テムジンの友塾

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 「Баяртайバヤルタイ」、『さようなら!』とか『また会いたいです!』と言った、モンゴル語の別れの挨拶のことです。そんな番組が、YouTube にあります。

 以前住んでいました街で、隣家のおじさんが、自慢話(?)を話して聞かせてくれたことがありました。戦時中に満州に遣わされ、終戦間際に、ソ連軍が宣戦布告して攻め入ったのです。物量の乏しい日本軍は、負けて、シベリヤに抑留され、強制労働を課せられます。12000人もいました。少ない食料配給で足りず、食べることに必死だったのだそうです。ソ連軍の手伝いをして、余計食べれたとの自慢でした。いいのかな?

 中京テレビの報道部に、モンゴル人のスタッフがおいでで、お名前がホンゴルズルさんと言います。この方が作られた番組があります。終戦で、シベリヤに抑留された他に、モンゴルにも強制連行されて、抑留した方と、彼女が出会います。その出会いから、ドキュメンタリー番組を制作されるのです。その方が、神戸在住の友引正雄さんでした。その足跡を追い、動画になっていて、それを観た次女が、YouTubeの動画を送信してくれたのです。

 友引さんは二十歳の時に、連行の途中に、極寒のモンゴルで凍傷となり、両足の膝下を、局所麻酔だけで、切断するという経験をされています。友引さんの抑留者仲間は、ウランバートルの市役所や図書館や証券取引所などの公共施設、30以上の建物の建設のために駆り出されて、粗末な食事で、過酷な労働を強いられ、それに従事したのです。

 2019年に、最後の墓参の訪問団が結成され、94歳の友弘さんら4人に、中京テレビのホンゴルズルさんも同行したのです。その建設した建物の一つがモンゴル国立大学で、そこで学ばれたのが、このホンゴルズルさんでした。日本兵が抑留されて、ウランバートルにいたことも、彼らが強制労働で、学んだ学舎を建てたことなどつゆ知らずでいたそうです。

 その時、抑留の事実を調べるために、公文書管理庁を訪ねています。皮革工場などで働いていた様子や、建設工事を撮影した写真や動画のフィルムも保管されていたのです。16000人の抑留者がいて、その13%が、現地で亡くなっておいでです。

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 この友引さんは、『お母ちゃんに会いてえなあ!』と願って窮状を乗り越えて、祖国に帰ろうと願ったのです。二年後に帰国が許され、復員後は、入隊前に、旧国鉄に勤務されていたので、その職場に復職されたのだそうです。抑留経験者や家族や遺族で、「モンゴル会」を建て上げて、これまで四十回も、亡くなった戦友の墓参のためにモンゴルを訪ねて来たのです。『生き残って申し訳ない思いでです。』と友引さんは言っています。誰かの犠牲があって生き残り、日本に帰国できたことに、「ありがとう」の気持ちで、帰国後を生きてきたそうです。

 日本とモンゴルの国交が回復したのは、1972年でした。友弘さんは、1975年に墓参のために戦後初めて訪問しています。28年振りだったそうです。強制労働、両足の切断、2年の抑留生活にあったモンゴルとの関わり方に、戦後の時間の中で、変化があったのだそうです。

 ベルリンの壁が、198911月に崩壊したことから、共産圏諸国が次々に崩壊していきました。1988年から1991年にかけて、内部からソ連の体制が崩壊し、それに伴って、隣国のモンゴルも、国家体制が雪崩のように崩壊してしまいます。その結果、ソ連からの経済援助が絶たれ、経済的に破綻し、大きな問題を抱えていました。そこに、捨てられたり、家出したりした子どもたちは住む家がなくて、酷寒マイナス30℃の下、温水を送るパイプのマンホールに暖を求めて住み始めて、「マンホール・チルドレン」と呼ばれるようになります。

 NHKが、混乱と貧困のモンゴルの様子を、取り上げて番組が制作されました。「高層ビルが立ち並び、急激な経済成長を遂げるモンゴル・ウランバートル。その片隅で、貧困から這い上がろうともがき続ける2人の男がいる。ボルト33歳、ダシャ34歳。彼らは親友。20年前の1998年、ウランバートルには、親に見捨てられ、マンホールから地下にもぐって寒さをしのぎながら生きる「マンホールチルドレン」があふれていた。ボルト(当時13)とダシャ(当時14)もそこにいた。互いに助け合いながら懸命に生きていた。(番組のサイトから)」

 友引さんたちは、捨てられたり家を出た子どもたち、マンホールチルドレンの助けになるために、1997年に、ウランバートルに「テムジンの友塾(Тэмүжин)」を開設し、20年の間、運営してこられたのです。「テムジン」は、チンギス・ハーン(成吉思汗/ジンギス・カン))の本名です。その子どもたちに、衣食住を提供し、教育を施してきたそうです。元捕虜仲間で、軍医だった春日さんが園長を勤めてこられました。

 その最後の訪問の時に、卒園児が訪ねてきていました。今は結婚されお母さんになっている、ハグバスレンさんです。お二人の再会は感動的でした。そう言った日本人の生き方は、誇りに思えてなりません。加害者としての過去を償う意味でも、子どもたちを支え、励ましてきたことは、素晴らしいことでした。

(モンゴル国花の「セイヨウマツムシソウ」、「草原」です)

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