[街]ブエノスアイレス

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 初めての南米、アルゼンチンの「ブエノスアイレス(Buenos Aires)」の飛行場に降り立った時に、『40年前に、もしこの街に出かけて来て生活をしていたら、どんな生活をしていただろうか?』との思いでいっぱいにされたことがありました。初めての訪問で、珍しさで興味いっぱいなことは、常にあるのですが、このブエノスアイレスの街への訪問は違っていたのです。

 それは初めての訪問地なのに、《懐かしい感情》があったのです。十七の私は、気が多かったのか、放浪癖の思いがあったのか、南半球の街に行ってみたい思いが、強烈にあったのです。南十字星の神秘的な輝きを見上げてみたかったり、ヨーロッパ人が入植して造った国の街に行ってみたかったのです。

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 イタリヤやスペインからの移民が、大西洋を航海して着いたのが、「ボカ(Barrio la Boca)」という港町でした。移民した人たちは、故郷の国を感じたくなると、この港にやって来て、来た方に、いつまでも目を向けていたそうです。帰る術のない人たちが、船が着岸した箇所で、故郷を偲んだわけです。その一廓に、カミニート(Caminito小道の意)があって、そこで音楽が奏でられ、踊りがなされて、アルゼンチンタンゴが誕生したと聞きました。

 ちょうど横浜や神戸や函館のような港町なのでしょうか。曽祖父以来、海と関わって来た父の出だからでしょうか、海への郷愁が、私の内にはあるのかも知れません。潮騒が、無性に聴きたくなって、車を飛ばして海に出かけたことが、若い日にあったりでした。岸に打ち寄せる波が、砂浜で砕け散る潮の音が、子守唄のようだったのでしょう。

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 官能的な響きの中には、故郷回帰の思いが駆り立てられたに違いありません。でも、街中のレストランに入ると、ウエイターの接客術が実に素晴らしかったのです。誇りを持った professional な意識で仕事をされるみなさんを見て、テーブルに運ばれて来た料理が、さらに美味しかったのです。

 首都の、街を出ると延々たる〈パンパ〉と呼ばれる大草原が広がっていたのです。その写真を見てから、その地の上に立ってみたかったのです。さらにその草原を越えて、アンデス山脈の麓にあるメンドウサという街があって、それも気になっていたのです。メンドウサには行けなかったのですが、自分が生まれた故郷が、葡萄の産地で、葡萄酒の産地でしたから、そこに似た街にも行ってみたかったのでしょう。

 街の道を行く男性たちは、しっかりと背広を着ておいででした。しかし、経済的に難しい状況下で、着ていたのは着古した物だったのです。それでも背筋をピーンと伸ばして、彼らは紳士でした。

 アルゼンチンの人たちは、日本のことを知っていて、『狭い日本に、アルゼンチン人が住み、広大なアルゼンチンに日本人が交代して住んだらいいのではないか!』と言うほどでした。日本人の移民に歴史もあり、移民初期のみなさんは、その白人優先社会で、なかなか苦労をされたそうで、クリーニングや花屋をされながら生計を立てて、移民二世を育てられたのです。

(ブエノスアイレスのカミニート、初夏の街中に咲く「ジャカランダ」の花です)

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都江堰と信玄堤

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 中国に初めて行ったのが、四川省の省都の「成都」でした。東京の工業系の大学に留学されて、卒業後、大手の企業に就職された方が、友人の教会においででした。その方のご両親が、成都の近郊においでで、お会いするために、家内と一緒に出かけたのです。私たちの訪問に合わせて、この方が休暇をとられて帰省され、成都の大きな旅館で、食事に招かれて、ご両親とお交わりをしたのです。

 その時、パンダ(熊猫Xiongmao)の繁殖研究基地が、郊外の山岳地にあって、旅行業者の方に案内してもらいました。そこには檻が幾つもあり、日本人が里親になっていて、日本名の名札が下がっていて、驚きました。『生まればかりのパンダを抱いてみませんか!』と言われて、防疫のレインコートのようなものを着せられて、抱いたのです。

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 そこに行く途中に、岷江(みんこうminjiang)と言う街を訪ねました。そこには、四川盆地を流れる大河があって、「都江堰とこうえんDūjiāngyàn)」にも案内してくださったのです.ここは、洪水が多かったのを、治水のため、農業用に水を得るための灌漑用の「堰」を作ってありました。

 紀元前3世紀頃に、蜀の国の郡守であった李冰という人が、15年ほどの難工事の末に、完成させています。

 『都江堰水利施設は上流からの順で魚嘴”(分水堰堤)飛砂堰”(洪水調節及び砂礫排出水路)宝瓶口”(離堆取水口)の三大部 分から構成される.都江堰の魚嘴分水堰堤を指す.上流から流れてきた岷江の本流は,魚嘴分水堤により長江に流れ 込む外江と成都平原を潤す内江に分流される.分水堤は地形を巧みに利用して水量を調節するだけではなく,土砂をなるべく内江 に流れ込ませないような働きもある.いったん内江に入って余った水が再度岷江に排出されるよう,なお更に曲がりこむ水流を利用 し,内江に洪水の原因となる砂礫が滞積しないように飛砂堰が設計されている.“魚嘴及び飛砂堰の機能により,岷江の水は 増水期には 4 割,渇水期には 6 割が安定して成都平野の灌漑水路に給水されるようになっている.都江堰着工後,冬の渇水期に修 ,お 2000 2000k m 2 . 近年には貯 し,現 7000k m 2 とな って (雷 林記)』

 実に見事な堰です。この街に入った時に、この李冰の大きな像があって、その功績を讃えていました。吊り橋のような架橋を渡って、その「角嘴」を見て、あんなに小さな部分が、激流を収めることに驚かされたのです。

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 この建設事業を、文献で知った、戦国時代に甲州を収め、天下取りを目指していた武田信玄が、暴れ川の御勅使川(みだいがわ)が、釜無川と合流する地点に、「堤」を建設しています。難儀していた甲府盆地の釜無川沿岸の農民のために、大工事を遂げていたのです。昔の治世者は、民百姓のために知力も人力も財力も、そして心も注いで、治めているのです。今でも、甲府盆地のみなさんは、「信玄さん」と呼んでいます。

 あれから数年して、私たちは、四川省の成都ではなく、天津に導かれたのです。そして一年後には、華南の街に参りました。その街の大学で、成都出身の学生が、授業中に、私がハーモニカを吹いて、日本の歌を紹介したのを、大変気に入って、『ハーモニカを教えてください!』と言われて、授業の後に、キャンパスの隅で、一緒に吹いたのです。

 その彼が熊本大学をでて、長崎大学の大学院を修了して今は、大手の日本企業に勤めておいでです。クリスチャンになられて、教会生活もしておいでなのです。不思議な主の導きがあっての今の栃木なのです。

(成都の雨の日の街並み、都江堰、信玄堤です)

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疎開やパンのことなど

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 2019年の秋に、19号台風の襲来で、住んでいた家が床上浸水にあってしまいました。その家の管理をされていたご方の友人の教会が、宇都宮市の隣町にあって、そこに急遽連絡をとってくださって、3週間ほど、〈令和の疎開〉をさせていただいたのです。

 疎開と言うのは、戦時下に、空襲を避けるために、学齢期の児童を田舎に移動させた、〈学童疎開〉がありました。主に首都圏の東京から、近県の栃木、群馬、山梨、長野に、お寺などに集団疎開がありました。第一陣は、19448月に、板橋区の学童が、群馬県に疎開しています。その他には、親戚や知人を頼ってなされた〈縁故疎開〉があったようです。親元を離れた集団生活の話を、何人かの方から聞いたことがありました。

 避難でしょうか、疎開でしょうか、そこは、教会の二階のゲストルームでした。教会のみなさんが、秋の果物やお米などを差し入れしてくださって、実に親切で快適な時を過ごさせていただいたのです。避難生活というよりは、なにかホテル住まいをしたようでした。あのご好意が忘れられません。

 その近くに、御料牧場があるのだと、最近聞ききました。天皇ご一家が、ひさしぶりに、そこを訪ねられたそうです。美味しい野菜や果物や卵や肉が収穫されるのでしょう。

 そう言えば、お隣の国でも、中央の党の幹部のためには、特別栽培や飼育の農園や牧場があって、何千人もの人によって従事されていて、幹部の家族を養っていると聞きました。地方の省や市や村も、同じなのでしょう。ですから党員になる人が多いかと言うと、誰でもがなれるのではなく、推薦されるのだそうです。知人には、それに見向きもしないかたが多くいました。

 美味しい物や安全な物を食べても、病む人は病んでしまいますし、健康な人は健康なのです。一度くらいは、そんな食材ののった食卓についてみたいものです。舌が肥えていない自分には、その違いが分かりそうもありませんが。

 

 『一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。(箴言171節)』

 いつ失脚するか分からないような社会で、地位を追われるかも知れないと、オドオドして美味しいものを食べるよりは、平和な内にオジヤやスイトンを食べていた方が、きっと幸せに違いありません。

 お殿様が美味しかった庶民の味、〈目黒の秋刀魚〉ではありませんが、長く過ごした華南の街から遠く離れた海浜の村で食べた、中華鍋で焼いた薄皮の麺に野菜や肉片の入った伝統食が美味しかったのです。日本円で30円くらいの村人の名物でした。あれを、父や母に食べさせたいと思ったものです。元気だったら満面笑みをたたえながら喜んでくれたことでしょう。

 母は、子どもの頃に、オジヤを散々食べたそうで、唯一嫌いな食事だったのを思い出します。もう一度母のかた焼きそば、父の約束不履行の駒形のドジョウ鍋を食べてみたい、春の今日この頃です。

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鬱金桜

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 南北に長い私たちの国で、その季節の動きを知らせてくれる楽しい兆は、「桜前線」ではないでしょうか。染井吉野の桜が、江戸の染井村からから全国に広がり、淡い花びら、散りゆく様子に魅せられて、津々浦々に植えられて、日本のどこででも観られます。日本人の大好きな桜に花です。

 この桜は、まもなく津軽海峡を越えそうです。松前あたりが一番早く咲き始めるのでしょうか。きっと五稜郭も、伊達市も札幌も、そして旭川、網走、稚内、北海道全域に咲き広がるのでしょう。南から一日一日と、前線が北上していく知らせが、自転車の運転速度よりも、わずかに遅く行くのでしょう。

 札幌の整形外科医院で手術後のリハビリ中に、札幌の中島公園で咲き始めたとのニュースを聞きました。病院の近くにも、桜の木があって、そこに花がつき始めていたのです。

 この桜ですが、何と八百種もあるのだそうです。それだけ、日本人は、桜の花に魅入られてしまっているのでしょうか。春の到来を感じさせられるからなのでしょうか.一般的に淡色で、パッと咲いて、パッと散っていく潔さを好むからなのかも知れません。

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 最近気になるのが、「鬱金桜(うこんざくら)」です。ソメイヨシノが咲き終わってから咲き始めるのだそうで、江戸以前から、旧荒川(今の隅田川を荒川と呼んでいたそうです)の堤に植えられていた桜で、「淡黄緑色(黄色や黄緑や緑色)」の花を咲かせ、「荒川の五色桜」と呼ばれたようです。〈枝変わり〉と言う成長点での突然変異によって生まれたのだそうです。

 私の生まれ故郷に咲くのが有名なのだそうで、そんなことは知りませんでした。そこには家もなく、知人もいませんので、訪ねることはありませんが、今頃咲くのでしょう。東京の谷中あたり、隅田川沿いの言問(こととい)あたりが名所なのだと言われています。行ってみたいな!

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尊大な羞恥心など

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 茨木のり子に、「汲むーY.Yにー」と言う詩があります。

大人になるというのは
すれっからしになるということだと
思い込んでいた少女の頃
立居振舞の美しい
発音の正確な
素敵な女の人と会いました
そのひとは私の背のびを見すかしたように
なにげない話に言いました初々しさが大切なの
人に対しても世の中に対しても
人を人とも思わなくなったとき
堕落が始まるのね 堕ちてゆくのを
隠そうとしても 隠せなくなった人を何人も見ました私はどきんとし
そして深く悟りました大人になってもどぎまぎしたっていいんだな
ぎこちない挨拶 醜く赤くなる
失語症 なめらかでないしぐさ
子どもの悪態にさえ傷ついてしまう
頼りない生牡蠣のような感受性
それらを鍛える必要は少しもなかったのだな
年老いても咲きたての薔薇 柔らかく
外にむかってひらかれるのこそ難しい
あらゆる仕事
すべてのいい仕事の核には
震える弱いアンテナが隠されている きっと……
わたくしもかつてのあの人と同じぐらいの年になりました
たちかえり
今もときどきその意味を
ひっそり汲むことがあるのです

 この詩は、少女の頃に、憧れの女優の山本安英を訪ねた時の経験から、茨木のり子が詠んだ詩なのです。何も分からないのに生意気で、背伸びをしていた自分に、山本安英が、『人を人とも思わなくなったとき堕落が始まるのね。』と語ってくれたようです。

 茨木のり子は、1926年生まれで、山本安英は、1902年の生まれで、24歳ほどの歳の差、親子の世代の違いがありました。山本安英が新築地劇団の団員だった頃でしょうか、訪ねた茨木のり子は、反抗したのではなく、『たかをくくるな、なめてかかるな、ということを教えてくださった気がします。』と後年、思い返して、茨木のり子は感謝を込めて振り返って詩作しています。

 叱ったり、諭したり、教えてくれる人を持つことは、有益なのです。そう語られたことを、しっかり受け止めたのです。自分の実態、事実を教えてくれる助言者がいて、茨木のり子は、自分の未熟さや幼稚さを知らされたわけです。

 若い日に恥をかくべきです。それ無しに成功してしまうと、大恥をかくことになるのです。秘められたり、感謝されてしまうと、人は尊大になったらおしまいです。「山月記(中島敦作)」に、次のようにあります。

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  秀才の李徴が平凡な役人の仕事に満足できず、詩で名声を得ようとしますが挫折し復職します。その時にはすでに友人が出世しており、李徴は〈臆病な自尊心〉と〈尊大な羞恥心〉のために人付き合いが出来なくなってしまい、絶望し、発狂してしまうのです。その苦しみや羞恥心のあまり、虎になってしまうのです。李徴は昔の友人と森の中で再会し、自分の運命を語ります。いたたまれなかったのでしょう二声三声ほえて、藪の中に走り込んで、二度と自分を現さなかったのです。

 この話は、中国の「人虎伝」が元になっていますが、自尊心は、どうにかして砕かれるべき必要がありそうです。夜遅くに訪ねて来ては、真夜中になって帰って行かれるご婦人がいました。家内は一日中、人を訪ねたり、教会の用をしたり、4人の子育てをしていました。訪ねてくる人は、独身で、ほぼ同年齢でした。ある時、宣教師夫妻が訪ねて来た交わりの中で、私が、皮肉を言ったのだそうです。

 日本語をよく理解できない宣教師さんが、『準、皮肉はいけない!』と言って叱ってくれたのです。〈事実〉を語るのはいいのですが、〈皮肉〉はダメだとの教訓でした。それ以降、私は注意して皮肉を語らなくなったのです。恥じて学んだからです。あの無意識の皮肉を聞き分けた、宣教師さんに驚くと共に、感謝したのです。人は恥じて、多くを学ぶのでしょうか。

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どう生きる

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 『自分の思い通りに生きたかどうかが大事。』、ある人が、ご自分の人生を、こう言って生き、立派な業績を残され、賞賛を受けられたのですが、病に倒れて亡くなりました。

 ところが聖書は、次のように記しています。

 『まことに主は、イスラエルの家にこう仰せられる。「わたしを求めて生きよ。(アモス54節)』

 『そのころ、ヒゼキヤは病気になって死にかかっていた。そこへ、アモツの子、預言者イザヤが来て、彼に言った。「主はこう仰せられます。『あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない。』」 そこでヒゼキヤは顔を壁に向けて、主に祈って、言った。「ああ、主よ。どうか思い出してください。私が、まことを尽くし、全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたがよいと見られることを行ってきたことを。」こうして、ヒゼキヤは大声で泣いた。 そのとき、イザヤに次のような主のことばがあった。 「行って、ヒゼキヤに告げよ。あなたの父ダビデの神、主は、こう仰せられます。『わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ。わたしはあなたの寿命にもう十五年を加えよう。 わたしはアッシリヤの王の手から、あなたとこの町を救い出し、この町を守る。(イザヤ3816節)』

 病気になったユダ王国のヒデキヤ王に、預言者のイザヤは、「病は治らずに、死ぬ!」と、主からのことば告げました。病気になった時に、ヒデキヤは自分の生涯を振り返って、大声で泣いて訴えたのです。時は、アッシリアの猛攻を受けて、国家的な困難な状況下にありました。憐れみ深い神さまは、彼の生涯に「十五年」を加えられたのです。それでも、彼は最終的には死んでしまいます。
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 人は、願わない「死」を避けることができないのです。みんな、『あのことも、このこともしたかった!』と思いながら志半ばで、その時を迎えねばなりません。彼の死を知らされた人は、『もっと生きて、もっと素敵な働きをして欲しかった!』と、その死を惜しむのですが、人の願いの届かないところに、人の一生があるのでしょうか。

 どうも人は、〈思い通り〉に生きて、〈何をしたか〉によって測られるのでしょうか。業績主義のこの社会の中では、そうに違いありません。『あのダムは、お父さんが作ったんだよ!』も、『このスリッパはお父さんが作ったの!』とは、双方の子どもにとっては、自慢のお父さんの仕事によるので同じです。ところが履き古して一年でダメになるものと、半世紀以上も貯水と発電の働きをするものでは、貢献度が違うわけです。でも一事に全情熱をかけているなら、同じなのです。

 思い通りに生きた人が、翻って自分の来し方を振り返ってみるなら、果たして、思い通りであったかは確かではなさそうです。でも悔いのない一生を生きるとするなら、例えば、正しい動機で生きた一生は、素晴らしいに違いありません。パウロが、『こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。(1コリント10章31節)』と、コリントの教会の信仰者たちに勧めたことばは、万金に値します。

 人が、自らを創造した神のいますことを認め、神の栄光のために生きるなら、それに優った一生は他にありません。そのような人に、『よくやった。良い忠実なしもべだ。』と、主人(神)に言われるなら、それこそが、最善な私たちの生き方に違いありません。そう、神さまの評価を得られる一生を生きたいものです。

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[街]駒ヶ根

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 次女の主人が、JETの英語教師として、長野県の南信の高等学校に勤めていたことがあります。このJETプログラムには、「外国語指導助手(ALTAssistant Language Teacher)」、「国際交流員(CIR)」、「スポーツ国際交流員(SEA)」の3つの職種があり、地域の外国語教育の普及と、国際化の推進で、それに励んで3年ほど、励んでいたでしょうか。

 阿南町、飯田市などの高校に勤務する彼らを訪ねるために、よく通過したのが、「駒ヶ根市」でした。彼らの最初の子は、飯田市立病院で生まれているのです。そんなわけで、車で中央自動車道を使って、時には伊北インターチェンジで下りて、国道153号線で、阿南町や飯田市に出掛けました。

 そこは南アルプスの西側の山岳部の間にある地で、りんご園やブドウ園や梨園などでの果物栽培が盛んなのです。かつては米作や蚕が行われていたのですが、転作でしょうか。主力は果物のようです。日本の農村は、かつては、どこも貧しかったようです。戦前、満州開拓の呼び声で、貧しい農家の方々が、それに応答したのです。とくに下條村の農民の多くが、そのために海を渡離、戦争末期、から戦後にかけては、大変な困難を経験したのです。

 高速道の伊北ICで下りて、県道19号線を走ると、箕輪や伊那に続いて、駒ヶ根市があるのです。その街に車でさしかかった時、突然、この街を、「終の住処(ついのすみか)」にしたいとの思いがやってきたのです。不思議な想いで、自分自身が驚いてしまいました。

 射していた陽の光、流れていた風、山肌の色、畑や田んぼの土の匂い、今までにかいだことも、感じたことものないものを、強烈に感じたからでした。それまで、そんな印象を受け取ったことがありませんでしたので、五感で感じるものだけではなく、深い心で中で、何かを感じたという経験だったのです。

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 今は、そんなに強い思いは無くなったのですが、実は、どこでも住み始めると、その地への愛着でしょうか、原風景への回帰なのでしょうか。または愛惜でしょうか、すぐに住んでみたくなるのは、何か麻疹のような、初恋の回想のようなものに似ているのかも知れません。

 ここは、木曽山脈と伊那山地との間の伊那谷の中央に位置し、諏訪湖から流れてくる天竜川の河岸段丘に位置しています。スズランが市花で、赤松が市木で、32万の人口を要す街です。この地域で、注目されているのが、「ソースカツ丼」なのです。カツライスの具の千切りキャベツを、丼の米飯の上にのせ、そこに揚げたトンカツを乗せ、特製の薄口ソースをかけるのです。煮たカツ丼しか食べたことのない私を驚かせました。市内には、三十数店舗の「ソースカツ丼店」があるのです。

 県北地域とも、南信の飯田、県南の諏訪地方とも違った趣の街です。なんか落ち着いて、老後を過ごせる感じがして、終の住処のと思い立ったのですが、私たちを導かれる神さまは、栃木に導かれたのです。空気も水も食べ物も、そして隣人たちも素敵な人が多いのです。もしもう一度越すことが許されるなら、駒ヶ根がいいなの、2023年のたけなわの春です。

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蘭二様

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 上の鉢の花は、ラジオ体操仲間で、元県の農政に携わられて、今は隠居されてるラジオ体操仲間の方から、いただいた「シンビジューム」です。昨年、もう一鉢いただいたものは、花がつきませんでした。きっと、それを知ってでしょうか、綺麗に咲いた花をくださったのです。

 下の胡蝶蘭は、退院した2019年の家内の誕生日、そして12月に、長女が父親の誕生日のお祝いにと贈ってくれたもので、第四期目の花を咲かせています。ただ週一回の水やりだけで、ここまで花を咲いてくれているのです。花のある家で、創造の美と、人の丹精とで、これほどに綺麗に咲く様子に、大いに慰められています。

 昨日は、家内と東武日光線の電車に乗って、渡良瀬遊水地の近くの街の友人宅に出掛けました。音楽伝道をされている方で、奥さまとお二人のお子さん、それにご主人のお母さまのご家族です。

 それに中国からやって来て、東京で、アルバイトをしながら、語学学校を終えて、この春、自動車メーカーの自動車整備学校に入学を前に、別れの挨拶に来らたのです。華南の街の教会で、一緒に礼拝を守った青年で、送別で、回転寿司で食事をしたのです。

 私たちの近くで、学校を探されたのですが、入学を許されず、中京圏の学校に合格しておいでです。華南の街では、ピアノの調律師をしておいででした。大学で学ばず、自分の好きな道を選んだのです。祝福をお祈りして、送り出せました。

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流れのほとりにて

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 こんなに間近に、川を眺めて生活することなど、これまでありませんでした。もちろん生まれ故郷には、山からの渓流があって、その瀬音は、自分への子守唄でした。その流れは、しばらく下りますと、滝となって滝壺に、激しく流れ落ちて、今では観光名所になっています。

 小学校時代を過ごした街は、街の南北を流れる二つの河川の間に位置し、夏が来ると泳ぎ、釣りの好きな下の兄は、釣り竿をかついだり仕掛けをしたりで、魚取りに、よく出かけていました。

 二十歳の時に、移り住んだ街にも、大きな河川があり、その流れの近く、堤防のこちら側に家があったのです。台風が来ると水量が増し、その急流の流れの端の、葦の間に逃げ込んだ魚を、素手で捕まえることができました。冬になると、流れの端の淀みが凍って、スケートができたりでした。

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 しばらく過ごした華南の街は、大河の南北に流れる川が、二分する辺りに、島のような、中洲のような岩の多い地があって、そこに大学や企業や住宅が広がってありました。やがて下流で再び合流して、大海原に流れ込んでいました。その上流には、美しい観光地があって、緩やかな流れを、孟宗竹を組んだ筏で、川下りをしました。次女の家族が来た時にも、一緒に筏遊びをしたのです。

 そこは、先日保津川下りの筏が転覆事故を起こしたような、急流や岩場ではなかったのです。浅瀬の流れをゆっくりと、竿さす二人の船頭さんの操舵で、ゆったりと景観を楽しめたのです。

 そして、五年目を迎えたこの街でも、「巴波川」のほとりの建物の四階のベランダから、眼下に流れを眺めながら、生活をしているのです。朝な夕な、その流れくる、流れいく川面を眺めて過ごしております。それで思い起こすのが、「方丈記」の冒頭の次のようにある記事なのです。

『行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。玉しきの都の中にむねをならべいらかをあらそへる、たかきいやしき人のすまひは、代々を經て盡きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。或はこぞ破れ(やけイ)てことしは造り、あるは大家ほろびて小家となる。住む人もこれにおなじ。所もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。あしたに死し、ゆふべに生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る。又知らず、かりのやどり、誰が爲に心を惱まし、何によりてか目をよろこばしむる。そのあるじとすみかと、無常をあらそひ去るさま、いはゞ朝顏の露にことならず。或は露おちて花のこれり。のこるといへども朝日に枯れぬ。或は花はしぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、ゆふべを待つことなし。』

 これは、鴨長明の作で、高校の古文で学んだ箇所です。人の一生が、流れ行く川の流れに似ていると言う言葉は、取り返しのつかないものであって、暗く、虚しく、悲しかったのを思い出します。

 ところが聖書の中に、捕囚の民がひかれていった「バビロンのほとり」での出来事を詠んだ詩があります。

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The Fall of Babylon by Cyrus the Graet in 539 BC. Jeremiah 51, 59-60. Wood engraving, published in 1886.

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 『バビロンの川のほとり、そこで、私たちはすわり、シオンを思い出して泣いた。 その柳の木々に私たちは立琴を掛けた。 それは、私たちを捕らえ移した者たちが、そこで、私たちに歌を求め、私たちを苦しめる者たちが、興を求めて、「シオンの歌を一つ歌え」と言ったからだ。 私たちがどうして、異国の地にあって主の歌を歌えようか。 エルサレムよ。もしも、私がおまえを忘れたら、私の右手がその巧みさを忘れるように。 もしも、私がおまえを思い出さず、私がエルサレムを最上の喜びにもまさってたたえないなら、私の舌が上あごについてしまうように。 主よ。エルサレムの日に、「破壊せよ、破壊せよ、その基までも」と言ったエドムの子らを思い出してください。 バビロンの娘よ。荒れ果てた者よ。おまえの私たちへの仕打ちを、おまえに仕返しする人は、なんと幸いなことよ。 おまえの子どもたちを捕らえ、岩に打ちつける人は、なんと幸いなことよ。(詩篇13719節)』

 犯した罪のゆえに、主なる神が、エルサレムは荒廃し、民がバビロニア帝国の補修となることを定めたのですが、捕囚の地での経験を詠んだのが、この詩です。涙を流し虚しさや悲しみもありますが、それだけではなく、祖国のエルサレムへの慕わしい思い、赦されて祖国帰還の望みが詠み込まれています。

 バビロンのケバルの流れのほとりで、祭司エゼキエルは、神々しい主からの幻を見ました。悔い改めるなら、補修の縄目を解かれる約束を預言するのです。神は怒るとも、人や国や民族が悔い改めるなら、回復の望みを与えてくださるのです。まさに、七十年後に、この民は、エルサレムに、捕囚を解かれて帰還するのです。

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 私の信じている神は、罪をいたく憎まれ、罰せられますが、赦しにも富まれるお方なのです。だから私も、どのような中にいても、希望に溢れて、その時々を生きることができるわけです。

 朝に夕に眺める、湧き水を押し流す巴波川の水は、大平洋の大海に注ぎ、海原で大気の上に上昇し、雨や霧となって地に注ぎ、泉を湧き上がらせ、再び川に流れるのです。それで、飲水を供給し、春に命を再生し、秋に収穫をもたらす植物を潤すのです。希望に満ちています。

(流れの辺り、華南の大河、バビロンの都の川、渡瀬遊水池です)

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