この文章は、私が愛読しているブログに掲載されてあった記事です。この方の経験からの提言です。
1960年末期のことだった。新卒で入社した会社に途中入社(当時では珍しいこと)してきた2期上に相当するH大学出身の切れ者が、「日本語で満足に自分を表現する力がない者が英語など出来るようになる訳がない」と厳しく指摘した。私は至言であると思って感動した。日本語が十分に出来るようになっていない時期に、英語など教えて込んでも虻蜂取らずになるだけだと言うこと。
1972年に初めて出かけたアメリカ大陸からの帰途、カナダのヴァンクーヴァーの空港で日系人の免税店の販売員に叱られた。何気なくSwearwordを使って驚きを表現した途端に、厳しい表情で、『何という言葉を使うのか。私は戦争中にこちらで育ったために敵性語である日本語を十分に学べず、英語もちゃんと学べなかったので両方とも中途半端になった。だが、swearwordを使ってはいけないくらいは承知している。貴方も一寸くらい英語ができるからと言って慢心するな。以後気をつけなさい!』と日本語で叱られた。
外国語の性質を判断できない幼少期に外国語を学んでも、『どれが使っても良い言葉で、どれがいけないのか!』の判断ができない。先ず、自国語を徹底的に教えてから外国語に移行せよ」と言いたかったからである。
しかも、我が国の教育ではこういう言葉の分類を教えている形跡がないことは、長年の経験で解る。しかし、それはそれとして措くが、『その前に学校教育で国語を十分に理解させて置くべし!』という主張である。
これは簡単に言えば、所謂『英語屋になってはいけない、養成してはならない!』となる。「英語ペラペラ」と教養とは無関係でるとまでは言わないが、教養は自国語で十分に見つけられるし、その間かその後にでも英語を満足がいくまで勉強して、その教養を英語に転換できる能力を備えておくことだ。この辺りまで来ると「語彙の豊富さ」が必須となるが、これを単語の知識と誤解しないで欲しい。
更に言えることは、我々日本人の何%が、外国人と教養の裏付けが必要な会話をする機会があるのかをよく考えて欲しい。確かに、中国や韓国の人たちには「高い」と聞こえる英語で話す能力がある人が増えた。しかし、それと教養とが同じではないだろう。
言えることは、英語能力を高めることは「それが教養を高めるのに必要で有効な手段にはなるが、それは目的か」なのではないか。手段の一つでは。その次元までに英語力を高めることは、元より万人に必要なことではない。
私は先日アメリカの大手企業のマネージャーと懇談した際にXX婦問題も語った。これには勿論、十分な英語の力も必要だが、この問題を的確に語れるだけの知識と日本人としての誇りが必要だし、重要だ。この点は英語が上手いか下手かの問題ではあるまい(前田 正晶)。
(これは、1934年に刊行された、谷崎純一郎著の「文章読本」の表紙です)