今週末

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山里から越してきて、落ち着いて住み始めたのが、中央線の日野駅を降りた、旧甲州街道沿いの家でした。その家の茶の間の一本の柱に、毎年、四人の背丈が刻まれていました。上の兄が、本とか箱を使って、三人の弟たちを測ってくれたのです。

海野厚が作詞をし、中山晋平が作曲をした「背くらべ」を歌うたび、そんなことを思い出します。

1 柱のきずは おととしの
五月五日の 背くらべ
粽(ちまき)たべたべ 兄さんが
はかってくれた 背のたけ
きのうくらべりゃ なんのこと
やっと羽織(はおり)の ひものたけ

2 柱にもたれりゃ すぐ見える
遠いお山も 背くらべ
雲の上まで 顔だして
てんでに背のび していても
雪の帽子(ぼうし)を ぬいでさえ
一はやっぱり 富士の山

その背丈を刻んだ柱を、記念に残そうと思ったのですが忘れてしまったのです。実は、この家が、「中央高速自動車道」のために立ち退かなければならなくなったのです。父に頼まれて、その家を解体したのが私でした。弟の同級生たちが手伝ってくれて、彼らの昼飯や夕飯、飲み物やおやつで、父からもらったお金は消えてしまったのです。で、その柱も焼却してしまいました。

父も母も、鯉幟をあげたり、武者人形を飾ったりして、「端午の節句(こどもの日)」の行事で祝ってくれませんでしたが、小綺麗に着せてくれ、栄養を考えて食事を作って食べさせてくれ、懸命に育ててくれました。日本では「異端」の家庭だったかも知れません。初詣とか、墓参りとか、盂蘭盆会だとかしませんでしたから。

どうして、月遅れのことを記事にしたのかと言いますと、今日、車で家まで送ってくれたご家族のお父さんが、『日本では、いくつまで子供の祝いをするんですか?』と聞いてこられたのです。こちらは、今週末から三連休の「端午節」だからです。児童福祉法とか学校教育法とか少年法などの「児童」、「少年」とかの年齢を、はっきり覚えていないので、適当に答えてしまったのです。

『端午節から、天気が安定してきますよ!』と、隣町出身のお母さんが教えてくれました。気候不順も解消するようで、よかった!

(写真は、”ウイキメディア”から、「端午の節句」に入る「菖蒲湯」です)

『君はどこにいる?』

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次の記事は、「感知中国」/2006年」に載っていた、「聶栄臻(NieRongzhen)元帥と日本人少女 美穂子ちゃん」の記事の転載です。
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1980年7月14日、北京人民大会堂で美穂子さんは聶栄臻元帥の手をしっかりと握り締め、涙を流した。40年間生き別れになっていた「父親」に会えたのだ。聶栄臻元帥も彼女の手を掴んで離そうとはしなかった。

1940年8月21日、戦闘を指揮していた聶栄臻将軍は、指揮下にあった部隊が戦火の中から両親を失った日本人の女の子を救出したという報告を受け、司令部にその子たちを連れて来るように指示した。聶栄臻将軍が、二人のうち年かさの女の子に優しく名前を尋ねると、女の子は「興子」と答えた。この年かさの女の子が美穂子さんである(後に美穂子に改名)。彼女の脅えた様子を見て、聶栄臻将軍は梨を取り出し、「このナシはちゃんと洗ってあるから、食べなさい」と、親しみを込めて言った。

「興子」ちゃんはやさしく接してくれる聶栄臻将軍に安心して近づき、ナシを受け取って食べた。聶栄臻将軍は、「敵は無数の同胞を残忍にも殺害したが、この二人の子供に罪はない。この子達も戦争の被害者だ。私たちはこの子達を保護しなくてはならない」と言い、二人を部隊で保護することを決める。聶栄臻将軍は、部隊を指揮しながら、自らの手で「興子」ちゃんに食事を与えていた。女の子も聶栄臻将軍を慕うようになり、将軍のズボンの端を握り締め、どこに行くにも影のように付いて行くようになった。敵味方を超えた愛情を注いだ聶栄臻将軍は、女の子の安全を考え、後に二人を日本の兵営に送り届けている。しかし、二人と別れた後も、聶栄臻将軍の脳裏からはあの小さな女の子のことが消え去ることはなかったという。

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1980年、『人民日報』は『日本の女の子、君はどこにいる?』という記事を掲載し、日本の『読売新聞』がこれを転載した。「40年も経って、命の恩人が見つかるなんて、感激して泣いてしまいました」。美穂子さんは、当時の写真を持った『読売新聞』の記者が訪ねて来た日の驚きと感動をこのように語った。この時、美穂子さんは都城市に家を構え、夫と3人の娘たちと幸福に暮らしていた。

北京で再会した時、聶栄臻元帥は美穂子さんに松竹梅の『歳寒三友図』を贈り、「寒い冬、百花が落ちても、松、竹、梅だけは生気を保っていられる。中日友好も松竹梅のようであってほしいと思う」と言った。美穂子さんは帰国すると、絵の大きさに合わせて自宅の玄関を改築し、この貴重な絵を飾った。

1986年、美穂子さんは夫とともに中国を再訪し、聶栄臻元帥を訪ねた。「父は私たちに日中友好事業のために力を尽くすことを望み、私が今住んでいる都城市と、自分の故郷の江津市が友好都市になることを願っていました」。美穂子さんは、聶栄臻元帥の遺志を実現しようと心に決めた。その後、聶栄臻元帥の生誕100周年に当る1999年、中国の江津市と日本の都城市は友好都市の関係を結んだ。両市の友好都市提携を積極的に働きかけた美穂子さんは、「ようやく父の遺志を実現することができました」と、感慨深げに語った。

(写真上は、聶将軍と美穂子さん、下は、戦時中の将軍と幼い美穂子さんです)