駆け抜けて

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昭和の時代を駆け抜け、平成の世を助走、令和を終走した人たちが、最近何人も亡くなられました。閉塞感が満ちていた時代に、心をスカッとさせてくれた “ アクションスター ” や、夢を与えてくれた人や、自分にも可能性があるんだと思わせてくれた人たちです。

脚本を演じただけの人でも、生きる強さを見せてくれたのです。自分の人生に天職を得て、それをやり遂げて、『あなたもできますよ!』と道を示してくれた人、繁栄の国からやって来て、道を説き、病を得て異国の地で召された人、様々に生きた人がいて、今の自分があります。直接間接に関わった人たちのことです。

1955年に、作詞が宮川哲夫、作曲が利根一郎の「ガード下の靴磨き」と言う歌が、ラジオから流れてきました。

1 紅い夕日が ガードを染めて
ビルの向こうに 沈んだら
街にゃネオンの 花が咲く
おいら貧しい 靴みがき
ああ 夜になっても 帰れない

(セリフ)
「ネ、小父さん、みがかせておくれよ、
ホラ、まだ、これっぽちさ、
てんでしけてんだ。
エ、お父さん? 死んじゃった……
お母さん、病気なんだ……」

2 墨に汚れた ポケットのぞきゃ
今日も小さな お札だけ
風の寒さや ひもじさにゃ
馴れているから 泣かないが
ああ 夢のない身が 辛いのさ

3 誰も買っては くれない花を
抱いてあの娘(こ)が 泣いてゆく
可哀想だよ お月さん
なんでこの世の 幸福(しあわせ)は
ああ みんなそっぽを 向くんだ

戦争孤児が、敗戦後の社会を健気に生きている孤児を歌い上げた、この歌を歌ったのが、肢体不自由な子どもたちのお世話を、掛川市でし続けて、先日亡くなられた宮城まり子でした。新宿の東側と西側を連絡するガードの下や、上野の駅周辺には、親と死に別れた多くの浮浪児がたむろしていました。ある中学教師が次に様な手記を残しています。

『 ……焼け野原に、ポツンと残っていた銀行の大金庫を、ねぐらにした。15、6歳の仲間が4、5人。一番小さかった少年は、みんなの後ろをついて走った。
 ガード下の闇市で、店先のまんじゅうをくすね、少し離れた場所で新聞紙の上に並べると、あっという間に売れた。幼い子供の手からイモを取り上げて、食べた。
 秋になった。日一日と寒くなっていく。金庫では眠ることができなかった。他人が住んでいたバラックの板をはがして、たき火をした。米軍のジープがやってきた。カマボコ兵舎に連れていかれた。チョコレートと毛布をもらった。駅で寝ることにした。ホームに入り込んで、列車に乗ったら、暖かくてぐっすり眠ることができた。夜は列車に乗った。舞鶴、和歌山、下関へ。客は復員兵が多かった。車内は混雑していたが「こっちへきて寝ろ」と場所をあけてくれた。食料もくれた。みんな親切だった。ある朝、目を覚ますと東京駅に着いていた。
 上野、浅草、神田、新橋。ねぐらは毎晩、変わった。靴磨きや新聞売りをした。ヤミ市には、物資や人があふれていた。人ごみの中から手を伸ばして、おにぎりや大福もちを取って逃げても、誰も怒りはしなかった。大人も子供も、みんなボロボロの服を着て、地下道に寝ていた。
 「狩り込み」にあった。警官や都の職員が逃げまわる子供たちを「一匹、二匹」と数えてトラックにほうり込んだ。子供たちに、番号がつけられた(「それぞれの昭和」掲載記事)。』

この少年は、養護施設に収容されて、戦後を生きますが、定時制の高校に通い、大学にも学び、中学校の教師になった方です。様々な人生があって、昭和がありました。身を持ち崩してしまった人もいましたし、この方の様に、好い人との出会いと、導きがあって、教育者の道を生き抜いた人もいたのです。そして今の令和です。

私たち四人兄弟だって、戦前、戦時中、父が奉天(現・瀋陽)や京城(ソウル)にいましたから、何かのきっかけがあったら、残留孤児になっていたり、軍需工場の任務がなかったら、父は応召して戦死だって考えられますので、戦争孤児の可能性だってあり得ました。そんなこんなの戦後を駆け抜けて、今があります。いつでも教え、さとし、戒めてくれた方たちがいたのを思い出して感謝している、コロナ旋風下の今です。
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鈴蘭水仙

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また、家内が、和菓子屋さんのおバアちゃんから頂いてきた、「鈴蘭水仙」です。家籠りを強いられるご時世、小さな花に慰められております。間もなく、チューリップが咲くことでしょう。窓辺の花々が、春とともに、代替わりになりそうです。以前住んでいた家の水仙やホットリプは、今どうでしょうか。ちょっと気になる春先です。

鈴蘭は、入笠山の湿原に、綺麗に咲いていました。もう少し暖かくなると、いっせいに咲き出すのでしょうか。家に籠れと言われると、反逆児の私は、中央本線の信濃境で降りて、山歩きをしたくなってしまいます。足尾の方に行く「わたらせ渓谷鉄道」があって、それに乗って山歩きでもしたくなってきました。ミイちゃんならずも、外歩きがしたい旋風下です。

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早朝の火事

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先ほど、五時半頃ですが、仕切りにサイレン音が聞こえますので、西側の窓を開けると、煙が立ち上っています。NTTと定願寺の間の向こうです。ここ栃木は、火事の多い街です。ほとんど毎日の様に、消防自動車の出動のサイレンが聞こえています。高齢者の住宅が多いからでしょうか、私たちも注意して生活しなければなりません。『マッチ一本火事の元』、今流には、『ガスコンロスイッチ消し忘れ火事の元』でしょうか。〈江戸の華〉は、〈栃木の華〉であって欲しくありません。

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草餅

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必ず、新宿の高島屋で、「向島 志”満ん草餅(よもぎ餅)」を買って、新宿からJRと東武日光線を結ぶ特急電車に乗って、2週に一度の週末の土曜日に、次男が、家内を見舞ってくれます。多くを話さない息子ですが、母思いなのです。姉たちが遠くにいて、その分も含めての来訪なのです。

この「よもぎ餅」は、段違いで美味しいのです。近所でも作って売っていますが、生き馬の目を抜くほどの大東京の下町で、老舗の暖簾を守り続ける和菓子店の名品です。母親の病状に良いことを知って、入院中から続いているのです。「よもぎ(蓬)」は、ノーベル賞に輝いた屠女史の研究で、化学的に証明されているのです。

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ヨモギから見つけ、抗マラリア薬として開発した中国人研究者屠氏が、2015年のノーベル医学生理学賞を受賞されたということ。屠氏はキク科ヨモギ属の一年草であるクソニンジンからマラリアの特効薬となる「アルテミシニン」を抽出し、1990年代以降、マラリアの治療に大きく貢献した功績が認められ、 ノーベル医学生理学賞の受賞が決まった。

中国国営の新華社通信は、「この薬のおかげで100万人以上の命を救うことができた」と報じた。
http://www.independent.co.uk/news/science/nobel-prize-in-medicine-ancient-chinese-mystic-led-youyou-tu-to-develop-prizewinning-anti-malaria-a6680471.html
「ヨモギが癌細胞を死滅」 その内容は少し難しいかもしれませんが、 アルテミシニン 漢方として使われることの多いヨモギから抽出されるものは、癌細胞を破壊する力があり、健康な細胞1つにつき12,000個もの癌細胞を消滅させることができると! (参考は 科学雑誌「Life Sciences, Cancer Letters and Anticancer Drugs」)に発表された研究論文より発表されています。

また、アルテミシニンは 抗がん剤よりも34,000倍も正確に癌細胞だけを狙い、死滅させることができる! 驚きです!腰が抜けます! 世界には色々なヨモギの品種があります。日本の一般的なヨモギだと200g食べなければならないわけです。毎日、200gのヨモギを食べるのは簡単ではないように思います… とはいえ、この量は、既に癌を発症している人に対して薬効が期待できる量です。 まだ癌を発症していない人の癌予防には、これほどの量を毎日摂る必要はありません。

どのヨモギ属においても、アルテミシニンは花に一番多く、次に葉。茎と根にはほとんど無いらしく、日本では花を食べる習慣がないのが現状です。 それでもヨモギ(蓬)は万能薬草。 ハーブの女王です! 食べる(食卓に) 飲む(お茶として) つける(薬草として) 浸かる(お風呂に) 燃やす(お灸) 嗅ぐ(アロマ) ヨモギを食べたから癌が治る? という訳ではありませんが、 防除、安心です、副作用もないですから。

他効能として ほうれん草の3倍もの「食物繊維」や貧血やコレステロールに効く「クロロフィル」、免疫力を高め粘膜や皮膚を作ってくれる「カロチン」、止血効果のある「ビタミンK」などが豊富に含まれています。 食事だけでなく、自分を取り巻く様々なこと(環境、仕事、家族、人間関係など)を考慮してみましょう。 なんだか無性によもぎ餅を欲しませんか? 最後まで読んで頂き、ありがとうございました。 (文・中瀬由香)

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今週、星の遺跡に行きました時に、遺跡の近くの原っぱに、ヨモギが芽を出していました。少しですが摘んで帰ったのです。どこのもう野原や田の畦道にも、ヨモギが出ていることでしょうか。桜よし、ヨモギもよしの三月です。

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人道主義

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「優先順位」、何が一番重要なのかを考慮するため、しなければならないことに順位をつけることを言ってる言葉でしょうか。一月以来、「武漢ウイルス」の新型肺炎の世界的感染拡大の中、〈国の面子〉、〈為政者の業績〉、〈経済利益〉などが前面に出てしまって、《人》の大切さが後回しにされていないか、心配でなりません。

判断と決断に、人や国の思惑が入り込んで、時期を失してしまったのが、一番残念です。《冷徹な決断》こそ、しかも科学的な根拠を持った決断こそ、人や国の損得を考えない、《公平な決断》こそが、今求められています。

政治家の中で、私が好きなのは、日本では斎藤隆夫と広田弘毅、アメリカではアブラハム・リンカーン、アジアではネルー、ヨーロッパではウインストン・チャーチルです。ナチス侵攻の脅威にさらされたイギリスが、国の存亡をかけた重大な決断をします。そして英国民に向かって、“ never give up ” と語りました。このチャーチルの英国首相としての決断の根底にあったのは、徹底した《人道主義》でした。

日本が、〈国家主義〉、いわゆる〈日本精神〉を掲げてアジア支配を目論んだのとは違います。もちろん、イギリスの植民地主義には大きな問題があるのは事実です。

『チャーチルが参加した大西洋憲章以降の連合国の戦後処理構想は、41年12月の太平洋戦争の開始に伴ってアメリカ大統領とのアルカディア会談を行い、翌年1月の連合国共同宣言発表に合意した。これは連合国の結成の第一歩となり、戦後の国際連合結成につながっていく。43年1月にはカサブランカ会談で北アフリカ戦線を形成することに合意し、ドイツ・イタリアを追い込んでいった。43年11月にはカイロ会談でローズヴェルトともに蒋介石と会談、日本に対する無条件降伏を求めることで一致した。続いて12月にテヘラン会談で始めてソ連のスターリンを加えて米英ソ三国の最初の首脳会談を開いた。ここではソ連を警戒するチャーチルは、スターリンの要求する第二戦線の問題やポーランド問題で対立があったが、ファシズムに対する闘いを進める基本線では一致した。10月にはモスクワに飛びスターリンとの間でパーセンテージ協定でバルカン諸国の分割協定を作っている(「世界史の窓」から)』

人類の敵の蠢動(しゅんどう)に対して、チャーチルが果敢に戦いを挑んだのは見事でした。セント・ジョージ・スクールに学んだ小学生の頃のチャーチルは、『・・・いわゆる「落ちこぼれ生徒」だった。成績は全教科で最下位、体力もなく、遊びも得意なわけではなく、クラスメイトからも嫌われているという問題児だった。校長からもよく鞭打ちに処され、チャーチル自身もこの学校には良い思い出がなく、悲惨な生活をさせられたと回顧している(「回顧録」から)』、だったそうです。

第二次世界大戦(ヨーロッパ線線)に終了後、ドイツ将校の処分について、ソ連のスターリンが5万人、アメリカのルーズベルトが4万9千人の銃殺を主張した時、『そんな大量処刑は英国議会も国民も黙ってはいない。そんな非道を許して私と我が国の名誉を汚すぐらいなら、私は今この場で庭に引きずり出されて銃殺された方がマシだ。』と、大英帝国のチャーチルは、「テヘラン会議」で言っています。

《最も大切なこと》が、好き嫌いの様な個人的な思いで決められないで、地球よりも重いと言われるの人の命、人の尊厳を大事にして、正しく決断がなされる様に、今日日の突きつけられた課題に、最善の決断が下される様にと願う三月末です。

(ウインストン・チャーチルです)

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解体

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巴波川を挟んで南側の対岸に、駅からの道の脇に旅館があって、かつては、商人宿として、商いや営業のために、来栃したみなさんが利用したことでしょう。聞くところによると、後継者がなくて休業されて、後に廃業したのだそうです。けっこう部屋数が多いのですが、先週から来解体工事が始められていて、起重機や破砕重機などで、コンクリートの建物が壊されています。

最近の解体工事は、コンクリートの破砕粉が飛んで、近所に迷惑にならない様に、散水しながら作業を続けています。ここ4階から、職人さんたちの無事故を願いながら、時折手際よい作業を眺めております。きっかり5時で、その日の作業を終えて、現場を片付けて、帰って行かれた様です。

この様な作業を、アルバイトでしたことがありますので、ちょっと懐かしくなって、つい手が出そうになってしまう自分を抑えているこの頃です。朝、8時前に作業員のみなさんが来られるのです。子どもの頃に、次の様な歌を歌っていたのです。

♯ 朝の4時半だ、
べんと箱下げて、
家を出て行く土方の大将 ♭

昔は、作業が朝の5時か6時には始まっていたのでしょう。まだ真っ暗な中を、奥さんに作ってもらった〈ドカベン〉に、一升飯を詰めて、昆布かイカの佃煮かメザシ、そして梅干しにたくあんが相場が決まっていたようです。腰には手拭いを下げて、組の名の入った半纏でニッカズボンを着て、地下足袋(じかたび)の出立でした。

そんな姿のおじさんたちを期待していたのですが、今では自動車に乗って、肩から鞄を下げ、頑丈な作業靴に、きれいに洗濯された小綺麗な作業服に身を固めているのです。時間通りに始まって終わる、会社員なのでしょうね。お昼も、出前弁当でしょうか、配達の車が仮駐車場に止まっていました。

こう言った現場で働く人のことを、昔は、〈ニコヨン〉と呼んでいました。〈日当240円〉との賃金が相場だった時代です。更地になったら、アパートとかマンションが建つと聞いています。

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遠足二段

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「ふれあいバス(市営)」の栃木駅北口発で、「星野遺跡」で下車して、石器時代と縄文時代にわたる住居跡の遺跡(東北大学の発掘)を見学に行きました。若い友人がお嬢さんと、歯医者の治療を終えてから、追いかけて来てくださって、一緒に食事をしたり、フルーツを食べたりして、遊んだのです。そして乗って来られた車で、家まで送ってもらうことができました。

一足早い、今春二度目の「遠足」でした。武漢ウイルスの影響が騒がれ、『老人は外出するな!』と言われているのですが、人のいない遺跡は、影響外でしょうか。帰りしな一組の親子連れがいただけでした。3月21日から、「後期高齢者」は、どの路線も、どこまでも、「100円」でバスに乗車できると改定されていて、助かりました。好い一日でした。

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ハサミ

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今春、幼稚園の年長になろうとしているお嬢さんが、お母さんと、時々、わが家にやって来ます。『じゅんさん!』、『ゆりさん!」と、まるでお友だちの様に呼んでくれる、実にくったくのない子なのです。多くのお母さんは、自分の子どもに持たせないのですが、彼女のお母さんは、どう使うかを教えたのでしょうか、ご自分の子に〈ハサミ〉を持たせています。来るたびに、器用にハサミで、折り紙を切って、セロテープで貼り付けて、作品を作って遊んでいます。

わが家に、“ モンキー・バナナ・スタンド"があるのですが、来るたびに、何度も見てきた ” 毛なしモンキー “ を、先週は、ハサミで切った紙で服をこしらえて、この子は、その裸をおおおったのです。そして、リボンまで作って頭につけていました。『これ、欲しいなあ!』と言い続けてきたのを、『これ、小百合ちゃんが置いてったからね!』と、ダメにしてたのです。今回は帰りしなに、このモンキーを借りて帰って行きました。

この子は、『欲しいなあ!』と言う代わりに、『ウチにあるのが一番いいいんけどなあ!』と言う、知恵を働かせるのです。上の娘にメールをして、『上げちゃったけど、ごめんね!』と言ったら、『そこに来て楽しむのがいいのにね!』と言いながらも、承諾してくれました。4〜5才の女の子が欲しそうな物を置いていたので、仕方がないかな。

もう一つ、カーテンをはさむ猫があって、これもお気に入りなのですが、こちらは諦めた様で、ちょっとホッとしています。オネダリはしない子で、けっこう潔い5才です。そう言えば、わが家の4人の子も、オネダリ下手だったのです。親戚の家に行くと、おもちゃは自分で工夫して作らなければならなった彼らは、珍しい物を見つけても、欲しい素振りはしませんでした。いじらしいほど、じっと我慢の子たちだったのです。

私たちの孫たちも十代で〈工事中〉で、どんな人に造り上げられて行くことでしょうか。このお母さんは《栃木の娘》、お嬢さんは《栃木の孫》だと言ってくれています。スクスクと健全に育って行くことを願う、桜の便りを耳にする、三月下旬です。

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110年

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今日、3月23日は、父の生誕110年の誕生日です。61歳で召されて、半世紀が経とうとしています。この年の1月、逗子開成中学校の13人の学生が、ボート転覆の水難事故に遭って亡くなり、そのことを歌った「真白き富士の嶺(ね)/作詞が三角錫子、作曲がジェレマイア・インガルスー)」が作られました。

真白き富士の嶺、緑の江の島
仰ぎ見るも、今は涙
歸らぬ十二の雄々しきみたまに
捧げまつる、胸と心

ボートは沈みぬ、千尋(ちひろ)の海原(うなばら)
風も浪も小(ち)さき腕(かいな)に
力も尽き果て、呼ぶ名は父母
恨みは深し、七里ヶ浜辺

み雪は咽びぬ、風さえ騒ぎて
月も星も、影を潜め
みたまよ何処に迷いておわすか
歸れ早く、母の胸に

みそらにかがやく、朝日のみ光
暗(やみ)に沈む、親の心
黄金(こがね)も宝も、何にし集めん
神よ早く、我も召せよ。

雲間に昇りし、昨日の月影
今は見えぬ、人の姿
悲しさあまりて、寝られぬ枕に
響く波の、音も高し

帰らぬ浪路に、友呼ぶ千鳥に
我も恋し、失(う)せし人よ
尽きせぬ恨みに、泣くねは共々
今日も明日も、かくてとわに

父は横須賀に生まれていますから、ほど遠くない逗子の海岸で、この事故が起こったのです。この年の8月には、「日韓併合」がなされ、悲しい民族対立の始まりになり、今だにその尾を引いています。また、11月には、江ノ島電鉄が藤沢駅から鎌倉間が開業しています。

「公郷町(くごうちょう)」、これが父の生まれた街の名で、日本海軍の横須賀基地に勤務する技官の家に生まれています。横須賀中学で学び、「教育勅語」を、入学試験で暗唱したとかで、それを褒められて入学許可が降りたと、父が言っていました。

四年ほど前に、下の兄と弟の三人で、父の生家を訪問したことがありました。叔母といとこが住んでいて、久し振りの訪問で、軍港を見下ろす小高い丘の上の家でした。私たちの父母が結婚した時、父は、母の姓を戸籍に登録したのです。その生家に、父の本来の姓の表札がかかっていて、ちょっと驚いたのです。

明治が150年、私たちの下の子が今年、40になりますから、父が生まれた年から40年前は、江戸時代だったことになり、何か数字のマジックにあった様な、不思議な時への思いもして参ります。

(横須賀市の市花の「浜木綿(はまゆう)」です)
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転嫁せず

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Windmill, mill or bakery. Vintage hand-drawn illustration

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「責任転嫁」、自分が負わなければならない責任を、他人の所為にして、何食わぬ顔でいることです。どうして嫁を転ばすのでしょうか。漢和辞典によりますと、「嫁」という字が漢語で「よめ」の意味の他に、「嫁に行く」から転じて「売りつける、なすりつける」の意味も持っているのだそうです。それで、「嫁禍(かか)」、自分の災難を他人に押し付けることを、表すことばとして用います。

ちなみに、「嫁」の旁(つくり)の「家」は、家の意味を表すのではなく「か」という音を表すもので、「穫り入れる」との意味の「稼(かせ)ぐ」ことを言うそうす。そこから、「迎え入れた新婦」のことを、そう言う様です。さらに「稼」の偏の「禾」は穀物の稲を意味しています。それで、「家」が「佳(か)/よい」と同じ音を表すもので、穀物を植え、実らせ、農作業を行い、そう言った仕事に励むこと、稼ぐと言った意味を持っているそうです。

広田弘毅は、福岡県の出身で、元外交官、斎藤、岡田、近衛内閣時の外務大臣でしたが、南京事変の時点で、総理大臣の職にありました。その責を問われて、極東裁判で、A級戦犯で死刑判決を受け、処刑されています。広田は、公判中に沈黙を貫きました。『このままあなたが黙っていると危ないですよ。あなたが無罪を主張し、本当の事を言えば重い刑になることはないんですから』と勧められ、無罪を主張するよう促されても、それを拒んだのです。天皇や自分と関わった周囲の人が、不利になることを避けたからだと言われます。

同時期に、A級戦犯で訴追された被告たちのほとんどが、責任を自分で果さない中、『高位の官職にあった期間に起こった事件に対しては、喜んで全責任を負うつもりです!』と、広田は言って、責任転嫁などしませんでした。石屋の息子で、苦学して東京帝国大学を卒業した人でした。そんな出自の彼の方が、真実な心意気を宿した《気骨の人》でした。

『東條に唆(そそのか)されて仕方なく!』とか『時の巡り合わせが良くなかったから!』とかの言い訳や、責任転嫁をまったくしなかった、潔い人でした。広田の静子夫人については、次の様に記されています。

『広田の妻・静子は、東京裁判開廷前の1946年(昭和21年)5月18日に鵠沼の別邸で服毒自殺している。自殺の理由として、国粋団体の幹部を親に持つ自分の存在が夫の裁判に影響を与えると考えていたためとされている。死因は初め狭心症と発表されており、自殺であったことは1953年(昭和28年)の広田の追悼記念会で公にされた(ウイキペディア)』とです。

(オランダ公使の折、『風車、風が吹くまで昼寝かな』と詠んだ広田弘毅です)

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