子育てをした街は、実に自然に恵まれた、いわゆる「自然の要塞」のようなところでした。夏の暑さと冬の寒さは、『暑いってこう言うことなのか!』、『寒いというのは温度の低さというよりは、山おろしの風とか底冷えを伴なうものなのか!』ということで納得させられたほど、はっきりと感じさせられたのです。春は春で溢れ、木も花も赤や緑や黄が色鮮やかで、目を楽しませるてくれました。秋は秋で満ち溢れていました。暮れなずむ頃には秋刀魚の煙がたなびき、とくに葡萄や柿が美味しかったのです。
台風が来ても、迂回してしまうのです。大雨が降っても、たびたび大きな被害をこうむったことから、防災の知恵に富んで、対策が講じられていましたので、河川が決壊するようなことはありませんでした。先人の知恵と努力の賜物に違いありません。人は保守的で、社会的には閉鎖性が強かったでしょうか、なかなか<よそ者>は受け入れてもらえなかったのです。でもいったん心が通い合うと、強い絆が生まれました。外部との交流が自然要塞で遮断されていたからでしょうか。
そこは私の生まれ故郷でもありました。今でも、自分で気づくほど、幼い日に覚えた方言の影響が、話し言葉に、ほんの少し残っているのです。運動会の競走は、『とべ!とべ!』と声がかかります。<跳ぶ>のですが、『走れ!』を<飛べ>と勘違いしてしまうようです。今住んでいるこの町の人々も、近隣の町や村から、仕事や結婚で移り住んでいる人が多いようです。携帯電話をとって話し始めると、<普通話>が、瞬間的に<ふるさと言葉>にシフトされてしまいます。話し相手が同郷人だからです。そうなると、100%分からないのです。この街にも特有の<方言>があります。
他郷の人に聞かれたくない話は、そうすることができるのです。『考えている時は方言ですか?それとも標準語ですか?』と、親しい方に聞きましたら、『十年近く留学して、日本から帰って来た当初は、日本語で考えていたんですよ!』と言っていました。でも一般的には、個人的な事は<ふるさと言葉>で、仕事のことなど公のことは<普通話>のようです。この方は英語も話せますから、言語環境は多様なわけです。私の父も母も、それぞれ<ふるさと言葉>を持っていたので、晩年は、生まれ育った当時に覚えた言語で、考えていたことでしょう。
子どもたちは家庭では<標準語>で、近所や学校は<方言>でしたから、育った街を出てしまった今は、どうしてるのでしょうか。思い出の中では<ふるさと言葉>、通常は<標準語>なのでしょうか。結婚してアメリカに12、3年いる次女は、夫や子どもたちを思っている時、両親や兄弟を思っている時、幼なじみを思い出す時は、思いの中で、それぞれ違った言葉を使い分けているのかも知れませんね。意思の伝達や思考のなかの言葉は、不思議なものを感じております。
(写真は、”ウイキメディア”から「ぶどう」です)