しろはるにして そうもくふかし)
時に感じて 花にも涙を濺ぎ (ときにかんじて はなにもなみだをそそぎ
別れを恨んで 鳥にも心を驚かす (わかれをうらんで とりにもこころをおどろかす)
烽火 三月に連なり (ほうか さんげつにつらなり)
家書 万金に抵る (かしょ ばんきんにあたる)
白頭掻いて 更に短かし (はくとうかいて さらにみじかく)
渾べて簪に 勝えざらんと欲す (すべてしんに たえざらんとほっす)

[和訳] 国都長安は破壊され、ただ山と河ばかりになってしまった。
春が来て城郭の内には草木がぼうぼうと生い茂っている。
この乱れた時代を思うと花を見ても涙が出てくる。
家族と別れた悲しみに、鳥の声を聞いても心が痛む。
戦乱は長期間にわたって続き、家族からの便りは
滅多に届かないため万金に値するほど尊く思える。
白髪頭をかくと心労のため髪が短くなっており、
冠をとめるカンザシが結べないほどだ。

 同じ春を、時代、年齢、場所によって、人の感じ方は違うのでしょう。二十一世紀、まだ平和な日本、北関東は、蝋梅の花の香が漂い始めたそうで、名のみの春ですが、それでも香りや声を聞く身には、好ましい季節の到来です。月末になると、桜が開花し、新入生が入学をし、新人が入社をしていくのでしょう。そんなことが、遥か昔に、自分にもあったのを思い出しております。杜甫ではありませんが、まさに人生は旅であり、旅する私であります。

(図書館への道に昨日咲く梅の花、ウイキペディアによる古き開封、現在の西安の一廓です)

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「世界の平和を願って」

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 卒業をひかえた冬の朝、急ぎ足で学校の門をくぐり、ふと空を見上げた。雲一つない澄み渡った空がそこにあった。家族に見守られ、毎日学校で学べること、友達が待っていてくれることなんて幸せなのだろう。なんて平和なのだろう。青い空を見て、そんなことを心の中でつぶやいた。このように私の意識が大きく変わったのは、中三の五月に修学旅行で広島を訪れてからである。

 原爆ドームを目の前にした私は、突然足が動かなくなった。まるで、七十一年前の八月六日、その日その場に自分がいるように思えた。ドーム型の鉄骨と外壁の一部だけが今も残っている原爆ドーム。写真で見たことはあったが、ここまで悲惨な状態であることに衝撃を受けた。平和記念資料館には、焼け焦げた姿で亡くなっている子供が抱えていたお弁当箱、熱線や放射能による人体への被害、後遺症など様々な展示があった。これが実際に起きたことなのか、と私は目を疑った。平常心で見ることはできなかった。そして、何よりも、原爆が何十万人という人の命を奪ったことに、怒りと悲しみを覚えた。命が助かっても、家族を失い、支えてくれる人も失い、生きていく希望も失い、人々はどのような気持ちで毎日を過ごしていたのだろうか。私には想像もつかなかった。

 最初に七十一年前の八月六日に自分がいるように思えたのは、被害にあった人々の苦しみ、無念さが伝わってきたからに違いない。これは、本当に原爆が落ちた場所を実際に見なければ感じることのできない貴重な体験であった。

 その二週間後、アメリカのオバマ大統領も広島を訪問され、「共に、平和を広め、核兵器のない世界を追求する勇気を持とう」と説いた。オバマ大統領は、自らの手で折った二羽の折り鶴に、その思いを込めて、平和記念資料館にそっと置いていかれたそうだ。私たちも皆で折ってつなげた千羽鶴を手向けた。私たちの千羽鶴の他、この地を訪れた多くの人々が捧げた千羽鶴、世界中から届けられた千羽鶴、沢山の折り鶴を見たときに、皆の思いは一つであることに改めて気づかされた。

 平和記念公園の中で、ずっと燃え続けている「平和の灯」。これには、核兵器が地球上から姿を消す日まで燃やし続けようという願いが込められている。この灯は、平和のシンボルとして様々な行事で採火されている。原爆死没者慰霊碑の前に立ったとき、平和の灯の向こうに原爆ドームが見えた。間近で見た悲惨な原爆ドームとは違って、皆の深い願いや思いがアーチの中に包まれ、原爆ドームが守られているように思われた。「平和とは何か」ということを考える原点がここにあった。

 平和を願わない人はいない。だから、私たちは度々「平和」「平和」と口に出して言う。しかし、世界の平和の実現は容易ではない。今でも世界の各地で紛争に苦しむ人々が大勢いる。では、どうやって平和を実現したらよいのだろうか。

 何気なく見た青い空。しかし、空が青いのは当たり前ではない。毎日不自由なく生活ができること、争いごとなく安心して暮らせることも、当たり前だと思ってはいけない。なぜなら、戦時中の人々は、それが当たり前にできなかったのだから。日常の生活の一つひとつ、他の人からの親切一つひとつに感謝し、他の人を思いやるところから「平和」は始まるのではないだろうか。

 そして、唯一の被爆国に生まれた私たち日本人は、自分の目で見て、感じたことを世界に広く発信していく必要があると思う。「平和」は、人任せにするのではなく、一人ひとりの思いや責任ある行動で築きあげていくものだから。

 「平和」についてさらに考えを深めたいときには、また広島を訪れたい。きっと答えの手掛かりが何か見つかるだろう。そして、いつか、そう遠くない将来に、核兵器のない世の中が実現し、広島の「平和の灯」の灯が消されることを心から祈っている。

  2017年3月         学習院女子中等科 敬宮愛子

(ウイキペディアによる広島の原爆ドームの写真です)

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名をもって呼ばれる神

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 『まことに誠に汝らに告ぐ、羊の檻に門より入らずして、他より越ゆる者は、盜人なり、強盜なり。 門より入る者は、羊の牧者なり。 門守は彼のために開き、羊はその聲をきき、彼は己の羊の名を呼びて牽きいだす。   悉とく其の羊をいだしし時、これに先だちゆく、羊その聲を知るによりて從ふなり。 他の者には從はず、反つて逃ぐ、他の者どもの聲を知らぬ故なり』 (文語訳聖書 ヨハネ伝1015節)』

 『示しがつかなくなることと、尊敬の意味で、自分の牧師には、「さん」ではなく「先生」と呼ぶように、信者に言っています!』と、先生呼称主義でない、「さん主義」の群れで育った私との〈先生呼称〉の問答で、同世代の牧師さんたちが、そう答えが帰ってきました。

 私が学んだ学校も、伝統的に教師をお呼びする時は、” Mr and Mrs “ だったのです。もちろん英語にも、” reverend ” と言う呼称があります。ところがアメリカの教会から派遣された宣教師であり、教師であった方の始めた Mssion School だったので、伝統的にそういう呼称でした。聖書で、教会の主であるイエスさまは、「先生」について、また「父」について、次のようにおっしゃられています。

 『されど汝らはラビの稱を受くな、汝らの師は一人にして、汝等はみな兄弟なり。  地にある者を父と呼ぶな、汝らの父は一人、すなはち天に在す者なり。(文語訳聖書 マタイ伝2389節)」

“But be not ye called Rabbi: for one is your Master, even Christ; and all ye are brethren.And call no man your father upon the earth: for one is your Father, which is in heaven.” KJ version

 この呼称の一件は、そう簡単ではなさそうです。「先生」付きで呼ばれてみると、けっこういい気持ちになるのは事実です。四人の子どもたちの父親への呼称は、抵抗がありませんが、それでも、ある教会では、牧師さんを、「霊の父」、「霊父」であるとしています。これには、やはり聖書的には問題がありそうです。ヘブル書に、次のようにあります。

『汝らを導く者に順ひ之に服せよ。彼らは己が事を神に陳ぶべき者なれば、汝らの靈魂のために目を覺しをるなり。彼らを歎かせず、喜びて斯く爲さしめよ、然らずば汝らに益なかるべし。(1317節)』

 信仰を指導してくださる方への「従順」や「尊敬」や「感謝」を表すことで良いのではないでしょうか。私の親しかった宣教師さんは、信者さんからの「感謝」のことばを受けると、その「感謝」を主にお渡しして、ご自分では受けないような生き方をされていました。主の前に、ご自分は、当然なことをしたに過ぎないと思われたからでしょう。問題というのは、天国では、この二つの呼称はないからです。きっと、名前で呼び合うのでしょう。神さまが、名を呼ばれる方でいらっしゃるからです。

 実際、職業としての教員を、実は女子校で、しばらくの間やったことがあって、初々しい声と表情の女子学生から、「先生」って呼ばれると、何か嬉しい気持ちがして、ウキウキしてきたのです。

 私が就職した最初の職場は、研究所でした。先生と呼ばれた過去を持つ職員と、そうでなかった職員との間に、何かぎこちない関係があったのです。しかもその方の教え子が、同じ職場にいたからです。同世代の課長でも、教員ではなく、調査機関にいた人にとっては、面白くなさそうだったのです。

 先日、ニュースをラジオで聞いていましたら、刑務所の中での呼称に変化があったのだそうです。刑に服している人を、「さん」付けで呼び、刑務官を「先生」から「さん」に変えたのだそうです。入ったことがまだないので、「番号」で呼ばれていたと思っていたのに、今度は「さん」になって、戸惑いがあるのではないかなと心配しています。もっと戸惑っているのは、刑務官で、先生でもないのに「先生」と呼ばれ続けて来ての変化は、ちっと混乱することでしょうか。

 中国には、「先生/ xiansheng 」と言う言い方があります。大人の男性を「先生」、大人の女性女性を「女史/ nvshi 」と言うのです。ですから、ご主人を、奥さんは、『私の夫です!』と言う時に、『我的先生wodexiansheng』と言っていました。まさに、先に生まれたことであって、決してが偉さではないのですが、丁寧な言い方なのかも知れません。職業の先生は「老/ laoshi 」です。

 私たちの社会では、相手をからかう意味で、そう呼ぶこともあるようです。でも多くは、相手をいい気持ちにし、おだての意味で、そう呼んでいます。

 鼻持ちならないのが、先生同士で、相手を呼び合う時に、「先生」と呼び合うことです。また事務の方が、教師を呼ぶ時に、そう言います。世間から離れた世界で、世間知らずのみなさんの世界で、使われているように感じます。でも、この良いところは、名前を忘れてしまった時に、思い出さないで済む呼称で、便利なのでしょう。

 面白い経験が、私にはあります。著名な牧師さんを、特別伝道集会にお招きした時に、男女お二人の伝道師の方が随行して来られ、わが家に、女性伝道者が泊まられたのです。私たちの教会は、先生の呼称のない教会でしたし、宣教師はいましたが、助手はいても伝道者の呼称を、私は持ちませんでした。初め、この伝道師は、「先生」と呼んでいたのですが、私が献身者だと分かってから、「兄弟」と呼び方を変えて、彼女は一段高くなられたのです。学校では先生でしたが、教会では先生でない私は、こう言った変化に、不思議さを覚えたのです。

 でも今、小学3年生のお嬢さんが、私のことを『ジュンさん!』と、お母さんが言うように、同じく呼びかけてくれるのです。名前で呼んでくれるのはいい気持ちで、これって、なんともいえない素敵な関係ではないでしょうか。主なる神さまは、「名をもって呼ばれ神」でいらっしゃいます。

(Christian clip artsから「羊飼い」のイラストです)

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