1972年9月、「日中国交正常化」の交渉が行われたおり、その中国側の通訳をされたのが周斌氏でした。昨年、その周氏にインタビューをした記事が、「人民日報」の海外版日本月刊に掲載されてありました。会議の間に、八達嶺の万里の長城までの車で観光に出かけたおり、周氏が、姫鵬飛外交部長と大平外相との間に座って通訳をされたのです。以下は、その記事です。
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『 〈前略〉 大平外相と姫鵬飛外交部長との話はとても感動的で、二人とも最後には目に涙をためていました。大平外相の次のような言葉が姫鵬飛外交部長の心を打ったのです。
「私たちは同い年で、互いに自らの国のために奮闘し、自らの国のために努力しています。しかし、中国側の要求を全面的に受け容れたのでは私と田中首 相は日本に帰れません。もし『共同声明』に完全に中国側の意見に沿った内容を書き入れたら、交渉失敗とは言いませんが、帰国後に責任を負うことが非常に難 しく、私と田中首相は辞任しなければなりません。もし二人が辞任すれば、つまりこの『共同声明』を実行出来る人間が誰もいなくなるのです。」
大平外相はさらに、「はっきり申し上げて、私個人は中国側の観点に賛成です。あの戦争は明らかに中国に対する日本の侵略戦争でした。はっきり覚えていますが、私自身、大蔵省から興亜院(日本の対中国政策の調整・執行機関)に移って、三度にわたって張家口付近で社会調査に赴いています。当時は、まさに 戦争が最も激しい時期で、私は侵略戦争を自ら目の当たりにしたのです。実は当時、田中首相も出征し、中国の牡丹江にいました。ただ、彼は実際に戦ったこと はなく、歩兵病院で勤務していましたが。彼のこの戦争に対する認識は私と同じです。」と語りました。
大平外相は話を続けられました。「ただ、現在の日本の立場、つまり日本と台湾の関係、特に日本と米国との関係を考えると、私は今、中国側の主張を全 面的に受け入れることはできません。中国側の考えを可能な限り汲み取ろうとするのはもちろんですが、もし完全にあなた方の考えに沿った表現をさせようというのなら、それは困難です」。話し終わった後、二人は抱き合わんばかりに感動していました。
姫鵬飛外交部長が長城から戻るとすぐ、周恩来総理に報告したのを覚えています。翌日の午前10時には、『共同声明』の調印が控えていたので、この問題はその日の夜までには必ず解決しなければならなかったからです。当時は現在のように便利ではありませんから、北京外文印刷廠の職員は全員、組版のために待機していました。当日の深夜2時、交渉に参加していた人々 が皆、コーヒーで眠気を払い緊張を維持していた時、大平外相が1枚のメモを取り出しました。私はそのメモの形まで覚えています。
大平外相は、「姫鵬飛外交部長、これが日本側の最終案です。もしこれでも中国側が受け容れられない、ダメだとおっしゃるのであれば、私と田中首相は荷物をまとめて帰国するしかありません。」と語りました。そのメモには日本語で「日本国政府は日本が過去に戦争を通じて中国人民に重大な損害をもたらしたこと に対し、責任を痛感し、深く反省する」と書かれていました。
結局、『中日共同声明』にはこの表現が採り入れられたのです。当時、外交部の一部の職員はこの表現では同意出来ないと考えていました。何故なら『侵略戦争』の四文字が含まれていないからです。
最後にはやはり周総理が口を開き、「日本側が中国人民に対して重大な損失をもたらしたことを認め、彼らも責任を痛感し、深く反省しようとしている以 上、これはつまり『侵略戦争』を認めたことなのではないか。何故どうしてもこの文言を入れなければならないのか。今、田中先生(「さん」の意味です)と大平先生は困難に面してい る。私たちは、問題を解決しようとしている友人たちを困らせるべきではない。」とおっしゃいました。
当時、中国は『文化大革命』の最中でしたが、外交面では 周恩来総理が絶対的な権力を持っていたため、周総理がこうおっしゃったことで議論が収まったのです。』
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これが、交渉の舞台裏の出来事でありました。
(写真は、「万里の長城(八達嶺)」です)