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「乗り物」と言うよりは、動く物への関心が、幼い子どもたちにはあります。山奥から東京に出て来て、一番興味深かったのは、家の近くに甲州街道があり、その交通量の多さに驚かされたのです。新宿から八王子の大和田橋を渡って市内を抜け、小仏峠の直下のトンネルを抜けて、相模湖、大月、甲府、諏訪を経て、松本と、飯田方面に分岐して行くのです。
その大和田橋まで、日野自動車が作ったトラックが、工場から試運転をして折り返していたのを、兄たちが道端に座り込んで、ベーゴマを磨いていた真横で、眺めていました。まさか自分が、大人になって自動車を運転するなどとは思いもしなかった頃、子どもの自分は、お決まりの車や汽車、進駐軍の立川基地に離着陸して、家の真上を飛んで行く飛行機に、目を丸くして見入っていたのです。
山奥の村にやって来たのは、まだガソリンエンジンの自動車や電動エンジンで動く自動車はなく、戦時下にガソリンを手に入れなかった日本は、戦後は、まだモクモク煙を吐く、木炭エンジンのバスで、それに乗った記憶があります。
車や車輪を回す働きに、強烈な関心がありました。中央本線を走っていた蒸気機関車の蒸気を吐く、シュシュシュの蒸気音と、ポッポーの汽笛が、今でも懐かしく思い出されます。
旧暦の明治5年9月12日(新暦の1872年10月12日)に、新橋と横浜(桜木町)の間に、最初の汽車が走ったのです。鉄道先進国のイギリスの技術に、全面的に習っての開業でした。明治のみなさんは、その「陸蒸気」を、驚異の目で眺めたのでしょう。それから瞬く間に、鉄道網が日本列島を縦横に結んでいくのです。今、新幹線網が張りめぐされることも、だれも想像しなかったことだったのでしょう。
ところが、鉄道開業から、90年余りで、東海道新幹線が開業され、現在では、リニア新線の開業準備が着々となされていて、世界に、鉄道技術を輸出するほどの先進国と、日本がなっているわけです。
中国で日本語を教えていました時に、NHKの「プロジェクトX 挑戦者たち 執念が生んだ新幹線」のDVDを教材に、授業をしたことがありました。日本が、中国大陸に、満州国を建国し、関東軍を派遣し、日華事変を起こして、侵略を行ない、「大東和共栄圏」を唱えて、アジア政策を遂行した過去への猛烈な反省から、戦後、平和産業の鉄道事業に携わった人物に、十河信二と三木忠直がいます。
オリンピック東京大会の開催に合わせて、平和産業の雄である、「新幹線」を開業するにあたって、その提案をしたのが、第四代の日本国有鉄道の総裁だった十河(そごう)でした。戦前は、南満州鉄道株式会社の理事になり、その在任中、特急「あじあ号」の運行に直接関わっています。日本国内で実現できなかった、線路の標準軌(日本国内は狭軌の1067mでしたが1435mmの標準軌)を採用した満鉄で、「あじあ号」を走らせたのです。その最高速度130km/hを記録したほどでした。大連と新京間の701kmを、約8時間30分で走り抜いたのです。その速度は画期的でした。
この「あじあ号」の成功が、戦後の東海道新幹線の開業につながったと言われています。新幹線事業は猛反対の中、十河のくじけない執念で、運輸委員会を動かして実現に至ったのです。その電車の設計に携わったのが、三木忠直(みきただなお)でした。三木は、旧日本空軍の技術士官で、「桜花」と言う戦闘機を設計した、少佐でした。
軍人として、やむを得ない軍命に服して、特別攻撃機の設計に携わり、多くの若者を死なせた責を、強く感じつつ。悶々として戦後を生きていました。この新事業が建て上げられた時、三木は請われて「設計」の責任を負ったのです。『飛行機を作っても、船を作っても戦争につながる。でも大地を走る電車なら平和に供することができる!』と思って、新幹線の開業に、後生涯を捧げたのです。
若い日の父は、満州に渡り、南満州鉄道で働き、日中戦争時には、水晶の掘削の軍需工場で防弾ガラスの生産の一翼を担い、戦後は、国鉄の車輌の部品を製造する仕事に従事したのです。あの十河は、「新幹線の父」と言われたのですが、彼が総裁退任後、参議院選挙に立候補した時、選挙活動に、父が、全国を跳び回って担当していました。
もう夢が叶うかどうかは怪しいのですが、アメリカ合衆国に西海岸から東海岸への列車旅行を、家内と二人でしたい思いが、若い頃からあるのです。東海岸にいた義姉は、帰天してしまっていますので、訪ねて泊めてもらうことは無くなってしまいましたし、近頃では、なかなか遠出は難しくなっています。
もう一つの願いは、まったくの夢ですが、父が乗った「アジア号」で、旅順から奉天、長春に、鉄道の旅をしたみたいのです。中国では、「和諧(hexie/調和の意)」が、総延長が2776Kmで全土を網羅しています現在、「アジア号」の車両が、大連の記念館にあるのだそうです。これまで天津と北京と大連までは行くことができましたが、そのほかの東北部への旅は叶えられずに帰国してしまいました。夢の中ででも、父の足跡をたどってみたい願いが、まだ残っているのです。
(ウイキペディアの南満州鉄道の「あじあ号」、旧新の新幹線の車輌、桜花ニニ型、「アメリカ大陸横断の物語」の列車です)
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