和服の生地(きじ)に、「紺大島」とか「大島紬(おおしまつむぎ)」いうものがあります。父が、羽振りの良い若い時に誂えた和服が、これでした。今でも、昨年召された母の箪笥の中に残されていると思います。次女の結婚式のために、父の体に合わせて誂えてあったのを、母が私のために、ほどいて縫い直してくれたのです。それを、オレゴン州のユージンの町の教会で着て、式に臨んだのです。何十年も経っているのに、絹糸を紺色に染めぬいた生地は、全く色あせることがないほど光沢がありました。その着物に袴(はかま)をはき、羽織りをはおった時、なんとも言えない感慨がしてきました。
帯を締めて、袴を履き、足袋に草履という出で立ちは、『俺って、やはり日本人なのだ!』と感じたのです。こういった感覚というものを、やはり受け継ぐのでしょうか。そう言えば、弟のために母が縫った「絣(かすり)」を着て卒業式に出たことがありました。自分の他にふたりほど、和服の男子がいましたが、みんなと違った格好をするというのは勇気がいり、またちょっと優越感にもひたれるのは特権なのでしょうか。遠い日の思い出の一つであります。
最近、着物を着て、下駄を履いてみたいと、しきりに思います。戦前、日本人が下駄をはいて東シナ海を渡ってきたので、そんな格好をしていたら、侵略者の出で立ちと思われ、対日感情を悪くしてしまうことでしょうか。こちらでは決してしようとは思いませんが、体が、そういった感触を求めているように感じるのです。少しばかりの余裕があって、自由に使えるなら、「紺大島」の生地で着物と羽織を誂え、袴も作ってみたいと思うのです。それに桐の下駄か雪駄(せった)をはいてみたいのです。格好をつけたいという洒落っ気というよりは、「日本人の血」なのでしょうか。こういった思いが、好いのかどうか判断に苦しみますが、懐古趣味というのでしょうか、そんな正直な気持がしております。もしかしたら、中華料理の食べ過ぎかも知れません。
明治のご維新で、日本人は断髪し、和服を脱ぎ捨てて、洋服を着始めました。その変わり身は、服装だけのことではなく、思想的なことも含めて、日本人の「変身」は、その特徴を表していると言われています。機能的で実際的なものに、躊躇しないで移り変われる、この「身のこなし」は、私たちの一大特徴なのです。新選組の副長の土方歳三の写真が残されています。彼が函館で撮った写真は、短髪にシャツを着、ズボンをはいた洋服姿なのです。百姓の倅(せがれ)だった彼が武士、旗本になりたくて侍の姿をしたのに、その急激な変化に驚かされるのです。平成の御代に生きる私が、和服を求めるというのは、そういった動きに逆行してしまうのでしょうか。でも、これは「民族衣装」なのです。
新宿駅の地下道を、東口に向かって歩いていた時、高下駄を履いていました。その下駄の音が壁に、妙に高く響いていた音が、耳の奥に残っております。
(写真は、「男の着物」です)