光り輝く一瞬

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 人間を突き動かすもの、特異な行動をとらせるものの一つに、〈劣等感〉があります。これまで残忍な人、非情な人と、私は個人的に出会ったことはありませんが、そう言った人のことは話に聞いたことがあります。これまで過ごした七十数年の年月に、数限りない人と出会ったと思います。職業柄、多種多様なみなさんの生き方や考え方に触れたことになります。結論的に、けっこう、この劣等感って厄介なものの様に思えるのです。
 
 自己嫌悪に陥っていたり、言うことが自虐的だったりして、劣等感に苛まれている人は、何人もお会いしたことがあります。そう、ありのままの自分を受け入れられない人が、そう言った傾向が強いのではないでしょうか。欠点や劣っていることに拘り過ぎて、ご自分を全体的に見ることをしないのかも知れません。ある講座を受講した時に、その日の講師が、出席者を二人づつ向き合う様にされました。

 それで、相手の《優れた点》を発見し合う様に促されたのです。無作為の相手が決められて、初対面の人の容姿や雰囲気や素振りなどを、目で観察し合ったのです。知らない人だから、かえって先入観無しで、いろいろなことに気づけるわけです。相手の女性に、何を言ったか私は覚えていませんが、『歯が綺麗ですね!』と、その方に言われたのは覚えているのです。他に褒めようがなかったのでしょうか。

 人の内には、けっこう自分では気づかない優れた点があるものです。先日、歯医者に行って、大(おお)先生(院長の父上かも知れません)が、歯の治療の最終的仕上がりを診てくださったのです。手入れが良かったのでしょうか、三度も『歯が綺麗です!』と言われたのです。これで、生涯に二度歯を褒められたことになります。これは両親に感謝しなければなりません。七十でも褒められて嬉しいもので、このところご指導通りに歯磨きに、さらに励んでいるのです。

 誰でも褒められたい願望があるのに、とくに幼児や少年期が、それを必要としているのに、〈褒められなかった子〉がいました。それが原因してでしょうか、体格的に小さく、弱々しく病弱な体質で、外見的に見栄えがしない子がいました。その一人が、あのアドルフ・ヒットラーの少年期です。でも恵まれない幼少期を過ごした子どもが、みなそうなのではありません。〈劣等感〉に苛まれない人の方が、きっと多いのでしょう。正しく対処できたらよかったのですが。

 でも、少年アドルフは劣等感の申し子の様でした。お父さんとの関係もよくありませんし、お母さんは、そんな子を褒めたりしなかったのかも知れません。その上、両親の仲もよくありませんでした。軍人だった父親は、母親にも子どもたちに横暴に振る舞っていたそうです。少年アドルフには、憧れの父ではなく、無関心だったら救いがあったのですが、何と自分を生んでくれた父親を、〈敵〉としたのです。

 自分の父親を敵視していたというのは不幸なことでした。ということは、人間形成のために、良い男性性のモデルを持たなかったことになります。人は、どこかで強いモデルを求めるものだからです。アドルフは、父親と16歳で死別し、敵をなくした彼は、その敵愾心の矛先を他に向けます。経緯は他にもあるのですが、それが最終的に「ユダヤ人」の撲滅に導いたことになります。

 でも「劣等感」は、上手に作用すると素敵なものを生み出すのです。就学前に肺炎に罹って、生死の境を彷徨った私は、スプレストマイシンやペニシリンの投与で生き残りました。それでも私は、病弱で学校に行けず、学習能力の遅れで劣等感に陥っていました。いまだに漢字の書き順が間違っているのです。東京の小学校に転校して、久し振りに登校した教室で、国語の授業時間に、生涯一度きりの《褒めことば》を、内山先生からもらったのです。

 それは今でも忘れられない、《光り輝く一瞬》でした。その一瞬があったので、不登校児にもならず、学校に行ける時にはワクワク感があり、行くと調子に乗り過ぎて、悪戯をして怒られて立たされるのですが、楽しかったのです。しまいには学校の教師までさせていただきました。それが信じられない級友代表が、本当かどうかを確かめに学校にやって来たのです。これって劣等意識を、一言の誉めことばが跳ね返した例かも知れません。

 私のアメリカ人の恩師は、日本での働きは進みませんでした。非凡な教師でしたが、結果は出せずにいたのだと思います。野心的な人でも、売名家でもなかったので、機会を得なかったのだと思います。それで彼は著作に情熱を傾け、何冊かの本を米国で出版し、日本でも翻訳で出版していました。私の本棚に、その著作があります。彼も満たされない部分を持ちながら、後代の人に、学び得た思想を残そうとして生きたのです。手指で数えられない、量りで測りきれない実績があります。
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 それにしても私の知る限りでは、あんなに堅実なゲルマン人が、一人の劣等感の権化の様な人の演説を、全国民的に支持してしまったのは、時代的な背景、民族的な危機の中で、救世主の様に思えた、いえ惑わされ、そう思わされたからにほかなりません。〈強さ〉の背後には、必ず〈弱さ〉が隠されてあるのに、気づかされるのです。弱さの反動が、横暴を生み出し、悲劇をもたらします。

 あのアメリカ大統領のリンカーンは、祖父を原住民に殺害され、母を9歳で亡くし、継母に育てられた人でした。貧しい開拓農民の子でもありましたので、正規に受けた教育は一年ほどだったそうです。ですから劣等感に苛まれて然るべき子でしたが、アメリカでは、最も尊敬される大統領となっています。

 リンカーンの人となりの成長に果たした継母サラの果たした役割は、実に大きかったのです。書を読み、労働に勤しみ、人を愛することを、その継母から学んだ人でした。サラから聖書を読むことを教えられたことが、リンカーンの人格形成、政治家としての使命をもたらせた点ではないでしょうか。

 厄介さを、逆手にとって、リンカーンの様に、二十一世紀のアメリカの青少年にさえも、敬意を持たせている器になっていった人がいます。また人類の最大の汚点を記して、厄介者の餌食になったものもいるわけです。人は、美しくも醜くも生きられるのですが、荒れ野の中で、どなたの生涯にもあった《光り輝く一瞬》を思い返して、心して美しく咲き終わりたいものだと、思う晩秋の北関東の巴波の流れの辺りです。

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国境を超えた友情

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 香港と中国の合作の映画、「十月围城(邦題は〈孫文の義士団〉)」を、“优酷youku”のサイトで、在華中に観たことがあります。清国の封建社会を打ち破って、近代国家を作ろうとして立ち上がった孫文の活躍した「辛亥革命(しんがい)」を描いた作品でした。

 印象的な強烈な始まりでした。教場から出て、教授の周りを、学生たちが取り囲みながら、外階段を降りて来るのです。その時、教授が語っていたのが、” government of the people by the people for the people(shall not perish from the earth.)“ でした。次の時代を担う若者たちに、リンカーンがゲティスバーグで語った演説を紹介していたのです。それを聞く学生たちのキラキラした目が印象的でした。

 すると突然、銃声がして、教授が、清朝政府から送り込まれた狙撃者の銃弾に倒れてしまいます。1911年10月に起こった「辛亥革命」の印象的な始まりで、そのうねりが、香港から武昌に、さらに全土の繰り広げられ、翌1912年に、南京に「中華民国」が樹立していきます。激動の中国近代史の重要な一コマです。

 この孫文は、中国では、「国父」と呼ばれて尊敬を集めている器です。しかも日本と日本人との関わりが多く、1895年には、日本に亡命しています。梅屋が香港にいました時に、生涯の友となる、革命の支援者である、孫文と出会います。『中国を西欧の植民地に危機から守ることこそ、東洋を守る一歩ではないでしょうか。しかし今の清朝では、背負うの植民地化を免れることはできません。』と言って、清朝打倒の計画を初対面の梅屋に、孫文は分かち合います。梅谷は、『君は兵を挙げよ。我は財を持って支えん!』と言って、孫文を支援していきます。

 孫中山という名が正式で、この名に因んだ「中山路」という大通りが、中国中の主要都市にあるほどです。華南の街の私の家に出入りしていた学生と一緒に、南京大学に出掛けた時に、壮大な敷地の中にある、孫文の墓所の「中山陵」に行ってみました。平日でしたが、「国父孫文」が、どれほど、現代の中国人に慕われているかが分かる光景を目にしたのです。

 孫文は、革命の途中で病没するのですが、梅屋庄吉との友情は終わりまで保たれています。梅屋は、長崎の人で、香港で写真館を経営し、後にシンガポールで映画産業に従事し、莫大な資産を蓄えた実業家でした。その資産を、孫文の仕事のために注ぎ込んで、背後から革命を応援をしたのです。

 政治の世界で活躍した明治人は数多くいますが、国際的な舞台で、密かに、辛亥革命を支え続けた人がいたことは、覚えておきたいものです。中国の近代化のために、梅屋庄吉が大きな役割を果たしたことも忘れてはなりません。私たちの祖父や曽祖父たちも、幕末から明治の激動の時代の中を、みんなが過ごしたわけです。そして日中戦争、対米英戦争の敗戦とともに、どん底の中を、父の世代はそこからの復興に励んで、経済大国になったわけです。そして、経済が全ての様に誇る現代のまっただ中で、新型コロナウイルスの脅威にさらされて、戦々恐々としている今です。

 厳しい時を生きる私たちに必要なのは、自分だけのことを考えるだけではなく、広く世界大〉の思いで、日夜、発症された方のお世話をされている医療関係者のみなさんの応援者でありたいと思います。拡散伝染を防ぐために、決まりを遵守したいものです。先週、アメリカにいる家内の姉と、その二人の孫が、陽性になっていて、祈りの要請がありました。近親者にもコロナが迫っている今、心して感染者のみなさんの全快を願っているところです。
 
(梅屋庄吉夫妻と孫文です)

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芋虫の様に

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 圧政に苦しむ領民が、命をかけて、江戸おもてのお殿様や将軍様の行列の前に、白い死装束で出て、割り竹の先に、直訴内容を認めた訴状を差し出す「直訴」の光景を、映画で観たことがあります。あの谷中の住人・田中正造が、足尾鉱山の鉱毒被害の惨状を、明治天皇に直訴したと歴史が伝えています。

 また「陳情」は、『[名](スル)目上の人に、実情や心情を述べること。特に、中央や地方の公的機関、または政治家などに、実情を訴えて、善処してくれるよう要請すること。また、その行為。「国会に陳情する」「陳情団」』と、“ goo辞書 ” にあります。

 今年は、特別な業界以外、おしなべて経営状態が悪くて、実情を知ってもらう、「陳情団」が多そうです。「時刻表」を発行してきていて有名な「JTB(日本交通公社)」が、観光業界の窮状を、〈お上〉に訴えて、“ go to トラベル ” が、国がある程度の旅行費用を負担して、人を観光地に連れ戻し、観光業を支えています。

 そう言えば、昔、『よっしゃー!』と言うと、道路でも新幹線でも橋梁でもトンネルでも、すぐに工事が始まって、作ってしまう総理大臣がいました。選挙の地元民は、たいへんな恩恵にあずかったそうです。また、今では駅周辺がたいへんに栄えているのですが、東海道新幹線の「岐阜羽島駅」ができた当初、その駅前は延々と田圃でした。何度かその様子を、新幹線の中から見たことがあります。この駅の設置、開業も有力な人物の肝入りだったのです。

 その反面陳情の太いパイプ、実力のある〈お上〉への伝(つて)のない業界は、顧みられないで、破産に追い込まれたり、多くの失業者を生み出してしまいます。命を死守することよりも、経済優先が、どんな結果を生むのでしょうか。芋虫が伸びる直前は、思いっきり身を縮める時期があります。コロナ禍の時期、疫学や医学の従事者は、「自粛論」を呼び掛けました。終息のためには、全世界が、身を縮めて耐えて、待つ以外に、この猛威を抑え込むことができないと専門的な判断をして、ずっと声を高く言い出し続けてきています。

 人は、お金があっても生きていなければ、何もできません。生きているなら解決の知恵を寄せ集めて、終息に向かうことができると、私は信じています。大局的にものを見て判断して決定しないと、〈欧州の三分の一〉もの人々を死なせた「黒死病」の様な、歴史が記す結果に終わらないとも限りません。疫学も病理学も医学も、現代医学にはお呼びもつかない時代の世界中で
の流行でしたが、いつの間にか黒死病は終息したのです。

 若い頃、勤めていた私学教育の団体は、研究所を作り、東京郊外に広い敷地を持っていました。釣りもでき、散策できるほどでした。ところが宅地業者に売って、経営改善を図らなくなってしまったのです。それで所管の官庁の大臣に、経営改善の財政的な援助を願い出ていました。選挙の圧力団体でもありました。しかし半世紀経った今、その団体は、一人の担当者を残すのみとなってしまっています。陳情効果がなかったのか、時代の要請に叶わなくなって団体自身が不要とされたのでしょうか。根幹なこと、第一義的なことに不足があったに違いありません。

 《第一義的なこと》を励行しないなら、次の対策は出てきません。自分や自分の縁者だけの幸せや安全を願うだけで、国全体、世界大にものを考え、思わないなら解決の糸口が見出されません。政治的な判断が、医療の専門家の意見を封じ込めていては、収まるものも収まりません。個々人は、専門家の意見を聞いて、日常の手洗いやマスクの着用、必要最低限度の外出を励行することです。そうして切り崩す以外に、終息に至らなそうです。その感染させない努力の集積が、良い結果を生み出しそうです。

(観光経済新聞の記事です)

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美しい日本語

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 流石、高校の国語の授業で、「蜻蛉日記」の書名は学んだのですが、その内容を学んだ記憶がありません。実は、この日記は、藤原道綱母の作で、20年ほどの結婚生活の日常を綴ったものなのだそうです。夫への不平や鬱憤(うっぷん)を、奥方が日記に綴ったのです。どんな気持ちで、妻の爆発する不満を、ご主人は聞いていたのでしょうか。高校生に、そんなことを学ばせたくないと、文部省は考えたからでしょう、学ぶことはありませんでした。

 その様に、「罵詈雑言(ばりぞうごん)」、「呪いの言葉」、「罵倒語」と言うものがあります。子どもの頃に、負けたり殴られたり、不当に扱われると、悔しくて、この「罵倒語」を使った記憶があります。その一番は、『バカカバ、チンドン屋、お前の母ちゃんデベソ!デベ・・・』だったのです。それが一番の悪態でした。それ以外に何と言うのか記憶はないほど、悔しさが染み込んだ、唯一の言葉でした。

 学者によりますと、日本語には、この「罵倒語」の種類が、朝鮮語やヨーロッパ諸国の言語に比べて、特徴的に少ないのだそうです。英語は長く学んだのですが、どんな言葉やジェスチャがあるのかを学んだことがありませんが、口に出来ないほどに酷い様です。言ってしまったら、口を石鹸で洗わなければならないほどなのに、よく使われる様です。

 もし朝鮮語がわかったら、韓国のメディアが放つ、日本への憎悪の言葉は、けっこう激しいものがありそうです。「恨(朝鮮語でハン)」と言う、朝鮮民族の文化的な思考形態からくる感情の中に、怒り、憎悪、痛み、過去のしこりがあると言われています。その感情が逆上して、海の向こうから聞こえてきそうです。あんなに立派な友人たちがいるのに考えられません。感情って煽られると増幅してしまう弱さがあるのでしょうか。

 中国語を学んでいた頃に、学校でも、友人たちからも、罵倒語を学んだことがありませんでしたので、中国では、何と言って罵倒するかを知らないのです。と言うか、中国の街の生活の中で、そう言った悔しい立場に立たされたことが全くなかったので、不要でした。戦争中に、日本がしたことに比べたら、何を言われても当然なのに、彼らからは、何も聞きませんでした。

 日本人は、狭い土地に住んでいて、農耕を主要の産業にしてきたので、土地に繋がれていない牧畜の民のように、どこにでも、『プイ!』と出て行く自由がなかったのではないでしょうか。それで、言いたいことも我慢しながら、ニヤニヤと笑いながら、せいぜい『お前の・・・』と言うだけで済ませてきたのでしょう。それで「和気藹々」と生き続けてきたに違いありません。 日本語って、極め付けの綺麗な言語ではないでしょうか。

 そう、最近のことです、家内が「短歌」を作り始めています。NHKラジオ放送の「昼のいこい」の時間に、俳句紹介があるのですが、何度か投稿したのですが、季語が難しいそうで、どうも諦めてしまった様です。それで、《令和の与謝野晶子》になろうとしてるのでしょうか、短歌に凝り始めているのです。指を降りながら、五、七とやっています。《三十一文字》での日本語は、実に綺麗です。

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36歳

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 大相撲の琴奨菊が引退しました。九州福岡の出身で、高知県の明徳義塾で、中高6年間学んだ後、相撲界に入ったそうです。中国の華南の街で、その明徳義塾高校の校長先生と校長秘書のお二人に、シャングリラ・ホテルでお会いしたことがありました。不登校の男子をお世話してしていた時でした。『私がお世話しましょう!』と、その校長が言ってくださり、この高校に留学をさせていただいたのです。

 その高校の入学式に、ご両親に代わって出席しました。立派な校長室に案内していただき、ご挨拶を交わして、式に列して辞したのです。彼は卒業し、東京の大学に四年間通い、卒業後、日本の会社に入社したのです。その琴奨菊の同窓です。実は、入学式の前日に高知龍馬空港に着いた私は、レンタカーを借りて、万葉学者の鹿持雅澄の赴任地の大山岬を訪ねました。下級武士の子で、大山岬で浦役人の勤めをしていたのが、琴奨菊の引退時ほどの年齢だったと思われます。その勤めをしながら、万葉研究をした人でした。その大山岬に、彼が詠んだ和歌の一首が、碑になって残されていました。

 秋風の 福井の里に 妹をおきて 安芸の大山 越えがてぬかも

 高知城下に残している妻に宛てて認めた書の中に、そう詠んだのです。さすが万葉を学んだ人の歌は素晴らしく、妻を恋しくも愛する思いが見事でした。高知に行ったら龍馬や岩崎弥太郎が第一なのでしょうが、へそ曲がりの私は、雅澄(まさずみ)のいた鄙びた岬に行きたかったのです。実は、若かった私の世話をしてくださった方が、早稲田大学で鹿持雅澄の研究もされていて、そんな関係で行ってみたかったのです。
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 長年の念願を果たした翌日、須崎市にある学校に行ったのです。広大な敷地の学校の中に入って、野球場の脇を徐行していると、野球部員が、一斉に、『こんにちは!』と脱帽して挨拶してくれたのです。運動部の出身者の私を、その清々しい声が、いい気持ちにしてくれたのです。相撲部の練習場は、見当たりませんでしたが。もう琴奨菊は相撲界入りして、活躍していた頃でした。

 相撲取りの琴奨菊は36歳で引退ですが、私がアメリカ人起業家から責任を任されたのが、35歳でした。鹿持雅澄の研究の「万葉集古義」が認められ、出版されたのは、彼の没後30数年がたった明治になってからです。鹿持雅澄の業績や「千字文」の研究者の最後の弟子で、分野の違う研究の道に進ませ様としてくれたのですが、恩師の意に反して教師の仕事を辞めてしまいました。そしてアメリカ人起業家に8年間仕え、副職を持ちながら、家内と二人で、その後の仕事に従事しました。助手の時期を合わせて都合34年勤め、その後、お隣の国で13年過ごしたのです。

 思い返せば、琴奨菊が年寄りを襲名した年齢で、私は、新米の働き人になったわけです。能力や生きる世界が違うと、それだけの違いがあるのでしょうか。人生の事とは、何をしたかの業績ではなく、《何であったか》、《どう生きたか》にある、そう教えられ、そう生きて来て、まるで〈平幕〉のままで退職して今日があります。琴奨菊は《大関》を張ったのに、中古の車を乗り継いでいるのが、私と似ています。ただ、私は車に乗ることも、もはやなくなりました。

 今、6歳の小朋友が、〈百合さん〉、〈準さん〉と、七十のジジババを名前で呼んでくれるのです。彼女のお母さんから、『◯ちゃんも、嬉しい事、辛い事があると、百合さんと、準さんにおでんわする!」と、お二人をお近くに感じてます^_^』と、メッセージが送られて来ました。実の祖父母の様に慕ってくれています。

 そう生きた私たちで、満足でおります。一冊の本を書き上げることもせず、勲章も褒賞もなく、年寄り株なども買えず、片田舎で、病後と老後を過ごしている私たちですが、中国大陸の友人たからも、子どもたちからも、『お祈りしてください!』との要請が時々あります。それが、今の家内と私にできることなのです。

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妙薬

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 去年の秋、台風19号で罹災した私たちは、ご好意で、高根沢に避難所を得て、三週間弱、見ず知らずの街に住んだのです。実に親切にしていただきました。慌わてて避難して、常備薬の降圧剤を持って来るのを忘れてしまったのです。それで近くの町医者を訪ねました。親切なお医者さんが、いつものよりも等級の高い薬を投薬してくれたのです。

 また近所に、餃子の有名店の支店があって、何度か食べに行ったのです。退院後、それまで餃子を食べられなかった家内が、美味しくそれを食べたのです。北京の繁華街の「王府井wangfujing」に住んでいた方が、戦後帰国して、宇都宮でお店を開いたのが、「珉珉minmin」と言う餃子屋さんでした。その支店です。北京の隣人仕込みの製法で成功して、宇都宮市民に愛され続けているそうです、美味しく安いのです。

 またパン屋さんに、私たちの好きな「ベーグル」が置いてあって、ここも何度も出掛けては買って帰りました。餃子にしろベーグルにしろ、安く売られていて、驚かされたのです。また、「1000円散髪」の理髪店があって、家内と私が髪を切っていただきました。客扱いが親切で、感動的でした。

 あのまま住み続けたいほどの好印象を、その街で得ていましたが、今の家を契約していましたので、栃木に戻ったのです。玉に瑕(きず)は、宝積寺(ほうしゃくじ)と言うJR宇都宮線(東北本線)の駅から避難所が遠かったことです。一度だけ、家内の通院のために、電車を利用し、駅からの往復、タクシーを使ったのですが、あとは歩きでした。
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 あの時ほど、しかも雨の日に、運転できないもどかしさを覚えたことはありませんでした。滞華の間中、帰国時に、車の運転は2、3度しかしていませんでしたので、免許証の更新をせずじまいでいました。その未更新を悔やんでも〈後の祭り〉でした。そうしましたら、ここ栃木では、高齢者の運転手が多くいるのが分かったのです。なぜなら車なしでは高齢者は、こちらでは生活できないからです。

 足元のおぼつかない方が、車に乗り込んで運転しておいでなのです。それを見続けて、まだ小走りできる私は、家内の通院のために、車で送り、迎えできないことが残念で仕方がなく、申し訳ないと思うのですが、家内は大喜びなのです。長男が、通院のたびに車で来てくれ、送り迎えをし続けてくれているからです。さらに夫が運転事故を起こさないで済むのも、ホッとしているのです。
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 ここまで書きましたら、隣に住んでいた方が、イオンの近くに家を買って越して行かれたのですが、『お世話になったので、改めてお挨拶に来ます!』と言われていたのですが、この午後に、泉輝くんと、ここで生まれた涼音ちゃんを連れて、ご夫妻で律儀に挨拶に来られたのです。なんと、“ GODIVA ” のチョコレートを持って来てくれました、すごい!

 宝積寺駅からの道の脇に、紅く熟した「烏瓜(からすうり)」が垂れ下がっていて、運動会の徒競走に出る時、それを足のふくらはぎに塗り込んで走ったのを思い出したのです。けっきょく、二人の兄も弟も足が早いのに鈍足の私には効果がありまでんでした。でも最後まで走り切ったのです。あと何年かは生きられるのですが、ふくらはぎにつけるのではない、走り抜く心の脚力を強める、妙薬を見つけていますから、大丈夫でしょう。

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一葉知秋

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 前漢の時代にあった、「淮南子(えなんじ)」の書の中に「説山訓」があります。そこに四字熟語で、「一葉の落つるを見て、歳の将まさに暮れなんとするを知る」との言葉があります。

  一葉知秋

 春に芽を出し、暑い夏の陽射しに耐える様に、濃い緑をたたえていた樹々の葉も、秋が来て変色し、最初の一葉が落ちると、次々に一枚一枚と葉を落としていく、天然の法則のもとにある命が、落葉して季節を終えていくわけです。その一葉の落ちるのを見て、秋が来たことに気づくのです。夏の葉は力強く生出でたのですが、季節到来、弱くなって葉を落としてしまいます。

 わずかな前兆や現象から、事の大勢や本質、また、物事の衰亡を察知することでもあるそうです。芭蕉が、奥州を旅して、「平泉(現在の岩手県西磐井郡)」に至って、栄えた藤原三代の栄華を遥かに思って、次の様な文を残しています。

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 「三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたにあり。
秀衡(ひでひら)が跡は田野になりて、金鶏山のみ形を残す。まず、高館(たかだち)にのぼれば、北上川南部より流るる大河なり。
 衣川(ころもがわ)は、和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落ち入る。
泰衡(やすひら)らが旧跡は、衣が関を隔てて、南部口(なんぶぐち)をさし堅め、夷(えぞ)をふせぐとみえたり。
さても義臣すぐつてこの城にこもり、功名(こうみょう)一時の叢(くさむら)となる。
国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠打敷(うちしき)て、時のうつるまで泪(なみだ)を落としはべりぬ。

  夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡

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 奥州藤原氏は清衡、基衡、秀衡、泰衡と、四代百年もの間、繁栄を極めました。その中心地は、「平泉」でした、ここは、「平安京(京都)」に次ぐ日本第二の都市だったそうです。まるでその地は、「独立国」の様な勢いと存在感を誇示していたそうです。その権勢も、源頼朝によって滅びされて、露と消えてしまいます。

 奥州平泉に、中尊寺があり、黄金で金色堂を建立するほどに栄えたのですが、時は流れ、人は去り、権勢は露の様に霧散してしまい、人の噂からも消えてしまう、そんな儚さを芭蕉は記したのです。栄えれば栄えるほど、その終わりは衝撃的に儚いものなのです。やがて奥州藤原氏を滅ぼした源氏も滅びてしまいました。
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 名のない人々は、変わらぬ日常を精一杯に生き、家督相続の争いもなく、わずかな田畑を耕し続けて、代を重ねて来ているわけです。私の父は、〈鎌倉武士の末裔〉を、私に話したことがありますが、それとて系図が残っているわけでもなく、頼朝から拝領した領地や太刀が残っているわけでもなく、これも儚い夢にしか過ぎません。

 また人は書を著し、書を残しますが、やがては、薪の火起こしに使われて、灰塵に帰っていくわけです。最近、檀一雄のお嬢さんのふみさんが、お父さんの蔵書を処分した、と言っていました。文豪も、名を馳せた小説家も、棺に覆われては、大切な蔵書も、寄付されたり、処分されて、何一つ残すこともないのですね。

 わが家を見回してみますと、何一つ値打ちのある宝物はありません。ただ、心のこもった贈り物があるのみです。帰国に際して、小学生の小朋友から、この写真の置き物を記念にいただきました。一所懸命に、お土産屋さんに行って見つけて買い求め、お別れに際して、手渡してくれました。価値ある逸物です。

(中尊寺の紅葉、贈り物です)

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 「一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。」

 男兄弟四人でしたので、姉や妹が欲しかったのです。子どもの頃に聞いた、「人生の並木道(作詞が佐藤惣之助、作曲が古賀政男、歌がディック・ミネ)」の歌詞の中に、「妹」が出てきて、『妹があったらいいなあ!』と憧れながら口ずさんでいました。

1 泣くな妹よ 妹よ泣くな
泣けば幼い 二人して
故郷を捨てた 甲斐がない

2 遠い淋しい 日暮れの路で
泣いて叱った 兄さんの
涙の声を 忘れたか

3 雪も降れ降れ 夜路の果ても
やがて輝く あけぼのに
我が世の春は きっと来る

4 生きて行こうよ 希望に燃えて
愛の口笛 高らかに
この人生の並木道

 これは、とても人気のあった1937年(昭和12)の映画、「検事とその妹」の主題歌でした。あらすじは、「幼くして父母を失い、妹と2人で生きてきた矢島健作は念願の検事になることができた。妹の明子も柴野秀雄という男性との結婚が決まり、順風満帆の人生かに見えた。しかし、ある事件をきっかけに健作は柴野秀雄を検挙することになる・・・」というものでした。

 喧嘩、早飯、おかずの取り合い、先駆けなど、父を加えた五人の「むつけき」男ばかりの世帯で、母はどう思いながらも、みんなの食事の支度や後片付けから洗濯、掃除、買い物、繕い物と、一日を一週を、一月を一年を過ごしていたのでしょうか。住んでいたのは小さな家で、すれ違えば肩がぶつかりそうでした。うるさくて乱雑だった家が、学校から帰ると、綺麗になっていましたし、食事も美味しかったのです。

 父には、母違いの弟と三人の妹がいたのですが、母は、一人っ子、養父母に育てられた人でした。大人になって、奈良に、父違いの妹がいて、『お姉さん!』と呼んでくれる妹を得たのです。母の元気な間は交流があった様です。母には、私たちの父は兄の様で、四人の息子は弟の様だったのでしょうか。溺愛はしてくれませんでしたが、悪戯小僧たちは目に入れても痛くなかったのでしょう、情愛深く育ててくれたのです。

 ところが、私に念願の「妹」ができたのです。弟が結婚してから、彼の愛妻が、何と『お兄さま!』と呼んでくれたのです。こんなに響きの好い、聞き心地の好い語り掛けは初めてのことでした。何度も聞きたかったのですが、聞くたびに、夢心地にさせてくれたのです。その義妹は、病気を得て、天のふるさとにすでに帰ってしまいましたが、あの呼び掛けの声は、まだ耳に残っています。

 親子、兄弟姉妹、祖父母と孫、この家族の舞台というのは、癒されたり、励まし合ったり、いたわり合ったりして、互いに思いを向け合っている世界ですね。様々なものが入り込もうとしているから、ここを死守しないといけません。持ち物はわずかでもいいのです。理想的な家庭を形作り、家族を愛することができるのです。そこは物ではなく、心で築き上げたいものです。

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感性

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 私たちの「感性」を育ててくれたものに、小学校の音楽の授業で歌った、「唱歌」があります。まだ演歌やジャズを聞いたり歌ったりする前に、情操教育として、教室で、みんなで輪唱したり、独唱させられたりしました。

 教室の板張りの床の上に立って、恥ずかしがらないで、大きな口を開けて、歌った日々が、懐かしく思い出されてきます。「四季」の動きがはっきりしていたからでしょうか、季節季節に、様々に計画された学校行事が行われ、季節に見合った歌を歌い、やはり私たちが受けた日本の初等教育は、優れていたのだと思います。

春のおがわは さらさら いくよ
岸のすみれや れんげのは花
すがたやさく 色うつくしく
咲けよ咲けよと ささやきながら
(高野辰之作詞、岡野貞一作曲 「春の小川」)

 この歌を歌うと、「遠足」に出かけたのが思い出されます。「谷津遊園地」や「武蔵野風土館」などに、お弁当とお茶を入れた水筒をリュックの中に入れて、先生の引率で金魚のフンの様に歩いたのが記憶に鮮やかです。

われは海の子 白波の
さわぐいそべの 松原に
煙たなびく とまやこそ
わが懐かしき すみかなれ
(作詞者、作曲者は不詳「われは海の子」)

 海に、水泳に行ったのは中学になってからですが、海の景色は、四方を海に囲まれた海洋国家の私たちの国では、どこにでも見られるものでした。海なし県の北関東にいながらも、磯の匂いがして来たり、潮騒(しおさい)が聞こえたり、水平線などが目に浮かんできます。
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秋の夕日に照る山もみじ
濃いも薄いも数ある中に
松をいろどる楓(かえで)や蔦(つた)は
山のふもとの裾模樣(すそもよう)
(高野辰之作詞、岡野貞一作曲 「もみじ」)

 秋には、「運動会」がありました。母が、昼前に弁当を作ってきてくれて、一緒にゴザの上で食べたことがありました。病欠の多い児童でしたから、参加できない学年も何年かありました。四人の子どもたちとも、海苔巻きや、みかんや、栗などを思いっきり食べた日々があったのです。そう遠足も文化祭もありました。

さ霧消ゆる 湊江(みなとえ)の
舟に白し 朝の霜
ただ水鳥の 声はして
いまだ覚めず 岸の家
(作詞者、作曲者不詳 「冬景色」)

 冬は、活発な活動はなかったのですが、校庭でのラジオ体操が懐かしくなって来ます。終業式や卒業時期の準備や、梅が咲いて、春の到来を待ち望んだ様な覚えがあります。炬燵(こたつ)で、正月のお雑煮やおせち料理、節分の豆を食べたのが懐かしいのです。雪の降らない、この街に二年ほど住んで、雪景色の見られなかった十三年の華南とは違って、北風や霜柱も結氷もあります。

 ここ北関東では、もう11月も中旬ですから、晩秋から初冬の寒さもありながら、時々、日中の日差しの射す陽だまりが心地よく感じます。眼下に流れる巴波川の水が、冷たそうな色を見せて、鴨や白鷺が寒くないかと気なってしまうこの頃です。

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優れ物

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 主夫業で、ほとんど毎日使っている、台所と食卓の用具です。優れ物です。上の写真は、最近、『娘です!』と言ってくれる若いお母さんからのギフトで、食後のデザートの果物の皮をむいたり、切ったりする「小まな板」、中は、木製のお椀です。下は、目玉焼きやカジキマグロのオイル焼き、野菜の炒め物、ホッケの焼きなどで使う「フライパン」、「皮むき器」、ニンニクなどを潰す「圧縮器」です。みんな買った物ではなく、娘たちからのギフトです
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 この上のものは、「浄水器」です。『お母さんに綺麗な水を飲ませたい!』と、下の息子が注文してくれたものです。ここ栃木の水は、水道水の生水の飲用が可なのですが、気遣ってくれています。下は、「電子水」を作るもので、古くからの友人が、『中国の水は、あまり良くないので、これを使って!』と贈って寄越してくれたものです。けっこう長く使っています。上の息子は、家内の通院の足となってくれて、月一で来てくれています。その折、コストコから、食材を買っては差し入れしてくれています。

 みんな重宝(ちょうほう)していて、使うたびに感謝が湧いてきます。

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