ラベンダー

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富士山の麓に、「河口湖」があります。中央線の大月から、富士急電鉄で終点、 中央高速道の大月ジャンクションから東名高速道路に抜けられる途中にあります。そこに"富士急ハイランド"があって、何度か、子どもを連れて遊びに行ったことがあります。「ほうとう」と呼ばれる、”味噌煮込みうどん"、茹でたキャベツに特製のタレを混ぜて食べる"吉田のうどん"が美味しい観光地です。

ここにある公園に、"ラベンダー"が、人工的にですが植えられていて、6月から7月にかけて、街全体が芳香に溢れていているのです。そこも一、二度訪ねたことがありました。まるで、フランスの"プロヴァンス"を彷彿とさせてくれるほどでした(フランスには行ったことがありませんから、そう想像しただけです)。
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「まち興し」のために、観光協会は、その街の特色を打ち出して、観光客の誘致に必死なので、河口湖も、"ラベンダー"で勝負したのでしょう。この花で有名なのは、北海道の富良野市です。テレビや映画の舞台になり、今や中国の観光客のみなさんの人気スポットになっていて、"beihaidao(北海道)"に憧れています。
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昨年札幌の病院に入院した時に、退院後に訪ねてみたかったのですが、保護装具で、腕を吊っていましたので、観光気分どころではありませんでした。すでに装具が外れた今、"ラベンダー"の香りをかいだら、気分爽快になれるでしょうね。"プロバヴァンス"って、どんな所でしょうね。

フランス南東部に位置していて、ローヌ川からイタリアの国境 にかけての地中海に面する地域のだそうです。 その土地柄は、夏は陽射しが強いのですが、カラッと過ごしやすいそうで、世界でも人気のリゾート地として広く知られている様です。 開放的で心地好い気候で、その土地の料理も美味しいそうです。私の好物のトマトをふんだんに使っているとか。

(上の二つのl写真は「河口湖」、三番目は「プロヴァンスのトマト料理」、四番目は「富良野」です)

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これが海だ

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上海港から、「蘇州号」に乗船して、東シナ海に至り、まったく岸から離れ、海の真っ只中で、船のエンジン音だけしか聞こえなくなりました。四方の大海原を見渡した時に、感じたのは、『これが海だ!』でした。それまで岸が見える船にしか乗ったことがなかった私には、海の実際を知らされた時でした。カモメも飛ばなくなり、飛魚が船の進む方向に、まるで競争するかの様に、飛んでいる姿しか見えませんでした。

作詞が林柳波、作曲が井上武士の小学校唱歌の「うみ」です。

1 うみはひろいな 大きいな 
月がのぼるし 日がしずむ

2 うみは大なみ あおいなみ
ゆれてどこまで つづくやら

3 うみにおふねを うかばして
いってみたいな よそのくに

海の上の船で、丸2日の船旅は快適でした。五島列島が見えてきた時は、『1年振りに帰って来たんだ!』と思ったことでした。北九州の岸が見え、瀬戸内海をゆっくり走って、翌々朝に、大阪港に着岸したのです。もっと早く走れるのかも知れませんが、瀬戸内海の何処かで、しばらく停泊していたのかも知れません。寝ている間ですので分かりませんが。
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飛行機のない時代、門司や神戸の港から、大陸に向かって船で出掛けたのです。父も青年期に、そうして大陸に渡り、奉天で仕事をしていました。何度か、この船を利用して、上海と大阪を往復したのですが、最近は、飛行ばかりになってしまいました。一度、冬の嵐の時には、船が大揺れして、船員さんたちも船酔いしていた様でした。遣唐使船や遣隋使船は、木造の小型船でしたから、大変だったろうと想像したものです。

今日は、「海の日」だそうですね。3連休だとか。大陸にいて、その恩恵に預かったことがありませんが、退職して、こちらでお仕事の手伝いをしながら過ごす身には、「陸の日」の連続でしょうか。来月には、「山の日」もあるのですね。

(下は、黄浦江を進む「蘇州号」の船首と上海港の周辺の様子です)

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お見舞い

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この街に来まして、間もなくなく出会ったご家族があります。私たちの長男と同い年で、パンの製造販売と、パン製造の機器や材料などを扱う事業を営んでいる方です。学校を終えて、上海に出たのだそうです。そこで同郷の奥様と出会って結婚をされ、現在、二人のお子さんを育てておいでです。現在、お子さんたちは、東京においでで、下の小学生のお嬢様は、区立小学校に通っておられ、お母様が一緒に生活をされておいでです。

日本贔屓で、日本の製品と変わらないパンを作っておられ、新規に「どら焼き」を製造して、それを売り出した時には、製品を届けてくれました。美味しかったのです。以前、この会社で、「日本語読書会」も持っていたのです。また何時か再開したいと言っていますが。最近、この方のお母様が、重い病気に罹っておられて、木曜日に、彼の故郷に、所用でこちらに戻っておられた奥様、会社で働いていおられる方と、お見舞いに行って来たのです。

この国には、「省sheng」があり、「市(この市に含む幾つかの<市>があります)」、「县xian(日本で言う<県>です)」、「镇zhen(日本の<郡>でしょうか)」、「村cun」の行政区分があり、出掛けたのは、この街の末端の一つの「村」で、潮のにおいがする海浜の村でした。こう言った何十万という村で、この国が形作られているわけです。

今では、「巨峰」や、台湾から輸入してきた「火龍果huolongguo☞写真」を、この村で栽培していて、頂いて帰ってきました。土地に見合った作物が研究されていて、高級品は大都市に、二級品は省内の市場に、はね出し物は、家で食べたり、路上で売られたり、親族に送られたりされているのでしょう。亡くなられたお父様が作られたという、自分の故郷を、海からの大波から守る防波堤や、お父様のお墓まで案内してくれた、彼自慢の故郷でした。

ご両親は、お嬢様と二人の息子を育て上げ、ご主人と死別されたお母様は、お嬢さんの体の不自由な息子さんのお世話を、病気になるまでされてきていました。6年前に、そのお孫さんに、この街でお会いして、今は21歳になっておられ、施設で生活をされていました。その村に行く途中、家内が、「巻寿司」を作って、それを持参して、彼を訪ねました。彼は美味しそうに食べてくれたのです。PC操作ができるので、その道で仕事ができたら、自立できるのですが。口に加えた筆で目や文を書かれる星野富弘さんのお話などをしてみたいと思っています。

お母様の家では、妹さんたちが、夕食後の用意をしてくださっていて、ご馳走になってしまいました。若き友人から、病気になった母親を訪ねて欲しいと依頼されたのは、嬉しいことでした。一緒に時を過ごし、病気を克服できるように願い、良い交わりが与えられて、夜遅くなりましたが、この街のわが家に、無事に帰ることができました。好い一日でした。遠くに病人を見舞えるというのは、感謝なことです。

火と水を通って

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作詞が高野辰之、作曲が岡野貞一の「おぼろ月夜」の「蛙の鳴く音(かわづのなくね)」のフレーズが、今晩、思い出されてなりません。

菜の花畑に 入り日薄れ
見渡す山の端 霞深し
春風そよ吹く 空を見れば
夕月かかりて におい淡し

里わの火影も 森の色も
田中の小道を たどる人も
蛙の鳴く音も 鐘の音も
さながら霞める 朧月夜

「雨後の筍」と言いますが、一昨日は、台風襲来で、雨が多く降ったせいでしょうか、「雨後の蛙の声」で、大賑わいの夜中です。オスのカエルが、メスを呼ぶのだそうですが、次の世代を残すために、そうします。下の子が生まれた頃に住んでいた家の南側が、大家さんの田んぼで、それはそれはカエルの大合唱でした。

今頃の事です、明け方近くに、『ドカン!』だか『ヴォカン!』だか、ガスが爆発する大音響がして飛び起こされたのです。我が家の玄関の扉が空いてしまい、ベランダの干した洗濯物と、飼っていた鳥籠の文鳥が焼け死に、南側の窓のガラスが割れて飛び散ったのです。幸いカーテンが、飛散を防いだ様です。15軒ほどの集合住宅の三階、我が家の真上の家で、ガス爆発が起こったのです。

それと分かった私は、跳び起きて、直ぐに三階に駆け上がって、通路にあった消化器で消化活動をし始めたのです。モクモクと新建材が出す煙が部屋を満たしていて、家に入ることができず、何もできずにいました。残念ながら、救出することができず、ご婦人と飼い犬が亡くなられたのです。

あんなに驚いたことはありませんでした。4番目の子が家内のお腹の中にいて、まだ小さな3人の子たちと一緒に住んでいた家でのことでした。家内は、明け方に、窓際に寝ていた子どもたちの布団を、なぜか、その日は、奥の方に引いていたのです。それで、飛び散ったガラスの破片で怪我をしないですんだのです。

間もなく、消防署と消防団が駆け付けて、消化活動が行われたのです。それが終わり、新聞記者の取材を受けた後、私は、頭に痛みを感じたので、その日の午前中に、近くの整形外科で診てもらったところ、頭部に30ものガラス片が刺さっていて、それを取り除いてもらったのです。傷みを感じなかったのです。

もう一つ驚いたのは、消防士が我が家を点検された折、『ガスが、ここにも降りていたのに、引火しなかったのはあり得ないことです!』と言っていたからです。また消防車の放水で、家具や布団や衣類などは全滅でした。多くの物を失ったのですが、命からがら、火と水を通って、一家5人と胎児が救われたのです。その後、上の兄の計らいで、必要なものを東京から、友人たちが運んでくれて、助けられたのも忘れられません。

蛙の鳴き声を聞いていて、ふと1980年の今頃の時期に起きた事故を、思い出してしまいました。私の家族は、奇跡的な助けを経験したのです。亡くなられた方が、娘たちを家に呼んでは、お菓子をもらったり、子どもなりに世間話をしていた様です。その子たちが、もう四十代、下の息子が三十代の後半で、元気で生きていますから感謝なことです。

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兄妹

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これは、兄が妹を、カートに乗せて、家の近くを連れ歩いている写真で、もう何年も前に、次女が送ってくれたものです。今も仲良く生活をしているそうで、私の孫自慢の写真の一葉です。男兄弟四人で育った私は、姉や妹が欲しかったのですが、無骨な男ばかりの中で、喧嘩に明け暮れて一緒に育ちました。

西条八十の作詞、古賀政男に作曲で、「誰か故郷を思わざる」という歌が、昭和15年(1940年)の戦時下に発表されました。

1 花摘む野辺に日は落ちて
みんなで肩を組みながら
唄をうたった帰りみち
幼馴染(おさななじみ)のあの友この友
ああ誰(たれ)か故郷を想わざる

2 ひとりの姉が嫁ぐ夜に
小川の岸でさみしさに
泣いた涙のなつかしさ
幼馴染のあの山この川
ああ誰か故郷を想わざる

3 都に雨の降る夜は
涙に胸もしめりがち
遠く呼ぶのは誰の声
幼馴染のあの夢この夢
ああ誰か故郷を想わざる

故郷の人や自然の風景が歌い込まれていて、多くの人に愛唱され続けてきた歌です。39歳で、大手術をした後、山梨県の韮崎から渓谷沿いに入った温泉宿に、湯治で、何度か泊まったり、入浴に出掛けたことがありました。家内を誘って出掛けた時、年配の湯治客が、温泉の湯の中で、『後で、一緒にお茶でも飲みませんか!』と、この方の部屋に誘ってくれたことがありました。

茶菓をご馳走になりながら、宿で初めて出会った方と談笑した後に、『一緒に歌いませんか!』と言われました。この方は、アコーデオンを持参しておられ、それを弾きながら一緒に歌った中に、この「誰か故郷を思わざる」もありました。歌謡曲など歌ったりしないし、知らないはずの家内が付き合って、一緒に歌い出していたのです。

鄙(ひな)びた湯治宿の午後の一時に、《日本人をした》のが思い出されます。人前で、歌謡曲を歌うことのなかった私も、つい、この方の薦めで、つられて歌い、楽しい時を過ごしたのです。その宿は、けっこう重症な病後の方が、好んで投宿する宿でした。腹部や胸部に、大きな手術痕のある方が多かったのです。この誘ってくださった方も、《病友》、《宿友》のよしみで、親しく談笑し、歌ったのです。

あの宿も、すでに営業をやめられてしまった様です。小川のせせらぎの渕に、ひそりと建てられた、古びた木造の宿でした。床板が歩くと音がしたのが懐かしいのです。国内でも、ラジウム温泉で有名で、『ここが一番良い!』と、あちこちと行かれた方が言っていました。炭酸水を含むのでしょうか、『細かな水泡が、身体中につくのがいいんです!』と、常連さんが言っていました。術後のご婦人も、身体にタオルを巻いて、手狭な浴槽で肩を触れんばかりにして、必死に入浴をしていたほど、薬効があった様です。

ああ言った宿が消えてしまうのは、なんとも寂しいものです。話好き、歌好き、食好き、寡黙な方、寂しがり屋など、人生のいろんなところを通って来た、中年から初老の人たちの好む宿でした。自炊、半自炊、賄い付きなど多様な湯治のできる、あんな宿は少なくなっているのでしょうか。さて、この孫たちは、声を合わせて、一緒に歌うことなどあるのでしょうか。人に愛される子に育って欲しいと願う大陸の早暁です。

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昔、「雨あがる」と言う映画がありました。宇野重吉のご子息で、寺尾聰という俳優が主演した、時代劇でした。主人公は、奥州の小藩の侍でしたが、机に向かう仕事に耐えられず、脱藩し、江戸に向かう旅に出ます。街道沿いの城下町にある剣術道場を訪ねては、道場主と一手交え、時を見計らって、『参った!』と降参するのです。すると、気持ちを好くした道場主は、道場の奥座敷に招いてくれ、酒と魚を供してくれる。路銀(ろぎん、餞<はなむけ>のお金)までもいただけると言う手法で、食いつないで、江戸に登った脱藩浪人が、主人公でした。

どこの藩に召し抱えられても、長続きをしないで、諸国を旅をし続ける途中、大きな川が、「川留め」になってしまい、川辺の安宿に逗留するのです。ここから映画が始まっていました。宿には、足止めの商人や芸人などが、長雨を避け、川開きを待つ間、宿から出られない鬱憤で、泊り客の間で悶着が起きてしまいます。主人公の浪人は、城下町の剣術道場に出掛けて、「賭試合」をしてお金を得るのです。それで魚や野菜や米や酒を、大量に買い付けて、宿に持ち帰って、手料理で酒宴を催すのです。

その大盤振る舞いで、一遍に宿が和やかになって行くのです。そんな内容の映画でした。主人公の木原伊兵衛を演じた寺尾聰は、歌手でしたが、お父さんの血でしょうか、芝居上手の好い俳優です。今日は、「マリヤ」と名の付いた台風8号が襲来して、「最強」だと言われていますが、さほど雨も風も強くなく、通過して行った様です。

借家に、私たちは住んでいますが、もし川辺の安宿で、「川留め」になって過ごしていたら、その映画と同じ様に、未知の旅人との間で一悶着起きてしまいそうな雨の日の多いこの頃です。西日本では、大勢の犠牲者と行方不明者が出てしまい、大惨事になってしまいました。復旧も目処(めど)が立たない様です。物や時間も失った方が多いそうです。大雨の中で、伊兵衛が、『この雨はきっと止みますよ。これまで止まなかった雨はなく、みんな止んだからです!』と、機知に富んだ台詞を語っていたのを思い出しました。

あの「ノアの洪水」が引いた後、造物主は、虹を立てて、『水によって滅ぼさない!』と、永遠の契約をしています。としますと、人類は、大水によっては滅びることはなさそうです。自然界の暴挙を押し留める力があると言うことです。やはり、人心の乱れや強欲と、自然界の不調和と、何か関係がありそうですね。地球の保全は、私たち地球人の義務に違いありません。確かに、あの川辺の宿の旅人たちは、「雨あがる」を見届けて、それぞれの目的地に出て行きました。

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対策

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雨を表現する言葉があります。新潟に行きました時に、教わったのは、『弁当忘れても、傘忘れるな!』でした。雨の多い土地柄ならではの言葉でしょうか。きっと日本海側の地域には、そんな"挨拶言葉"が言い伝えられているのでしょう。昔は、傘などは、都会人が使っただけでしょうから、農村など庶民は、「笠に簑(みの/藁で作られたカッパの様な雨具)」を着用したのでしょう。

小学校の頃は、「番傘(ばんがさ/竹製で、油紙が貼られてありました)」をさして登下校をした覚えがあります。それに下駄をつっかけていて、長靴などは履いていませんでした。いつか、この街を歩いていた時、同じ番傘や下駄を、店頭で見つけたことがありました。 こちらでも、同じ様な雨具が使われていたのですね。

今回の豪雨の被害の様子を伝える記事の中に、『雨を畏れること 虎を畏れるごとし』と言う、中国の"ことわざ"を読みました。東アジアの猛獣は虎、その虎の様に畏るべきは雨だ、と言ったのでしょうか。華南や華東では、雨季になりますと、毎日の様に雨が降りますから、こういった言葉が伝えらえられているのでしょうか。日本では考えられない様な規模の大河の流れる国柄、降る雨を集めて流れる河川の海の水量は、半端なく多いからでしょう。

この街の古写真をみますと、河岸は自然のままで、護岸工事などなされてありませんでした。旧市街と農村部を分ける間に、大きな川が流れていて、そこに最初に橋を架けたのは、日本の企業だったと聞きました。それまでは、水運で渡し舟が物流を担っていて、「ジャンク」と呼ばれた舟が使われていたのです。

この河川の護岸に、街の古代からの歴史が石版に刻まれて、掲出されてあるのですが、これまで度々、河が氾濫し、洪水が起こったとの記事があります。何年も前に、知人を訪ねて四川省に行きました時に、成都の郊外にある、「都江Dūjiāng」という街に連れて行って頂きました。そこには、「珉江minjiang」という急流の川が流れ、中洲には「堰yan(せき)」が作られていて、「都江堰」と呼ばれ四川省の名所でした。

この川が度々氾濫するので、その洪水対策と、農業用水を引くために作られた「堰」でした。ウイキペディアに、『紀元前3世紀、戦国時代の秦の蜀郡郡守李冰(中国語版)(りひょう)が、洪水に悩む人々を救うために紀元前256年から紀元前251年にかけて原形となる堰を築造した。」とあります。山梨県に、釜無川(富士川の上流)があり、御勅使川(みだいがわ)とこの川が合流する地点が、よく決壊したのです。そこに、武田信玄が、中国の「都江堰」に倣って「堰(堤)」を作って、"信玄堤"と呼ばれています。

地球は、どこも、自然の猛威と闘い続けてきた歴史があります。今回も、大被害を受けて、知恵を集めて、更なる洪水対策がなされる様に、心から願っております。

(四川省の「都江堰」です)

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無事

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サッカー少年12人とコーチ1人が、洞窟から無事に救出されました。救出に当たったタイ海軍や知事の働きがあったからです。まさに、奇跡的な救出でした。少年のみなさんの生命力の強さと、励まし合いがあったからでしょう。年長者の若きコーチの指導力も大きかったのでしょう。親御さんの喜びも一入でしょうね。好かった!

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浴衣

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これも「日本文化」ですね。“浴衣(ゆかた)”を着て、「七夕の季節」に合わせて、授業を受けるなんて、素敵ですね。岡山県の「美作大学(みまさか)」の津山校の学生のみなさんです。学生会が、こんなアイデアを出し、学校が、それを認めるという「学風」が好いですね。男子は、“甚平(じんべい)”を着ています。

学校の卒業式に、母に着せてもらって、弟の絣(かすり)の着物に、父の袴(はかま)を履き、高下駄で、式に出ました。母が同伴してくれたのです。高等教育を、息子たちに受けさせてくれた母は、向学心があったのですが、それを受ける機会が与えられませんでした。そんな母でしたが、三男の私の卒業式に出て、喜んでくれました。

母が、白絣の着物を作ってくれたのですが、事務所に置いてたのを、捨てられてしまいました。何時か、買い直して、下駄をつっけながら、夏の夕べを散策でもしてみたいものです。父の「大島絣」が、兄の家に残っています。そんな古い物を着たがる「古い奴」なのでしょう。娘の買ってくれた、“甚平”があって、時々着ています。ただ、これで外出する勇気はまだ出てまいりません。

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