いのち

 

 

東京でも大阪でも上海でも華南の街中でも、そして東武宇都宮線の車中でも、一様に見られる現代の光景の一つは、<ケイタイ>を夢中で覗き込み、操作し、返信をしている姿です。十年前には見られなかった光景で、この分だと、マニラもメルボルンもベルリンも、同じような若者たちの姿が見られるのでしょうか。

時々見掛ける喫茶店での様子も同じです。テーブルを挟んで、コーヒーカップを前に、若い二人連れが座っています。彼らには会話がないのです。二人とも<スマホ>に熱中で、二人で共高いコーヒーを飲む意味が感じられないではありませんか。目前の<恋人>よりも、目に見えない線で繋がっている<遠く情報>の方が大切なのでしょうか。

『着たメールに、すぐ返信をしないといけない!』という強迫観念も、そう言った行動を取らせているのだそうです。<無視>と<仲間外れ>が、今日日の人には怖いのです。または、情報収集のために必要不可欠な手段になっているのでしょうか。<知らないほうが好い情報>が、きっとほとんどだと思われます。思いの中をゴミ情報で満たして、思考形態がうまくいかなくなっている時代で、常に心の緊張状態が続いているに違いありません。

<孤独>であることへの怖れが、現代人の心の中に溢れているのでしょう。時には、海や山に独り行き、瀬音や潮騒、鳥や木々を渡る風の音を聞き、遠くに目をやることが、人には必要です。時々行った、山の上の展望台から、眼下の山なみや沢を眺め、誰もいないのを幸いに、『ヤッホー!』と思いっきり叫んで見るのが、結構好きなのです。『変な爺さんが叫んでるな!』と思われても気にしないことにしてるのです。

一冊の本を懐に、山に登り、東屋に座って、読んだり「沈思黙考」するのは、人の精神活動に好いのです。煩(うるさ)い人の声を聞かなくても済むからです。もちろん、人の声を聞くことはありますので、ご心配なさらないでください。<孤立>は問題ですが、<孤独>でありたい気持ちは大事にしたいものです。    

アインシュタインが、次の様に言っています。

“ベルリンでも、何も変わりがありませんでした。その前のスイスでも。人は、生まれつき孤独なのです。”                                                                    

そんな孤独な経験が、驚くべき発明をもたらしたのでしょう。でも、悲観的になる傾向が、近頃大いにではないでしょうか。夢や幻や理想で心を満たし、無邪気さが売り物の子どもたちが、死に急いでいる傾向ほど悲しいことはありません。子どもたちが孤独を経験しながら、頂いた《いのち》を感謝して生きていって欲しいものです。

(栃木名産の「益子焼」のコーヒーカップです)

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