母を訪ねて

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 「草原のマルコ(母をたづねて三千里)」の歌を、深沢一夫の作詞、坂田晃一の作曲の「母をたずねて三千里」の主題歌でした。

はるか草原を ひとつかみの雲が
あてもなくさまよい とんでゆく
山もなく谷もなく 何も見えはしない
けれどマルコ おまえはきたんだ
アンデスにつづく この道を

さあ出発だ 今 陽が昇る
希望の光 両手につかみ
ポンチョに夜明けの 風はらませて
かあさんのいる あの空の下
はるかな北を めざせ

小さな胸の中に きざみつけた願い
かあさんの面影 もえてゆく
風のうた草の海 さえぎるものはない
そしてマルコ おまえはきたんだ
かあさんをたずね この道を

さあ出発だ 今 陽が昇る
行く手にうかぶ 朝焼けの道
ふくらむ胸に あこがれだいて
かあさんにあえる 喜びの日を
はるかにおもい えがけ

 この歌で歌われていた番組は、わが家の子どもたちが小さい頃に、フジテレビで放映していたアニメでした。主人公のマルコが、音信不通となったお母さんを訪ねて、三千里の旅を続けて、南米大陸のアンデスに行くのです。子どもたちには、残念なことに、わが家にはテレビがなかったので、友だちの家で観ていたのでしょう。

 イタリアの港町ジェノバに住む少年マルコは、両親と鉄道学校に通う兄とともに暮らしていましたが、生活は日増しに苦しくなっていたのです。とうとうお母さんが、アルゼンチンへと出稼ぎに行くことになってしまいます。寂しさをこらえ見送るマルコだったのですが、やがて母アンナからの便りが途絶えてしまうのです。そんなお母さんを捜しに行きたいというマルコの固い決意に、お父さんも、とうとう、その旅を許し、マルコの長く苦しい旅が始まります。マルコは、明るく元気な性格の少年で、アルゼンチンでの様々な人との出会いや出来事を乗り越え、ついに、アンデスの麓のトゥクマンの街で、母アンナと再会する、そんな物語でした。

 私たち兄弟四人の母のことですが、近所か、親族か、母の誕生の経緯を知っていた方が、『あなたの母親は、今のお母さんではなく、奈良に嫁いでいる!』と知らされたのです。寝耳に水のようなことばに、戸惑った十七歳の母は、出雲の地から、旧国鉄(JR)の汽車に乗って、生母を訪ねる奈良への旅をしています。昭和7年、1934年頃だったと思われます。


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 出雲市、米子、鳥取、豊岡、園部、京都、新田辺、大和西大寺、そして奈良へ、現在のJR鉄路のキロ数で423.6km、ほぼ百里の旅だったことでしょう。私が、小学校一年の時、私たち四人兄弟を引き連れて、東京駅から、鈍行列車で出掛けたので、小さな子連れの汽車の旅は大変な時代でした。

 それは、母の奈良への母を訪ねる旅から、十数年経っていましたが、三十代の母に連れられて蒸気機関車が牽引する汽車の旅は、長く退屈で窮屈な旅の記憶があります。母は、まだ幼い弟や我儘な私を引き連れての旅、難儀だったに違いありません。

 でも、母に会いたい一念の旅を思うと、会える期待、その喜びは大きかったのでしょう。でも、生母に会った時に、歓迎されざる客だったのです。『今の幸せを壊さないど欲しい。帰って!』と言われたのだそうです。本当の母親に会う一途の思いがくじかれてしまい、どんなに辛かったことでしょう。

 産んだ娘を育てる決意を持たずに、自分の幸せと生んだ娘の幸せを、どう天秤棒にかけたのでしょうか。ある藩の菩提寺の家柄に嫁いだ祖母には、祖母の立場も言い訳もあったのかも知れません。涙をこらえて、出雲に傷心の思いで帰る道は、母には辛かったことでしょうね。

 でも、この生母が亡くなった床の枕の下に、どこから手に入れたのか、母が産んだ私たち四人、孫の写真が、置かれてあったのだと、聞いています。その写真を繰り返し出しては眺めて、きっと申し訳ない気持ちを新たにし、孫たちの無事の成長を願っていたのかも知れません。

 私たちの母は、薄幸な娘だったのでしょうか。十四才の時に、イエスさまを救い主と信じ、神を「父」と知って、「真実な父」との出会いは、その母の生涯の支えであったのです。その神と救い主を、母が、私たち息子たちに四人に知らせてくれました。自分が産ん息子たちが、どんな悪さをしたのを聞いても、見ても、決して叱ることはなかったのです。私たちに背中を向けて、向こう側で、聖書を読み、讃美を歌い、祈っていた母がいて、私たち四人の今があるのでしょう。

(ウイキペディアによるトウクマンの地図、奈良の若草山です)
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