父とガラスと謝罪と

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 先日、戦争責任はともかく、誰もが戦争に巻き込まれ時代の一つの産物で、軍用爆撃機の防弾ガラスが、群馬県下の村の納屋から発見されたようです。

 実は、戦時下、父が軍需工場の仕事に携わって、金峰山の麓の石英の鉱床から掘り出した原石が、京浜地帯の工場に原料として運ばれ、それを原料として作られたのが防弾ガラスなのです。終戦を目前にした時期に、群馬県下の工場で組み立てられた試作機として作られた「連山」という爆撃機のために製造された物でした。実戦に用いられる前に、戦争が終結して、群馬県の大泉町の農家で、長く保管されていたのが、先頃、納屋から出て来たのだそうです。

 今の「SUBARU(スバル)」という自動車メーカーの元の会社が、戦時下に軍用機を製造した「中島飛行機」で、群馬県の出身で、海軍の将校の中島知久兵が、アメリカとフランスで飛行技術や製造法を学んで、軍籍を持ったまま興した会社だったのです。家内のお父さんも、戦時中、この会社の通訳をしていたようです。その会社が作った爆撃機に加えられたのが、父の掘った原材料で作られた防弾ガラスだったわけです。その記事を、偶然見て、父と義父とを思い出したのです。

 索道で、山奥から運ばれた鉱石が、隣り村の貯石場に集積されてあり、それをトラックで最寄りの貨車駅に運び、そこから貨物列車で、東京の工場に搬送されていたのだそうです。その索道の終点に、索道を動かす大きなモーターが置かれてあって、そこに父の事務所と家もありました。

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 朝鮮半島の京城や山形県などで、父は仕事をしてきて、最後の任地に移って、そこで戦争が終わったのです。そんな経緯がありますので、生まれたばかりの頃に掘り出した鉱石が、このガラスの原材料とされていたのだと思いますと、どうしても私も戦争とは無関係ではなさそうに思い続けて来たのです。

 『先生とわが国への侵略戦争とは関係がありません。当時の日本軍と軍人の暴挙だったのですから!』と、私は、授業を始めるあたって学生さんたちに、戦争の過去を詫びた時に、そう彼らに言われたのです。軍部の予算の中から父の俸給が与えられていて、それで買った物品で養われていた自分と、あの戦争と無関係とは言えないからです。

 在華中、大学の教師のみなさんの夏季修養会があって参加したことがありました。同じ省や街の諸教会からの参加者が、秘密裡に集まって、開かれていたのです。最初の年の修養会で、証をする機会がありました。侵略戦争に関わった者の子としての償いの気持ちを、来華の一つの理由としてお話しさせていただいたのです。

 父が軍需工場で爆撃機の部品製造のために、その原材料の掘削を、軍名で行ったこと、その部品を搭載した爆撃機が、みなさんの奉仕している大学のある街を、日中戦争の折に爆撃して、多くの命を奪ったことをお話しして、赦しを請いました。

 そんな思いを、私の内に入れて下さったのは、主に違いありません。でもみなさんは、戦争責任を私に問うことはしなかったのです。でも、父の時代の償いの思いで来てくれたこと、同じ信仰に立っていることなどで、かえって感謝されたのです。数枚の爆撃用のガラスの写真と記事を見て、さまざまな思いが去来してまいります。

(ウイキペディアの特攻機、石英の写真です)

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