作法

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 商売がうまくなくなったりで、景気が思わしくなくなったりすることを、「左前」と言うようです。例えば、『とうとう、裏の瀬戸物屋さんは左前になった様だ!』などと言ったりします。

 下の娘が、中学を卒業してから、お世話くださると言うハワイの友人の牧師さんのご家族にお願いして、留学したのです。オアフ島ではなく、ハワイ島の high school に入学し、無事に卒業しました。それ以前、長男も、同じ様に留学できたのは、その牧師さんのご夫妻のご好意によったのです。

 卒業後の進路を考えていた時に、私たちをよくお招きくださった宣教師のお嬢さんが、西海岸の教会にいらっしゃって、その街に郡立の college があって、学費がとても安いとのことで、長男がそこで学んでから、州立の学校に編入したのです。それに倣って、次女も、そこで学んだのです。

 次女は、そこを出てから、保育園で働いていたのですが、学んでいた頃に、一人の青年と出会います。所属していた教会の青年会や礼拝、教会経営の寄宿舎でも、一緒でした。長女も、次男も、同じ様に、上の息子に倣って、そこで学んでいました。もう何年も何年も前のことです。

 しばらくしてから結婚の申し込みが、その青年からあって、私に、結婚の許可を得るために電話がありました。とても緊張した話し振りの電話だったでしょうか、誠実な青年だと分かって、その結婚を許可したのです。もちろん、その電話以前に、次女私の願いを聞いていましたし、会ったこともありました。

 穏やかで、紳士でしたので家内も気に入っていました。その学校と教会があった街は、私たちをいつも励ましてくださった宣教師の伝道されていた街と、姉妹都市になっていたのです。それで恒例にように、"Japanese day “ が行われていて、盆踊りに似せた踊りの輪ができていました。

 その時、私は、そこを訪ねていました。その時、次女は浴衣を着ていたのです。どうも様子が変だと思って、よくよく見ると、その着ている浴衣が「左前」だったのです。物陰に行って、次女は正しく浴衣を着直したのです。浴衣を着せたことなどなかったし、15で留学して、日本人としての在り方などの学びが足りなかったからです。

 結婚したての頃に、私の母が、「白絣(かすり)」の着物を縫ってくれたことがありました。書生さんが昔着ていたような物で気に入っていたのです。ついぞ着る機会がないまま、引っ越しの連続で、行くへ不明になってしまい、母には申し訳ないことになってしまいました。着付けだけではなく、正しい生き方、歩み方、格式が何事にもあるのですね。

(” publicdominic “ のイラストです)

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