父と同じ年、しかも同じ月に生まれた人に、大平正芳という政治家がいました。香川県三豊郡和田村(現・観音寺市)で、明治43年3月12日(1910年)に、農家の子弟として誕生しています。八人兄弟の六番目の子でした。貧しい子供時代を送りますが、二箇所から奨学金を得て、東京商科大学(現・一橋大学)に進学し、「経済思想史」に興味を持ったそうです。卒業後、大蔵省に入省し、池田勇人蔵相の秘書官などを歴任して、1952年に、衆議院議員に立候補して当選、それ以来11回の当選を果たしています。官房長官や大蔵大臣を歴任し、総理大臣に就任します(第一次は1978年から第67代、第二次は1980年から第68代)。在任中の1980年6月に、過労が原因で急死しておられます。
テレビで有名な解説者の池上彰(NHKの記者、テレビ解説者を経て、東京工業大学の教授やテレビ出演、著作などをしています)は、歴代の総理大臣の内、この大平正芳を、『最も聡明な総理大臣でした!』と高く評価をしています。この大平正芳は対中国の関係回復のために多大な功績を残していると言われているのです。1972年9月に、「日中国交正常化」のために北京を訪れました。その折、毛沢東主席、周恩来首相と面談した田中角栄総理大臣と共に、外務大臣として随行しているのです。とくに、中国の外交部長(日本の外務大臣と同職)の姫鵬飛部長とのやり取りの中で、その誠実ぶりが、中国の関係者の心を動かして、その正常化交渉が成功したと言われています。大平正芳は、男の涙を相手に見せたのです。それだけ真摯な態度があったことになります。
学校の授業のために本を読んでいますが、ある本に、大平正芳に関して、次のようなことが記されてありました。
『・・・日中関係が好転した最大の理由は、あるいは大平正芳に対する中国側の強い信頼感であったのかも知れない。この点は、その「道義性」とともに、中国の対日外交の顕著な特質であったのかも知れない。相手に対する、ある種の敬意と信頼感なしに外交交渉が実らない。・・・要は、そうした中国の外交スタイルや外交観に、日本がどれだけ敏感になれるか、ということである(毛利和子著「日中関係~戦後から現代へ~」岩波新書219頁)』
父の同世代の考え方、生き方、交際術、交渉術というのが、小手先の技術だけではなく、「誠実な人間性」なのだということがわかったようです。それを受け取る相手にも、そういった資質があったということでしょうか。これからの難しい外交のために、大平正芳の熱意ある努力が、学び直される必要があるように感じます。これは、やはり「明治の気骨」なのかも知れません。鍛え上げられ、叩き上げられた「鋼(はがね)」のような強さを感じてなりません。
(写真は、明治43年に開業した「江ノ電(江ノ島電鉄、2006年に撮影)」です)