青春

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青春

サムエル・ウルマン

青春とは人生の或る期間を言うのではなく心の様相を言うのだ
優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、怯懦(きょうだ)を却ける勇猛心、安易を振り捨てる冒険心、こう言う様相を青春と言うのだ
年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる
歳月は皮膚のしわを増すが情熱を失う時に精神はしぼむ
苦悶や、狐疑、不安、恐怖、失望、こう言うものこそ恰も長年月の如く人を老いさせ、精気ある魂をも芥に帰せしめてしまう
年は七十であろうと十六であろうと、その胸中に抱き得るものは何か曰く「驚異えの愛慕心」空にひらめく星晨、その輝きにも似たる事物や思想の対する欽迎、事に處する剛毅な挑戦、小児の如く求めて止まぬ探求心、人生への歓喜と興味。
人は信念と共に若く 疑惑と共に老ゆる
人は自信と共に若く 恐怖と共に老ゆる
希望ある限り若く 失望と共に老い朽ちる
大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大そして
偉力と霊感を受ける限り、人の若さは失われない
これらの霊感が絶え、悲歎の白雪が人の心の奥までも蔽いつくし、皮肉の厚氷がこれを固くとざすに至ればこの時にこそ
人は全くに老いて神の憐れみを乞う他はなくなる

[岡田義夫氏(1891-1968)訳]

“YOUTH”

Youth is not a time of life -it is a state of mind ; it is a temper of the will, a quality of a imagination, a vigor of the emotions, a predominance of courage over timidity, of the appetite for adventure over love of ease.

Nobody grows old only by deserting their ideals. Years wrinkle the skin, but to give up enthusiasm wrinkles the soul

Worry, doubt, self-distrust, fear, and despair ― there are the long, long, years that bow the head and turn the growing spirit back to dust.

Whether seventy or sixteen, there is in every being’s heart the love of wonder, the sweet amazement at the stars and the starlike things and thoughts, the undouted challenge of events, the unfailing childlike appetite for what next, and the joy and the game of life.

You are as young as your faith, as old as your doubt; as young as your self-confidence, as old as your fear, as young as your hope, as old as your despair.

So long as your heart receives messages of beauty, cheer, courage, grandeur, and power from the earth, from man and from the Infinit, so long you are young.

When the writer are all down and all the central place of your heart is covered with the snows of pessimism and the ice of cyncism, then you are grown old indeed and may God have mercy on your soul.

( “ 友人の写真集 ” から)
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あさがお

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秋の朝を迎えて、朝顔も秋桜も、その陽を受けて輝いています。きっと新しい期待と新しい命とを喜んでいるのでしょう。盛りの頃に比べて、朝顔の咲く数は少なくなりましたが、それでも今朝は11輪もが、グロリーの花弁で、ほめたたえている様です。好い一週をお過ごしください。
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戦後史の中で、驚いたことは、「あさま山荘事件」でした。『ここまでやるか!』、人としての限界を超えて、思想や主義主張のために、人が、これほど残忍になれるのかと思い、同世代の暴挙に驚いたのです。集団の持っている怖さは、ドイツのナチスのしたことで、人は学んだのですが,〈集団心理〉が煽られると、良心とか平常心が麻痺するのか、消えてしまうのか、悲惨な結果を残します。

これは、1972年2月19日から2月20日にわたって、軽井沢にあった、河合楽器の保養所であった「あさま山荘」に、反政府集団の過激派、「連合赤軍」が、人質をとって立てこもり、警視庁機動隊と長野県警と起こした事件でした。5人の犯人が手にしていた銃は、ここ栃木県真岡市の銃砲店から強奪されたものでした。

この様な犯罪者集団は、一致することなく、内部から崩壊して行くのが常です。権力闘争とリンチや粛清が繰り返され、疑心暗鬼に陥るので、社会の変革や革命以前に、内側から壊れ、崩れて行くのです。寝布団の中から、『洟(はな)をかむティッシュを取ってくれ!』と言った仲間を、〈資本主義的行為〉と言って殺してしまったと言う話を聞いたことがあります。それ以来、私は、人にものを頼むのに、気を使う様になりました。

60年安保闘争、70年安保闘争の中で、学生運動が過激化し、主導権争いをして、結局、このあさま山荘事件の後には、この種の革命運動は弱体化し、沈静化てしまいました。いまだに実行犯は指名手配中なのです。

1970年の2月だったでしょうか、ある学校から招聘されて、教師に採用されることになり、卒業証明書と成績証明書が必要になったのです。それで卒業した学校の学事課に行ったことがありました。都電通りから入った正門が、バラ線で巻かれていて、30センチほど空いていた正門をくぐった時、とても悲しい思いをしたのを覚えています。自分の麗しい過去が、トゲトゲの鉄条網で縛り付けられた様に感じたからです。

穏健な雰囲気を校風にした母校も、学生運動の火の粉を被って、殺伐とされていたのです。何も生み出さない暴力によっては、解決はきません。たとえ暴力で、彼らの目的が達成されても、やがて、〈時〉が来ると、同じ暴力で打ち壊されるのが常なのです。心の中に平和がない限り、平和は向こうからはやって来ません。

(浅間山です)
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乾いたパン

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戦後史の中で、驚いたことの一つは、「ベルリンの壁の崩壊」でした。〈寝耳に水〉と言うほどの出来事だったのです。欧州戦争が終わったあと、ドイツは、1949年5月に東西に分割され、ベルリンも西と東に分けられ、ソヴィエトとアメリカとの統治が始まりました。一国が分断されると言うことは悲劇でした。同じ様に、朝鮮戦争も38度線を境に、南北に分断され、ソヴィエトとアメリカの二大勢力の支配下に置かれたのです。

中国も中華人民共和国と中華民国とに分断され、日本も南北分断の危機があったのですが、それを免れたわけです。そう言った戦後史の中、突然(もちろんそこに至る予兆や前触れはあったのですが)、1989年11月9日に、ベルリンの壁が崩壊したと言うニュースを聞いて、驚かされたのです。

壁によじ登った市民たちの手にあるツルハシが、壁をうち砕いている映像が、テレビに映し出されたのです。これを契機に、東ヨーロッパ諸国が共産党支配から、連鎖反応の様にして抜け出して行ったのです。ルーマニヤのチャウセスク独裁政権が終わって、この夫婦の死体が、テレビで放映されていたのには、驚かされたてしまいました。
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歴史の出来事には、《定められた時》があるかの様です。その《時》が来ると、怒涛の様な渦の中で大きな変革がもたらされるのです。現在も、国際紛争が、あちらこちらにあります。民族と民族の戦いも、一向に止みません。〈いけない〉と分かりながらも、振り上げた手を下ろそうとしない、積年の遺恨が双方にあって、蒸し返してきています。

《世界平和》が、絵に描いた餅の様に、空虚な叫び声が、上がっては消えて行くのです。一番の懸念は、〈愛の冷却現象〉です。夫婦、親子、親族近親、友人関係が、利害関係の損得が大きな部分を占めて、犠牲とか我慢とかが消えてしまっています。憎悪や遺恨が心を一杯にさせ、愛が冷えてしまっているのです。そう言った人たちが、街にも国にも溢れています。

本来の愛は、大水をもってでも消せないはずなのに、冷却から抹消、暴力や殺人になってしまっています。動物は生きるために狩りをしますが、それ以上には至りません。「殺してはならない」と言う不文律を犯して、それが人類に入り込んだ日から、どれほどの血が流されてきているでしょうか。禁止の一線を超えてしまってから、土地は人の地を吸って、血が叫び続けています。

安心して帰って行ける家庭の回復を、子どもにも、大人にも、その必要が迫られています。私の愛読書に、

「一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。」

とあります。一切れの乾いたパンを分け合って食べる家族関係の回復です。お腹が満腹にならなくても、心が、《思いやり》や《同情》や《優しさ》で溢れていた方が、人は幸せなのです。これは《原理》です。家も地域も街も国家も、肥え太って憎しむよりも、大切なものがあるからです。

霜降りの牛肉を、お腹いっぱい食べるよりも、優ったことに目を向けて行くなら、「平和」は来ます。必ず来ます。一人、一軒、一国でいいから、そこから始めたらいいのです。そして《今》始めたらいいのです。冷却や憎悪の壁を、ツルハシで砕くのです。

雨蛙

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ハイビスカスの花びらと鉢の淵に、雨蛙がのっていて、居心地が好さそうです。どこを住処にしているのか、朝になると、もしかすると夜通し、花のそばにいるのでしょうか。何を食べているのかも、ちょっと気になります。

百日草の花をアップして撮ってみました。実に忠実に咲き続けています。もう咲き始めてから、100日になるでしょうか。朝顔は、「花の命は短くて」の晩期を迎えています。好く咲き継いでくれました。
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筍には、「孟宗竹(もうそうだけ)」とか「淡竹(はちく)」とか「真竹(まだけ)」とかの種類があります。春先に、八百屋の店頭に並んで、私たち日本人が食用にしてきたのは、「孟宗竹」です。春の味覚でしょうか、八百屋さんから買って帰って、米のとぎ汁で茹でると、えぐみが取れて、薄醤油で鰹節の出汁で、母がよく煮てくれました。

「淡竹」というのは、真竹が出回ってから、しばらくして採れる筍です。中国の華南は、竹林が、そこかしこにあって、春先になると、芽を出す筍を、私たち日本人と同じように食用にします。珍しいのは、「干笋gunsun /乾燥筍」です。前の家の大家さんは、私たちの街から4時間ほどの地方の出身で、毎年、ふるさとから送ってくるそうで、調理がなかなか難しいのですが、その干笋を毎年頂くのでした。

竹とか筍と言えば、「破竹の勢い」と言う言葉があります。その意味を、“ 大辞林 ” には、『〔北史 周高祖紀〕竹は一節を割ればあとは一直線に割れることから、物事の勢いが激しく、とどめることができないさまをいう。 「 -で勝ち進む」』とあります。

また『若竹の様にのびのびと育つ!』と、ずんずん背が伸び、心が広げられる様子を表現したりします。病院の待合室で座って待っていると、診療科にもよりますが、〈内科〉での一番多い年齢層は、私たちと同世代の年配者です。罹病率が年齢とともに高くなるからでしょうか。そこで〈人間観察〉をしていると、50、60、70年も前には、『この方は、「若竹」の様にしなやかで、「破竹の勢い」の年月があったのだろう!』と思ってしまうのです。

かく言う私も、青年期には、10キロを走っても、なんでもない顔をしていたのに、今では、バスに乗ろうとして、5mも走るると、ゼイゼイしてしまっています。『青年老い易く!』、まさにその如くの今です。

長持ちするフィラメントを作るため、さまざまな素材をためしていたエジソンの元に、ある時、中国土産の「扇子」が届きました。竹製だったのです。閃いたエジソンが、その竹で、「フィラメント」を作りました。すると、200時間も光り続ける白熱電球ができあがったのです。
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色々な竹を手に入れては、実験を重ねて、ついに、日本の京都の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)に生えていた「八幡竹」を手に入れてフィラメントを作ると、1200時間もの間、灯り続けたのです。そのフィラメントによって、白熱電球が実用化されます。

破竹の勢いにはほど遠く、弛みない努力と実験の結果、エジソンは、夜の暗闇を明るくする白熱電球を発明したのです。今では、LEDの電球が発明されて、驚くほどの寿命を持ったものが誕生しています。

また、気っ風の良さをいうのでしょうか、「竹を割ったよう(竹が真っ直ぐに割れることから)」なと言います。気性がまっすぐなこと。素直で、悪いことのできない性格のたとえ。「唐竹を割った様な」とも言う様です。そんな気っ風は、節(ふし)だらけの自分の憧れでもあったのですが。

(京都の「八幡竹」の竹林、エジソンの竹の炭素電球です)
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コラボ

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雷雨の日が続いたのですが、抜ける様な秋の様な空を、今朝は見せています。その陽を浴びて、ハイビスカスの真紅と朝顔の淡い桃色がコラボしています。今朝の気温は23℃、湿度が感じられずに爽やかです。美味しい葡萄や豊水の梨、つがるのリンゴ、オーストラリアのオレンジ、お土産で冷蔵庫は溢れています。薩摩芋や里芋やミョウガやアスパラガスやトマトやキュウリ、まさに《味覚の秋》《食欲の秋》です。

もう少し、文化的でなくてはなりませんので、《読書に秋》や《名画鑑賞の秋》や《名曲に耳を傾ける秋》だと、もっと秋っぽく感じることでしょう。そう《行楽の秋》もいいですね。こんな歌が聞こえてきそうです。

1 だれかさんが だれかさんが
  だれかさんがみつけた
  ちいさい秋 ちいさい秋
  ちいさい秋みつけた
  目かくしおにさん 手のなるほうへ
  すましたお耳に かすかにしみた
  呼んでる口笛 もずの声
  ちいさい秋 ちいさい秋
  ちいさい秋みつけた

2 だれかさんが だれかさんが
  だれかさんがみつけた
  ちいさい秋 ちいさい秋
  ちいさい秋みつけた
  お部屋は北向き 曇りのガラス
  うつろな目の色 溶かしたミルク
  わずかなすきから 秋の風
  ちいさい秋 ちいさい秋
  ちいさい秋みつけた

3 だれかさんが だれかさんが
  だれかさんがみつけた
  ちいさい秋 ちいさい秋
  ちいさい秋みつけた
  むかしのむかしの 風見の鶏 (とり) の
  ぼやけたとさかに はぜの葉ひとつ
  はぜの葉赤くて 入り日色
  ちいさい秋 ちいさい秋
  ちいさい秋みつけた

「ちいさい秋」も大きな秋も、もう始まっているのでしょうか。北の方に鎮座する「男体山」にも、一度登ってみたいものです。そう《スポーツの秋》でもあります。
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らいさま

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ここ栃木県では、雷を「雷様(らいさま)」と呼ぶのだそうです。気象庁宇都宮気象台のホームページに、次のような記事があります。

「栃木県は日本でも有数の雷の多い県です。北部が1000~2000m級の山岳部となっており、南東方向に山の斜面が開いているため、日射を強く受けます。さらに夏季は南よりの風が吹きやすいため、強い上昇気流がおこり雷が発生します。宇都宮の年間の雷日数は24.8日で、関東地方では一番多くなっています。暖候期(4月~9月)に限ってみると、宇都宮の雷日数の平年値は22.6日で、全国で一番多くなっています。」

栃木県民、栃木市民になって5ヶ月、そういえば、春頃から、雷が多いのです。「雷都」とか「雷の銀座通り」と言われる所以が分かるほどです。私は、光、音、雨をもたらす、「地震」の次に〈怖いものリスト」のに挙げられる《雷》が好きなので、『よかったなー!』と思っているところです。

今年の夏は、華南の街で過ごしませんでしたので、大陸の大空に轟き渡る〈雷鳴〉、東西南北に矢のように走る〈雷光〉、車軸を流すような〈雷雨〉を、ここでは経験しませんでしたが、とりわけ昨晩の雷は、華南の街のものを彷彿とさせるほどでした。子守唄のように雷鳴を聞き、窓に映る雷光を影絵のように見ながら、眠ってしまいました。

雷で思い出す人が二人います。一人は、教え子の中に、「雷Lei」と言う姓の教え子がいました。少数民族なのだそうで、時々居眠りを授業中にしてたのです。もう一人は、ベンジャミン・フランクリンです。雷の中に、タコをげて、雷を化学的に解明し、研究したのだと、小学校の時に教えられました。

俳句の世界では、「春の季語」で、よく詠まれている様です。次の雷は何時か、待ちの望むほどの私です。そこで一句、

安達太良の雷火に幾度通ひけむ 前田普羅 

春の到来、夏の終わりを告げる雷、冬に立って響き渡る《潔さ》が、なんともいえず好きなのです。
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アリラン

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大韓民国の大統領を、第五代から第九代までを務めた朴正煕大統領は、ご自分の半生、とくに日本との関わりを、次のように述べていました。

『日本の朝鮮統治はそう悪かったと思わない。自分は非常に貧しい農村の子供で学校にも行けなかったのに、日本人が来て義務教育を受けさせない親は罰すると命 令したので、親は仕方なしに大事な労働力だった自分を学校に行かせてくれた。すると成績がよかったので、日本人の先生が師範学校に行けと勧めてくれた。さ らに軍官学校を経て東京の陸軍士官学校に進学し、首席で卒業することができた。卒業式では日本人を含めた卒業生を代表して答辞を読んだ。日本の教育は割り と公平だったと思うし、日本のやった政治も私は感情的に非難するつもりもない、むしろ私は評価している。 』

これほど、親日の思いを込めた子供時代や青年期の過去を語る人が、以前はいたのです。1974年の8月、友人と私はソウルにいました。ちょうど、長い日本統治から解放されたことを祝う「光復節」が、国立劇場で開催されていた時でした。私は漢江の河川敷にあった、ヨイド広場で、その時期に行われていた「世界大会」に参加していました。光復節とは無関係なものだったのです。

その光復節の式典が行われていた最中、その朴大統領が、狙撃され、奥様が亡くなられるという事件が起こったのです。犯人が、日本人ということで、友人と私は宿舎のホテル(ユースホステルでした)から、危険だということで外出禁止になりました。犯人は日本人ではなく、北朝鮮から送られた工作員でした。

そんな突然の出来事のあった真夏を、朝鮮半島で過ごしたのです。バスに乗車した時に、一人の青年が、日本人だと分かって、『あなたのバス代を払わせて下さいますか?』と英語で語りかけてこられたのです。一旦はお断りしたのですが、重ねて言われたので、そのご好意を受けることにしました。それで、すっかり私は朝鮮民族に好感を持ったのです。朝鮮民族の最も有名な歌に「アリラン」があります。

アリラン アリラン アラリよ
アリラン峠を越えて行く
私を捨てて行かれる方は、
十里も行けずに足が痛む。

アリラン アリラン アラリよ
アリラン峠を越えて行く
青い空には小さな星も多く、
我々の胸には夢も多い。

アリラン アリラン アラリよ
アリラン峠を越えて行く
あそこのあの山が白頭山なんだね
冬至師走でも花ばかり咲く

学校の同級生にも、私の所属した街中の倶楽部にも、在日コリアンの方がおいでで、とても素晴らしい方たちでした。私の事務所に出入りしていた方の中にも、日本に働きに来ておられる方がいて、〈キムチ〉の作り方まで教えていただいたことがあったのです。文化的にも心情的にも、日韓は最も深いつながりがあります。良き関係の回復を切望する残暑の昼前です。

(白頭山に全景です)
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日韓中の今昔

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これは日本の東京の様子を写した写真です。上は100年ほど前の浅草、下は今の新宿の様子です。
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これは、大韓民国のソウルの南大門、上は日本統治前後の物、下は現在の様子です。
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これは、中国の北京の今昔の写真です。下は、「王府井」と言う、北京の中心の繁華街です。
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